『読んで面白い』『検索で来てもガッカリさせない』『おまけに見やすい』以上、三カ条を掲げた〜快文書〜創作プロフェッショナル共が、心底読み手を意識した娯楽文芸エンターテイメントを提供。映画評論から小説、漢詩、アートまでなんでもアリ。嘗てのカルチャー雑誌を彷彿とさせるカオスなひと時を、是非、御笑覧下さいませ。
No.437
2011/05/23 (Mon) 23:45:24
休日、温水プールでひと泳ぎした帰り、Kは通ったことのない道を通った。見たことのない公園、馴染みのない居酒屋、初めて通る小さなトンネル。
「平衡律研究所」。そんな看板のかかった、トタン屋根のさびれた工場が目についた。入口が開け放たれて、中は真っ暗だった。入口の上の隅には、大きな蜘蛛の巣がかかっている。
万力だの丸ノコだの電気ドリルだのが雑然とのっかった台が奥に見えた。白く細長いものが床に落ちているのが見えた。よく見ると、それは計算尺だった。今の社会ではほとんど無用の道具となっているこの計算尺というものに、Kはなんとなく愛着を感じていたから、歩み寄ってそれを拾い上げた。 暗い工場の中でしばらくそれをいじくっているうち、だんだん暗闇に目が慣れてきて、壁に「予定表」と書かれた大きな紙が貼ってあるのに気がついた。一九××年何々、二〇××年何々と、かなり長期にわたる予定表のようだった。その大部分が、すでに過去となっていた。Kはそれを読むうちに思わず頬がゆるみ、笑みが浮かんできた。おそらく大部分が達成されなかったであろう予定ばかりだったからである。いわく、
一九××年 平衡律の研究により○○大学より博士号を授与される。
一九××年 平衡律誘導装置の開発により特許を得、○○社より商品化、特許料により巨万の富を得て数百の棟よりなる研究開発施設を設置。
二〇××年 平衡律誘導装置の改良により宇宙旅行が飛躍的に進歩し、人類初の恒星間飛行が実現。
二〇××年 自ら宇宙船に乗り込み人類未踏の恒星系を探検。(異星人と出会った場合を考え万能翻訳装置の開発が必要)
この工場の主は、しばしば巷に見られるような野心的な発明家を通り越し、誇大妄想狂になってしまったのかも知れない。
その予定表の近くの作業台に、小さな天秤が置かれているのに気がついた。そのそばには、いろいろな大きさの丸い錘(おもり)があった。Kは天秤の二つの皿に、錘をのせてみた。大小の錘で調節して、二つの皿がつりあうようにした。両側の皿は同じ高さになって、静止した。とくに何も起こらない。工場の中はひっそりしていた。
「何かご用ですか」と、工場の入り口から声がした。Kが振り返ると、この古い工場には似つかわしからぬ、さっぱりした身なりの若い男が立っていた。ここの持ち主だろう。
「すみません」あわててKは言ったが、なぜ勝手に入り込んだのかをどう説明しようか迷いつつ「いや、たまたま通りかかったのですが、機械類や、またあの予定表にも興味をひかれまして」
「ああ、あの表。恥ずかしいから外そうと思っていたんですよ」若い男は苦笑して言った。
「あの、ここは平衡律研究所ということですが、平衡律というのは何ですか」Kは尋ねた。
「私もよく知らないのです。ここは父の工場だったのですが、父はだいぶ前に死にました。死んだのは、一九××年です」
その年は、予定表にある最初の年よりも前だった。
「死ぬすこし前に、大発見をしたと言って喜んでいました。それがあの平衡律というやつです。工場の名前も『平衡律研究所』にしてしまいました」
「そんなすごい発明をしたというのに、その内容は聞かされなかったのですか」
「父の発明熱はそれよりだいぶ前から始まっていましたから。いつも役に立たない、あるいは実現不可能な発明の話を聞かされ、家族も相手にしなくなっていました。ここも初めはネジなんかを作る工場だったんですが、だんだん発明専門みたいになってきましてね」
Kはこの工場の主のことが、すこし哀れに思えてきた。
「この敷地は売るんですよ。明日、この工場を取り壊します」若い男が言った。
Kはもう一度勝手に入り込んだことを詫びてから、工場を立ち去った。立ち去り際もう一度、あの予定表と、静かにつりあって動かない天秤に目をやった。
二人が工場を去ったあと、天秤の二つの皿に変化が現れた。右の皿の錘は紫の光、左の皿の錘は緑の光を発して輝きだした。やがて二つの光は目もくらむような閃光となり、おもむろに工場の機械類がぶーんとうなって動き出した。工場の床下で巨大な歯車が回転し始め、地中に隠れていた噴射口が轟然と火を噴いた。平衡律研究所は、その建物ごと空へ飛び立った。そのまま大気圏を脱出、地球の周回軌道を離脱するとワープしてアルファ・ケンタウリ星系に到着した。
しかし運悪くアルファ・ケンタウリ星人を多数乗せた宇宙船と衝突、百名の乗組員は全員死亡した。アルファ・ケンタウリ星人の地球への大々的な報復が始まったが、彼らが地球に近づくと、平衡律研究所跡の敷地から自動的に「平衡律ミサイル」が次々と発射され、まんまと敵の宇宙船団を全滅させた。
かくして訳が分からないながらも、いまだに地球の平和は続いている。
(筆者による文芸社刊『無限ホテル』所収の「平均律」を改作)
(c) 2011 ntr ,all rights reserved.
「平衡律研究所」。そんな看板のかかった、トタン屋根のさびれた工場が目についた。入口が開け放たれて、中は真っ暗だった。入口の上の隅には、大きな蜘蛛の巣がかかっている。
万力だの丸ノコだの電気ドリルだのが雑然とのっかった台が奥に見えた。白く細長いものが床に落ちているのが見えた。よく見ると、それは計算尺だった。今の社会ではほとんど無用の道具となっているこの計算尺というものに、Kはなんとなく愛着を感じていたから、歩み寄ってそれを拾い上げた。 暗い工場の中でしばらくそれをいじくっているうち、だんだん暗闇に目が慣れてきて、壁に「予定表」と書かれた大きな紙が貼ってあるのに気がついた。一九××年何々、二〇××年何々と、かなり長期にわたる予定表のようだった。その大部分が、すでに過去となっていた。Kはそれを読むうちに思わず頬がゆるみ、笑みが浮かんできた。おそらく大部分が達成されなかったであろう予定ばかりだったからである。いわく、
一九××年 平衡律の研究により○○大学より博士号を授与される。
一九××年 平衡律誘導装置の開発により特許を得、○○社より商品化、特許料により巨万の富を得て数百の棟よりなる研究開発施設を設置。
二〇××年 平衡律誘導装置の改良により宇宙旅行が飛躍的に進歩し、人類初の恒星間飛行が実現。
二〇××年 自ら宇宙船に乗り込み人類未踏の恒星系を探検。(異星人と出会った場合を考え万能翻訳装置の開発が必要)
この工場の主は、しばしば巷に見られるような野心的な発明家を通り越し、誇大妄想狂になってしまったのかも知れない。
その予定表の近くの作業台に、小さな天秤が置かれているのに気がついた。そのそばには、いろいろな大きさの丸い錘(おもり)があった。Kは天秤の二つの皿に、錘をのせてみた。大小の錘で調節して、二つの皿がつりあうようにした。両側の皿は同じ高さになって、静止した。とくに何も起こらない。工場の中はひっそりしていた。
「何かご用ですか」と、工場の入り口から声がした。Kが振り返ると、この古い工場には似つかわしからぬ、さっぱりした身なりの若い男が立っていた。ここの持ち主だろう。
「すみません」あわててKは言ったが、なぜ勝手に入り込んだのかをどう説明しようか迷いつつ「いや、たまたま通りかかったのですが、機械類や、またあの予定表にも興味をひかれまして」
「ああ、あの表。恥ずかしいから外そうと思っていたんですよ」若い男は苦笑して言った。
「あの、ここは平衡律研究所ということですが、平衡律というのは何ですか」Kは尋ねた。
「私もよく知らないのです。ここは父の工場だったのですが、父はだいぶ前に死にました。死んだのは、一九××年です」
その年は、予定表にある最初の年よりも前だった。
「死ぬすこし前に、大発見をしたと言って喜んでいました。それがあの平衡律というやつです。工場の名前も『平衡律研究所』にしてしまいました」
「そんなすごい発明をしたというのに、その内容は聞かされなかったのですか」
「父の発明熱はそれよりだいぶ前から始まっていましたから。いつも役に立たない、あるいは実現不可能な発明の話を聞かされ、家族も相手にしなくなっていました。ここも初めはネジなんかを作る工場だったんですが、だんだん発明専門みたいになってきましてね」
Kはこの工場の主のことが、すこし哀れに思えてきた。
「この敷地は売るんですよ。明日、この工場を取り壊します」若い男が言った。
Kはもう一度勝手に入り込んだことを詫びてから、工場を立ち去った。立ち去り際もう一度、あの予定表と、静かにつりあって動かない天秤に目をやった。
二人が工場を去ったあと、天秤の二つの皿に変化が現れた。右の皿の錘は紫の光、左の皿の錘は緑の光を発して輝きだした。やがて二つの光は目もくらむような閃光となり、おもむろに工場の機械類がぶーんとうなって動き出した。工場の床下で巨大な歯車が回転し始め、地中に隠れていた噴射口が轟然と火を噴いた。平衡律研究所は、その建物ごと空へ飛び立った。そのまま大気圏を脱出、地球の周回軌道を離脱するとワープしてアルファ・ケンタウリ星系に到着した。
しかし運悪くアルファ・ケンタウリ星人を多数乗せた宇宙船と衝突、百名の乗組員は全員死亡した。アルファ・ケンタウリ星人の地球への大々的な報復が始まったが、彼らが地球に近づくと、平衡律研究所跡の敷地から自動的に「平衡律ミサイル」が次々と発射され、まんまと敵の宇宙船団を全滅させた。
かくして訳が分からないながらも、いまだに地球の平和は続いている。
(筆者による文芸社刊『無限ホテル』所収の「平均律」を改作)
(c) 2011 ntr ,all rights reserved.
PR
No.436
2011/05/23 (Mon) 23:43:54
「光彦、お仏壇にお水をあげてきて」台所で、昼食の用意をしていた母親が言った。
「はーい」光彦は小さな湯呑に水を汲んで、居間に持っていった。「向こうの天気はどうかな」
「晴れてるんじゃないかしら。でも、寒いだろうから、セーターを着ていきなさい」
光彦はセーターを着て、湯呑を手に持ち、仏壇の扉を開いた。
扉の向こうには、雪原が広がっていた。その上空は快晴で、雲ひとつなく真っ青だった。右手の、遠くのほうに、ブナ林が見えた。
「あんまり長居しちゃだめよ」
「ああ、すぐ帰ってくる」光彦は、小さな体を仏壇にもぐりこませ、雪原に降りた。突然広々とした世界に降り立った彼は、ぶるっと震えた。陽光を全身に浴びてはいたが、かなり寒かったのだ。この雪原の世界からは、彼の今通ってきた、こちらへの入り口の跡は、何も見えない。ただ何もない空間が、広がっているだけ。しかし目に見えなくとも、仏壇の縁に手を触れることはできる。そこで光彦は、ハンカチを取り出して、雪の中に半分だけ埋め、元の世界に戻るための目印にした。赤いハンカチが、遠くからでもよく見えるだろう。少年は目を細めて、周囲を見渡した。どこまでも平坦な、まばゆいばかりの雪景色。そして、この世界で唯一、白くも青くもない、茶色のブナ林に向かって歩き出した。
ブナ林の中に、彼の父の墓所がある。そこへ行って水を供えるのが、光彦の日課だった。
光彦は湯呑を手に、黙々と歩いた。しかし、林にはなかなか近づかなかった。林との距離は、縮まる気配をまったく見せなかった。光彦は汗だくになった顔をあげて、言った。
「父さん、意地悪はやめて」
すると、ブナ林がパッと近くに現れた。光彦は安心して、ひとつため息をつき、林の中に入っていった。そして、林の真ん中に位置する祠に水を供えて、すぐにもと来た道を引き返し始めた。が、今度はなかなか林から出られない。なんだか、ブナの木がさっきより多くなった感じだ。
「ごめん。長居できないんだ」すると、光彦の周りから木々が消え失せた。「赤いハンカチが埋めてある所まで運んでいってくれると、嬉しいんだけど」
しかし、彼がそう言ったとたんに、周囲の雪の色がすべて真っ赤になった。見わたす限り赤色になった雪原は、気味の悪いものだった。
「目印が分からなくなったから、連れてゆけないって言うつもりかい。もういいよ、自分で探すから」少年はそう言って、歩き出した。すると、雪は元通りの白になった。
「ありがとう」
しばらく歩くと、光彦の目の前に、大きな木造の家が現れた。扉がひとりでに開く。彼は立ち止まった。
「この家に住めって言うの。駄目だ、早く帰らないと母さんが心配する」
すると家が、ミシッミシッという音を立てて、少しづつ動き始めた。やがて家は、回転運動を始めた。それはだんだんと速さを増し、ぐるぐるぐるぐる、ものすごい勢いで家が回り始めた。
「なにしてるの。どうしたの、父さん」光彦の顔に不安の影がさした。
空が突然、黄緑色に変わった。真っ黒い雲が、どこからか次々と集まってきて、強い雨が降ってきた。雨に混じって、白くて丸いものが、たくさん落ちてきた。よく見ると、それは無数の人間の目玉だった。
「父さん。どうしたの。本当にどうかしたの」光彦の顔色は蒼白になっていた。帰れなくなるのではないか。そんな予感が、彼の頭をよぎった。
雨は、どんどん強くなっていった。広々とした雪原はもう見えず、あたりは灰色だった。地面は、雨でグシャグシャになり、だんだん茶色っぽくなっていった。
雨の中、光彦は走った。赤いハンカチを早く見つけないと、どういうことになるか。しかし、光彦は泥に足を取られ、倒れた。その瞬間に雨はやんだ。
周囲は一転して、大海原になっていた。空は快晴。光彦は、海に浮かんでいた。見わたす限りの海。陸地はない。
光彦は、大洋のうねりに、身をまかせていた。雲ひとつない青空のかなたで、太陽がギラギラと輝いている。彼は恐ろしくなった。少年は、体をあっちに運ばれこっちに流されしているうちに、気が遠くなっていった。
「光彦。光彦」母親が、かたわらから、彼を呼んでいる。光彦は、布団に横になっていた。助かったのだ。彼が目を開けると、母親は安心して、言った。「よかった……大丈夫なのね」
光彦は、居間に寝かせられていた。仏壇を見ると、扉は閉じられ、大きな錠前がかけられている。扉のすきまから、海草のようなものがはみ出し、仏壇のまわりは水で濡れていた。
「父さん、急におかしくなったんだ」光彦が言った。
「そうね……あのお仏壇は、とうぶん開けられないわ」
「父さん、また元気になるかな」光彦はそう言って、仏壇の閉ざされた扉を、じっと見つめた。いつまでも、いつまでも。
(筆者による文芸社刊『無限ホテル』所収の「静かな、広々とした」を改作)
(c) 2011 ntr ,all rights reserved.
「はーい」光彦は小さな湯呑に水を汲んで、居間に持っていった。「向こうの天気はどうかな」
「晴れてるんじゃないかしら。でも、寒いだろうから、セーターを着ていきなさい」
光彦はセーターを着て、湯呑を手に持ち、仏壇の扉を開いた。
扉の向こうには、雪原が広がっていた。その上空は快晴で、雲ひとつなく真っ青だった。右手の、遠くのほうに、ブナ林が見えた。
「あんまり長居しちゃだめよ」
「ああ、すぐ帰ってくる」光彦は、小さな体を仏壇にもぐりこませ、雪原に降りた。突然広々とした世界に降り立った彼は、ぶるっと震えた。陽光を全身に浴びてはいたが、かなり寒かったのだ。この雪原の世界からは、彼の今通ってきた、こちらへの入り口の跡は、何も見えない。ただ何もない空間が、広がっているだけ。しかし目に見えなくとも、仏壇の縁に手を触れることはできる。そこで光彦は、ハンカチを取り出して、雪の中に半分だけ埋め、元の世界に戻るための目印にした。赤いハンカチが、遠くからでもよく見えるだろう。少年は目を細めて、周囲を見渡した。どこまでも平坦な、まばゆいばかりの雪景色。そして、この世界で唯一、白くも青くもない、茶色のブナ林に向かって歩き出した。
ブナ林の中に、彼の父の墓所がある。そこへ行って水を供えるのが、光彦の日課だった。
光彦は湯呑を手に、黙々と歩いた。しかし、林にはなかなか近づかなかった。林との距離は、縮まる気配をまったく見せなかった。光彦は汗だくになった顔をあげて、言った。
「父さん、意地悪はやめて」
すると、ブナ林がパッと近くに現れた。光彦は安心して、ひとつため息をつき、林の中に入っていった。そして、林の真ん中に位置する祠に水を供えて、すぐにもと来た道を引き返し始めた。が、今度はなかなか林から出られない。なんだか、ブナの木がさっきより多くなった感じだ。
「ごめん。長居できないんだ」すると、光彦の周りから木々が消え失せた。「赤いハンカチが埋めてある所まで運んでいってくれると、嬉しいんだけど」
しかし、彼がそう言ったとたんに、周囲の雪の色がすべて真っ赤になった。見わたす限り赤色になった雪原は、気味の悪いものだった。
「目印が分からなくなったから、連れてゆけないって言うつもりかい。もういいよ、自分で探すから」少年はそう言って、歩き出した。すると、雪は元通りの白になった。
「ありがとう」
しばらく歩くと、光彦の目の前に、大きな木造の家が現れた。扉がひとりでに開く。彼は立ち止まった。
「この家に住めって言うの。駄目だ、早く帰らないと母さんが心配する」
すると家が、ミシッミシッという音を立てて、少しづつ動き始めた。やがて家は、回転運動を始めた。それはだんだんと速さを増し、ぐるぐるぐるぐる、ものすごい勢いで家が回り始めた。
「なにしてるの。どうしたの、父さん」光彦の顔に不安の影がさした。
空が突然、黄緑色に変わった。真っ黒い雲が、どこからか次々と集まってきて、強い雨が降ってきた。雨に混じって、白くて丸いものが、たくさん落ちてきた。よく見ると、それは無数の人間の目玉だった。
「父さん。どうしたの。本当にどうかしたの」光彦の顔色は蒼白になっていた。帰れなくなるのではないか。そんな予感が、彼の頭をよぎった。
雨は、どんどん強くなっていった。広々とした雪原はもう見えず、あたりは灰色だった。地面は、雨でグシャグシャになり、だんだん茶色っぽくなっていった。
雨の中、光彦は走った。赤いハンカチを早く見つけないと、どういうことになるか。しかし、光彦は泥に足を取られ、倒れた。その瞬間に雨はやんだ。
周囲は一転して、大海原になっていた。空は快晴。光彦は、海に浮かんでいた。見わたす限りの海。陸地はない。
光彦は、大洋のうねりに、身をまかせていた。雲ひとつない青空のかなたで、太陽がギラギラと輝いている。彼は恐ろしくなった。少年は、体をあっちに運ばれこっちに流されしているうちに、気が遠くなっていった。
「光彦。光彦」母親が、かたわらから、彼を呼んでいる。光彦は、布団に横になっていた。助かったのだ。彼が目を開けると、母親は安心して、言った。「よかった……大丈夫なのね」
光彦は、居間に寝かせられていた。仏壇を見ると、扉は閉じられ、大きな錠前がかけられている。扉のすきまから、海草のようなものがはみ出し、仏壇のまわりは水で濡れていた。
「父さん、急におかしくなったんだ」光彦が言った。
「そうね……あのお仏壇は、とうぶん開けられないわ」
「父さん、また元気になるかな」光彦はそう言って、仏壇の閉ざされた扉を、じっと見つめた。いつまでも、いつまでも。
(筆者による文芸社刊『無限ホテル』所収の「静かな、広々とした」を改作)
(c) 2011 ntr ,all rights reserved.
No.435
2011/05/23 (Mon) 23:42:20
さいきん新書で古代ギリシャ関係の本をよく読んでいるから、その勢いにのって古書店で「岩波文庫 ギリシアの悲劇・喜劇」十五巻セットを買った。内容は
『アガメムノン』 アイスキュロス作 呉茂一訳
『アンティゴネー』 ソポクレース作 呉茂一訳
『オイディプス王』 ソポクレース作 藤沢令夫訳
『コロノスのオイディプス』 ソポクレース作 高津春繁訳
『テーバイ攻めの七将』 アイスキュロス作 高津春繁訳
『ヒッポリュトス ―パイドラーの恋―』 エウリーピデース作 松平千秋訳
『タウリケのイピゲネイア』 エウリーピデース作 呉茂一訳
『アカルナイの人々』 アリストファネース作 村川堅太郎訳
『雲』 アリストファネース作 高津春繁訳
『蜂』 アリストファネース作 高津春繁訳
『平和』 アリストファネース作 高津春繁訳
『鳥』 アリストファネース作 呉茂一訳
『蛙』 アリストファネース作 高津春繁訳
『女の平和 ―リューシストラテー―』 アリストファネース作 高津春繁訳
『女の議会』 アリストファネース作 村川堅太郎訳
出版の時期がまちまちだからか、旧漢字が使われていたりいなかったり、旧仮名遣いが使われていたりいなかったりしている。しかしこういう古典中の古典ともいうべき作品群は、個人的には旧字体・旧仮名遣いで読みたい。
訳者の中で藤沢令夫さんが『オイディプス王』の一作だけに顔を出している。この本のまえがきにこうある。
われわれの常識的な領域区分からいえば、悲劇作品は「文学」の領域に属し、したがって「哲学」を専攻する訳者は、その専門外の者ということになるであろう。じじつ訳者は、そのことから由来する無知無学を最もおそれ、この拙訳に対しても、識者からのきびしい批判を心から待つものである。
しかしながら他方、このような「哲学」とか「文学」とかいった区別は、われわれの眼界狭小(スミークロロギアー)がこしらえあげたものであり、こんにちのわれわれにおける、経験そのものの分裂を意味しているとも言えよう。ソポクレスにせよ、プラトンにせよ、ヨーロッパの古典的世界における第一級の精神家にとって、このような経験の分裂ほど無縁なものはなかった。哲学という、人間の生き方に関する精錬された思索の営みを支えていたものは、紀元前五世紀までにつちかわれてあった「経験」の全総体であり、その全総体のなかにあってギリシア悲劇が占める位置は、きわめて重要である。いわゆる「思想」に関する面のことばかりを言うのではない。最も注目に値するのは、ソポクレスの作品が示しているような、劇(ドラーマ)という人間にとって本質的な媒体の中でおこなわれた、正確無比な言語的経験の結晶なのである。これなくしては「哲学」は生じえず、逆に哲学的次元にまで高められた視点とロゴス(言葉・思考)的修練なくして、どうして真に「文学」が理解されえよう。(引用ここまで)
なるほど。
ところで文学とか哲学とか、自分の専門分野をはっきりさせておかないとコウモリのようになって、今日の学会では居心地が悪くなる――自分が文学部にいたときはそんな雰囲気があったけれども、現在ではどうなのだろう。
藤沢令夫さんは2004年に亡くなっているが、今から十年ほど前、文学部の先輩が何かの学会で氏を初めて目にし、七十過ぎにしてはその若々しくてかっこいいのに驚いた、と言っていたのが印象に残っている。
専門の分化というと、今日たとえばライプニッツの哲学を研究する人が、通常微積分をどこまでつっこんで追究するものだろうか、気になるところだ。
哲学者と数学者というと、世の役に立たないことを研究する人種の二巨頭であって、似通ったところがあるはずだが、両者が最も接近している箇所は論理学、数理論理学(数学基礎論)という分野であろう。英語ではこれらはすべてひっくるめて logic と呼ばれる。哲学サイドで論理学をやっている人も、数学サイドで数学基礎論をやっている人も、英語では同じく logician である。日本ではまだ文理の垣根が大きいようだが、海外ではその垣根を乗り越えて、互いの分野に貢献する哲学者・数学者が珍しくないようである。
自分はまだ不勉強で数理論理学には疎いけれども、そのうちその方面から勉強を進めて、むかし投げ出したヴィトゲンシュタインなどに再挑戦したいものである。
(c) 2011 ntr ,all rights reserved.
『アガメムノン』 アイスキュロス作 呉茂一訳
『アンティゴネー』 ソポクレース作 呉茂一訳
『オイディプス王』 ソポクレース作 藤沢令夫訳
『コロノスのオイディプス』 ソポクレース作 高津春繁訳
『テーバイ攻めの七将』 アイスキュロス作 高津春繁訳
『ヒッポリュトス ―パイドラーの恋―』 エウリーピデース作 松平千秋訳
『タウリケのイピゲネイア』 エウリーピデース作 呉茂一訳
『アカルナイの人々』 アリストファネース作 村川堅太郎訳
『雲』 アリストファネース作 高津春繁訳
『蜂』 アリストファネース作 高津春繁訳
『平和』 アリストファネース作 高津春繁訳
『鳥』 アリストファネース作 呉茂一訳
『蛙』 アリストファネース作 高津春繁訳
『女の平和 ―リューシストラテー―』 アリストファネース作 高津春繁訳
『女の議会』 アリストファネース作 村川堅太郎訳
出版の時期がまちまちだからか、旧漢字が使われていたりいなかったり、旧仮名遣いが使われていたりいなかったりしている。しかしこういう古典中の古典ともいうべき作品群は、個人的には旧字体・旧仮名遣いで読みたい。
訳者の中で藤沢令夫さんが『オイディプス王』の一作だけに顔を出している。この本のまえがきにこうある。
われわれの常識的な領域区分からいえば、悲劇作品は「文学」の領域に属し、したがって「哲学」を専攻する訳者は、その専門外の者ということになるであろう。じじつ訳者は、そのことから由来する無知無学を最もおそれ、この拙訳に対しても、識者からのきびしい批判を心から待つものである。
しかしながら他方、このような「哲学」とか「文学」とかいった区別は、われわれの眼界狭小(スミークロロギアー)がこしらえあげたものであり、こんにちのわれわれにおける、経験そのものの分裂を意味しているとも言えよう。ソポクレスにせよ、プラトンにせよ、ヨーロッパの古典的世界における第一級の精神家にとって、このような経験の分裂ほど無縁なものはなかった。哲学という、人間の生き方に関する精錬された思索の営みを支えていたものは、紀元前五世紀までにつちかわれてあった「経験」の全総体であり、その全総体のなかにあってギリシア悲劇が占める位置は、きわめて重要である。いわゆる「思想」に関する面のことばかりを言うのではない。最も注目に値するのは、ソポクレスの作品が示しているような、劇(ドラーマ)という人間にとって本質的な媒体の中でおこなわれた、正確無比な言語的経験の結晶なのである。これなくしては「哲学」は生じえず、逆に哲学的次元にまで高められた視点とロゴス(言葉・思考)的修練なくして、どうして真に「文学」が理解されえよう。(引用ここまで)
なるほど。
ところで文学とか哲学とか、自分の専門分野をはっきりさせておかないとコウモリのようになって、今日の学会では居心地が悪くなる――自分が文学部にいたときはそんな雰囲気があったけれども、現在ではどうなのだろう。
藤沢令夫さんは2004年に亡くなっているが、今から十年ほど前、文学部の先輩が何かの学会で氏を初めて目にし、七十過ぎにしてはその若々しくてかっこいいのに驚いた、と言っていたのが印象に残っている。
専門の分化というと、今日たとえばライプニッツの哲学を研究する人が、通常微積分をどこまでつっこんで追究するものだろうか、気になるところだ。
哲学者と数学者というと、世の役に立たないことを研究する人種の二巨頭であって、似通ったところがあるはずだが、両者が最も接近している箇所は論理学、数理論理学(数学基礎論)という分野であろう。英語ではこれらはすべてひっくるめて logic と呼ばれる。哲学サイドで論理学をやっている人も、数学サイドで数学基礎論をやっている人も、英語では同じく logician である。日本ではまだ文理の垣根が大きいようだが、海外ではその垣根を乗り越えて、互いの分野に貢献する哲学者・数学者が珍しくないようである。
自分はまだ不勉強で数理論理学には疎いけれども、そのうちその方面から勉強を進めて、むかし投げ出したヴィトゲンシュタインなどに再挑戦したいものである。
(c) 2011 ntr ,all rights reserved.
目次
上段の『☆ 索引』、及び、下段の『☯ 作家別索引』からどうぞ。本や雑誌をパラパラめくる感覚で、読みたい記事へと素早くアクセスする事が出来ます。
執筆陣
HN:
快文書作成ユニット(仮)
自己紹介:
各々が皆、此の侭座して野に埋もるるには余りに口惜しい、正に不世出の文芸家を自称しております次第。以下、【快文書館】(仮)が誇る精鋭を御紹介します。
❁ ntr 〜 またの名を中村震。小説、エッセイ、漢詩などを書きます。mixiでも活動。ふだん高校で数学を教えているため、数学や科学について書くこともあります。試験的にハヤカワ・ポケット・ブックSFのレビューを始めてみました。
❖ 呂仁為 Ⅱ 〜 昭和の想い出話や親しみやすい時代物、歴史小説などについて書きます。
✿ 流火-rjuka- ~ 主に漢詩の創作、訳詩などを行っています。架空言語による詩も今後作りたいと思っています。
☃ ちゅうごくさるなし
主に小説を書きます。気が向けば弟のカヲスな物語や、独り言呟きなことを書くかもしれません。
♘ ED-209 〜 ブログ引っ越しました。
☠ 杏仁ブルマ
セカイノハテから覗くモノ
我ら一同、只管に【快文書】を綴るのみ。お気に入りの本の頁をめくる感覚で、ゆるりとお楽しみ頂ければ僥倖に御座居ます。
※ 基本的に当ページはリンクフリーです。然し乍ら見易さ追求の為、相互には承っておりません。悪しからず御了承下さい。※
❁ ntr 〜 またの名を中村震。小説、エッセイ、漢詩などを書きます。mixiでも活動。ふだん高校で数学を教えているため、数学や科学について書くこともあります。試験的にハヤカワ・ポケット・ブックSFのレビューを始めてみました。
❖ 呂仁為 Ⅱ 〜 昭和の想い出話や親しみやすい時代物、歴史小説などについて書きます。
✿ 流火-rjuka- ~ 主に漢詩の創作、訳詩などを行っています。架空言語による詩も今後作りたいと思っています。
☃ ちゅうごくさるなし
主に小説を書きます。気が向けば弟のカヲスな物語や、独り言呟きなことを書くかもしれません。
♘ ED-209 〜 ブログ引っ越しました。
☠ 杏仁ブルマ
セカイノハテから覗くモノ
我ら一同、只管に【快文書】を綴るのみ。お気に入りの本の頁をめくる感覚で、ゆるりとお楽しみ頂ければ僥倖に御座居ます。
※ 基本的に当ページはリンクフリーです。然し乍ら見易さ追求の為、相互には承っておりません。悪しからず御了承下さい。※
文書館内検索