忍者ブログ
AdminWriteComment
 『読んで面白い』『検索で来てもガッカリさせない』『おまけに見やすい』以上、三カ条を掲げた〜快文書〜創作プロフェッショナル共が、心底読み手を意識した娯楽文芸エンターテイメントを提供。映画評論から小説、漢詩、アートまでなんでもアリ。嘗てのカルチャー雑誌を彷彿とさせるカオスなひと時を、是非、御笑覧下さいませ。
No.
2024/11/22 (Fri) 05:30:25

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

No.593
2012/09/05 (Wed) 10:45:19

        

 アル・パチーノとロバート・デ・ニーロの競演による『ヒート』については以前に別のサイトで書いた記憶がある。

 映画史に残ると言われた十分以上に昇る銃撃シーンは今見ても古さを感じさせないし、脇のトム・サイズモア、ヴァル・キルマーたちも男臭さを感じる硬派な作りだ。

 毎年、星の数ほども封切り上映される映画において、今では「これを観たい!」と劇場に駆けつけてみる映画はほとんど皆無だ。
 日々の制約が大きくて時間が取れない言い訳もあるのだが。概して最近は魂を揺さぶられる映画は極端に少ない。
 ハイテクやCG、俳優の質やレベルもあるのだろうが「光と闇」の使い方・・・陰影の持つ魅力が白黒の世界だけでなく人の心に投げかける憂鬱と無関係だとは思わない。

             

 「30秒で高跳びできるよう面倒な関わりは持つな!」というのがデ・ニーロ扮するニール・マッコーリーの信条だったがひょんなことから書店で働くグラフィック・デザイナーの卵、イーディと知り合ってしまう。
 星をちりばめたようなロスの夜景をバックに睦み合う二人を描くシーンは硬派な男だけを映し出すわけでないことを語っている。

 本稿開始部分でも触れた十数分にも及ぶ街中での銃撃シーンは迫真の限りだが、この場面も含め、映画冒頭の輸送車強奪やパチーノ演じるヴィンセント・ハナ警部率いる捜査陣をコンテナ置き場におびき寄せ、あたかも次のヤマを踏む強盗たちの下打合わせを装ってる風に見せながら捜査陣の手の内を探る・・・一連の犯罪とプロセスは白昼堂々と陽の下で見せつけられ、逆に男と女、裏切り者への仕打ちなど愛憎の伴う場面は漆黒の闇の中が多い。
 ハナ警部がマッコーリーをヘリと高速で追跡しコーヒーを差し向かいで飲むシーンも合成だとか論議を呼んだが、似たような宿命を持ち敵味方に分かれても奇妙な連帯感、協調を互いに知り「今度、顔を合わせたら命はない・・・」ことを悟りながら別れていく。

             

 イーディを連れて高跳びできるだけのヤマは踏めたが、彼女に自分の正体を気付かれたことも含め代償は大きかった。
 傷ついた仲間のトレヨを楽にしてやり、クリスも逃がす。いよいよ、自分が高跳びを遂げてイーディと幸せに暮らす番だ。そう思う時、高速のトンネルの眩しい白い光にまみえる。やはり、仲間を死に至らしめることになった裏切り者のウェイングローだけはけじめをつけないと己を許すことができない。
 最後に踏んだヤマは現金強奪には成功したものの二人の仲間は銃撃と裏切りにあって倒され、残るヴァル・キルマーも肩を撃たれたところを現場から背負って命からがら脱出した。

 このチームともこれで最後だ。もう、来るところまで来てしまった。
 さあ、どうする?行くのか戻るのか?過ぎ去るのみか・・・?

             

 この時のイーディの目の輝きは、白い人工の光にニールと高跳びした後の暮らしを夢見ているとばかりに輝く。

          

 「いや、ダメだ。やはり、決着はつけないと・・」とウェイングローの潜伏先のホテルへカマロを向ける。
 白い光からまた暗黒へ解き放たれたように仇の泊っている空港のホテルへ向かってしまう・・・。イーディを白いカマロに残しウェイングローの始末に成功し戻った処にハナが駆け付ける。

             

 「・・・・云っただろう、もうムショには戻らないと・・・」撃たれたマッコーリーは云い残して絶命する。
 最期のやり取りも漆黒の闇の滑走路だ。闇の世界に生きたものは陽の光を浴びることなどなく闇へ戻っていくしかない・・・途中、まばゆい白い光の中にまみれることがあったとしてもそれは幻だ。所詮、黒が白になるなんて出来っこないのさとでも言いたげだ。場面や光の当て方はそうすることができても人の生きざまなんてそう簡単に変えられるものでもないと。


             

 一方、アラン・ドロンを一躍スターダムにのし上げた名作「太陽がいっぱい」である。アラン・ドロン演じるトム・リプレイは、親の金で放蕩を続ける悪友フィリップを彼の父親に頼まれて連れ戻しにきた。が、フィリップの恋人マルジュも含めた洋上生活やイタリア各地での破天荒な暮らしに、トムはやがて悪友の姿に自らを投影し、ついにはフィリップを殺害してしまう。

             

 富貴と貧困・・・これも光と闇に例えられなくはないが人生の現実だ。巧みに陽の光の力を借りて友人を殺害し、彼の財産を手に入れられるかに見えたその時、沈めた筈のフィリップの遺骸は陸揚げされた船下からゆっくりと現れる。

             

 「最高の気分だ・・・」と言って美酒に酔うアラン・ドロンの周りには文字通り太陽がいっぱいだ。強烈な陽光は遠慮なくトムの悪事を暴き立てる。
 世の営みの貧富の差なんて問題ではなく陽の光は誰に対しても平等さ・・・と云わんばかりに。

 光も闇も人の心には存在する。確かに陽の光は誰に対してもきっと平等なのだろう。だが、心の奥底までは陽の光も照らしてはくれない。
 よって人は悩み続ける。漆黒ばかりの宵闇が永遠に続くことがないことくらい皆わかってはいる。だが、人の悩みは尽きないものだ。
 光も闇も何かしら交互に横たわっている。ある時は失望でありまた、或る時は希望でその連続と輪廻である。

 刺すような煌めきの陽光は先日まで眩しいばかりだったが、ここ数日は穏やかで
爽やかな陽差しを感じることができる。

 最近はこのように考えさせられる映画を見る機会がかなり減ってしまった。



 (c)2012 Ronnie Ⅱ , all rights reserved.




 ☆ 索引 〜 昭和の憧憬  へ戻る
PR
No.578
2012/08/21 (Tue) 03:29:07

 友人の御子息は名をケンタ君という、今年で小学6年だ。
 盆休みに都合が付いて一緒に過ごせたことは先の記事「望郷の浅草」にて述べた。彼独特のボキャブラリーは非常に素晴らしいのだが、そんなに本は嫌いではないらしい。
 それにしても、当節は課題図書などと夏休みのいわば強制読書習慣は学校教育からは排除されてしまったのだろうか?

 小生が小学生の頃は学年ごとに、ジャンルにもよるが3〜5冊くらいの課題図書が夏休みのPTAでもリストアップされていて、えせ教育熱心の母親がよく買ってきたものだ。

             

 松谷みよ子の「まえがみ太郎」、作者は忘れたが「エルマーの冒険」、「エルマーと15ぴきのりゅう」・・・イソップ童話やグリム童話には子供のころから親しみ「ありときりぎりす」、「しあわせの王子」などは大体小3か小4くらいに慣れ親しんだと思う。小5、小6の高学年になればルパンやホームズ、海神二十面相、十五少年漂流記、ロビンソン・クルーソー・・・・なんかをよく読んだものだ。

 仲良しになってくれたケンタ君の趣味はクルマだった。何年型のいつ出たモデルでなんてやらのグレードはなんのエンジンでとかよく知っている。特に少し前のクルマ・・・父親が最初にあてがったトミカがクレスタだったらしく男らしさを感じるセダンが断然好きらしい。健気な知識の習得と披露はウィキペディアの成せる技だろう。
 かつてのように重く分厚い百科事典のページを開かずとも数インチの画面や携帯で必要なことは確かに知ることはできる。ただ、表面的な事象や記述も多くなってしまう。やはりより探究心を満足させたり
知りたいと云う欲求を満たし継続するなら本を読むことだと思う。

 この不景気の世にあって出版業界の不況と言うのも判らぬ話ではないが、独特の価値観や主張を得意とするメンズ誌やアウトドア誌が減ったりページ数が格段に薄くなって袋モノやカラビナなど、それぞれ魅力はあるけれども附録を付けなければ売れない、買わないと云うのもなんだか寂しい。附録を得意とした「小学○年生」はとっくに廃刊になってしまったし。
 古本をリサイクルやエコの名を借りて急成長したブックオフでも、新刊を揃えるようなアトレの中の本屋に行っても、少子化のあおりか子供向けの児童書はかなり手狭なスペースしかなく「○×○レストラン」とか「なんとかゾロリ」とかの隅でエジソンやキュリー夫人だのが寂しそうに書架に入っているだけである。

 本屋の棚割を心配しているのではないし、問題はその裏側にあるものだと思う。
 長引く不況、震災、政治不信、高齢化・・・少子化に拍車をかける要因はおそらくもっとある。課題図書を読ませたから子供が皆、作文上手になる訳でもないし作家や小説家を目指す訳でもない。だが、本も映画も実録であれフィクションであれ、他人の人生を垣間見ることができる究極であると思っている。
 そのうえで「どう感じたとか、自分ならこうする、こうだと思う」という価値観や選択肢のシミュレーションを練習していく。それらが実在した歴史上の人物や偉人であれば知識の習得と言う副産物も得ることになる。
 机に向かってペンと紙を睨めっこするだけが勉強ではないからと、昔、何処かの先生に習った記憶もあるけれど、結局、本人の知りたいこと、得意のジャンル、無意識にスキルに成りえることなどは知らずとも、本人の記憶や知識や財産となって形成される。
 課題図書を読むことが国語の勉強のきっかけにはならないだろう。たとえ、宿題に読後感想文を強要されても・・・。でも、読書の習慣のきっかけには成り得るかもしれない。

             


 数ヶ月前、この「幻のスーパーカー」福野 礼一郎氏著の双葉文庫版を五反田のブックオフで手に入れた。当初、立ち読みでイタリアの本か読みやすい歴史小説かなんかを探していて偶然手に取ったのだと思う。ランボルギーニやポルシェ、フェラーリの、小生が高2くらい・・・世の中が池沢さとしの手になる「サーキットの狼」の影響もあってブームが訪れていた。マセラッティも当時はデ・トマソと同じ国で造られた未来的なクルマ・・・ぐらいと中東やアラブの風の名前(砂嵐とか熱風とか)をつけるくらいのことしか知識になかった。

 例えばランボルギーニといえばカウンタックかミウラ、それにイオタだろう。世界で何台とか、ガヤルドとかレヴェントンだとかムルシェラゴと言われても、「脳天気な日本で目立ちたがりの高額所得層が246をひけらかしに乗る車」とかしか現代のランボルギーニには感じられない。
 フェラーリもそれは同じことが云える。ドア周りから回り込むNACAダクトは緩急の伴うセクシーなラインだと今でも思うし、ドラマ「マイアミ・バイス」に出てきたクロケットの黒のデイトナ・スパイダーも良かった。(まあ、実際の撮影ではダミーが使われてたらしいけれども)白のテスタロッサになると確かにカッコいいのだが、なんだか別の次元に入ったようであまり好きにはなれなかった。

             

 「幻のスーパーカー」は双葉文庫版の古本で、五反田のブック・オフにて105円也で入手した。それまで福野礼一郎氏の名前も知らなかったし本やエッセイ寄稿も読んだことはなかった。パラパラとめくってスーパーカーの事が真面目に描かれていて、高校生時代に束の間タイムスリップ出来たら痛快だと思った。
 3月ごろから読み始めて5月にはほぼ一旦読み終えたが、何故か今も愛用のショルダーには忍ばせてある。ランボルギーニ・カウンタック、フェラーリ308GTB、ポルシェ911・・・カタログスペックだけではない、機械としての評価や魅力、弱点が語られている。

 さて、暑い東京のお盆にやってきたケンタ君を最初に連れて行ったのは、隅田川の向こうにある下町のくるま屋さん。販売だけでなく内外のメーカー問わず修理もレストアもやってくれるОさんという方がオーナーのショップだ。
 現場に行く途中で赤いウェッジシェイプのボディを纏ったスーパーカーがボンネットを開けて整備中だった。ふと、見とれていたら「お好きですか?こういうの・・・」と話しかけられてからの御縁になった。
 コンピュータ制御、電子技術の発達によってクルマはさらに使いやすく身近な機会に成りえたけれど、反面、アクセルとブレーキを踏み違えて起きるオートマ車の事故には嘆いておられたし、右足アクセル・左足ブレーキが人間工学上からももっとも自然なクルマの操り方ではないかと説いておられた。
ご自身も淡いブルーメタリックのフェラーリ308・クアトロ・ヴァルボーレをお持ちになっている。

 小さな友人のケンタ君の上京を予告してあったので、盆休みにもかかわらず店を開けてくれた上、待っていたのはマセラッティ・カムシン(人によってはカムジンとも云うらしい)。
 照れくさそうに「○×から来たケンタです、よろしくお願いします」とОさんに挨拶すると暖機の済んでいるマセラッティ・カムシンに乗せて貰って近所を一回り。

 降りて来た後は興奮のせいか顔がやや紅潮している。

              
      マセラッティ・カムシンのコクピットに収まるケンタ君

 ケンタ君はまだスポーツカーやスーパーカーよりは国産のセダンの方に興味があるらしい。だが、彼の地元ではこんな40年近く前のスーパーカーに乗せてもらうことなど有り得ないから相当楽しかった様子だ。
 ケンタ君が持ってきた地元のお土産とあたかもプレゼント交換するかのように、京商の1:64のフェラーリ308GTBと今はもう存在しないROSSOのフェラーリF1キットで642を頂いた。(宿で組み立てたフェラーリ308はケンタ君に記念にあげたけど642は未だに箱を見ては作らずにニコニコ笑ってる)
 その後、丁寧にОさんに見送りされてから赤坂にあるマクラーレンのショールーム、青山のホンダ本社(生憎、御盆で休業中だったが)を観に行き、いくつかのミニカー屋さんをスカイツリー経由で見て回り、数台のヴィンテージ・トミカと京商の1:64を彼は手に入れた。
 暑い中をよく歩き、あちこち見て回った。やや熱中症気味にはなったけどケンタ君の中ではきっと暑い思い出が残ったに違いない。東京駅で最後に見送る時は入場券の要領が分からずに改札口で彼を見送った。愛用の遣い込んだグリンのキャップの上から頭を何度も撫でてやると、彼も子供にしては大きな手を伸ばし同様の仕草をして小生の頭を撫でるのだった。
 あたかも、「離れていても、想いは同じだよ。友達なんだ」と。曾ての「エルマーとりゅう」の物語の心の交流が目に浮かび、少し目頭が熱くなったけれど。

 福野礼一郎氏の「幻のスーパーカー」のあとがきにはこうある。

****************************

流行の実態とは要するに商行為上の好機に過ぎず、商いが活性すれば現象は満足されるのだから、流行中の存在とはそもそも深く考えたり追及したりする対象ではないのだ。流行はどこからともなくやってきて、いずこともなく去っていく。去った後にはほろ苦い思いだけが残渣となって、そのことがまた探究の門戸を閉ざしてしまう。
「あれは一体どうだったのか」ようやく探究が始まるのは、流行が古き良き思い出に転じてのち、はるか後に下ってからである。

カッコよくて速くて強くて高価だからいい機械なんだ、そういうクルマを作ったのは偉大な人間、いい男なんだ、それは子供の描くお子様ランチも世界観である。
成功や失敗、完成したものの良否の区別なくヒトの汗と努力に夢を見ることができるのが大人の熱である。



********************************

 小さな友人のケンタ君にはきっとこの後も「オッチャンならこうするぜ!」と、彼の成長の中で意見をすることもあるのかもしれない。エルマーとりゅうはいくつかの物語を通じて友情を暖めあってきた。
そんなおとぎ話は世に存在しないだろう・・・


 最近、宵の口に秋葉原をうろついて帰ることが多い。とある、絶版メーカーのフェラーリF1キットを探しに行くのだが。
 石丸電気のあった辺りは妙にさびれて、怪しげなラーメン屋が軒を連ねてる。目にするのはアニメから抜け出たような、何処か抜けてるような少女たちがコスプレと称する変てこな衣装に身を包みティッシュ配りかなんかしてる。
 なんだか、退廃や堕落を感じてしまうと云ったら大袈裟か?
 こんなの目にしたらエルマーもりゅうも逃げていく。
 子供の夢を大人の熱に換えるのは大きな感動も呼ぶ。だが、大人になりきれない大人が増えてしまった。それはそれで職業として成り立つ?なんて信じがたい話だけれどそうなんだろう。

 「オッチャンがしてきたことはケンチャンに教えてあげる。だけどその先はケンチャン自身が考えなきゃ・・」



 (c)2012 Ronnie Ⅱ , all rights reserved.




 ☆ 索引 〜 昭和の憧憬  へ戻る
No.577
2012/08/20 (Mon) 03:10:29

 週に3〜5日は通る浅草・吾妻橋の袂はスカイツリーのオープン以来、朝も昼も晩も写真を撮ろうとする人で舗道が塞がりそうになる時もある。

 橋を渡って業平橋を渡り、スカイツリーの根元に近づけば更にエキサイトして、年寄り夫婦が今にも倒れ込みそうな姿勢で強引にパートナーをスカイツリーの構図に収めようと必死な場面を見ることもある。
 意地悪く云えば「そこまで必死になったってスカイツリーと写真撮っても永生できるんですか?」と訊きたくなってしまう。
 ガードレールに仰け反るようにもたれ、デジカメを構える様はむしろ滑稽ですら思えるほどだ。ご本人は必死なんだろうが。

             

 思えば東武浅草駅は可哀相な建物だ。

 業平から浅草に向かってくる東武電車とスカイツリーを同時に収める画像を撮れるスポットは三目通りにかかる源森橋だ。が、隅田川の鉄橋を渡るあの風情ある瞬間を含め、なぜああまで壊れてしまったかのようにゆっくりと走るのだろう・・・以前から素朴な疑問だった。

 昭和の初期や大正の旧い絵葉書を見ると竣工当時の威容をイメージすることができる。もともと駅舎として建てられたビルはオフィスビル使用が決まっていた。しかし集客、立地を熟考した結果、デパートビル(松屋百貨店)に使われる様になったのは意外と知られていない。
 2階部分に東武電車の乗降ホームを持ってきたのはよかったが、そもそもが2両位の電車の長さに合わせて作ったものだからホーム長が足らず、現在でも6両編成までしか収容できない。隅田川を渡りサーキットのシケインのごとくうねうねと大小の弧をつくり曳舟へ向かうルートの苦肉の策である。
 まともに橋を渡れば雷門か新仲見世あたりを潰さなくてはならないし、今の車両編成で言えば国際通りの先にまでプラットホームを延伸させなければいけない。地図を見ればその辺はなんとなく解る。

             

 浅草寺周辺は震災時や空襲時には無残に焼け野原となったが、この東武浅草駅と寺社を真似た様な地下鉄の入口だけは残ったのだった。これは果たして何かの偶然だろうか?
 ただ、地下を走る地下鉄は広い幹線道の地下を掘ればホームや駅の巨大化など普通にできただろうが、浅草駅の場合、6両から10両編成以上の電車を発着させるなど構造上からして不可能である。もし仮にそう出来たとするなら現在の浅草の風景・・・仲見世や新仲見世などは今とはかなり景色が異なっているはずだ。
 今より緩い弧を描くようにホームを延伸するなら浅草寺ギリギリのラインで伝法院からロック座、いや国際通り辺りまで伸びていたことだろう。だが、結局その先には上野が控えており、既に東洋初の地下鉄銀座線は出来上がりつつあった。

 そう考えると平成の東武線浅草駅と云うのは、恰も雪隠詰めに遭うように取り残されたと断じていいのかもしれない。小生が見慣れた浅草駅は「東武電車」とあったが、これは「阪神電車」の如く大阪へ倣ったのだと思われる。
 
 中学や高校の頃に慣れ親しんだ東武伊勢崎線というのが変更されて、今では東武スカイツリー線というらしい。「けごん」や「きぬ」と云ったJR(当時は国鉄)にも劣らなかったベージュとワインのツートンは消え、「スペーシア」と名を変えスカイツリーの電飾に合わせた蒼と紫になっている。更には水上バス乗り場も新装され、川沿いに設けた公園から眺める波間とその電飾を映し出すスカイツリーを追い求める、オトナたちの隠れた穴場スポットだという話だ。

 成る程、周辺の浅草橋や蔵前、厩橋辺りも(多いのは当然だが)晴海や小岩、品川だとか遠距離からの屋形舟も目立つ。
 東武浅草鉄橋と言問橋の間には色とりどりの電飾や行燈で光を放つ屋形船や水上バスが処狭しと渋滞し、よくぶつからないものだと感心してしまう。
 水上バス乗り場に隣接する川岸のテラスには石のベンチが置かれ、行きかう船のネオンと見上げたスカイツリーと漆黒と波間に反射するコントラストがまるで万華鏡のようにみえ、それらをして波間から癒してくれるのが頬を撫でる夜風とともに心地よい。

 テラスを川沿いに歩けばベンチの並ぶ先に水上植栽がありガマの穂も生えている。水辺を見下ろすと川魚やカニやエビまでもごそごそとコンクリートと石の護岸で忙しそうに歩きまわっている。
 下町のこんな川の畔に、水棲の生き物がいるなんてついぞ感動すら覚えてしまう。

 この隅田川には東京大空襲で多くの犠牲者が溢れ川面も見えないほどの死者が浮かんでいたともいわれる。
 余談だが、かのチャールズ・ブロンソンもB−29の後部席からこの空襲に参加したんだとか。丹頂チックはマンダムの「男の世界」で倒産寸前に甦り「ウーン、マンダム・・」とフレーズを顎を撫でながら呟くあの姿は幼い子にも流行ったものだったが、よくよく鑑みれば『レッド・サン』を含めたブロンソンの親日家たる真情は、実は何処かに空襲に参加したという呵責の気持ちもあったのかもしれない。

 スカイツリーを撮影しに来た、昨今のデジカメと三脚を携える老若男女はそんなことは知らぬだろう。近郊から出てきた中年のカップルからこんな会話も聞こえてくる。
 「・・・東武電車もスカイツリーを見せる為にゆっくりと走っていくよ、のどかでいいね・・・」
 さすがにこれはいい歳をして誤った認識なので注釈をしてあげた。
 「余計な御世話ですが、この鉄橋を浅草側に渡ればほぼ直角に近いカーブなんですよ。2両〜4両くらいの編成をもとに設計された浅草駅のホームでは6両迄が編成の限度だしカーブのRもきついから最徐行でないと曲がりきれないんです。スカイツリーの為にゆっくり・・・ではないんですよ」と。

 そうせねばならぬ理由があるから、そうしているのだという必然性・・・時にこの国の社会科は何を教えているのだろうと云う懸念も生まれてくる。

             
         浅草駅のホームから発着をする東武線車両

             
         昭和40年代の前半だろうか?懐かしのツートーン

             
             
 学研だのブリタニカだの、昔はそれなりの家に行くと何十冊セットの百科事典が必ず置いてあったものだ。重いし箱から出してまたしまわなければならないので実家に居た小学生の時分はさほど見ることもなかったが・・・。今ではウィキペディアもあるし、関連した項目にもすぐにネットで飛んで行ける。

 だが、パソコンもスマホも携帯もプレステもあるのになぜ、知識も探究心も低いのだろうと疑問に思う。その場所に行けば大体「昔其処に何があったか」など、都や各行政の手によって事細かに解説された史跡の由来が立て札になっていたりするものだ。足で探してたどり着き思いをはせる喜びや感動を理解共有できるのはむしろ海外からの人たちの方が多い。
 オリンピックの始まる頃になぜか毎週、多くの気さくな英国人と話を出来ることにコミュニケーションのありがたさを感じてしまう。

 「こんな鉄骨とコンクリートのタワーが何処に魅力を感じるんだい?」
 「大した技術よ、日本人ならではの精緻な建築物だわ・・」
 「グレート・ブリテンこそ凄いね、ビートルズもストーンズもクイーンもおよそクラシカル・ロックの旗手は皆英国出身だ。素晴らしい才能のDNAを持った人たちが多いんだろうね。オリンピックの開会式じゃポールがHey JUdeを唄うって聞いたぜ。アビイロードに行ってみたいな」
 「お時間取れたらいつでもどうぞ」
 そんな束の間の会話を30分ほどした。
 彼女、レスリーは金融関係にお勤めのブロンドだった。

 伝法院通りから浅草駅へ向かう辺りの両側は、最近になって江戸情緒豊かな軒並みに作り変えられた。統一感があって、外人がカメラを構えてもそれなりに江戸情緒を残せるようになっている。眼と鼻の先にある上野アメ横とはまた風情が違う。

 言問橋や吾妻橋、厩橋、言問橋・・・夏は多くの人が花火を観に訪れる。戦火の焼け焦げはそれぞれの橋柱を観ればなんとなくわかる。
 幾多の人が此処にたち、此処を通り過ぎたことかと思えば花火もまた然り。
 束の間に光る一瞬の光臨・・・。
 進歩発展の名のもとに、忘れっぽさも踏襲するがそれを今更嘆く気も萎えてしまった。知りたい、話を聴かしてくれと言う人にはまた語る機会もあるだろう。

 初詣の帰りに寄った「まるい書店」という古書の店のシャッターは今も閉じられたままだ。

 通勤のMTBで信号待ちをしていたら街路樹の木陰で涼を取るサラリーマン男性から声をかけられる。
 「ああ、暑いけどこの周辺はまだマシだね、港区や虎ノ門辺りに行ったら高い建物のせいでもっと暑いもの・・・ここいらは風が吹くから大分いい・・・」
 汗をタオルハンカチでぬぐいながら横断歩道を渡る男性にそれとなくMTBから応答する。
 「この辺は隅田川の川風が来るから霞が関や赤坂、虎ノ門辺りに比べたら涼しいんですよ。水上バスで東京湾から眺めれば分かるけど、新橋あたりに建った超高層ビルが海風を遮断して風の抜け道を塞いでるから暑いんですよ、僕も仕事柄あの辺りにはよく行きますから知ってます、どうぞお気をつけて・・・」
 「そうなんですか、ありがとう」
 などと会話を済ませた辺りは蔵前に近い。

             
         厩橋から見た東武浅草ビル

 仲見世は小屋掛けと言い、参道の掃除や世話をする代わりに其処で商いをすること、住むことを許されたのが始まりとものの本で読んだことがある。
 紅く塗られた雷門をくぐると独特の江戸の時代感を伴った空間はコンパクトであるが故に年始参りでは混雑を招く。普段からでも結構な雑踏だが、場面を切り取れば明治や昭和の空気も混然となり時空を超えた何かを感じさせるのも事実だ。
 この絵葉書が描かれたのは明治の頃らしいが、同じような景色には新しく出来た観光センターの上から見下ろすことができる。

               

 今のビューホテルと花やしきの真ん中辺りに位置した凌雲閣は京阪ホテルのウインドの絵や江戸東京博物館でしか知ることができない。むしろ、仁丹塔の方がなじみが深い。
 20代の頃、日本橋の問屋街に通勤や営業での通り道、国際通りを通りながら「なぜ、こんなに古めかしいものが此処に建っているんだろう?」と首をかしげたものだったが、ビールやサイダーなどの製造メーカーも当時は高い塔を建てていたのが往時の絵葉書で偲ばれる。

 珍しく三日程盆休みが取れたので、関西から来た友人の息子といくばくかの時間を浅草で過ごした。昼の吾妻橋と夜の吾妻橋、宿から出てきて奥山の賛同を抜け、浅草寺の境内から二天門までグリコをやって遊んだり、水上テラスの植栽にいるカニを眺めスカイツリーを見上げ、最徐行して鉄橋を渡る東武電車を見つめ・・・MTBや徒歩で見つめる光景もいいのだが、彼と過ごした数時間の浅草はいつになく楽しく「オッチャン、何やあれ?」と健気に訊いてくるその問いに答えながらもこの街も捨てたものでもないし、昔父母や幼い妹、弟と訪れたその路地を通る時変わらぬものも発見できたりする。
 暑い炎天下を歩きとおし、がぶがぶとアクエリアスを旨そうに飲むその顎は逞しくまた頼もしかったし、自身がミリンダやファンタを飲んでいた夏を思い出したりもした。

 大横川親水公園の傍らでギャラリーを構えるある篤志の方に話を聞く時間が最近あった。「松屋浅草もね・・・松屋さんはあんな古いビルからは撤退したいはずだけど、そうもいかないんだってね・・・」なるほどと思い、古い画像や絵葉書を眺めてみると天井は低いし昔から百貨店といっても和装の布地が商品構成の大半だったようで、まるで倉庫に棚屋ワゴンを入れた店が並ぶような印象も受ける。
 現在は3階までは上がれるがそれ以上は改装中とか・・・。
 冒頭、書いたようにこの駅も建物も可哀想なビルである。が、再開発の名のもとに郷愁すら奪い温故知新などまるで感じさせないそのスクラップ&ビルドは誠に悲しい。六区にある映画館もやがては取り壊されるのだと聞いた。

 関西から来たその小さな友人に、街の変遷を説いてやる機会はまた訪れるだろうか?どうせ、ろくな社会科の授業など期待できないならせめて知る限りの浅草を彼に伝えてやりたいと思う。

 空っぽ、見てくれ、上っ面が尊ばれる世にあっても変わりたくても変われない・・・いや、変わらない街もある。

 人生の意味は変化だと、かのジョージ・ハリスンは言ったそうだが変わらないのもひとつの意味なのかもしれない。小さな友人にまた会えるときが来たら、気長にそれを話してやりたい。

 変わることより失わぬことが大事なこともあるのだと。

 この日記を書き始めたのは6月の中頃だったはずだが、私情や都合、そしてこの酷暑に萎えてしまい思わず時間を食ってしまった。というより、かつてのようなスピードで進めなくなったのかもしれない。

 が、これはある意味の変化ととりたい、老いや衰えといえば参るだけだから・・・。



 (c)2012 Ronnie Ⅱ , all rights reserved.




 ☆ 索引 〜 昭和の憧憬  へ戻る
[15]  [16]  [17]  [18]  [19]  [20]  [21]  [22]  [23]  [24]  [25
執筆陣
HN:
快文書作成ユニット(仮)
自己紹介:
 各々が皆、此の侭座して野に埋もるるには余りに口惜しい、正に不世出の文芸家を自称しております次第。以下、【快文書館】(仮)が誇る精鋭を御紹介します。


 ❁ ntr 〜 またの名を中村震。小説、エッセイ、漢詩などを書きます。mixiでも活動。ふだん高校で数学を教えているため、数学や科学について書くこともあります。試験的にハヤカワ・ポケット・ブックSFのレビューを始めてみました。

 ❖ 呂仁為 Ⅱ 〜 昭和の想い出話や親しみやすい時代物、歴史小説などについて書きます。

 ✿ 流火-rjuka- ~ 主に漢詩の創作、訳詩などを行っています。架空言語による詩も今後作りたいと思っています。

 ☃ ちゅうごくさるなし
主に小説を書きます。気が向けば弟のカヲスな物語や、独り言呟きなことを書くかもしれません。

 ♘ ED-209ブログ引っ越しました。

 ☠ 杏仁ブルマ
セカイノハテから覗くモノ 



 我ら一同、只管に【快文書】を綴るのみ。お気に入りの本の頁をめくる感覚で、ゆるりとお楽しみ頂ければ僥倖に御座居ます。









 ※ 基本的に当ページはリンクフリーです。然し乍ら見易さ追求の為、相互には承っておりません。悪しからず御了承下さい。※







文書館内検索
バーコード
忍者ブログ [PR]