『読んで面白い』『検索で来てもガッカリさせない』『おまけに見やすい』以上、三カ条を掲げた〜快文書〜創作プロフェッショナル共が、心底読み手を意識した娯楽文芸エンターテイメントを提供。映画評論から小説、漢詩、アートまでなんでもアリ。嘗てのカルチャー雑誌を彷彿とさせるカオスなひと時を、是非、御笑覧下さいませ。
No.520
2011/12/19 (Mon) 18:59:29
先週、年の瀬の週末に、離れ離れに暮らす弟、妹たちと20年以上も前に亡くなった父親の墓参りに行った。
埼玉の郊外だが、空はやはり抜けるような蒼い空だった。
手分けをして、水を汲み墓石を垢をこすり線香に火を灯す。
一連の作業を兄弟で行うのはもう、何年振りか?と思いつつ、伸びた植木の剪定を行いながら弟、妹たちが幼かった時代を脳裏に描く。
公園墓地のため、各所に噴水や彫刻があり、行きは噴水、帰りには彫刻の前で妹が持ってきたデジカメ記念撮影。彫刻のタイトルは「不惑」とあった。帰りのバスで死んだ親父の思い出話をしながら互いの近況と暮らす土地の習慣の違い、風土の様子を語りながらJRの駅まで乗った。
親父の墓参をする時は墓前に焼酎かあるいは日本酒を備え、参った後に皆が飲み回し、大概妹が最後に飲み干す。
勢いを駆って、駅の裏側にある昭和の頃からあるような暖簾の居酒屋に入る。
弟が最近、再発見したというその店は、かつて幼き頃親父に連れてこられて来た記憶があったそうな。
ハムカツ、厚揚げそしてきんぴら・・・瓶ビール2本頼んで席に着く。
出てきたきんぴらを観て、その太さが前述(影丸ときんぴらと浅草の項)のあの牛蒡の太さに良く似ていることに驚く。鉛筆大のその太さで切られたそのきんぴらは、親父の造ってくれたそれよりも辛くはなかったが旨かった。
幼かった弟たちを幼稚園まで送り迎えをしたこと、天気の良い日は50ccのバイクの後ろに乗せて連れていったこと・・・、深夜まで働いていた母親は当時からいつも機嫌が悪く、何かにつけて悪態をついていたとか。
齢、80になろうかという母親は「この夏は越せそうもない・・」と人騒がせなことを云いながら数十年も生きている。
人生とは皮肉の連続で、兄弟皆から好かれた父親が亡くなって20年以上の時が経つ。 憎まれっ子、世になんとかとはまさにそのことだ。
仕事があるからと弟は先に出て、妹と更にコップを交わす。上機嫌もいいところだ。小腹が空いて二人で駅の立ち食いでかき揚げ蕎麦をすする。
妹は数日の滞在で、クリスマスには家族が待つLAに帰らなければならない。
酔った勢いもあり、握手と抱擁に力が入りやや涙線も緩む。
「そんじゃ、達者で暮らせよ、あいつにもな」
あいつとは、昨年の夏に初めて来日した甥っ子のことだ。
こういうとき、人生は素敵だが残酷だ。
あと、何度こういう場面を迎えるのだろう?分かれて逢えなくしまった人々の顔が心の何処かに去来する。別にこれで妹と生き別れになる訳じゃない。
最近になって思うのだが、人生は変化の連続だ。いや、変化こそ人生最大の意味なのかもしれない・・・。希望と失望の連続、繰り返しだ。だが、変わって欲しくないモノや相手もあるし、自分の気持ちもある。
数年後にまた再開が叶ったとき、幼き妹、弟たちの姿を脳裏に描きながら、またきんぴらをつまみに一杯飲れるだろうか?とも思う。
東京の紅葉は12月が相応しい。
世間に名所と言われている山々は数あれど、それはその楽しみだ。普段、何げなく通勤や仕事で通る歩道や庭先、公園の片隅に東京ではなかなか興味深い紅葉を観ることができる。
この時期の銀杏など特にそうだ。
午前の陽光を浴びて、黄色くというより白っぽくさえ見える銀杏の葉を歩道で観たかと思うと、午後の3時近くの都心の谷間で残照に映える銀杏は黄金色でさえ見えてしまう。
画像は、たまたま通りかかった、麹町から赤坂へ抜ける途中の大久保公哀悼碑の傍らで撮った。付近には大きく太い木の中に、また大きな石の哀悼碑が建っている。見上げれば、ニューオータニだ。
こんな場所が此処にあるなんて知らなかったし、大久保利通がこの場所で暗殺されたなんて知らなかった。黄金色の葉はハラハラと光の中を舞い泳ぎ、いくつもいくつも優雅に残照を浴びて地面に堕ち、優雅な黄色い絨緞を人々の目に焼き付け、やがて土に還っていく。
今週は暮れの浅草や浅草橋、問屋街を何度か歩く機会に恵まれた。つくばエクスプレスが通り、スカイツリー需要で整備された国際通りには古くからのレコード屋もある。
何気にウインドを覗くと色の褪せたBeatles のLet It beのポスターが貼ってあり、数年前に出たアンソロジーかBBCライヴの宣伝ポスターなのだろう「伝説の余白を埋める最新盤登場!」などと、ビートルズの若い頃の写真のポスターが貼ってある。
浅草から江戸通りを日本橋方向に進んでいくと、蔵前から浅草橋界隈の玩具問屋の多いあたりに出る。そもそもこの辺りは、江戸城と浅草の区間に配した業種ごとの問屋が多く軒を連ねていた。簪や小間物、和装雑貨のような物を扱う問屋が、今の横山町、馬喰町あたりに多く玩具や革小物などが多かったのが蔵前から浅草寄りで浅草橋は季節飾りの店などが多かった。
昔、アパレルの現金問屋で働いていた頃は、クリスマスが終わると仕事納めの支度をし、正月飾りを買いに行くのが年の瀬の行事だった。
大掃除だの粗大ごみの詰め込みだの蛍光灯拭きなどが終わってから、壱萬円くらいの予算を預かってしめ縄や凧や門松を買いに行ってウインドに飾り、来る年も今年よりもより多くの客や売上、利益をもたらしてくれるようにと願い、納会をし、年を越す。帰りは薬研掘の縁日で自宅への土産を物色し、帰宅する。
そんなのどか過ぎる年の瀬を20代前半の頃は毎年送っていた。
数年ぶりに、かつて働いていた現金問屋街を通ってみる。
大型店舗規制法の見直しによって、地方に大きなSCが莫大な駐車スペースを伴って随所に建てられるようになって以来、この街の在り様も変貌した。
かつて戦前からあったような、長屋のような問屋の一角・・・クリスマスや正月飾りは此処でしたものだったが・・・そんな面影はなくマンションになっている。
地方から仕入れに出てきた商店街のショップの経営者は、現金取引を前提に売れ筋、流行りのアイテムを仕入れていく。段ボール数ケースになる場合もあれば、茶色い紙の包装紙でバッグ一つ分のような場合もあるが、お届けと言って荷物の集積所、お気に入りの問屋を皆作っていて「●×に持っていって」とか「なんとか商事に届けておいて」などと言われ、大福帳みたいな帳面と包みを持って「●△ですが新潟の◎△堂さんのお荷物お届けにあがりました」などと言って荷物を差し出して、大福帳にサインをしてもらう。これを「お届け」云った。
帰りは立ち食いそばでおやつにするか、立ち読みでサボった思い出がある。
そんな届け物をした問屋たちは皆、ファミレスやファストフードかコンビニになっている。20年も前はこんなに食べ物やもなかったのに・・・と思いながら自分が居た問屋の店先を訪ねた。
数年ぶりに見る顔、中には数十年ぶりに顔を観る奴もいる。「お、暫くだな。聞いた声がすると思ったら・・・」などと声をかけられ「そっちこそ、すっかり爺いだな。元気そうだな」と返すと「いや、そうでもない。先月脳腫瘍で手術したばかりだ、大変だったんだぜ・・」「ふうん、悪い脳みそと一緒に悪い根性も摘出して貰えりゃもっと良かったのにな!」「相変わらず、口が悪いな」などと持ち前の毒舌の応酬を披露し、かつて数軒あった営業拠点も今はそこ1か所だけになり人員も減り大幅に縮小されてしまった。
「あの頃と今じゃ、この仕事に就いてる歓びも感動も違う、データや在庫の事ばかり気にして『頑張ろう!日本!!』などと紙に書いて貼ったところで景気が良くなる訳じゃない。画面やデータや管理されることにしか存在意義を持たないからやっていても面白くはないだろう?」などと無情な問いかけをしたら、かつての後輩は「為になります・・」と言いながら口をつぐんでしまった。ひとしきり、昔話をして「また来るから・・」と外に出た。
伝説の余白はビートルズならCDで埋まるのかも知らないが、残照の記憶の隙間は誰も埋めてくれない。
実家にはコロンビアの真空管式の大きな家具調ステレオがあった。
幼き頃は「コーヒー・ルンバ」だの「ワシントン広場の夜はふけて」などを聞かされたが、中学に入りビートルズ観賞の必需品ともなった。
やがて、妹のピアノを置くスペースがないとの理由から捨てられてしまった。
今では、ガムくらいのMP3で好きな音楽もビートルズも聴けるが、昔はLPのジャケットからスリーブ袋ごと出して、親指と中指を巧みに使ってターンテーブルに載せる・・・音楽一つ聴くにしても儀式めいたプロセスが必要だった。
黒地に4つの顔写真が配されたLET IT BEでも聴いてみよう。
記憶を埋めきることはできずとも、回顧の糧とはなるだろうから・・・・。
(c)2011 Ronnie Ⅱ , all rights reserved.
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埼玉の郊外だが、空はやはり抜けるような蒼い空だった。
手分けをして、水を汲み墓石を垢をこすり線香に火を灯す。
一連の作業を兄弟で行うのはもう、何年振りか?と思いつつ、伸びた植木の剪定を行いながら弟、妹たちが幼かった時代を脳裏に描く。
公園墓地のため、各所に噴水や彫刻があり、行きは噴水、帰りには彫刻の前で妹が持ってきたデジカメ記念撮影。彫刻のタイトルは「不惑」とあった。帰りのバスで死んだ親父の思い出話をしながら互いの近況と暮らす土地の習慣の違い、風土の様子を語りながらJRの駅まで乗った。
親父の墓参をする時は墓前に焼酎かあるいは日本酒を備え、参った後に皆が飲み回し、大概妹が最後に飲み干す。
勢いを駆って、駅の裏側にある昭和の頃からあるような暖簾の居酒屋に入る。
弟が最近、再発見したというその店は、かつて幼き頃親父に連れてこられて来た記憶があったそうな。
ハムカツ、厚揚げそしてきんぴら・・・瓶ビール2本頼んで席に着く。
出てきたきんぴらを観て、その太さが前述(影丸ときんぴらと浅草の項)のあの牛蒡の太さに良く似ていることに驚く。鉛筆大のその太さで切られたそのきんぴらは、親父の造ってくれたそれよりも辛くはなかったが旨かった。
幼かった弟たちを幼稚園まで送り迎えをしたこと、天気の良い日は50ccのバイクの後ろに乗せて連れていったこと・・・、深夜まで働いていた母親は当時からいつも機嫌が悪く、何かにつけて悪態をついていたとか。
齢、80になろうかという母親は「この夏は越せそうもない・・」と人騒がせなことを云いながら数十年も生きている。
人生とは皮肉の連続で、兄弟皆から好かれた父親が亡くなって20年以上の時が経つ。 憎まれっ子、世になんとかとはまさにそのことだ。
仕事があるからと弟は先に出て、妹と更にコップを交わす。上機嫌もいいところだ。小腹が空いて二人で駅の立ち食いでかき揚げ蕎麦をすする。
妹は数日の滞在で、クリスマスには家族が待つLAに帰らなければならない。
酔った勢いもあり、握手と抱擁に力が入りやや涙線も緩む。
「そんじゃ、達者で暮らせよ、あいつにもな」
あいつとは、昨年の夏に初めて来日した甥っ子のことだ。
こういうとき、人生は素敵だが残酷だ。
あと、何度こういう場面を迎えるのだろう?分かれて逢えなくしまった人々の顔が心の何処かに去来する。別にこれで妹と生き別れになる訳じゃない。
最近になって思うのだが、人生は変化の連続だ。いや、変化こそ人生最大の意味なのかもしれない・・・。希望と失望の連続、繰り返しだ。だが、変わって欲しくないモノや相手もあるし、自分の気持ちもある。
数年後にまた再開が叶ったとき、幼き妹、弟たちの姿を脳裏に描きながら、またきんぴらをつまみに一杯飲れるだろうか?とも思う。
東京の紅葉は12月が相応しい。
世間に名所と言われている山々は数あれど、それはその楽しみだ。普段、何げなく通勤や仕事で通る歩道や庭先、公園の片隅に東京ではなかなか興味深い紅葉を観ることができる。
この時期の銀杏など特にそうだ。
午前の陽光を浴びて、黄色くというより白っぽくさえ見える銀杏の葉を歩道で観たかと思うと、午後の3時近くの都心の谷間で残照に映える銀杏は黄金色でさえ見えてしまう。
画像は、たまたま通りかかった、麹町から赤坂へ抜ける途中の大久保公哀悼碑の傍らで撮った。付近には大きく太い木の中に、また大きな石の哀悼碑が建っている。見上げれば、ニューオータニだ。
こんな場所が此処にあるなんて知らなかったし、大久保利通がこの場所で暗殺されたなんて知らなかった。黄金色の葉はハラハラと光の中を舞い泳ぎ、いくつもいくつも優雅に残照を浴びて地面に堕ち、優雅な黄色い絨緞を人々の目に焼き付け、やがて土に還っていく。
今週は暮れの浅草や浅草橋、問屋街を何度か歩く機会に恵まれた。つくばエクスプレスが通り、スカイツリー需要で整備された国際通りには古くからのレコード屋もある。
何気にウインドを覗くと色の褪せたBeatles のLet It beのポスターが貼ってあり、数年前に出たアンソロジーかBBCライヴの宣伝ポスターなのだろう「伝説の余白を埋める最新盤登場!」などと、ビートルズの若い頃の写真のポスターが貼ってある。
浅草から江戸通りを日本橋方向に進んでいくと、蔵前から浅草橋界隈の玩具問屋の多いあたりに出る。そもそもこの辺りは、江戸城と浅草の区間に配した業種ごとの問屋が多く軒を連ねていた。簪や小間物、和装雑貨のような物を扱う問屋が、今の横山町、馬喰町あたりに多く玩具や革小物などが多かったのが蔵前から浅草寄りで浅草橋は季節飾りの店などが多かった。
昔、アパレルの現金問屋で働いていた頃は、クリスマスが終わると仕事納めの支度をし、正月飾りを買いに行くのが年の瀬の行事だった。
大掃除だの粗大ごみの詰め込みだの蛍光灯拭きなどが終わってから、壱萬円くらいの予算を預かってしめ縄や凧や門松を買いに行ってウインドに飾り、来る年も今年よりもより多くの客や売上、利益をもたらしてくれるようにと願い、納会をし、年を越す。帰りは薬研掘の縁日で自宅への土産を物色し、帰宅する。
そんなのどか過ぎる年の瀬を20代前半の頃は毎年送っていた。
数年ぶりに、かつて働いていた現金問屋街を通ってみる。
大型店舗規制法の見直しによって、地方に大きなSCが莫大な駐車スペースを伴って随所に建てられるようになって以来、この街の在り様も変貌した。
かつて戦前からあったような、長屋のような問屋の一角・・・クリスマスや正月飾りは此処でしたものだったが・・・そんな面影はなくマンションになっている。
地方から仕入れに出てきた商店街のショップの経営者は、現金取引を前提に売れ筋、流行りのアイテムを仕入れていく。段ボール数ケースになる場合もあれば、茶色い紙の包装紙でバッグ一つ分のような場合もあるが、お届けと言って荷物の集積所、お気に入りの問屋を皆作っていて「●×に持っていって」とか「なんとか商事に届けておいて」などと言われ、大福帳みたいな帳面と包みを持って「●△ですが新潟の◎△堂さんのお荷物お届けにあがりました」などと言って荷物を差し出して、大福帳にサインをしてもらう。これを「お届け」云った。
帰りは立ち食いそばでおやつにするか、立ち読みでサボった思い出がある。
そんな届け物をした問屋たちは皆、ファミレスやファストフードかコンビニになっている。20年も前はこんなに食べ物やもなかったのに・・・と思いながら自分が居た問屋の店先を訪ねた。
数年ぶりに見る顔、中には数十年ぶりに顔を観る奴もいる。「お、暫くだな。聞いた声がすると思ったら・・・」などと声をかけられ「そっちこそ、すっかり爺いだな。元気そうだな」と返すと「いや、そうでもない。先月脳腫瘍で手術したばかりだ、大変だったんだぜ・・」「ふうん、悪い脳みそと一緒に悪い根性も摘出して貰えりゃもっと良かったのにな!」「相変わらず、口が悪いな」などと持ち前の毒舌の応酬を披露し、かつて数軒あった営業拠点も今はそこ1か所だけになり人員も減り大幅に縮小されてしまった。
「あの頃と今じゃ、この仕事に就いてる歓びも感動も違う、データや在庫の事ばかり気にして『頑張ろう!日本!!』などと紙に書いて貼ったところで景気が良くなる訳じゃない。画面やデータや管理されることにしか存在意義を持たないからやっていても面白くはないだろう?」などと無情な問いかけをしたら、かつての後輩は「為になります・・」と言いながら口をつぐんでしまった。ひとしきり、昔話をして「また来るから・・」と外に出た。
伝説の余白はビートルズならCDで埋まるのかも知らないが、残照の記憶の隙間は誰も埋めてくれない。
実家にはコロンビアの真空管式の大きな家具調ステレオがあった。
幼き頃は「コーヒー・ルンバ」だの「ワシントン広場の夜はふけて」などを聞かされたが、中学に入りビートルズ観賞の必需品ともなった。
やがて、妹のピアノを置くスペースがないとの理由から捨てられてしまった。
今では、ガムくらいのMP3で好きな音楽もビートルズも聴けるが、昔はLPのジャケットからスリーブ袋ごと出して、親指と中指を巧みに使ってターンテーブルに載せる・・・音楽一つ聴くにしても儀式めいたプロセスが必要だった。
黒地に4つの顔写真が配されたLET IT BEでも聴いてみよう。
記憶を埋めきることはできずとも、回顧の糧とはなるだろうから・・・・。
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No.518
2011/12/17 (Sat) 09:28:50
真冬の晴天が続く。
この時間にオフィスに帰っても、見上げる空は抜けるほど蒼い。
午前中は世田谷に仕事で行っていた。用事を済ませて東急世田谷線・・・まるで都電の兄貴みたいな電車だが・・・に乗って世田谷で降り、帰りは若林まで銀杏並木の舗道を歩きながら、古道具やらアンティークやら、ついでにブックオフまで覗きながら松陰神社の前を通って、若林から三現茶屋まで世田谷線で戻った。
三現茶屋は10年以上も前に、小生にいろんなことを教えてくれた義兄が入院していた病院がある。義兄は既に鬼籍に入ってしまったが。
北陸に住んだ頃、義兄の入退院を聞いて数度訪ねたこの街は、通りや街の趣はさほど変わらないが、立ち並んだ店にはやはり店舗寿命と言うかサイクルがあるようだ。 駅の傍のSEIYUにも入ってみた。10年以上も前に覗いた時にはもっとそれらしい売り場だったのに・・とも思う。イトーヨーカ堂と並んでSEIYUも高度成長期の昭和40年代にはかなりの出店攻勢をかけていた。ダイエーがローソン、ヨーカ堂がセブン・イレブン、西友(西武)がファミリー・マート・・・。
高度成長期に有効であった広い売り場はやがて、己が生み出したコンビニエンス・ストアによって食い荒らされ、活気のあった売り場からは従業員も客の姿も消え、売り場を閉じるか極端な人員削減によって、息も絶え絶えで生きていく。
手間のかかるディスプレイなどなく、平台とハンギングできるラックだけだ。
いいものか着たいものかも分からない、魅せられない。
レジに列ができていたのは、孫にクリスマスの玩具を買い求める年寄りと食品レジだけだった。
なんとなく、かつての面影を求めて通りを歩いたが「確か此処にあった古本屋で影丸を求めたはずだが・・」と言う店は煙草屋になっていたり、個性的なクロージングを提供していたような店はリサイクルショップに変わっていた。
リサイクルや古道具屋と言うのは意外と面白い。
品揃えのセンスや陳列にもよるのだろうが、バラエティも個性も両立していて飽きない店が多い。古着屋の割に高いのが難点だが。
かつては、ファッションとかアパレルとか持て囃された時代があったし、デパートの売り子にも憧れた時代があった。
スーパーの売り場に魅力がないのはアメリカの管理の仕方を学び過ぎて、日本のマーケットのリサーチを忘れ、しかもそのリサーチした情報も顧客第一主義と言いながら置き去りにしてしまった
戦略が取り返しのつかないミスだったんだろう。
たとえば、いつもと違う電車に乗り、違う町の現場へ出かけても同じような黒いダウンを車内で何割くらいの人が着てるか?年齢だと?男女比は?ルーズに着てる?ぴったり目?それとももっと違う何か?背中にロゴが入ってるとか・・・?こんな情報を自らの目で得ていたとする。
自分の店で並んでいるモノや、自店に来店する客はどんな黒いダウンを着ているのだろう?ユニクロばっかりか?・・・こんなことを楽しみながら自店の仕入れやディスプレイを考えているような店ってきっと楽しいだろう。
昔は自分もそうだった。
そんなこと考えたって仕方ない・・・PCの画面にかじりついてゲーム機みたいなスキャナーで在庫を取って本部の云う事を聞くだけさ・・。
今はどこでもそうだろう。合理化省力化の名のもとに現地現場、現物なんて言わないのかもしれない。
だが、こんな時代だからこそ他にない楽しみを求める時代でもある。
世田谷の銀杏の落葉は世相を嘲笑うかの如く、真っ黄色で鮮やかだった。
(c)2011 Ronnie Ⅱ , all rights reserved.
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この時間にオフィスに帰っても、見上げる空は抜けるほど蒼い。
午前中は世田谷に仕事で行っていた。用事を済ませて東急世田谷線・・・まるで都電の兄貴みたいな電車だが・・・に乗って世田谷で降り、帰りは若林まで銀杏並木の舗道を歩きながら、古道具やらアンティークやら、ついでにブックオフまで覗きながら松陰神社の前を通って、若林から三現茶屋まで世田谷線で戻った。
三現茶屋は10年以上も前に、小生にいろんなことを教えてくれた義兄が入院していた病院がある。義兄は既に鬼籍に入ってしまったが。
北陸に住んだ頃、義兄の入退院を聞いて数度訪ねたこの街は、通りや街の趣はさほど変わらないが、立ち並んだ店にはやはり店舗寿命と言うかサイクルがあるようだ。 駅の傍のSEIYUにも入ってみた。10年以上も前に覗いた時にはもっとそれらしい売り場だったのに・・とも思う。イトーヨーカ堂と並んでSEIYUも高度成長期の昭和40年代にはかなりの出店攻勢をかけていた。ダイエーがローソン、ヨーカ堂がセブン・イレブン、西友(西武)がファミリー・マート・・・。
高度成長期に有効であった広い売り場はやがて、己が生み出したコンビニエンス・ストアによって食い荒らされ、活気のあった売り場からは従業員も客の姿も消え、売り場を閉じるか極端な人員削減によって、息も絶え絶えで生きていく。
手間のかかるディスプレイなどなく、平台とハンギングできるラックだけだ。
いいものか着たいものかも分からない、魅せられない。
レジに列ができていたのは、孫にクリスマスの玩具を買い求める年寄りと食品レジだけだった。
なんとなく、かつての面影を求めて通りを歩いたが「確か此処にあった古本屋で影丸を求めたはずだが・・」と言う店は煙草屋になっていたり、個性的なクロージングを提供していたような店はリサイクルショップに変わっていた。
リサイクルや古道具屋と言うのは意外と面白い。
品揃えのセンスや陳列にもよるのだろうが、バラエティも個性も両立していて飽きない店が多い。古着屋の割に高いのが難点だが。
かつては、ファッションとかアパレルとか持て囃された時代があったし、デパートの売り子にも憧れた時代があった。
スーパーの売り場に魅力がないのはアメリカの管理の仕方を学び過ぎて、日本のマーケットのリサーチを忘れ、しかもそのリサーチした情報も顧客第一主義と言いながら置き去りにしてしまった
戦略が取り返しのつかないミスだったんだろう。
たとえば、いつもと違う電車に乗り、違う町の現場へ出かけても同じような黒いダウンを車内で何割くらいの人が着てるか?年齢だと?男女比は?ルーズに着てる?ぴったり目?それとももっと違う何か?背中にロゴが入ってるとか・・・?こんな情報を自らの目で得ていたとする。
自分の店で並んでいるモノや、自店に来店する客はどんな黒いダウンを着ているのだろう?ユニクロばっかりか?・・・こんなことを楽しみながら自店の仕入れやディスプレイを考えているような店ってきっと楽しいだろう。
昔は自分もそうだった。
そんなこと考えたって仕方ない・・・PCの画面にかじりついてゲーム機みたいなスキャナーで在庫を取って本部の云う事を聞くだけさ・・。
今はどこでもそうだろう。合理化省力化の名のもとに現地現場、現物なんて言わないのかもしれない。
だが、こんな時代だからこそ他にない楽しみを求める時代でもある。
世田谷の銀杏の落葉は世相を嘲笑うかの如く、真っ黄色で鮮やかだった。
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No.517
2011/12/16 (Fri) 14:08:27
職場から見える街路樹も、つい先日までは赤々とした葉を優雅に舞い落していたのに、すっかり、葉が落ち寂しげな真冬の景色となった。
しばらくは外で携帯を持つ手もかじかむような寒さだから致し方ない。
「山本五十六」がまた、映画化されて公開するのだという。役所広司の主演らしいけど。
ウィキペディアで検索してみれば、山本五十六を最も多く演じたのはかの三船敏郎その人である。
連合艦隊司令長官の役があれほど決まった役者も居ないと思うが、他にもはまり役は三船プロの威信をかけて制作された大河時代ドラマ「大忠臣蔵」の大石内蔵助。
すでに討ち入りの12月14日は過ぎてしまったが、クリスマスだイルミネーションだと楽しい光りものばかりを尊ぶ現代の風潮にあって、忠臣蔵だの真珠湾攻撃の日だのって忘れられない史実の一片だと思う。
youtubeを探せば、「南部坂の別れ」はすぐに出てくるので視聴環境があるなら是非、御勧めの昭和時代劇の名場面・・・泣かせるシーンの凝縮が其処に散りばめられている。
討ち入りの日の迫った師走に、浅野家の奥方、遥泉院の実家(赤坂氷川神社の脇に南部坂はまだあるが)に廃藩となる折の会計報告にと適当な項目で挨拶に出向く。仇討こそ本懐と願い続けている遥泉院は「ついに来たか?」とばかりに内蔵助を出迎えるが、「いや、仇討などは諦めました。山科へ戻って百姓などをしながら余生を・・・」などと答えるものだからあてが外れた彼女は憤懣やる瀬なく三船敏郎演ずる内蔵助を散々に詰る。
実は、この時、吉良方の間者が潜んでいることを視野に入れ、最期の大芝居を亡き主君の奥方に打つのである。
「亡き殿の遺影に・・」と四十七士の連判状を仏壇にそっと置き引き上げる。内蔵助が去ってのち、その連判状に気付いた遥泉院はおのれの思慮深さと内蔵助の報恩の決意にうなだれる・・・。
この時の遥泉院は佐久間良子が演じていたが、どちらの演技も誠に素晴らしい。 しゃあしゃあと、口上を述べる三船敏郎はこの頃油も乗り切っていて素晴らしい。 「レッドサン」の黒田重兵衛役もなかなか渋いが、この大石内蔵助こそ最高だ。声には出さぬとも「これこそがもののふの道」と言わんばかりの重厚な演技である。
世界のミフネにはアラン・ドロンも兄弟のように慕い、自らの香水「サムライ」は三船敏郎のイメージを踏襲させて造られたとも言うし、紳士服ダーバンのコマーシャル出演も三船敏郎がドロンに薦めたとも言われている。
「グランプリ」はマックイーンの「栄光のルマン」と並ぶレース映画の金字塔だが、劇中ではヤムラこと本田宗一郎をモデルにしたチームオーナー役をジェームズ・ガーナーを向こうに回して演じ切った。
小生の頭の中では、この「グランプリ」と「栄光のルマン」こそが、造られたモーターレーシングの世界を描いた中では秀逸過ぎて他に比肩のしようがない。勿論、ドキュメントとして描かれたものは別格だが。
先日、復元改修中の東京駅を通りがかった。江戸の末期から明治にかけて、そこに何があってどのようにして今の駅舎になっているかも、仮囲いに貼ってある様々な地図や写真や文献でおぼろげながら興味深い知識を得て帰ってきた。
わずか100年ちょっとの間に相当のスピードでインフラが進み、今の首都圏の大動脈として成り立ってきたのが良くわかる。
昭和には言うまでもなく大戦の前と後では大きく異なってくる。としても、占領下にあって点呼を受けながらの駅の朝礼やら、今では考えられない乗車券を買い求め故郷や疎開先へ向かう人の行列・・・。
スマホや携帯、パソコンなどなかった時代コミュニケーションの手段は数少なかったろうが、人と人の生業はもっと濃かったのだろう。
昨今の3Dなどの奇をてらった目の錯覚にも等しい仕掛けで欺くような映画は、当時は存在しなかったから、人間が等身大で演じる人の心の奥行きがそうさせた。機械や画面の小細工だけに拘らなかった。
大石内蔵助や山本五十六をはじめとする史実に存在した人々も含め、フィクションに登場する人物も自身が成し遂げるキャラクターの中で自在に演じて見せた。
暮れや大晦日や正月に豪華絢爛の時代劇をテレビで観ることはなくなった。
そういえば、TBSだったと思うが三船敏郎が島左近を演じた「関ヶ原」も忘れられない。高橋幸治演じる大谷吉継や加藤剛の石田三成、敵役の家康を演じた森重久弥、キャスト陣も素晴らしかったが、司馬遼太郎の原作も時代考証も骨太な脚本と相まって素晴らしい物語のベースとなったからだろう。
B29によって、大戦下で被爆炎上した東京駅は現代のテクノロジーと膨大な人々のたゆまぬ努力によって、やがて在りし日の姿を衆目に提供するだろう。
だが、我が心に大きな足跡を残した歴史の断片、三船敏郎が生涯をかけて演じたもののふの道は画面や画像の中でしか観ることはできない。
21世紀となってから既に10年以上が過ぎ去った。スカイツリーのような新しくて高い建物に目を奪われがちだが、東京駅の工事現場の仮囲いでふと10分かそこらも足を留めれば、懐かしい記憶の数々とこの国の辿った生業を感じることができる。
ただ、高い空から下を眺め降ろせばそれで済む・・・ということではあるまいと感じさせてくれる。
(c)2011 Ronnie Ⅱ , all rights reserved.
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しばらくは外で携帯を持つ手もかじかむような寒さだから致し方ない。
「山本五十六」がまた、映画化されて公開するのだという。役所広司の主演らしいけど。
ウィキペディアで検索してみれば、山本五十六を最も多く演じたのはかの三船敏郎その人である。
連合艦隊司令長官の役があれほど決まった役者も居ないと思うが、他にもはまり役は三船プロの威信をかけて制作された大河時代ドラマ「大忠臣蔵」の大石内蔵助。
すでに討ち入りの12月14日は過ぎてしまったが、クリスマスだイルミネーションだと楽しい光りものばかりを尊ぶ現代の風潮にあって、忠臣蔵だの真珠湾攻撃の日だのって忘れられない史実の一片だと思う。
youtubeを探せば、「南部坂の別れ」はすぐに出てくるので視聴環境があるなら是非、御勧めの昭和時代劇の名場面・・・泣かせるシーンの凝縮が其処に散りばめられている。
討ち入りの日の迫った師走に、浅野家の奥方、遥泉院の実家(赤坂氷川神社の脇に南部坂はまだあるが)に廃藩となる折の会計報告にと適当な項目で挨拶に出向く。仇討こそ本懐と願い続けている遥泉院は「ついに来たか?」とばかりに内蔵助を出迎えるが、「いや、仇討などは諦めました。山科へ戻って百姓などをしながら余生を・・・」などと答えるものだからあてが外れた彼女は憤懣やる瀬なく三船敏郎演ずる内蔵助を散々に詰る。
実は、この時、吉良方の間者が潜んでいることを視野に入れ、最期の大芝居を亡き主君の奥方に打つのである。
「亡き殿の遺影に・・」と四十七士の連判状を仏壇にそっと置き引き上げる。内蔵助が去ってのち、その連判状に気付いた遥泉院はおのれの思慮深さと内蔵助の報恩の決意にうなだれる・・・。
この時の遥泉院は佐久間良子が演じていたが、どちらの演技も誠に素晴らしい。 しゃあしゃあと、口上を述べる三船敏郎はこの頃油も乗り切っていて素晴らしい。 「レッドサン」の黒田重兵衛役もなかなか渋いが、この大石内蔵助こそ最高だ。声には出さぬとも「これこそがもののふの道」と言わんばかりの重厚な演技である。
世界のミフネにはアラン・ドロンも兄弟のように慕い、自らの香水「サムライ」は三船敏郎のイメージを踏襲させて造られたとも言うし、紳士服ダーバンのコマーシャル出演も三船敏郎がドロンに薦めたとも言われている。
「グランプリ」はマックイーンの「栄光のルマン」と並ぶレース映画の金字塔だが、劇中ではヤムラこと本田宗一郎をモデルにしたチームオーナー役をジェームズ・ガーナーを向こうに回して演じ切った。
小生の頭の中では、この「グランプリ」と「栄光のルマン」こそが、造られたモーターレーシングの世界を描いた中では秀逸過ぎて他に比肩のしようがない。勿論、ドキュメントとして描かれたものは別格だが。
先日、復元改修中の東京駅を通りがかった。江戸の末期から明治にかけて、そこに何があってどのようにして今の駅舎になっているかも、仮囲いに貼ってある様々な地図や写真や文献でおぼろげながら興味深い知識を得て帰ってきた。
わずか100年ちょっとの間に相当のスピードでインフラが進み、今の首都圏の大動脈として成り立ってきたのが良くわかる。
昭和には言うまでもなく大戦の前と後では大きく異なってくる。としても、占領下にあって点呼を受けながらの駅の朝礼やら、今では考えられない乗車券を買い求め故郷や疎開先へ向かう人の行列・・・。
スマホや携帯、パソコンなどなかった時代コミュニケーションの手段は数少なかったろうが、人と人の生業はもっと濃かったのだろう。
昨今の3Dなどの奇をてらった目の錯覚にも等しい仕掛けで欺くような映画は、当時は存在しなかったから、人間が等身大で演じる人の心の奥行きがそうさせた。機械や画面の小細工だけに拘らなかった。
大石内蔵助や山本五十六をはじめとする史実に存在した人々も含め、フィクションに登場する人物も自身が成し遂げるキャラクターの中で自在に演じて見せた。
暮れや大晦日や正月に豪華絢爛の時代劇をテレビで観ることはなくなった。
そういえば、TBSだったと思うが三船敏郎が島左近を演じた「関ヶ原」も忘れられない。高橋幸治演じる大谷吉継や加藤剛の石田三成、敵役の家康を演じた森重久弥、キャスト陣も素晴らしかったが、司馬遼太郎の原作も時代考証も骨太な脚本と相まって素晴らしい物語のベースとなったからだろう。
B29によって、大戦下で被爆炎上した東京駅は現代のテクノロジーと膨大な人々のたゆまぬ努力によって、やがて在りし日の姿を衆目に提供するだろう。
だが、我が心に大きな足跡を残した歴史の断片、三船敏郎が生涯をかけて演じたもののふの道は画面や画像の中でしか観ることはできない。
21世紀となってから既に10年以上が過ぎ去った。スカイツリーのような新しくて高い建物に目を奪われがちだが、東京駅の工事現場の仮囲いでふと10分かそこらも足を留めれば、懐かしい記憶の数々とこの国の辿った生業を感じることができる。
ただ、高い空から下を眺め降ろせばそれで済む・・・ということではあるまいと感じさせてくれる。
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執筆陣
HN:
快文書作成ユニット(仮)
自己紹介:
各々が皆、此の侭座して野に埋もるるには余りに口惜しい、正に不世出の文芸家を自称しております次第。以下、【快文書館】(仮)が誇る精鋭を御紹介します。
❁ ntr 〜 またの名を中村震。小説、エッセイ、漢詩などを書きます。mixiでも活動。ふだん高校で数学を教えているため、数学や科学について書くこともあります。試験的にハヤカワ・ポケット・ブックSFのレビューを始めてみました。
❖ 呂仁為 Ⅱ 〜 昭和の想い出話や親しみやすい時代物、歴史小説などについて書きます。
✿ 流火-rjuka- ~ 主に漢詩の創作、訳詩などを行っています。架空言語による詩も今後作りたいと思っています。
☃ ちゅうごくさるなし
主に小説を書きます。気が向けば弟のカヲスな物語や、独り言呟きなことを書くかもしれません。
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☠ 杏仁ブルマ
セカイノハテから覗くモノ
我ら一同、只管に【快文書】を綴るのみ。お気に入りの本の頁をめくる感覚で、ゆるりとお楽しみ頂ければ僥倖に御座居ます。
※ 基本的に当ページはリンクフリーです。然し乍ら見易さ追求の為、相互には承っておりません。悪しからず御了承下さい。※
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