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 『読んで面白い』『検索で来てもガッカリさせない』『おまけに見やすい』以上、三カ条を掲げた〜快文書〜創作プロフェッショナル共が、心底読み手を意識した娯楽文芸エンターテイメントを提供。映画評論から小説、漢詩、アートまでなんでもアリ。嘗てのカルチャー雑誌を彷彿とさせるカオスなひと時を、是非、御笑覧下さいませ。
No.
2024/11/22 (Fri) 14:47:58

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No.550
2012/03/10 (Sat) 01:08:29

 先日、上野駅前のヤマシロヤのウインドウで「4Dパズル」なるものを見つけた。
 東京、ニューヨーク、ラスベガス、ロンドンなどがあって、当然、東京が一番拘って作られている。

 ジグソーパズルの一層めは50年前の東京を作り、2層目に現代の東京を重ねていき、武道館や東京駅、上野駅、レインボーブリッジをはじめスカイツリーなどの模型をパズルの穴に差し込んでいくというものだ。

             

 隅田川に架かるそれぞれの橋も架けられた順に年表を追って差し込んでいくというものだ。
 なるほど、東京の地理や方角が歴史とともに学べたり、3Dで眺める東京の姿も移動の距離感や普段使っている山手線をはじめとするJRの各線が果たす役割もなんとなく学べた気がして嬉しいモノだ。
 広い場所があればすぐ求めるのだが、2LDKのマンションでは制作スペースにも事欠く故断念した。

 小中学校で習った社会科、地理と云うのは未だに何だったのか分からないし、思い出せない。各県や県庁所在地の名前を覚えてせいぜい地方の特産品や名物がなんだとか五大工業地帯・・・京浜だのなんだの言ってた気がするが。
 東京の街並みや歴史にしたって、いくらかでも記憶にとどめてきたのは小生の場合、つい最近だ。断片的な知識の羅列や寄せ集めだけでなく、継続した時間の流れやそこにそれが建っている理由、あるいはもともと建っていたモノ・・・それらの由緒、由来や因果も時の流れとともに教えられた覚えはあまりない。
 刹那的な試験答案のための3日経てば忘れてお構いなしの内容をひたすら暗記して筆記するだけだ。
 「社会科の時間と云うのは文字通り社会に出てから真面目に学ぶ方が身に着く」とは持論だけれど。現に県や各地方都市の名前など、配送便の送り状を書きながら随分と覚えたものだ。

 さて、今の職場から10数分で行ける両国界隈から東日本橋、馬喰町界隈をなんとなく歩いてみた。
 両国と云う名はその昔、武蔵と下総の二国の繋がる場所から名が付いているそうだ。回向院は明暦の大火で十万人ともいわれる死者を弔ったのがきっかけで動物や水子などあらゆる供養がなされる寺として今も現役だ。
 少し裏手に回れば本所松坂町、吉良邸跡は今では公園になっていて討ち入りの12月10日過ぎの週には毎年「吉良祭」と呼ばれる縁日が出て往時を偲ばせるイベントが行われている。

 莫大小と書かれている看板もいくらか眼につく。【ばくだいしょう】と書いて【メリヤス】と読むとかつて20代に勤めた衣料の現金問屋の研修で習った覚えがある。
 今で言うカット&ソーイングの事である。
 大別すると織物と編み物に繊維は分かれるが、俗に言うニットはこのカット&ソー(更に分かりやすく言えばTシャツやスェットの類はこの仲間である)織物の代表格と言えば、シャツやスーツ、コートなどの既製服がこれに当たる。
 編み物の名から一本の糸からできているともいわれるセーターとは違い、名前の通り「切って貼る」のが容易になったため「カットソー」とも言われる。

 隅田川の沿岸に沿って、両国~押上、業平、横川等にこのカットメーカーが集結していたのも輸送運搬事情からによるものだろう。それに、橋を超えて横山町、馬喰町界隈の現金問屋に納めれば回収も早かった。
 家内職業のメーカー、工場も含め自分がまだ20代の頃はそんな家族で営んでいるようなメーカーに、編み地見本やデッサンや仕様書を持って自社企画のオリジナル製作を頼みに行った。バブル直前のDCブーム百花繚乱の頃、派手な原色で切り替えたスポーツカラーのトレーナーやパーカーは驚くほどよく売れた。たまに失敗もあったが。○×ニットというメーカーはそんな取引の中でも贔屓にしていた。
 社長と云うのは当時でもう60近かっただろう。あるいは超えていたかもしれない。無理を聞いて貰った品物が納品されそこそこ売れてしまうと次のモノを手配打ち合わせに行った。終わると「飯でも食いましょう」と、近所の押上にある「鳥ぎん」で焼き鳥と釜めしを御馳走してくれた。赤だしのなめこ汁が素朴で何とも味わい深かった。暮れになると「忘年会代わりに、しゃぶしゃぶ食いに行きましょうや・・」といって連れて行ってくれたが、当時はまだ20代前半所帯を持つかどうかくらいの歳だったから、話の間が持たず食べたり飲んだりすると結構無言で気まずかったりもした。
 やがて、別部署に異動となり北陸へ移り住んだためこの○×ニットの親父さんとはそれきりになった。

 両国橋のたもとにはももんじ屋が今でも商売している。【ももんじ】とは【百獣】のことだ。

 店の軒先には猪の剥製が威嚇するようにぶら下がっている。猪鍋や丼ぶりはまださすがに食したことはないのだがいつかは話のタネにとも思う。
 百本杭とも千本杭とも昔は無数の杭が川岸護岸のために突き刺してあったそうだ。
 鯉を釣った子供か漁師が「おいてけ~」と不気味な声に苛まれながら帰宅してみると、釣った筈の鯉を入れた籠はもぬけの殻であったことから生まれた「おいてけ堀」の伝説も、この辺りの杭の周りで鯉がよく釣れたからなのが発祥とも墨田区の掲げた看板に書いてある。町の名や由来がこのように書かれた場所や史跡を歩くことは非常に楽しいし金も使わずに色々と歩いて知ることができる。もっと、知りたければ図書館や古書店や本屋を梯子すればいい。古に興味や関心を持つことが実は社会教育の根幹ではないかと思えるほどだ。

 両国橋を渡ると中央区になるが、日本橋~浅草までの間はもともと家康によって町割がなされ、衣料呉服、小間物雑貨などを扱う問屋や玩具、人形などを扱う区画整理が早くから進められた土地でもある。今でも浅草橋や蔵前あたりに人形問屋や玩具問屋あるいは花火、季節装飾の類の店は廃れたとはいえ残っている。

 やげん堀を抜けて東日本橋の駅の方へ歩いて行くと左側にシャッターを下ろした小さな本屋・・・アスカ書房という本屋がある。かつて、店の前に置かれた自転車の荷台に、問屋やアパレル関係の企業で働く従業員たちに流行通信、ファッション販売、ポパイやホットドッグ・プレス、ananやノンノを届けてくれる本屋の旦那さんが居た。
 ページをめくるたびに流行りやヒットの予感を感じる色や素材を眺めていたものだ。

             

 70年代から80年代前半に神宮外苑で行われたイベントで「TBS東京バザール」がある。確か、GWと11月の後半と年2回くらいの開催だった。

 問屋の仕事に就いて間もなくの4月後半に東京バザールへ出店しているブースの手伝いに行かされた。フリーマーケットなどとは違う手作り感覚の、それでいて、それなりに名を知られた企業の試飲、試食会やルーレットやダーツなどで景品がもらえたりするイベントもあってなかなかに楽しかった。
 コカ・コーラが当時扱っていたカルフォルニア・ワインの試飲などは女子大生がコンパニオンをしていて、隣のブースだったからただのワインで二日酔いになるほど飲ませて貰った。この頃までは慣れない営業の仕事で何処かおどおどしている自分があって「毎度どうも御世話になります」なんていうのも気恥かしい感じや気おくれがしていたものだ。
 買い物に来る銀座や日本橋などのデパートギャルや赤坂、青山あたりで働くОLさんと普通に会話できるようになって、営業の会話も自信が付いて行ったのかもしれない。楽しい下心の思い出もある。

 吉野家なんかの飲食のテントで、同席した先輩や上司から色々と話しかけられるのも新鮮だった。
 頼りない透明なプラスティックのジョッキに注がれた生ビールは時にぬるく時に冷たかったが、外苑の土ぼこりが埃っぽい中で呑むビールは腹に沁み渡るしっかりとしたものだった。
 あのグッとくる感じは何処に消えてしまったのだろう。
 ブランデーの飲み方や、宴会の幹事の仕方を教えてくれた上司も先輩も殆どが鬼籍に入ってしまった今、このイベントに参加していた当時の話を出来る友人は数少ない。

 「先お届け」と言って地方から仕入れに出てきた○○堂とか△×商店というような客先・・・車ではなく電車で来てあちこちの問屋を回って「どこどこに届けてくれる?」などと言われ、他所の問屋にその仕入れた荷物を持っていくことをそう言った。大福帳みたいな受け取りを持って、相手の問屋のハンコと引き換えにおいてくる作業だ。帰りには小諸そばなどの立ち食いで間食をすることもしょっちゅうだった。今ではそれらの問屋もかなり少なくなって小諸そばも当時馬喰町の交差点近くにあったが、今では東日本橋の方に移っている。

 鴨南そばも名物で在った筈だが、今では暖簾も看板も観ることはない。

 エトワール海渡の一角だけは昔とさほど変わらないような気もするが「佐原屋」という居酒屋が健気に健在なのは驚くばかりだ。
 其処で瓶ビールや日本酒やえいひれをいつも御馳走してくれた上司は90年代の中ごろに社長まで昇りつめたが、数年前に癌で亡くなった。

 「あのころから30年も経つのか」と思いながら街角や路地を眺めてみると、浦島太郎のような錯覚を覚えてしまう。
 アスカ書房は今では名を変えて「アスカ・ブックセラーズ」とか言う名前で東日本橋の駅前に素敵な書店を開いているが、なんだか切なくて寄る気になれなかった。

 モーレツ・サラリーマンになどは成りたくなくて選んだアパレルの道は苦労も多かったが貴重な体験を沢山くれた。
好 きでやっていたからだろう。着ることは今でも好きだが。
 作り手、売り手に夢も希望もあった時代だ。
 今でも探せばそんな情熱や独自のセンスを売ろうとするセレクトショップの住人たちを見ると同じ匂いを感じてしまうのは確かだ。

 帰りに腹が減ったので小諸そばでミニカツ丼セットを頼む。
 小丼ぶりに入ったカツ丼とかけそばのセットだ。ネギが好み次第で好きなだけ入れられるのと、ゆず七味が他所では味わえないし、きちんとそばを湯通ししてくれるから2分ほど待ってくれと云われる。寒風の中、歩いたので手も身体も冷たかったが、一杯のそばで暖を摂り問屋の丁稚時代にしばし思いをはせた。

 他に客が居ないようなのでその店番に話しかけた。
 「昔、30年ほど前にこの辺りの問屋で働いていたけど、あの頃は馬喰町と小伝馬町にしか小諸そばはなかったんだよね。」
 「あ、そうですか?そんな頃から・・・?」
 間もなく40代に入るくらいかと思われる店番は今日は土曜のためか独りだ。
 「好きなだけネギを入れられるのと蕎麦が美味しいからこの界隈だと他の立ち食いそばなんか行ったことなかったよ。お宅は商売が真面目だからね・・」
 「そうですか、嬉しいです」
 「頑張ってまた繁盛させてね、たまに寄るから・・御馳走さん・・」と声をかけて店を出た。

 帰りの両国橋ではすっかり雨も上がっていたが、彼方にそびえるはずのスカイツリーは曇っていて見えなかった。

 切なさは残っていても、釜めしと赤だしを鳥ぎんで味わうことができたらあのニット屋の親父さんの云いたかったことが少しは理解できるのかもしれない。

 かつて、親父さんのもとへ通った押上界隈・・・・。
 ネットで予約だか抽選だかで天空から見下ろすスカイツリーへ誘ってくれる。

 懐かしい赤だしのなめこ汁と釜めしが食えるあの垢抜けぬ雑踏の空気が漂う商店街はもう消えてしまった。



 (c)2012 Ronnie Ⅱ , all rights reserved.




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No.548
2012/02/21 (Tue) 04:03:12

 小学校のときA先生という面白い男性の先生がいた。ベテランで、担任などは持たれていなかったが、ちょっとしたレクリエーションの際によく僕らの相手をしてくれた。A先生は自称「ガンマー星」からやってきたガンマー星人で、本国での国民番号は1億2345万6789号だという。そして日本の未来の小学生についての予見を語った。
「お父さん、実は僕は、今度の修学旅行で火星に行くことになりました」
「そうか。達者で行ってこい」
 未来においてはそんな会話が普通になるであろう、と。
 また将来、地球の裏側まで行くのに飛行機を使う必要はなくなるであろう、とA先生は言った。どうするかというと、日本から垂直に穴を掘って、その穴が地球の中心を通って地球の裏側まで貫通するようにすれば、あとはゴンドラに乗ってその穴を落ちていけばよい。地球の中心までは重力で加速していき、中心を過ぎればそれまでの勢いで向こうの出口まで昇っていけるのである。しかし出口に着いたときに素早くゴンドラを降りなければ、それはまた地球の中心に向かって落下していき日本に戻り、そこからまた落下していくという永久運動から抜け出せなくなる。

 そういえば小学生のころ読んだ何かの本に、それと似た方法による新幹線の走らせ方が書かれていた。たとえば東京-大阪間なら、東京から大阪まで真っ直ぐなトンネルを掘るのである。地球は丸く、東京と大阪の間ぐらいでも、地表は球体の一部として膨らんでいる。つまりそのトンネルは、地球という球面上にある東京と大阪という二つの点をまっすぐ貫くように掘られる。そうすれば、そこを走る新幹線はもはや電力などの外部のエネルギーを必要としない。なぜなら東京を出発したその列車は、東京と大阪の真ん中の地点までは下り坂で加速していき、真ん中を過ぎたらその惰力で大阪までたどり着くのである。

 幸田露伴の「番茶会談」には、老人と子供たちの対話という形式で、世の中を良くする工夫や発明について多くのことが書かれている。その中で今日実現しているものとして例えば「常灯銀行」がある。銀行にお金を預けるのも引き出すのも、日中の限られた時間内に行なわなければならず不便だが、これを年中無休で行なえるようにしてはどうか、と語られているが、いまは誰もが知るとおりコンビニで二十四時間ATMが使える。また「単軌鉄道」というものが語られているが、これは従来のように車輪を列車の左右につけるのではなく、中央にだけつけることで、レールも一本で済んで経済的だというのである。今のモノレールがこれに近いのかも知れないが、しかし大阪のモノレールの料金の高さを思うと、決して経済的な乗り物とは言えなさそうだ。
 今日においても実現していない発明として「電力の無線送電」が語られているが、もしこれが実現すれば画期的だろう。遠くの発電所から距離を気にせず送電できるのだから、エネルギー問題の軽減にも大いに役立つはずだ。この技術の実現は難事だが、それについて語っている部分を少し引用すると「無線電力輸送のごとき大業は、出来るとしても一朝夕の事では無いが、既にこれを出来さうなことに考へるだけは考へ得て、そしてその企図に対つて力を注いで居る一英雄がある。それは米国人では無いが、現に米国に居るテスラとか言ふものである」とある。こんなところにニコラ・テスラの名前が出てきているが、存命中、遠く日本でも注目される人物だったとは知らなかった。

 いま自転車がパンクしていて、おそらくチューブも使い物にならないほど傷んでおり、修理代が高くつきそうだからずっと歩いている。「ドクター・スランプ」に出てきたスクーターのように、タイヤが無く宙に浮いて走る乗り物があれば、パンクしなくていいのにと思う。高校のとき物理の実験で、床との摩擦が生じない物体は等速直線運動をする、というのを確かめるのにエアー・パックというものを使った。これは軽い箱で下に向かって空気を噴き出し、そのためわずかに宙に浮かんでいる。横へはじくと床との摩擦が無いため、どこまでも等速度で移動する。この原理を使った乗り物が出来たらいいのにと思うが、実現は難しいのだろうか。

 アメリカの小学校で予防注射をしている場面がときおりTVに映るが、ああいう映像で見る注射器にはしばしば針がなくて、圧縮空気で薬剤を注入するようである。僕は大人になった今でも注射が大嫌いだから、ああいう注射器を使ってくれたらいいのにと思う。ところで自分が子供のころは学校でいっせいに予防注射をしたが、最近は予防接種を受けるかどうかは各家庭の判断にまかされているようだ。そうなったら僕は予防注射など受けなかったろうから、無理に注射してくれて良かったのかも知れない。しかし日本脳炎の予防注射の痛かったことと言ったら! だから針のない圧縮空気式の注射器も使われたことがあったらしいが、当時のその注射器は神経線維を傷つけることが多かったらしく、日本では使われなくなったらしい。

 ドラえもんの道具で何が欲しいか、という話によくなるが、僕はとりあえずパーマンに出てくるコピーロボットが欲しい。赤い鼻のボタンを押すと本人の身代わりになってくれるロボットである。そしてそのコピーロボットには仕事に行ってもらう。まあ平凡な望みではあるが。

(c) 2012 ntr ,all rights reserved.
No.547
2012/02/21 (Tue) 03:59:27

 ベム、ベラ、ベロの三人は、日々善行を重ねながらも姿かたちが妖怪であることから迫害を受け、人里はなれた山間僻地に住むことになった。不自由な山の斜面に小屋を立て、雨の日には湿気に悩まされ、雪の日には隙間風に凍えながら、妖怪人間たちはなんとか生きていた。こんな土地で、どうやって糊口をしのごうかという段になって、ベムは養鶏がいいと思い立った。作物を育てにくい斜面であっても、鶏を飼うことはできると何かの本で読んだのだ。
「コーコッコッコッコッコ……」
 ベムは渋い声で鶏の口真似をしながら、鳥たちにえさをやる。風が吹く中、黒いソフト帽を飛ばされないように片手で押さえながら。
 ベラは鞭を使って狩に出かけていた。たいていは鼠やコウモリなどの小動物を捕まえてきたが、あるときは巨大なアホウドリを捕獲し、それが天然記念物であることにはお構いなく、三人はそれを焼いてむさぼり食った。それを見とがめた近隣の住民が警察に報告し、警官が捜査にやってきたが、三人は警官四人を皆殺しにし、大釜で煮て食った。骨はそこらへんに埋めておいた。
 かつて善行を心がけていた妖怪人間たちは、原始的な生活を営むうちにいつしかモラルを失っていた。しかしなぜかベムは、鶏にだけは異常なほどの愛情をふりそそいだ。
 鶏たちは毎日卵を産む。それを食べることもあり、ヒヨコを孵化させて育てることもあった。あるときヒヨコが多くなりすぎて育てられなくなったから、近くの村に下りていって子供たちにヒヨコを売った。しかしそのついでに子供たちをさらってきたから、妖怪人間の行動には無駄がなかった。

 しかしそれだけベムが可愛がっていた鶏たちに、ある日とんだ災厄が襲い掛かったのである。いつものように早朝ベムは鶏小屋を開けに行ったが、あたりに点々と血痕がある。そして三羽の鶏が無残にも首を切り取られて死んでいるのを発見したのである。
「ウ、ウ、ウガンダー!」ベムは怒りに震えて妖怪の姿に変身し、とはいっても犯人が分からないいま、怒りをどこにぶつけてよいやら分からず、とりあえず巨岩をいくつか眼下の村に投げ下ろし、村人の幾人かを血祭りに上げた。
「ベム、無駄なことはよしなよ!」ベロが言った。「冷静に犯人を捜してみよう……おや?」
 ベロは鶏の血痕に混じって、赤い蝋が地面に落ちているのを発見した。蝋のしたたったあとをたどって森の中を歩いていくと、大きな赤い蝋燭が落ちているのを見つけた。それを拾って見つめていると、どこからか絹を裂くような女の叫び声がした。
「きゃーっ」
 ベロは久しぶりに正義感を呼び覚まされ、声のするほうに脱兎の如く駆けていった。
 林の向こうに、黒いマントを着た十数名の人々が、若い女を縛りつけた板をかついで歩いているのが見える。叫んだのは縛られている女だ。やがて黒いマントの行列は、大きな黒々とした廃墟に入っていった。
「よーし!」
 ベロはさっと廃墟に近づき、閉じられた扉の隙間から中をのぞこうとしたが、何も見えない。思い切って扉を開けようとしたが、固く閉じられていてびくともしなかった。窓など他に出入り口はないかと探し回ったが、どこにも入れそうな所はない。
 そのうちにとっぷりと日が暮れた。ベロは昼間拾った赤い蝋燭のことを思い出し、木をこすり合わせてそれに火をともした。蝋燭の光が扉の取っ手を照らすと、不思議なことに扉はひとりでに少し開いた。ベロが中をのぞくと、強烈な甘い香りが鼻をつき、うなるような呪文が耳に入ってきた。
「エークステルシオーネーム、エークスルテルシオゥネェェ~ム」
 黒いマントを着た男女がその呪文を合唱しながら、よだれをたらしたり白目をむいたりして、訳の分からぬ陶酔にひたっていた。祭壇には一人だけ赤いマントを着た外人の僧侶と思しき初老の男が、十字架のついた杖を振り、その杖に念をこめるように呪文を唱えていた。しかし最も目に付いたのは祭壇の前のテーブルに縛り付けられている若い女だった。彼女は服を脱がされており、その一糸まとわぬ白い裸体は、蝋燭の明かりに照らされてなまめかしく光っていた。その美しい女は意識を失っているのか、目を閉じて浅く呼吸していた。息を吸うたびに膨らむ白い乳房、また栗色の陰毛の間から見え隠れする女の秘肉を見て、ベロは思わず勃起した。
「エ~クステルゥシィオウウネエエエーム」
 赤いマントの僧侶は、どこからか生きた鶏を取り出し、鎌でその首をはねた。鮮血が縛られた女の肌に飛び散り、首を失った鶏はバタバタと飛び惑った。その瞬間、なんとも言えぬ恍惚感に襲われていたベロは射精した。そして自分もこの黒ミサの一員になることを心に誓ったのである。その晩、ベロはテーブルに縛り付けられていた女を抱き、さらなる快感を味わったのだった。
 黒魔術に魅入られてしまった妖怪人間ベロの今後やいかに!?

(c) 2012 ntr ,all rights reserved.
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執筆陣
HN:
快文書作成ユニット(仮)
自己紹介:
 各々が皆、此の侭座して野に埋もるるには余りに口惜しい、正に不世出の文芸家を自称しております次第。以下、【快文書館】(仮)が誇る精鋭を御紹介します。


 ❁ ntr 〜 またの名を中村震。小説、エッセイ、漢詩などを書きます。mixiでも活動。ふだん高校で数学を教えているため、数学や科学について書くこともあります。試験的にハヤカワ・ポケット・ブックSFのレビューを始めてみました。

 ❖ 呂仁為 Ⅱ 〜 昭和の想い出話や親しみやすい時代物、歴史小説などについて書きます。

 ✿ 流火-rjuka- ~ 主に漢詩の創作、訳詩などを行っています。架空言語による詩も今後作りたいと思っています。

 ☃ ちゅうごくさるなし
主に小説を書きます。気が向けば弟のカヲスな物語や、独り言呟きなことを書くかもしれません。

 ♘ ED-209ブログ引っ越しました。

 ☠ 杏仁ブルマ
セカイノハテから覗くモノ 



 我ら一同、只管に【快文書】を綴るのみ。お気に入りの本の頁をめくる感覚で、ゆるりとお楽しみ頂ければ僥倖に御座居ます。









 ※ 基本的に当ページはリンクフリーです。然し乍ら見易さ追求の為、相互には承っておりません。悪しからず御了承下さい。※







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