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 『読んで面白い』『検索で来てもガッカリさせない』『おまけに見やすい』以上、三カ条を掲げた〜快文書〜創作プロフェッショナル共が、心底読み手を意識した娯楽文芸エンターテイメントを提供。映画評論から小説、漢詩、アートまでなんでもアリ。嘗てのカルチャー雑誌を彷彿とさせるカオスなひと時を、是非、御笑覧下さいませ。
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No.683
2015/09/15 (Tue) 23:12:08

 誰も読まないかも知れないが、今日はガロア理論を軸に代数系の話でも書こう。
 「集合」というのを高校数学で習ったと思う。集合とはただ「ものの集まり」のことである、という理解で差支えない。
 a, b, c という3つのものの集まりを A と名付けるとき、われわれは
 A = { a, b, c }
のように記す。また a が 集合 A の要素であることを a ∈ A と表す。
 代数系とは集合の要素間に + とか×とか何らかの演算が定められているようなものである。
 数学でしばしば登場する代数系に群、環、体がある。

 まず群について説明しよう。
 集合 G が群であるとは、G のどの要素 a, b(∀a,b ∈ G のように略記することがある)に対しても a * b という G の要素が存在して、次の3条件を満たすことである:
(1) G のどんな3要素 a, b, c に対しても
 ( a * b ) * c = a * ( b * c )
 が成り立つ。
(2) e という G の要素があって、G のどんな要素 a に対しても
 a * e = e * a = a
 が成り立つ。
(3) G のどんな要素 a に対しても a^(-1) という G の要素が存在しており
 a * a^(-1) = a^(-1) * a = e
 が成り立つ。■
 (2)の e のことを群 G の単位元という。(3)の a^(-1)のことを a の逆元という。
 また注意しなければならないのは群 G の要素 a, b に対して必ずしも
 a * b = b * a は成り立たなくてもよいことである。
 a * b = b * a がつねに成り立つような群のことを可換群、またはアーベル群という。
(アーベルは19世紀のノルウェーの数学者の名)。


 群の例をいくつか挙げる。
(例 1) たとえば上の * のことを + だと思って G を整数全体の集合( Z で表す)だと思えば Z は群となる。というのも明らかにどんな整数 a, b, c に対しても ( a + b ) + c = a + ( b + c ) だから(1)が成り立つし、(2)の単位元 e は 整数 0 がこの役割を果たす。つまりどんな整数 a に対しても
0 + a = a + 0 = a. よって Z の単位元は 0 である。そして整数 a の逆元は - a である:
 a + ( - a ) = ( - a ) + a = 0.
 以上で整数全体の集合 Z は足し算 + によって群となることがわかった。
 また整数 a, b に対しつねに a + b = b + a だから Z は足し算(和)に関してアーベル群である。 (例 2) 有理数全体から 0 をのぞいた集合(これを Q'で表そう)は掛け算×によって群となる。有理数とは平たく言えば分数のことで a/b ( a, b は整数で b≠0 ) の形をした数のことである。有理数 p, q, r が (p×q)×r = p×(q×r) を満たすのは明らかである。またどんな有理数 p に対しても 1×p = p×1 = p だから 1 が単位元となっている。また有理数 a/b が 0 でなければ a≠0 で有理数 b/a が考えられ (a/b)×(b/a) = (a×b)/(b×a) = 1 となるから a/b の逆元は b/a である。また有理数 p, q に対してつねに p×q = q×p だから、Q'は掛け算(積)に関してアーベル群である。
(例 3) 行列式が 0 でない n 次行列の全体 GLn(K)( K は行列の成分が属する集合で、さしあたっては実数全体 R または複素数全体 C とする)
 簡単のためここでは、行列式が 0 でない実数を成分とする 2 次の行列の全体 GL2(R) を考えよう。まず「実数を成分とする2次の行列」とは 4つの実数 a, b, c, d を正方形に並べ左右からカッコではさんだ
 ( a  b )
 ( c  d )
のようなもののことである。本当は上下に ( を2つ並べるのではなく、2行にまたがるようなカッコではさむのだが、ここでは上手く表せない。a, b, c, d をこの行列の成分という。行列どうしの足し算は簡単で、各成分どうしを足せばよいのである。
 ( a  b ) + ( e  f ) = ( a + e  b + f )
 ( c  d )  ( g  h )   ( c + g d + h )
と定められる。行列どうしの掛け算はもうすこし複雑で
 ( a  b )( e  f ) = ( ae + bg  af + bh )
 ( c  d )( g  h )   ( ce + dg  cf + dh )
と定められる。そしてこの行列の掛け算(積)について GL2(R) は群となるのである。
 ここで行列
 ( a  b )
 ( c  d )
を A とするとき実数 ad - bc のことを A の行列式と呼び det A で表す:
 det A = ad - bc.
 つまり各成分が実数で det A ≠0 であるような 2 次の行列 A 全体のことを GL2(R) というのである。
 さてこれが群であるというのだが、GL2(R) に属するどの行列 A, B, C に対しても
 (AB)C = A(BC)
が成り立つことは計算で直接確かめられる。
 ( 1  0 )
 ( 0  1 )
という行列を2次の単位行列といい、ここでは I であらわそう。すると GL2(R) に属するどんな A に対しても
 IA = AI = A
が成り立つ。つまりこの I が GL2(R) の単位元である。
 さて GL2(R) の要素 A を
 ( a  b )
 ( c  d )
とするとき、逆元 A^(-1)は
 ( d/(ad-bc)  -b/(ad-bc) )
 ( -c/(ad-bc) a/(ad-bc)  )
という形をしている。つまり A^(-1)をこの形のものと定めれば
 A A^(-1) = A^(-1) A = I
がなりたつのである。A^(-1)は A の逆元であるが、A の逆行列とも呼ばれる。
 数学では分数の分母に 0 がきてはならないから、行列が積に関して群となるためには
det A = ad - bc ≠0 という条件が必要なことが分かるだろう。
 以上で GL2(R) が積に関して群であることがわかったが、どんな自然数 n に対しても
n 次の行列について行列式を定めることができて、GLn(R) が群となることが分かる。
 ただし
 ( 1  1 )  ( 1  0 )
 ( 0  1 ), ( 1  1 )
をそれぞれ A, B とするといずれも GL2(R) の要素だが
 ( 1  1 )( 1  0 ) = ( 2  1 )
 ( 0  1 )( 1  1 )  ( 1  1 ),
であるのに対し
 ( 1  0 )( 1  1 ) = ( 1  1 )
 ( 1  1 )( 0  1 )  ( 1  2 )
であるから AB ≠BA. すなわち GL2(R)はアーベル群ではない。■
 集合の話で大事なことを書き忘れていた。たとえば
 A = { 2, 4, 6 }, B = { 1, 2, 3. 4, 5, 6 }
という2つの集合A, B について、A の要素はどれも B の要素になっている。
 言い換えれば、A は B の中に入っている。このようなとき
A は B の部分集合であるといい、A ⊂ B (または B ⊃ A)と表す。
ただしこの A ⊂ B という記号は A = B である場合も含むとする。
つまり A = { 1, 2, 3 }, B = { 1, 2, 3 } のように A = B の場合も
A ⊂ B とか A ⊃ B などと書いてもよい。  

 G が群で、H が G の部分集合で、H も群であるとき、H を G の部分群という。
(厳密にいうと、G が演算 * によって群をなしていて(つまり G の要素 a, b に
対して a * b が定まっていて)その単位元が e であり、G の部分集合 H も
演算 * によって群をなしていて、H の単位元も e であるとき、H を G の部分群である
という。)
 ちなみに、H が G の部分群であるための条件は
 (1) x, y ∈ H ならば x * y ∈ H,
 (2) x ∈ H ならば x^(-1)∈ H
の2条件が成り立つことであることがわかる。
 H が G の部分群であることを H < G と表すことがある。
 たとえば例1の整数全体 Z のなす群において、偶数全体のなす集合
 Y = { ... -4, -2, 0, 2, 4, 6, ... }
は足し算 + に関して部分群となっている。
 さらにたとえば上の例3の群 GL2(R) に対して、GL2(R)の要素で行列式の値が 1 であるもの全体をSL2(R) とかくと、これは行列の積について GL2(R) の部分群となっている。


 さて群についてはこの程度にして、環の話に入ろう。
 群の説明のときは、a と b の演算のことを a * b と表したが、
環には要素 a, b に対して 2種類の演算があり、これらを通常
 a + b,  ab
で表す。前者を a と b の和、後者を a と b の積という。
環の定義は次のようになる。


 集合 R が環であるとは、R のどんな要素 a, b に対しても和と呼ばれる R の要素 a + b,
積と呼ばれる R の要素 ab が定まり、次の条件(1)~(6)が成り立つとき、R を環という。
(1) R のどんな要素 a, b, c に対しても
 ( a + b ) + c = a + ( b + c )
 が成り立つ。
(2) 零(ゼロ)と呼ばれる R の要素 0 があり、R のどんな要素 a に対しても
 0 + a = a + 0 = a
 が成り立つ。
(3) R のどんな要素 a に対しても - a と書かれる R の要素があり
 a + ( - a ) = ( - a ) + a = 0
 が成り立つ。
(4) R のどんな要素 a, b, c に対しても
 ( ab )c = a( bc )
 が成り立つ。
(5) 単位元と呼ばれる R の要素 1(ただし 1≠0)があり、どんな R の要素 a に対しても
 1a = a1 = a
 が成り立つ。
(6) R のどんな要素 a, b, c に対しても
 ( a + b )c = ac + bc,
 a( b + c ) = ab + ac
 が成り立つ。■


 環 R の要素 a, b について必ずしも ab = ba は成り立たないが、
 つねに ab = ba が成り立つ環を可換環(かかんかん)、そうでない環を非可換環という。
 平たく言えば、環とは足し算、引き算、掛け算ができるが、割り算は必ずしもできないような集合である。
 例えば整数全体の集合 Z は普通の和 + と積 × によって可換環となる。
 また実数を成分とする2次の行列全体 M2(R)(行列式が0のものも入れる)は、行列の和と積に関して非可換環となる。
 環について言うべきことは他にたくさんあるが、ここでは割愛する。   


 さて環は加・減・乗という演算ができる集合だが、さらに除(割り算)も出来るような集合を体(たい)と呼ぶ。ただし 0 による割り算だけは考えない。
 つまり上の環の定義(1)~(6)に加え次の(7)を満たすような集合 R のことを体と呼ぶ。
(7) 0 でないどんな R の要素 a に対しても a^(-1)という R の要素があって
 a a^(-1) = a^(-1) a = 1.


 ただ R は環(ring)の頭文字で、体は英語で field, ドイツ語で koerper だから、ふつう体を表すときは F とか K という文字を使うことが多い。
 体のもっとも簡単な例は、有理数全体の集合 Q である。Q が環であり、上の(7)も満たすことは明らかだろう。
 体 K の部分集合 L が体をなしているとき、L を K の部分体、K を L の拡大体という。
(厳密には、K の部分集合 Lで、K と同じ演算で体をなしており、K と零と単位元を共有するものを体 K の部分体という、云々)
 K が L の拡大体であることを K / L と書くことがある。/ はここでは割り算の意味ではなく、分かりにくい記法だが、伝統だからしかたがない。

 さてさて。
 群にしても環にしても体にしても「準同型写像」というものが大切になってくる。準同型写像の特別なものが「同型写像」とよばれるものである。
 まず群についてこれを説明すると。
 G が演算 * について群をなしており、H が演算 # について群をなしているとする。
 つまり G の要素 a, b に対しては演算 a * b が定まっており、H の要素 α,βに対しては演算α#βが定まっている、とする。
 このとき G から H への写像 f ( つまり f は G の要素に H の要素を対応付ける規則で、a ∈ G に対しα ∈ H が対応付けられているとき f(a) = αとかく)があって、G の要素 a, b に対し
 f(a * b) = f(a)#f(b) ……@
となっているとき、写像 f: G → H を 群 G から H への準同型写像という。
 @で G と H の演算がどういうものか明らかなときは * や # を取り払ってしまって
 f(ab) = f(a)f(b)
のようにかくことが多い。
 そして準同型写像 f: G → H が全単射であるとき、f を同型写像(または単に同型)といって G と H は同型であるといい、
 G ≅ H のように表す。
 で、f が全単射とは
 (1) a ≠ b ならば f(a)≠f(b),
 (2) どの H の要素 c に対しても f(a) = c となる G の要素 a がある。
の 2 条件が満たされることである。
 
 環の準同型写像については次のようになる。R と S を環とし、
 f: R → S が(環)準同型写像であるとは、R の要素 a, b に対しつねに
(1) f(a + b) = f(a) + f(b),
(2) f(ab) = f(a)f(b),
(3) f(1') = 1" (ただし 1'は R の単位元、1"は S の単位元)
 の3条件が満たされることである。ただし R の加法・乗法と S の加法・乗法は同じ表し方をしている。
 そして(環)準同型写像 f: R → S が全単射であるとき、f を同型写像(または単に同型)といって R と S は同型であるといい、R ≅ S のように表す。


 体の準同型写像については、体は同時に環でもあるので、体 K, L に対し写像 f: K → L が環の準同型写像になっているときと定める。ただし K, L が体であるときは、環準同型の定義(3) f(1') = 1"は(1),(2)から自動的に出てくる。体の同型についても群・環のときと同様である。

 さて群の説明のとき、群 G のすべての要素 a, b について
 a * b = b * a ……(¥)
が成り立つとき G をアーベル群であるといったが、群においては(¥)がつねに成り立つとき、
* という演算を足し算と同じものと見なして、* の代わりに + とかくことがしばしばある。
 とくに + で演算をあらわすとき、G はアーベル群ともいうが「加群」とよぶほうがむしろ多い。
 そしてわれわれが群を「加群」というとき、その加群の外から別な代数系が作用している、というニュアンスをしばしば含んでいる。
 V を加群とするとき、環 R が外から作用しているときは V を R 加群と呼び、とくに加群 V に体 K が外から作用しているとき
は V を「K 上のベクトル空間」と呼ぶ習わしである。
 正確にいうと、加群 V が体 K 上のベクトル空間であるとは、V の要素 v と K の要素λに対し V の要素λv が定まっていて、
V の要素 u, v と K の要素λ,μについてつねに
 (1) (λμ)v = λ(μv),
 (2) (λ+μ)v = λv + μv,
 (3) λ( u + v ) = λu + λv,
 (4) 1v = v ( 1 は K の単位元)
の4条件が満たされていることである。
 V が K 上のベクトル空間であるとき、V は基底と呼ばれる要素の組を含んでいることが分かる。つまり V の要素の組 { v_1, v_2, v_3, ... , v_n } が V の基底であるとは
 (1) V のどんな要素 w に対しても次式を満たすような K の要素 c_1, c_2, ... ,c_n がある:
 w = c_1v_1 + c_2v_2 + ... + c_n v_n.
 (2) K の要素 c_1, c_2, ... ,c_n に対し、もし
 c_1v_1 + c_2v_2 + ... + c_n v_n = 0
 となるならば c_1 = c_2 = ... = c_n = 0
の2条件を満たすことである。V に対して基底の取り方はいろいろあるが、今の場合その個数が n 個であることは一定している。そこでベクトル空間 V の次元は n であるといい dim V = n などと表す。
 さて体 K が体 L の拡大体であるとき、L は K に含まれているのだから、L の要素のと K の要素の積は当然 K に含まれている。そういうわけで、K を体 L 上のベクトル空間とみなすことができる。このときのK の次元を K / L の拡大次数といい [ K : L ] と表す。


 ところで2つの体の間の同型写像を上で定義したが、体 K から体 K への同型写像を K の自己同型といい、K の自己同型(写像)全体の集まりを Aut(K) であらわす。Aut(K) の要素 f, g について、それらの積 fg を次のように定める。つまり K の要素 a に対し (fg)(a) = f(g(a)) とする。Aut(K) はこの積によって群となる。単位元は K の恒等写像、逆元は逆写像である。
 さて K / F すなわち体 K が体 F の拡大体であるとき、K の自己同型 f: K → K で
F の元 a に対してはつねに f(a) = a となっているものを「 K の F 上の自己同型」とよび、それらの全体を Aut(K/F) で表す。Aut(K) のときと同様に積を定めれば Aut(K/F) も群となる。
 K の自己同型写像のうち F の要素を動かさないものをとくに Aut(K/F) としたのだから
 Aut(K/F) ⊂ Aut(K) である。
 さて G を Aut(K) の部分群とするとき、G のどんな要素 g(これは K の自己同型写像の1つ)に対しても g(a) = a であるような K の要素 a の全体を K^G とかき( K^G は体をなす)、これを G の固定体という。つまり
 K^G = { a | a∈K, ∀g∈G, g(a) = a }.
 さて H = Aut(K/F) とおいたとき、H の固定体 K^H はどんな集合になるだろうか。Aut(K/F) の定義からして K^H = F ではないかと思われるかも知れないが、一般にはそうではない。K^H ⊃ F はつねに成り立つが、とくに K^H = F すなわち K^Aut(K/F) = F となるようなとき、体の組 K/F をガロア拡大という。そして K/F がガロア拡大である場合とくに Aut(K/F) を Gal(K/F) で表し、これを拡大 K/F のガロア群という。


 さてガロア理論のそもそもの動機は
 f(X) = X^n + a_1 X^(n-1) + a_2 X^(n-2) + ... + a_n  
 に対して代数方程式 f(X) = 0 の解の公式を見つけたいというものだった。
  係数 a_i が複素数の場合、f(X) = 0 が複素数の範囲に(重複を込めて)n 個の解を持つということはすでにガウスによって示されていたから、
 f(X) = ( X -α1)( X - α2)...( X - αn )
という因数分解を与える α1, ... , αn が存在することは言える。ただ解の公式を与えるということは、これらα1, ... ,αn を f(x) の係数 a_1, a_2, ... , a_n の四則と開ベキ(m√:m 乗根 )による有限個の組み合わせて表示するということを意味する。


(ここで考えている係数を実数や複素数とは限らない一般の体の要素として話を進めることにする。一般の体 K に対してもその代数的閉包 Ω が存在することが知られているから、各 αi はΩの要素として存在する。)
 いま体 K が係数 a_1, ... , a_n を含んでいるとしよう。α1, ... , αn は含まれていないとする。
このとき、集合 K に α1, ... , αn を付け加えた最小の体を f(X) の K 上の最小分解体といい、
K (α1, ... , αn ) とかく。さて代数方程式の最小分解体については、拡大 K (α1, ... , αn)/K は
つねにガロア拡大であることが知られている。さて M = K (α1, ... , αn) としたときの拡大 M/K の
ガロア群 Gal(M/K)が問題なのである。


 群の一種に可解群というものがあるが、ガロア理論によると
 「方程式 f(X) = 0 に解の公式が存在する ⇔ ガロア群 Gal(M/K) が可解群である」
なのである。
 いちおう可解群について説明しておこう。
 群 G の部分集合 S に対し、G の部分群で S を含むような最小の群を S で生成された部分群といい、<S>で表す。具体的には、S に属する要素の逆元の全体を S^(-1) とかき、和集合 S ∪ S^(-1) の要素を有限個かけあわせてできた要素の全体が <S> である:
 <S> = { s_1s_2...s_n | n ≧0, s_i∈ S ∪ S^(-1)}
( n = 0 のときは s_1s_2...s_n は単位元 e を表す)
 さて一般に群 G の要素 a, b について a^(-1)b^(-1)ab の形の元を交換子という。
 そして G のすべての交換子の集合で生成された G の部分群を G の交換子群といい D(G) で表す。
 次に D(G) に含まれるすべての交換子の集合で生成された D(G) の部分群を D_2(G) とする。
 同じことを繰り返し D_3(G), D_4(G), ... と作っていったとき、ある m に対し D_m(G) = { e }
( e は G の単位元)となるとき、もとの G を可解群という。
 ところで f(X) = X^n + a_1 X^(n-1) + a_2 X^(n-2) + ... + a_n を考えたときの、上のガロア群
Gal(M/K) は具体的にどういう群になるのか。それは n 次の対称群 Sn というものになる。      
 対称群 Sn については n = 3 ぐらいで考えると分かりやすい。
 3次の対照群 S3 とは 3つのものの並べ替えを要素としていて、つまり
 ( 1 2 3 )  ( 1 2 3 )  ( 1 2 3 )  ( 1 2 3 )  ( 1 2 3 )  ( 1 2 3 )
 ( 1 2 3 ), ( 1 3 2 ), ( 2 1 3 ), ( 2 3 1 ), ( 3 1 2 ), ( 3 2 1 )
の計6個の要素からなっていて、左から s_1, s_2, ... , s_6 とするとき
 積はたとえば s_2s_3 の場合、s_2, s_3 の順に数を置換して 1→1→2, 2→3→3, 3→2→1 となるから結局
 s_2s_3 = ( 1 2 3 ) = s_4
      ( 2 3 1 ) 
のような群演算となる。
 一般に Sn の要素の個数は n 個のものの並べ替えの総数だから n ! となる。
 そして、n ≧ 5 のとき Sn は可解群でないことが知られており、
「一般に5次以上の代数方程式には解の公式は存在しない」ということになるのである。

(c) 2015 ntr ,all rights reserved.

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No.682
2015/08/21 (Fri) 05:27:51

 1997年に起きた神戸連続児童殺傷事件、通称「酒鬼薔薇事件」の犯人である「元少年A」による手記が、今年六月に太田出版から『絶歌』というタイトルで出版された。

 この出版については、遺族の了承を得ていないもので、事件について赤裸々に記されているとすれば被害者の人権を冒涜するものであり、それが公にされることによって遺族はまたも理不尽な苦しみを覚えることになる。
 この出版のあり方を選んだのは少年Aの失敗ではなかったろうか。彼がもっとも攻撃を受けているのはこの遺族の了解を得ていないという点だからだ。

 しかし僕はこの本を読んで、正直よい本だと思った。
 これに反して、この本について「悪い点」をあげつらっても「よい点」を称揚する批評はあまり目にしない。本書は二部構成になっていて、前半は事件を起こすまで、後半はその後の彼の人生が描かれている。前半部分で犯行の経緯やその方法を具体的に述べており、まさにこの部分が被害者の心情を傷つけるものとして、おおいに糾弾の材料になるのだろう。
 しかしまさにこの前半部分が、猟奇殺人のプロセスを知りたいという大衆の知的欲求を起こさせ、おそらくはそうした理由でこの本は売れている。
 しかし僕はこの書物で本当に読む価値があるのは後半部分だと思った。
 二〇〇五年にAは関東医療少年院を本退院し、何の束縛も受けず社会に生きることになった。そのあとAは様々な人と出会うのだが、本書の批評でよく目にするのは、少年院を出てからもAは犯行時とまったく変わっていない、この本の行間からあふれ出てくるのは被害者の首を学校の校門に置いたのと同様の自己顕示欲であり、文学的な文章でそれを飾りたてて自己陶酔に浸っているのだ、といったものだ。しかし自分はこれを率直に読み、ここに書かれているのが嘘でないのなら、こうした批評は全くの的外れだと思った。
 そして現在の少年Aはある意味更生に成功していると考える。
 
 被害者は命を奪われたのに、加害者が社会の中でのうのうと生きていられるのは絶対におかしい、と人は言う。たしかにおかしい。しかし法は少年Aに生きよと命じた。
 Aは少年院を出たあと、自分の過去をひたかくしにして、溶接工の仕事などをしながら必死に生きている。決して楽ではなく、少年院や刑務所の中でのほうがよほどのうのうと生きていられる。出所してから十年、再犯もしていない。
 さらに斟酌されるべきは、あれだけの罪を犯した犯人が死刑にもならず、これまでずっと生きてきて、そしてこれからも生きていくということが、おそらくまれなケースだということである。つねに強い自責の念に駆られ、生きている限り世間の人間は彼を決して許さない。事件当時Aは十四歳だったから、この生活が五十年から七十年続くのである。これはもはや死刑より重い刑に処せられていると言えるのではないか?

 しかし本当にAは、被害者への罪の意識を感じているのだろうか?

 Aは本書の中で、自分が「生きたい」という言葉を口に出すことさえはばかられ、「謝罪したい」と言うことすら傲慢だと感じている、と述べている。
 あれだけの犯罪をおかし、それに見合った謝罪の言葉などあり得ないということだと思う。
少年院を出る前に、教官から、被害者の両親が我が子への思いをつづった手記『淳』『彩花へ』を読むよう勧められたという。Aはそれを読んだ。親の子に対する思い、無念に触れると、それ以来、殺人の瞬間に自分が見た被害者の無垢な顔、首のない淳君の姿など凄惨な場面が頭の中でフラッシュバックし続け、眠れなくなり睡眠薬をもらったがそれでも眠れず、はっきり自分が壊れていくのが分かった、という。

 このようにAは、人の痛みのわからない人間ではない。ただ事件の前には、人の痛みを想像する能力が極度に抜け落ちていたことは否めない。
 同時に彼は愛情に飢えていた。彼にとって「真に愛されている」と感じることのできたのは、祖母だけだった。二人で公園に行ったとき、Aは祖母にいいところを見せようと大きな木にのぼって、高い枝から声をかけた。しかし祖母はAがどこにいるのかわからず、ただおろおろして目に涙を浮かべながら孫の名を呼んだ。ひどく悪いことをしたと思ったAは謝り、二度とあんなことはしないと誓った。
 そんな心底からの感情の触れ合いがもてたのはAにとって祖母だけだったが、小学校五年の頃、祖母は死んでしまう。世界が根底から崩れてしまうかのように感じた、と言う。
Aの最大の不幸は、祖母以外にも彼を愛してくれる人間がいたのに、それに気づくことが出来なかったことだろう。
 事件を起こして警察に収監されているあいだ、両親がしばしばAのもとを訪れた。Aにとって驚きだったのは、両親は事件のことにはいっさい触れず「ちゃんとごはん食べてるの? やせたんじゃない?」「何があってもお前は我々の子なんだから、いつでも戻ってくるんだぞ」という親の子に対する真率な思いに触れたことだった。Aは生来、拒絶されることには慣れていても、受け入れられることには慣れていなかった。両親はこんなに自分のことを思ってくれている、これまでも思ってくれていた、自分はその両親をなんと苦しめる事件をおこしたことか! そう思うと耐えきれなくなって、涙をぼろぼろこぼし母親に「来るなって言ってあったやろ! もう来んなブタ!」と思いもせぬ悪罵を浴びせた。母親が帰って落ち着くと、Aは母親に謝りたいからまた来るように取り計らってほしい、と教官に述べていた。

 Aの父親は職人で、家族の前で涙を見せるということはいっさい無かったらしい。Aが少年院を仮退院したころ、父と二人で山奥のコテージで二日過ごしたことがあった。

(以下引用)

「なぁ、A。今すぐにとは言わへんけど、お前の気持ちが落ち着いたら、また家族みんなでいっしょに暮されへんやろか? 父さんも母さんも、どうしてもおまえのそばにおってやりたいんよ。被害者の方たちのこと考えると、こんなこと言えた義理やないけど、おまえがちゃんと立ち直って、世の中に適応してやっていけるように、親として見守ってやりたいねん。考えてみてくれへんか?」
 僕にはわかっていた。父親の本心が。父親は僕が更生したことを信じ切れれず、心のどこかで、僕が一人になるとふたたび罪を犯すのではないかと恐れていた。妙な話だが、父親のその疑いを皮膚で感じ取り、嬉しかった。少なくとも父親は、僕の中に何か得体のしれない恐ろしい一面があることを認め、それも含めて僕を「息子」と受け入れているように見えた。
「ありがとう、父さん。でも、ごめん。父さんの気持ちは嬉しいけど、やっぱり僕はひとりで生活したい。よく想像するねん。昔みたいに家族でテーブル囲んで、和気あいあいと食事しとるときに、つけとったテレビからいきなり僕の事件に関連したニュースが流れて、そこにおるみんなの表情が凍りつくところを。それはほんまに辛い。たとえ父さんたちが大丈夫でも、僕が耐えられへん。少し離れたところから見守っといてほしいねん」

(中略)

「なぁ、父さん」
 父親が振り返る。
「おう、どないしたんや? 風呂先にはいってええで」
「いや、ちゃうねん」 
 僕が話したがっているのを察して、父親は洗い物を手早く済ませると、こちらに向き直った。
「父さん、今まで生きてきて、いちばん幸せやったことって何?」
「おまえが生まれてきた時や。あの日のことは一生忘れへん。初めての子供で、生まれた瞬間、父さん嬉しくて泣いてもぉた」

(中略)

「父さん、僕ら五人はほんまに普通の家族やったよな。ほかのみんなと同じように、家族で一緒に出かけたり、誕生日を祝ったりして、幸せやったよな。僕さえおらんかったらよかったのに。なんで僕みたいな人間が父さんと母さんの子供に生まれてきたんやろな。ほんまにごめん。僕が父さんの息子で」
 事件後、僕は初めて父親に面と向かって謝った。
 次の瞬間、父親は僕から目を逸らし、親指と人差し指で目頭を突き刺すように抑え、見ないでくれとでもいうように、俯き、肩を震わせ、声を殺して泣き始めた。父親が泣くところを見たのは生まれて初めてだった。謝っているのは僕のほうなのに、まるで父親が怒られて泣いているようだった。

(引用終)

 さて話は前後するが、医療少年院を仮退院しても、お金があるわけではなしすぐに自立できないから、更生保護施設というところに住んでアルバイトなどをすることになる。ただこういう施設では悪いうわさが広まりやすく、あれが酒鬼薔薇事件の犯人だといいふらすものが出てきた。マスコミに居場所を知られたら終わりだから、新たな居住場所をもとめてビジネスホテルなどを転々とする。ところでAのような元受刑者の身柄を引き受け社会復帰を助ける篤志家が全国には数多くいて、その中のY氏という人物がAの面倒を見てもよいと申し出たのだ。僕もそういう篤志家が世間にいることは知っていたが、あの酒鬼薔薇事件の犯人を受け入れようという人物がいる、ということには正直驚いた。

(以下引用)

 Yさんはとても明るくて、愉快な人だった。人とのどんな些細な繋がりも大事にしていた。僕の他にも、過去に傷のある人や、生き辛さを抱える人たちのために、手弁当であちこち駆け回り、無償で尽くしていた。
 Yさんの奥さんは、穏やかで、物静かであるが、そこはかとない芯の強さと忍耐力を感じさせる人だった。奥さんは人付き合いが苦手な僕のことをよく理解してくれて、いつも一歩引いたところから、僕を支え、見守ってくれた。
 彼ら二人は、嫌な顔もせず、文句のひとつも言わず、取り返しのつかない罪を犯した僕を実の家族のように迎え入れてくれた。食事や身の回りの世話ばかりではなく、これからどのように生き、罪を償っていけば良いのかを、僕と一緒に悩み、真剣に考えてくれた。

(引用終)

 ただAは、Y氏の奥さんについては、本当は自分のような凶悪犯と寝食を共にするのは正直嫌なのではないか、と疑っていた。Y氏がAを引き受けると決めたからしかたなくそれに従っているだけではないのか、と。
 しかし、ある日こんなことがあった。夜七時ごろ、家にはAと奥さんのふたり。奥さんが話しかけてきて、公民館でこれからコンサートがあるんだけど、夜道は怖いから一緒に来てくれない? Aは耳を疑った。自分のような殺人鬼と夜道を二人で歩く? Y氏の奥さんを内心で疑っていたAには、嬉しい驚きだった。

 こうした、人との温かみのあるふれあいが、Aの心の殻をすこしずつ破っていったのだろう。少年時代の彼は、周りの人間すべてから拒絶されているという感じを常に持っていて、つねに自分は醜いと思い続け、それが事件の背景となったことは間違いない。

(事件の直接の動機は実は少年時代のAの性的欲求にあって、生き物の死を伴わなければオーガズムに達することができないという倒錯した欲求によるものだった。本書に書かれている限り事件後には、Aのこの性的倒錯は表れてこない。少年院を出て十年以上再犯を犯していないことは、この性癖が治ったことの表れと見てよいのだろうか。)

 Aのもとには自分の事件を扱ったTV番組のビデオなどの資料が、弁護士や精神科医から送られてくるらしい。Y氏の家に起居していたとき「罪の意味 少年A仮退院と被害者家族の7年」という番組のビデオが送られてきた。淳君の二歳年上のお兄さんにスポットライトを当て、事件後、彼が何を思い、どのように苦悩してきたのかを取材したものだった。お兄さんは加害者の償いについてこう語った。
「更生してくれるのは結構なこととは思いますけど、内心はどうして弟はあんな目にあわされたのに、相手側はのうのうと生きていられて、まともな生活ができるのかなと思います。もし本当に罪が償えると思っているなら、それは傲慢だと思うし、所詮言い逃れに過ぎない」
 Aはその言葉を重く受け止めた。
 淳君の兄の言う通り「つぐない」など不可能なのかもしれない。しかしAはこの「つぐない」と向き合っていく決心をする。

 AはY氏の家を出て一人暮らしをしばらく続け、工場などで働いていたが、ふと思う。これまで自分がしてきた仕事は、すべて更生施設や弁護士などがあっせんしてくれたものばかりだ。これでは決められたレールに乗って生きているだけではないのか。これで本当に生きていると言えるのか。そしてつぐないという答えのない問い。それに真摯に向き合うためにも、自分のことはすべて自らの責任で決め、自ら迷い、はいつくばってでも過去を背負って生きていかなければならないのではないか。

 少年院の職業訓練で身につけた溶接の技術を生かそうと思い、溶接工の仕事を見つけた。もともと人づきあいが苦手なうえ、過去を詮索されるのが何より困るAは、ほとんど仕事仲間と口もきかず、人づきあいが悪かった。そのため同僚に嫌われトラブルに巻き込まれることもあったが、いつも助けてくれる先輩がいた。Aは不愛想でも仕事ぶりは真剣そのもので、その先輩から見て決して悪い青年ではない、ただ何か暗い過去を背負っているために不愛想なのだろう、と受け取られたらしい。優秀な先輩で、人望も厚かった。ある日その先輩から、夕食を食べに家に来ないかと誘われた。そのような人を見る目のある人の誘いを受けたのだから、これは喜ぶべきことだろう。Aの過去を知らない人が、現在のAの人となりを見て認めてくれたわけだから。
 しかし、人の家の食卓にお邪魔するなど、長年人づきあいを断ってきたAには非常に勇気を要することだった。ぎこちなくAのために用意された席に着いたが、先輩の子供たちが人懐っこく寄ってくる。純真無垢な目をして「お兄ちゃん、名前は? 家族は何人いるの?」と問いかけてくる。これがAには耐えられない。かつてこれと同じ目をした二人の子供を殺したことが、頭の中をフラッシュバックする。Aはもうその場にいたたまれず、ぶしつけも承知で、急に気分が悪くなったからといって逃げるように先輩宅をあとにした。

 Aは「生きたい」と発言することさえはばかれる自分であり、自分が手にかけた淳君彩花さんのことを思うとなおさらそれは言ってはならないと思うが、ずっと生きてきてますます生きたいという思いがたちがたく湧いてくるようになったのだという。
 本書を読んで思うのは、そのように生きたいと思うのは、Aが、こんな自分でも愛してくれる人がいるという強い感動をいくども覚えたからではないか。
そして今のAの「生きたい」はかつての「殺したい」という感情とは真逆のように感じられる。

 本書を読んで、犯罪者の更生にとって「愛される」という体験が非常に重要だと感じた。

 また自分は本書を読み終えて、元少年Aにいつしか好感を持つようになった。
 ではお前は、あの神戸連続児童殺傷事件の犯人を許すのか、というかも知れない。
 それは決して許されない。
 しかし諺にも言うではないか。罪を憎んで人を恨まず、と。
 
(元少年Aがこの出版で得るであろう印税は、彼がこの本に書かれている通りの人間なら、遺族の損害賠償に充てるなり、しかるべき団体に全額寄付するものと僕は思っている。)


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No.681
2015/08/10 (Mon) 04:58:44

学生時代、生物学専攻の友人が

 PV=一定

という式について話し出した。ここでVは気体の体積であり、Pはその気体にかかる圧力である。つまりこの式によれば、強い圧力をかければ気体は小さくなり、圧力が弱くなれば気体は大きく膨らむ。しごく当たり前の話のようだが、ちょっと待ってくれ。P=0 となることはないのか、と僕は聞いた。友人は一瞬何を聞かれているのか分からないようだったが、つまりこの式で P = 0 としてしまうと V = 無限大になってしまう。いくら宇宙が広いといっても無限大の体積の気体を受け入れるわけにはいくまい。地球上では気体に大気圧というものがのしかかっているから P > 0 である。しかし宇宙空間ではどうなるのか。そこにいた他の理学部の誰かが言うには、宇宙空間にも星間物質というごく微細な粒子が漂っていて、万有引力や何かで気体の粒子を引き留める、つまりごく小さな圧力がかかるから、気体の粒子は無限のかなたまで飛び去る心配はないのだと。

 そういう話を聴いていると、ああわれわれは地球上で大気圧に守られていて良かったという思いを新たにする。もし宇宙服も着ずにいきなり宇宙空間に放り出されたら、体の内部から外へ向かう圧力のため、体も頭もあっという間に破裂してしまうだろう。
 「2001年宇宙の旅」では、超高性能コンピュータ「ハル」によって制御された宇宙船が、外惑星系に探検に行くのだった。このコンピュータは感情を持っており、同種のコンピュータが世界でまだ一度も誤作動を起こしたことのないのを誇りに思っていた。しかしハルは小さなミスを犯してしまう。船内のある機器が何時間後かに故障すると予言したのだが、船員が調べてみるとその機器には何ら異常は見られなかった。小さなミスだが、微妙な航路の狂いも許されない宇宙飛行を、この完全とは言えないハルに任せておけるだろうか。一度ハルのスイッチを切って原因を究明したほうが良くはないか。船長と船員は、ハルに聞こえないよう注意しながら相談した。そのあと、船外の作業があり、二人はそれぞれ球形のロボットに乗って、宇宙空間に出た。しかしハルは二人の密談を盗み聞きしていた。自分の電源を切られるぐらいなら、この二人の船員を殺してしまおう。宇宙船はハルを頭脳とする体のようなもので、ハルは船のロボットアームをあやつり、一台のロボットについてはその命綱を切って宇宙のかなたに突き飛ばしてしまった。もう一台の船長の乗るロボットに対しては、宇宙船から締め出しをくらわせた。ハッチを閉じてロボットを入れなければ、船長はいずれ窒息して死ぬ。手動で開けられる小さな出入口があったが、そこにはロボットが入り込むことはできず、おまけに船長は宇宙服のヘルメットを持ってきていなかった。助かる道としては、まず宇宙船の出入り口を開け、ロボットのドアを開ければ、ロボット内の空気が勢いよく噴出するから、自分は船内に弾丸のように突っ込むだろう。そしてすぐに船の出入り口を閉じ、バルブをひねってそこに空気を充満させる。これは大きな賭けだ。一瞬ではあるが頭を真空の宇宙にさらすのだから。「ヘルメットがなければまず助からんよ」というハルの冷たい警告を無視して、船長はその作戦を試み、みごと成功する。そしてハルの電源を止めたのだった。
 ながながと映画の話をしてしまったが、要は頭が破裂するのは怖いということである。

 どこの大学でもそのようだが、工学部の建築学科というのはえらい人気らしい。母校の建築科の教授に聞いたが、みんな頭が破裂するほど勉強して入学してくるから、まず頭の中のゴミを取り除くことから始めなければならないのだという。
 頭脳の許容量の限界に挑戦するようなこういう受験勉強の話を聞くと、筒井康隆の短編「こぶ天才」を思い出す。巨大なカブトムシのような昆虫がいて、それを背中に張り付けるとそのカブトムシが第二の脳となって本人の知力を倍増させるのだ。しかし一度取り付けると昆虫の神経と脊髄が一体化するため、二度と取り外すことはできない。母親が嫌がる子供を連れて、その昆虫の斡旋業者のもとを訪れる。子供はせむしみたいになるから嫌だと泣き叫ぶが、母親は受験戦争に勝ち抜くため、何が何でも我が子に昆虫を装着させたい。斡旋業者も、そんなに嫌がってるなら無理につけることは無いでしょうととりなすが、母親は強硬で、一流大学に入って一流企業に入るのが良いに決まっているのだから、自分の判断に間違いはないと突っぱねる。
 ああ。誰もがそう思うだろうが、僕など特にこういった母親の硬直した考えには戦慄を覚える。人の幸せは、知力が高い人も低い人も、結局は等量ではなかろうか。

 前にも書いたことがあると思うが、この「こぶ天才」で背中に昆虫をしょった人間のように、脳が二つあるいは三つある動物は珍しくない。いや脳というと語弊があるが、神経が特に密に集まっている箇所が、あたかも第二第三の脳のような役割を果たすことがあるのだ。人間の脊髄も、緊急時には脳と同じように体に指令を与える。つまり熱いものに手が触れたとき慌てて手をひっこめるが、これは一刻も早く手を危険から遠ざけるため、脊髄が手を引っ込めるよう命令しているのだ。ニワトリは首をはねてもしばらく羽ばたき続けるが、これは頭部以外に脳の代わりとなる大きな神経叢があるためだと思われる。ミミズを切ったときそれぞれ独立に生き続けるのも同じ理屈だろう。だいたいこういう首を切っても生きているような動物はおおむね本来の脳が小さいため、それを補うため別の個所に第二第三の脳を持っているように思われる。

 そこで思い出されるのが映画「八つ墓村」で落ち武者を演じた田中邦衛である。八つ墓村ではその昔、八人の落ち武者が命からがら逃げてきたとき、村人たちは最初親切にもかくまってやると申し出、落ち武者たちを歓待したが、それは村人たちの奸計だった。つまり落ち武者たちの身につけている立派な武具が欲しくて、親切なふりをして近づきになり、油断したところをなぶり殺しにしたのだった。武士たちの無念はすさまじく、田中邦衛は助からないとみるや刀を後ろから自分の首に当てて、そのまま斬りおとしてしまうのである。こんなことは人間には無理ではないかと疑問に思うシーンだ。首を後ろから切るのだから、頸椎の重要な神経をまず切ることになるが、そのあとも田中邦衛は刀を押し出し、のど元まで切るから頭が落ちるのである。これは思うに、田中邦衛には頭部の脳髄以外に大きな神経叢が首の下にあるということだろう。そう考えてくると、なるほど田中邦衛の脳は標準よりだいぶ小さそうである。そして第二の脳が体の動きを活発ならしめるがために「食べる前に、飲む!」と叫んでの、あの驚くほどはじけたダンスが可能になるのだろう。これも古いCMではあるが。

 光は波であるのか粒子であるのかという問題は、二十世紀の量子力学によって解決を見るまで長いあいだ議論の的だった。ある物理学者が二つの光線が重なり合ったとき「干渉縞(かんしょうじま)」が出来ることを見出し、これは波に独特の現象であるので「光は波である」という説が有力となった。しかしアインシュタインが光が粒子としてふるまうことを証拠づける実験を行い、結論としては、光は時には波としてふるまい、時には粒子としてふるまう、ということになった。
 長いあいだ光が波であるという説が有力だったせいもあり、宇宙はエーテルという微細な粒子によって満たされていると考えられてきた。波というのは、何か波を伝える物質がなければ発生しえないと考えられていたからである。重力もエーテルの存在を支持していた。宇宙の星どうしは万有引力によって引き合うが、しかし昔にあっては力も完全な真空中を伝わるはずはないと考えられたからである。
 しかし今日ではエーテルなどというものは存在しないと信じられている。これは相対性理論の「光速度不変の原理」に関係している。地球上のA地点からB地点に向かう光線があったとき、地球自体が宇宙に充満するエーテルに対して動いており、エーテルが光を伝える媒質なのだから、そのとき地球がエーテルに対しどう動いているかによって、つまり時期によってAからBへ光が伝わる時間は異なるはずである。しかし光線の速さはいつも同じだった。これはエーテルが存在しない有力な証拠である。
 
 さて最近の若い人は統一教会を知らない人が増えてきているようで、教祖文鮮明が死んでますますこの傾向は強まっていくだろう。さて僕は学生時代、統一教会をひやかしに覗いていた時期があり、何人かの信者と仲良くなった。彼らによると、相対性理論は間違いということになるらしい。なぜなら、人間の霊魂はエーテルの世界にいると彼らは考えており、死後も霊魂となって永遠に生き続けるというのが彼らにとって極めて重要な信仰である以上、エーテルは存在しなければならないのである。おそらく統一教会と関係の深い工学者の深野一幸は、この相対性理論は間違いであるという説をTVの討論番組でぼそぼそと語った。それを聞いた物理学者の大槻義彦は驚いて「あなたそれが本当ならノーベル賞百個分に値しますよ」と言った。
 別にノーベル賞百個分の意外な考えのほうが真実でも構わないが、統一教会の人たちは恐ろしく世間に逆行した考えをしばしば開陳したものである。「今から十年後か二十年後には韓国語が世界共通語になるでしょう」とある女性信者が言ったのは、かれこれ二十年前のことである。

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執筆陣
HN:
快文書作成ユニット(仮)
自己紹介:
 各々が皆、此の侭座して野に埋もるるには余りに口惜しい、正に不世出の文芸家を自称しております次第。以下、【快文書館】(仮)が誇る精鋭を御紹介します。


 ❁ ntr 〜 またの名を中村震。小説、エッセイ、漢詩などを書きます。mixiでも活動。ふだん高校で数学を教えているため、数学や科学について書くこともあります。試験的にハヤカワ・ポケット・ブックSFのレビューを始めてみました。

 ❖ 呂仁為 Ⅱ 〜 昭和の想い出話や親しみやすい時代物、歴史小説などについて書きます。

 ✿ 流火-rjuka- ~ 主に漢詩の創作、訳詩などを行っています。架空言語による詩も今後作りたいと思っています。

 ☃ ちゅうごくさるなし
主に小説を書きます。気が向けば弟のカヲスな物語や、独り言呟きなことを書くかもしれません。

 ♘ ED-209ブログ引っ越しました。

 ☠ 杏仁ブルマ
セカイノハテから覗くモノ 



 我ら一同、只管に【快文書】を綴るのみ。お気に入りの本の頁をめくる感覚で、ゆるりとお楽しみ頂ければ僥倖に御座居ます。









 ※ 基本的に当ページはリンクフリーです。然し乍ら見易さ追求の為、相互には承っておりません。悪しからず御了承下さい。※







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