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 『読んで面白い』『検索で来てもガッカリさせない』『おまけに見やすい』以上、三カ条を掲げた〜快文書〜創作プロフェッショナル共が、心底読み手を意識した娯楽文芸エンターテイメントを提供。映画評論から小説、漢詩、アートまでなんでもアリ。嘗てのカルチャー雑誌を彷彿とさせるカオスなひと時を、是非、御笑覧下さいませ。
No.
2025/04/21 (Mon) 06:38:35

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No.206
2010/01/28 (Thu) 22:52:03

泊官歩門  危素

人歸石城邉
鳥沒白沙尾
秋風涼蕭蕭
波靜月如洗
水鳧栖不定
半夜猶飛起

ひとは帰る 石城のあたりへ
鳥はきえる 白い沙地のはてに
あき風は さやさや 涼しく
波が静かで 月は洗ったみたいだ
かもは住まいがおちつかず
夜なかでもまだ飛び立つ

(原田憲雄訳)

冬のさなかだが、詩集を開いていて上の秋の詩が目にとまった(あるいは詞か)。
素朴で分かりやすい。冬の川面にも、鴨が浮かんでいるのをよく見るが、言われてみれば決まった巣を持っているのだろうか。

今日の朝方は雨が降っていて外へ出るのが億劫だった。僕はふだんから大きな荷物を持ち歩いているから、なおさら憂鬱だった。荷物が大きいというのは優柔不断な性格をあらわす、と何かで読んだ。雑誌で「どんな女をナンパすればよいか」という特集で、荷物の大きい女は狙い目、と記されてもいた。ものが必要か否か決めきれない優柔不断さがあるから、男の誘いもきっぱり断れない傾向がある、とのことだったが本当だろうか。また僕のようなAB型の人は荷物が大きいという話もあったが、大人になってからは血液型で人を分類する話はおおむねつまらないと感じるようになった。
そういえば高校生たちは血液型の話が好きだな。自分はA型でありふれているから嫌だ、とか、O型は大らかだとか、AB型は天才型だから羨ましいとか。最近でも血液型に関する本が売れたりDVDが出たりもしているが、面白いものかねぇ。というか、人間ってその手の話題に飽きないねぇ。

ロッシーニの「弦楽のためのソナタ」(全六曲)というのを最近聴いているが、シンプルでつややかな弦の音が耳に心地よい。ロッシーニの十二歳のときの作品だそうである。そういえばモーツァルトが十代のころに作った弦楽のためのディベルティメントにも通じる爽やかさがある。若書きには若書きの魅力があるのだろう。

女優ゴールディ・ホーンが若いころ歌ったポップス集「Goldie」も聴いてみたが、フツーという感じか。ジャケ買いする客が目当てのアルバムだろう。

すこしずつ自分の勉強を進めているが、それが楽しい。そのうち読めるようになるかも、と思い斎藤毅著『フェルマー予想』(岩波書店)という本を買ったが、これを読んで理解できる素養の持ち主ならワイルズの原論文を読むだろうから無意味な本だ、と誰かが言っていた。本棚の飾りに終ってしまう本なのだろうか。
大学院に入ったころやりたいと思ったのは「ガロアの逆問題」というテーマだったが、これは一般に整数論の問題と目されているのに、僕は諸都合で整数論を専門としなかった。これから独学でどれぐらいこの問題に迫れるものか、気長に考えると楽しみではある。


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No.200
2010/01/23 (Sat) 17:43:57

学習塾でのアルバイトで、高校一年生に物理を教えることになった。ここで働くことになった際、自分が高校生相手に教えられるのは数学と英語だけだとはっきり言ったのだが、人手不足ということで急遽このようなことになった。個別指導で、生徒の表情を見ながらだから、相手が解っていなさそうだったら繰り返し説明ができるという利点があるが、こちらも物理なんて勉強するのは高校生の頃以来だ。大学のほうも結構忙しいが、物理のことはほとんど無知なだけに、教えるための予習はきちんとする必要がある。今教えている力学の初めのほうについては、テキストを読んでいると、かなりの部分は数学だけで処理できそうな感じがする。あと若干の常識が必要とされるようだが。常識といっても「床の上の物体に力を加えて動かすと、その力の逆方向に摩擦力が働くはずだ」みたいな、誰でも生活の中で実感しているようなことが多い。高校物理などならまだ「確実な答え」にたどりつけるような印象は持てるが、一般に「日常の常識」がからむ問題について「確実な答え」に到達するのはとても難しく感じる。

数学では(少なくとも建て前上は)日常生活からの「常識」は必要がなくて、公理から論理(推論規則)で導き出されたものだけを事実と認めていかなければならない(論理で詰めていくのではない「直観的イメージ」が実は大事だったりするのだが)。数学で述べられる文章の背後に「常識」というものがあるとすれば、あくまでそれは「数学内部の常識」で、日常生活の常識とはひとまず無関係である。

「200円持って買い物に行き、80円の物を買った。お釣りはいくら?」という問題に対して、数学の問題だと思えば答えは「120円」が妥当かもしれないが、80円の物を買うのに200円出す者はいない。日常的常識を加味すれば、お釣りは「20円」もしくは「0円」のはずだ。

数学を熱心に勉強していると、数学書以外の本が読めなくなる、という話をたまに聞く。自分もそのような経験があり、そうなるのはまだ数学に慣れていない人だと思っていたが、自分よりずっと数学に詳しい方もそのような経験をしているらしい。そうなる理由は人それぞれかも知れないけれど、文学的な文章を読む際、言葉の背後にある「常識」を加味すれば自然に味わえるものを、背後の「常識」を切り離して「言葉の列」だけで見ていって「論理的誤謬」が見つかると拒絶反応を起こしてしまう、僕の場合はそんな感じだった。ことさらに疑り深い態度で読書に臨んでいるつもりはないのだが、自分の目が勝手に文章中の「論理的矛盾」を拾い出してくるのだから仕方がない。たとえば「例外のない規則はない」という言葉を見た瞬間に、「この言葉自体も『規則』と見なすと、これにもやはり『例外がある』ことになり、すなわち『例外のない規則がある』ことになって矛盾するなあ(これはラッセルのパラドックスだなあ)」などと思ってしまうのも、ありがちなことだ。

言葉が発せられた状況とか背後にある常識を捉えられないで、言葉そのものだけ見てしまうのも、程度が過ぎれば「病気」と見なされる。精神に障害のある人の施設で、トイレの個室のところに「ドアを開ける前に、まずノックをしましょう」と貼り紙をしていると、障害のある人はトイレに入るときのみならず、出て行くときも内側からノックしてからドアを開けるのだという。

「ナポレオンが赤いズボン吊りをしていたのはなぜか?」というクイズ。答えは「ズボンがずるからだ」……というのは一つのジョークだが、上述のような病の兆しが見られる人は、なかば真剣にそのような答えをしそうな気がする。

昔「それゆけスマート」というスパイもののコメディがあって、それに出てくる「ララビー」という脇役の情報部員が、それに類したギャグをよくとばしていた。

・ ある双子の男の一方が死体で発見されたあと、その双子そっくりそのままの二人が生きて現れて皆びっくりする。主人公のスマートが「片方は死んだはずでしょう」というと、二人は「いや、我々は実は三つ子なのだ」。すかさずララビー「あんたたち二人が三つ子?」

・ ララビーが夜、情報局に出勤してきて「おはようございます」。上司である「チーフ」が「おい、今何時だと思ってる」。ララビー「八時です。定刻に出勤してきましたが」「出勤時間は朝の八時だ。今は夜の八時だぞ」「ホント!? どうりでみんな帰っていくと思った」

・ 情報部員と結婚しては相手に保険金をかけて殺すということを繰り返していた、悪の機関「ケイオス」の女スパイ。その殺人の証拠を突き止めるため、スマートが女スパイと偽の結婚式をあげ、ホテルの部屋で二人きりになって彼女の挙動を観察することになった。ララビーが部屋にずかずか入ってくる。スマート「いったい何の用だ」。ララビー「いや、君がロビーの植木鉢に残したメモを見て上がってきたんだ」。そんなメモを残した覚えのないスマートが「いや、僕は植木鉢にメモを残したりなんかしていないよ」というと、ララビー「あれが植木鉢でないとしたら、何だろう?」

言葉や時計盤をあまりにそのまま信じてしまうララビーは、あくまでギャグとしての存在だが、「お役所」など規則一点張りの場所でも、そんな冗談のような会話が実際になされているのかも知れない。「規則」が「常識」を離れて暴走している例をときおり見かけるが、笑わせてくれるような実例はあまりないような気がする。何かの本で読んだが、ある新聞への投書にこんなものがあったそうだ。「自分の住んでいる地域は町内会活動が活発で、三日とおかず回覧板がまわってきます。そのため素早く次の人にまわさなくてはといつも緊張しているのですが、あるときの回覧板に書かれていたのは一言だけ、『回覧板は早くまわしましょう』」。


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No.198
2010/01/22 (Fri) 03:50:00

タイトルのとおり馬鹿な話なので、半分冗談だと思って読んでください。

だいぶ前に大学の研究室で、先輩であるDさん、Kさんと無駄話に興じていたときの話。Kさんは六十をこえておられ、某有名テレビ局を定年退職して聴講生として大学に来られていた。Dさんは僕と年齢が近かった。そのとき、なぜテレビで「キチガイ」という言葉を使ってはならないのかという話題になった。

Dさん「そうですよね。テレビでは馬鹿とかアホという言葉は平気で使っているのに、キチガイはなぜ駄目なんでしょう」
Kさん「精神病が治りかけている人がキチガイという言葉を聞くと、治りかけた病がぶりかえしてしまうから駄目なのだと聞きました。事実はどうか知りませんけど、私はそのような説明を受けましたね」
ntr「では、馬鹿が治りかけている人はどうなるんですか」
Kさん「……ウーム」
Dさん「馬鹿は治らない、ということでいいんじゃないですか」

そのときはそれで話が終わったが、おそらく三人とも「自分は馬鹿ではない」と思っていて無邪気にそんなことを言っていたのだろう。でも今は「自分はかなりの馬鹿なのではないか」と時々真剣に悩むので、この「馬鹿は治らない」という言葉は僕の耳には不吉に響く(ここでいう馬鹿とは、数学などの勉強ができないという意味の馬鹿ではなく、日常生活に支障をきたすという意味での馬鹿である)。最近でこそ周りの人も僕のことを「馬鹿だけどそれなりにまともな人」と思ってくれているのか、さほど困ることもなくなってきてはいるが。

自虐的な話をしてもしょうがないから詳しい話は避けるが、「自分は馬鹿という名の病気ではないか」と思い、いろいろ調べてみたが「馬鹿を治します」という医師を見つけることはできなかった。現代医学では馬鹿は病気とは認められていないようだ。

別役実の『当世病気道楽』という本に、馬鹿の問題を詳しく考えている部分がある。この本はいろいろな病気について項目をもうけ、その病気をいかに楽しむかが書かれている。基本的には冗談で、どこまで本当かわからない書き方をしているが、鋭く世相を分析しているように思える箇所も多い。この本の中に「馬鹿」という項目がある。

「もちろん、馬鹿の中には、本来そうであるものと、症状としてそうであるものの二種類がある。そして、本来そうであるものは、言葉通り本来そうであるのだから、これはもうどうしようもない。問題なのは、本来はそうではないにもかかわらず、症状としてそうである馬鹿のことである。」
「人々は本来そうである馬鹿に対してよりも、症状としてそうである馬鹿の方に、つらく当たる。結果としては表に出された『馬鹿さ加減』は同じなのであるから、公平の観点からすればいささか問題はあるにせよ、人情としてはそうせざるを得ないところであろう。」
「ここで言っている馬鹿というのは、知能程度の低い人間のことではない。『本当に馬鹿だね、お前は』と言われる馬鹿のことであり、この『本当に』に、さほど力をこめずに言う場合の馬鹿が本来の馬鹿であり、『本当に』に、あらんかぎりの力をこめて言う場合の馬鹿が、症状としての馬鹿である。つまり、本来の馬鹿に対しては、既にあらためて馬鹿であることを発見したという感動がないのであり、症状としての馬鹿に対しては、何度もそう言ってきたにもかかわらず、やはりあらためて感動せざるを得ないところがあって、『本当に』に新たな思いをこめたくなるのである。」

この本の中では、本来そうである馬鹿と、症状としてそうである馬鹿のなんたるかを、明らかな仕方で記述してはいないが、なんとなくその区別はイメージできるのではなかろうか。僕はこの「症状としての馬鹿」にかなり共感できてしまうのである。ただ救いは、自分が最近なんとなく「本来そうである馬鹿」に推移してきたように感じられることである。

このように自分の馬鹿さ加減について深く考えてきたつもりなので、僕は他人の「馬鹿な行い」をとがめることはあっても、「お前は馬鹿だ」と言って責めることをしない人間になった。ひとの馬鹿さ加減をとやかく言える立場ではないし、他人の「馬鹿な行い」が気になるのであれば、その行いだけに注目して直してもらえば済む話なのだ。
(こういう態度は、人の上に立つ者にとっても大事なんじゃないかな……目下の人間に無際限に罵詈雑言を浴びせてよいと考えている人がいるが、それは僕には不合理な態度に思える。)

ちなみに、僕の心の奥底には「自分はひょっとしたら賢いのではないか」という思いもあるが、そう思うことこそ馬鹿なのかもしれない。人間は複雑だ……。


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執筆陣
HN:
快文書作成ユニット(仮)
自己紹介:
 各々が皆、此の侭座して野に埋もるるには余りに口惜しい、正に不世出の文芸家を自称しております次第。以下、【快文書館】(仮)が誇る精鋭を御紹介します。


 ❁ ntr 〜 またの名を中村震。小説、エッセイ、漢詩などを書きます。mixiでも活動。ふだん高校で数学を教えているため、数学や科学について書くこともあります。試験的にハヤカワ・ポケット・ブックSFのレビューを始めてみました。

 ❖ 呂仁為 Ⅱ 〜 昭和の想い出話や親しみやすい時代物、歴史小説などについて書きます。

 ✿ 流火-rjuka- ~ 主に漢詩の創作、訳詩などを行っています。架空言語による詩も今後作りたいと思っています。

 ☃ ちゅうごくさるなし
主に小説を書きます。気が向けば弟のカヲスな物語や、独り言呟きなことを書くかもしれません。

 ♘ ED-209ブログ引っ越しました。

 ☠ 杏仁ブルマ
セカイノハテから覗くモノ 



 我ら一同、只管に【快文書】を綴るのみ。お気に入りの本の頁をめくる感覚で、ゆるりとお楽しみ頂ければ僥倖に御座居ます。









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