『読んで面白い』『検索で来てもガッカリさせない』『おまけに見やすい』以上、三カ条を掲げた〜快文書〜創作プロフェッショナル共が、心底読み手を意識した娯楽文芸エンターテイメントを提供。映画評論から小説、漢詩、アートまでなんでもアリ。嘗てのカルチャー雑誌を彷彿とさせるカオスなひと時を、是非、御笑覧下さいませ。
No.175
2010/01/07 (Thu) 23:40:36
針礼須(はり・れいす)は非常に真面目な青年だったが、その几帳面すぎる性格が災いしてか、どんな仕事をしても長続きしなかった。
あるとき彼は司書補助として、ある図書館に勤めることになった。
その館長も几帳面な性格で、あるときこんなことを言った。
「この図書館にある学術書は、気味の悪いことに、その本の文中でその書物自身に言及していることが多い。巻末に載っている参考文献のページにも、その本自身が記載されていることがある。私はこんなおかしな記述には我慢がならん。そこでちょっと大変な作業になると思うが、きちんとした本、つまり本の文中にその本自身が言及されていない本をピックアップして、その背に青いラベルをつけていってくれんか」
針は愚直に図書館の蔵書の一冊一冊についてページを繰っていき、書物を分類し、必要なら青いラベルを貼っていった。彼はこういう単純作業になると非常に強い忍耐力を発揮した。一カ月かけて、図書館の大量の書物をすべて分類し終えたのである。
「館長、終わりました」
「おお、ご苦労だったな。では今日でなくてもいいから、今度は青いラベルを貼った本の目録を作ってファイリングしてくれんか」
針はうなずいて、窓際の椅子に腰掛け、しばしぼんやりと夕陽を眺めてから、目録作りに着手した。ふと、彼はおかしなことに気がついた。
「館長、このファイルの目録には、このファイル自身の書名を載せるべきでしょうか、載せるべきでないでしょうか」
「ファイルの書名を? そりゃファイルは蔵書とは違うから、載せる必要はないと思うが……まあどちらでもいいよ」
「ちょっと待ってください。仮にこのファイルの目録に自分自身を載せるとします。するとこのファイルは『その文中にそれ自身が言及されている本』と分類されることになり、このファイルが自分自身に言及していない本の目録であるという趣旨に反します。逆にここに自分自身を載せないとします。するとこのファイルは『その文中にそれ自身が言及されていない本』となり、このファイルの趣旨に沿うならここに自分自身の書名を載せねばならないことになります」
「ん? いや、君の話はちょっとよく分からんが……とにかく適当でいいんだよ」
「駄目です。どうやったって自己撞着に陥ります」
「君、疲れてるんではないかね。今日はもう帰って休んでいいよ」
「いえ、疲れてなんかいません。こんな矛盾に満ちた仕事は……もう僕には無理です。神経が耐えられません。やめさせていただきます」
という訳で、針は図書館を退職した。
このように真面目すぎて不器用な針だったから、ずっと貧乏暮らしをすることになるのではと周囲は思った。しかしあるとき、川で溺れている少年を助けたことがもとで、針は億万長者になるチャンスを掴んだ。その少年の父は大変な大金持ちで、感謝のあまり針に対し、金額のところが空欄になっている小切手を渡したのだった。真面目な針は、どれだけの金額をそこに書き込めばいいのか真剣に悩んだ。
「遠慮なくできるだけ大きな金額を書けばいいじゃないか」友人たちは口をそろえて言った。針もそのうちその気になった。その小切手の金額の欄をあらためてみると、16個のマスからなっている。
「つまり、16個のマス全部に9を書き込めば最大の金額になるのか。9999999999999999……9999兆9999億9999万9999円だ。いや、待てよ」
針は16個のマス目にこう書き込んでみた。
16字以内で書ける最大の数
これで13字だ。いやしかしその右に「+1」と書いてみた。
16字以内で書ける最大の数+1
これで15文字、16個のマス目に収まる。しかし明らかに
16字以内で書ける最大の数 < 16字以内で書ける最大の数+1
なのだが、16字以内で書ける最大の数は、文字通り16字以内で書ける最大の数でなければならない。つまり
16字以内で書ける最大の数 ≧ 16字以内で書ける最大の数+1。
これは矛盾である。つまり「16字以内で書ける最大の数」など存在しないということだ。ということは、この小切手の16個のマス目には、無限に大きな数を書き込むことが出来ることになる。
そう気づいた針はたじろいだ。そしていつまでも、空白の小切手を茫然と見つめ続けるのだった。
(c) 2010 ntr ,all rights reserved.
あるとき彼は司書補助として、ある図書館に勤めることになった。
その館長も几帳面な性格で、あるときこんなことを言った。
「この図書館にある学術書は、気味の悪いことに、その本の文中でその書物自身に言及していることが多い。巻末に載っている参考文献のページにも、その本自身が記載されていることがある。私はこんなおかしな記述には我慢がならん。そこでちょっと大変な作業になると思うが、きちんとした本、つまり本の文中にその本自身が言及されていない本をピックアップして、その背に青いラベルをつけていってくれんか」
針は愚直に図書館の蔵書の一冊一冊についてページを繰っていき、書物を分類し、必要なら青いラベルを貼っていった。彼はこういう単純作業になると非常に強い忍耐力を発揮した。一カ月かけて、図書館の大量の書物をすべて分類し終えたのである。
「館長、終わりました」
「おお、ご苦労だったな。では今日でなくてもいいから、今度は青いラベルを貼った本の目録を作ってファイリングしてくれんか」
針はうなずいて、窓際の椅子に腰掛け、しばしぼんやりと夕陽を眺めてから、目録作りに着手した。ふと、彼はおかしなことに気がついた。
「館長、このファイルの目録には、このファイル自身の書名を載せるべきでしょうか、載せるべきでないでしょうか」
「ファイルの書名を? そりゃファイルは蔵書とは違うから、載せる必要はないと思うが……まあどちらでもいいよ」
「ちょっと待ってください。仮にこのファイルの目録に自分自身を載せるとします。するとこのファイルは『その文中にそれ自身が言及されている本』と分類されることになり、このファイルが自分自身に言及していない本の目録であるという趣旨に反します。逆にここに自分自身を載せないとします。するとこのファイルは『その文中にそれ自身が言及されていない本』となり、このファイルの趣旨に沿うならここに自分自身の書名を載せねばならないことになります」
「ん? いや、君の話はちょっとよく分からんが……とにかく適当でいいんだよ」
「駄目です。どうやったって自己撞着に陥ります」
「君、疲れてるんではないかね。今日はもう帰って休んでいいよ」
「いえ、疲れてなんかいません。こんな矛盾に満ちた仕事は……もう僕には無理です。神経が耐えられません。やめさせていただきます」
という訳で、針は図書館を退職した。
このように真面目すぎて不器用な針だったから、ずっと貧乏暮らしをすることになるのではと周囲は思った。しかしあるとき、川で溺れている少年を助けたことがもとで、針は億万長者になるチャンスを掴んだ。その少年の父は大変な大金持ちで、感謝のあまり針に対し、金額のところが空欄になっている小切手を渡したのだった。真面目な針は、どれだけの金額をそこに書き込めばいいのか真剣に悩んだ。
「遠慮なくできるだけ大きな金額を書けばいいじゃないか」友人たちは口をそろえて言った。針もそのうちその気になった。その小切手の金額の欄をあらためてみると、16個のマスからなっている。
「つまり、16個のマス全部に9を書き込めば最大の金額になるのか。9999999999999999……9999兆9999億9999万9999円だ。いや、待てよ」
針は16個のマス目にこう書き込んでみた。
16字以内で書ける最大の数
これで13字だ。いやしかしその右に「+1」と書いてみた。
16字以内で書ける最大の数+1
これで15文字、16個のマス目に収まる。しかし明らかに
16字以内で書ける最大の数 < 16字以内で書ける最大の数+1
なのだが、16字以内で書ける最大の数は、文字通り16字以内で書ける最大の数でなければならない。つまり
16字以内で書ける最大の数 ≧ 16字以内で書ける最大の数+1。
これは矛盾である。つまり「16字以内で書ける最大の数」など存在しないということだ。ということは、この小切手の16個のマス目には、無限に大きな数を書き込むことが出来ることになる。
そう気づいた針はたじろいだ。そしていつまでも、空白の小切手を茫然と見つめ続けるのだった。
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No.174
2010/01/07 (Thu) 01:18:15
「きのうの晩、偶然通りかかって聞いたんだが」朝早く、モンスターが牧場主の勝山と顔を合わせるなり言った。「この牧場で大麻草を育てようとしているそうだな」
「何、大麻草? 勘違いだよ、それはタイム草だ」
「タイム草?」
「ハーブの一種でな。精神を落ち着かせる効能があるんだ。そうだ、お前も試してみろ」といって勝山は、煙草状のものをモンスターにくわえさせ、火を点けた。
「思い切り吸ってみな……どうだ、美味いだろう」
「確かに精神が落ち着くようだ。これがタイム草か。ハーブというのも馬鹿に出来ないもんだな」モンスターが遠い目をしてつぶやいた。
「さ、仕事だ。牛にエサをやりにいってくれ」
「わかった」
モンスターが去っていくと、勝山はひとりほくそ笑んだ。「馬鹿で無知なモンスターだ。あれこそ大麻なのに」
その日以来、モンスターはことあるごとに「タイム草をくれ」と勝山にせがんだ。一週間後にはもう立派な麻薬中毒となっていた。ひとり原っぱで横になりながら、大麻をふかすモンスター。もう仕事などほとんどしなかった。
「今まで俺は何をしゃかりきになっていたのだろう。正義のため? 正義って何だ? もうどうだっていい」
勝山がモンスターに与えたのは大麻だけではなかった。あるときは「モンスター、顔色が悪いぞ。栄養注射を打ってやろう」といって、覚醒剤を注射した。モンスターはまたもや恍惚となった。「栄養注射とはこんな素晴らしいものだったのか」
モンスターは覚醒剤をも常用するようになった。「俺は最強だ。俺は最強のモンスター、いや神だ」よく彼はつぶやいた。
ある日のこと。パトカーが五六台、けたたましくサイレンを鳴らしながら牧場にやってきた。
警官や私服刑事がつかつかと、勝山のもとへやってきた。「ここで大麻の栽培および覚醒剤の不法所持をしている者がいるとの通報が入った。あなたが牧場主ですか」
「そうですが……何かの間違いじゃないですか?」勝山はまったく何のことやら分からぬという顔をして言った。
「家宅捜索させてもらおう」
しばらく勝山の家が捜索されたが、何も薬物らしきものは見つからなかった。
「ふうむ、おかしいな」刑事が言った。「ご主人、本当に心当たりはありませんか」
「そうはいっても……いや、わかった、わかったぞ」と勝山は叫んで、「うちで雇っている一つ目のモンスターですがね、このごろ訳もなくヘラヘラ笑っているし、仕事も全然しなくなったし、様子がおかしいんですよ。あいつだ、きっとあいつが大麻をやってるんだ」
というわけで、モンスターの住む使用人小屋に捜査の手が入った。
「何だ、何事だ」モンスターはうろたえた。
「警部、大麻の吸引器がありました!」
「こっちには注射器と覚醒剤の容器らしきものがあります!」
「待て、それはタイム草と栄養剤で……」
「モンスター、観念しろ。大麻および覚醒剤取締法違反の容疑で逮捕する」
「ぬれ衣だ!」モンスターは警官らを突き飛ばし、脱兎の如く逃げ出した。かつて松平平平に鍛えられた足はだてではなく、あっという間に地平線の彼方まで駆抜けていった。しかし、警察は周到にモンスター捕獲の準備をしており、ヘリコプターでモンスターを追跡し、機関銃を掃射、また容赦なくミサイルを撃ち込んだ。
「こうなったら薬が体から抜けるまで逃げ回ってやる」モンスターは一人つぶやいて逃げ続けたが、雨あられのように降りそそぐ爆弾と催涙弾に、体力はみるみる消耗していった。
モンスターが北の原野を逃げ惑う姿は、全国にテレビ中継された。不世出の正義感にして大富豪、一つ目のモンスターに薬物疑惑! 少年少女たちは目を疑った。地に墜ちたヒーロー。汚れた英雄。モンスター、もう逃げないでくれ! 子供たちは叫んだ。
ついにモンスターの頭上に原子爆弾が落とされ、不気味なきのこ雲が立ち昇った。するとさしものモンスターも観念したのか、煙の中から手を上げて進み出て、全面降伏の意を表した。
無数の戦車、パトカーに囲まれ、モンスターには手錠がかけられた。彼の一挙手一投足を全国民が注視していた。サイレンの音にまぎれて、彼の声が聞こえてきた。
「今回は決して手を染めてはいけない薬物というものに手を出してしまい、皆様には大変な迷惑をおかけしました。これからは介護の勉強をし、少しでも世の中の役に立てるよう頑張ってまいります」モンスターは深々と一礼した。
モンスター、あっさり罪を認めるのか? それにお前は介護の仕事などに収まっていられる男なのか?
物語はさらに続く。
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「何、大麻草? 勘違いだよ、それはタイム草だ」
「タイム草?」
「ハーブの一種でな。精神を落ち着かせる効能があるんだ。そうだ、お前も試してみろ」といって勝山は、煙草状のものをモンスターにくわえさせ、火を点けた。
「思い切り吸ってみな……どうだ、美味いだろう」
「確かに精神が落ち着くようだ。これがタイム草か。ハーブというのも馬鹿に出来ないもんだな」モンスターが遠い目をしてつぶやいた。
「さ、仕事だ。牛にエサをやりにいってくれ」
「わかった」
モンスターが去っていくと、勝山はひとりほくそ笑んだ。「馬鹿で無知なモンスターだ。あれこそ大麻なのに」
その日以来、モンスターはことあるごとに「タイム草をくれ」と勝山にせがんだ。一週間後にはもう立派な麻薬中毒となっていた。ひとり原っぱで横になりながら、大麻をふかすモンスター。もう仕事などほとんどしなかった。
「今まで俺は何をしゃかりきになっていたのだろう。正義のため? 正義って何だ? もうどうだっていい」
勝山がモンスターに与えたのは大麻だけではなかった。あるときは「モンスター、顔色が悪いぞ。栄養注射を打ってやろう」といって、覚醒剤を注射した。モンスターはまたもや恍惚となった。「栄養注射とはこんな素晴らしいものだったのか」
モンスターは覚醒剤をも常用するようになった。「俺は最強だ。俺は最強のモンスター、いや神だ」よく彼はつぶやいた。
ある日のこと。パトカーが五六台、けたたましくサイレンを鳴らしながら牧場にやってきた。
警官や私服刑事がつかつかと、勝山のもとへやってきた。「ここで大麻の栽培および覚醒剤の不法所持をしている者がいるとの通報が入った。あなたが牧場主ですか」
「そうですが……何かの間違いじゃないですか?」勝山はまったく何のことやら分からぬという顔をして言った。
「家宅捜索させてもらおう」
しばらく勝山の家が捜索されたが、何も薬物らしきものは見つからなかった。
「ふうむ、おかしいな」刑事が言った。「ご主人、本当に心当たりはありませんか」
「そうはいっても……いや、わかった、わかったぞ」と勝山は叫んで、「うちで雇っている一つ目のモンスターですがね、このごろ訳もなくヘラヘラ笑っているし、仕事も全然しなくなったし、様子がおかしいんですよ。あいつだ、きっとあいつが大麻をやってるんだ」
というわけで、モンスターの住む使用人小屋に捜査の手が入った。
「何だ、何事だ」モンスターはうろたえた。
「警部、大麻の吸引器がありました!」
「こっちには注射器と覚醒剤の容器らしきものがあります!」
「待て、それはタイム草と栄養剤で……」
「モンスター、観念しろ。大麻および覚醒剤取締法違反の容疑で逮捕する」
「ぬれ衣だ!」モンスターは警官らを突き飛ばし、脱兎の如く逃げ出した。かつて松平平平に鍛えられた足はだてではなく、あっという間に地平線の彼方まで駆抜けていった。しかし、警察は周到にモンスター捕獲の準備をしており、ヘリコプターでモンスターを追跡し、機関銃を掃射、また容赦なくミサイルを撃ち込んだ。
「こうなったら薬が体から抜けるまで逃げ回ってやる」モンスターは一人つぶやいて逃げ続けたが、雨あられのように降りそそぐ爆弾と催涙弾に、体力はみるみる消耗していった。
モンスターが北の原野を逃げ惑う姿は、全国にテレビ中継された。不世出の正義感にして大富豪、一つ目のモンスターに薬物疑惑! 少年少女たちは目を疑った。地に墜ちたヒーロー。汚れた英雄。モンスター、もう逃げないでくれ! 子供たちは叫んだ。
ついにモンスターの頭上に原子爆弾が落とされ、不気味なきのこ雲が立ち昇った。するとさしものモンスターも観念したのか、煙の中から手を上げて進み出て、全面降伏の意を表した。
無数の戦車、パトカーに囲まれ、モンスターには手錠がかけられた。彼の一挙手一投足を全国民が注視していた。サイレンの音にまぎれて、彼の声が聞こえてきた。
「今回は決して手を染めてはいけない薬物というものに手を出してしまい、皆様には大変な迷惑をおかけしました。これからは介護の勉強をし、少しでも世の中の役に立てるよう頑張ってまいります」モンスターは深々と一礼した。
モンスター、あっさり罪を認めるのか? それにお前は介護の仕事などに収まっていられる男なのか?
物語はさらに続く。
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No.173
2010/01/07 (Thu) 01:15:37
登場人物
アデライン 天才科学者にして絶世の美女。十九歳。
セバスチャン アデラインの執事。彼女によって造られたアンドロイド。
ティモテオがアデラインの視線を最初に意識したのは、合宿が始まって二日目の夕食のとき、食堂でのことだった。アデラインは女友達と楽しげに喋り、パンをほおばりながらも、ずっと目をティモテオに据えたままだったのだ。うるんだ茶色い瞳、透き通るような白い肌、長く美しい栗色の髪。すぐに彼はアデラインの虜になった。しかし元来引っ込み思案だったティモテオは、すぐに彼女に話しかけることは出来なかった。
その合宿は、ティモテオの所属する大学が、マローナ語の修得を志望する学生のために冬季に行っているものだった。本場マローナ公国の合宿所で、受講者たちは現地の学生たちと交流を深め、三週間で会話の基本を身につけるのだった。ティモテオは父の経営する貿易会社のあとを継ぐ身であり、マローナ語は仕事がら必須のものだった。はじめは科学者・発明家として名高いアデラインがなぜこの合宿に来ているのか不思議に思ったが、同世代の若者と混じって勉強したほうがより効果があがると考えたらしい。そう、彼女は著名人とはいっても、まだ十九歳なのだから。
その有名なアデラインが、ことあるごとに自分と目を合わせてくる。ティモテオははじめそんな馬鹿なことがあるかと思ったが、次第に彼女とぜひ友達になろうと考えるようになった。しかし、前を歩くアデラインが振り向いて魅力的なまなざしを自分に向けているからといって、近づいて話しかけようとすると、彼女はいつもさりげなく離れていってしまうのだった。ある日、アデラインが一人で昼食をとっているのをみとめ、ティモテオはチャンスだと思い近づいていって話しかけた。
「アデラインさん。僕、ティモテオといいます」
「え?」アデラインはびっくりしたような顔をして「え、ああ、こんにちは」
ティモテオは彼女が意外に自分に無関心なのに驚き、どう話を続けていいか迷った。
「マローナ語はだいぶ話せるようになりましたか」
「ええ、そうね。まだ聞き取るのが難しいけど」
「ですよね。ネイティブの人は文法書のようには話してくれませんしね」
「うん……ごちそうさま。それじゃ、ティモテオ」
といってアデラインはさっさと席を立ってしまった。
アデラインは何を考えているんだろう? もっと喜んで話してくれると思ったのに……ティモテオは彼女の心の中を測りかねた。
しかしその後も、意味ありげなアデラインの視線は続き、合宿も最終日となった。
四か月前。ティモテオの父、アウグスト・サヴァント氏がアデラインのもとを訪ねてきた。
「私は貿易会社を営んでいます。自分で言うのもなんですが、かなり大きな会社です。それをいま大学に通っている一人息子にいずれ継がせようと思っているんですがね。しかし息子を見ていると、どうも心配なのです。学者肌というんですかな、気が弱いというのか、どうも生き馬の眼を抜くようなこの業界には向いておらんような気がするのです。もちろん彼には早いうちから会社で仕事をさせて、慣れさせるつもりですがね。しかしそれだけでは不安なのです。なにか精神療法のようなものも受けさせる必要があると思うのです」
「でも、わたしは精神科医ではありませんよ」とアデライン。
「分かっています。しかし、息子はわしに性格についてとやかく言われるのをとかく嫌がりましてな。精神科医にかからせるなど到底できませんよ」
「それでわたしに何をしろと仰るんですか」
「アデラインさんはたいへんな発明家と聞いています。ここにティモテオが健康診断を受けたときの基本脳波パターンと、内分泌物質についてのデータがあります。そこで彼に知られずに、もっと押しの強い性格になるよう精神的な治療を施してほしいのです」
「むずかしい注文ですね……人の性格を人為的に変えるなんてこと、できるかどうか分かりませんし、そのうえ相手に知られずに、だなんて」
「無理は承知です。報酬はいかほどでもお支払いしますので」
「とりあえず考えてはみますが……」
そこでアデラインは、まず人の性格と内分泌物の関係について研究を始め、性格そのものを決定するのではないにしても、物事を実行するためのいわゆる「勇気」と深くつながる物質、アルファ・ピノクシンを増加させる方法を考え出した。それは視覚からの外部刺激による方法で、あとはティモテオ自身に知られずにいかにその刺激を与えるかが問題だった。結局アデラインは、その刺激を離れた場所から与えられるコンタクト・レンズを開発し、それを自分が装着してティモテオの眼を見る、という方法を取ることにした。
「必要以上に男性の眼を見つめたりすると、いらぬ誤解を与えるのではありませんか?」とセバスチャン。
「たかだか三週間だし、きっと大丈夫よ。じゃ、しばらくマローナ公国に行ってるわね」
そして合宿の最終日。現地の学生とのお別れパーティもあって、アデラインは華やかな明るい赤いワンピースを着て、たくさんの仲間とお喋りした。著名な科学者ということで初めは遠巻きに見ていた学生たちも、輝くばかりに美しいのに屈託がまるでないアデラインの人柄に魅了され、彼女はすっかり人気者になっていた。
その晩ティモテオは何度かアデラインに話しかけることができた。しかし実は二人きりで話したいことがあったのだが、その機会はなかった。
合宿から帰るとアデラインは
「三週間だけど、ティモテオもだいぶ変わったと思うわ。次に彼が健康診断を受けるまでは正確なことは分からないけど」
「お嬢様、お客様がお見えです。ティモテオ・サヴァント様です」とセバスチャン。
「え、ティモテオが来てるの? 何の用かしら」
アデラインが玄関口に下りていくと、ティモテオは真剣な目をして待っていた。
「アデライン、合宿お疲れさま。実は二人きりで話したいことがあって来たんだよ。合宿が終って、僕たち、もう会う機会がないだろう? だから思い切って言うんだけど……僕とお付き合いしてくれませんか? いや、本当は結婚して欲しいんだ」
アデラインは目を丸くした。
「え……急にそんなこと言われても……」
「他に好きな人がいるんですか?」
「え、いや……」
アデラインが口ごもっていると、セバスチャンが「お嬢様、アウグスト・サヴァント氏からお電話です」
「ちょっと待っててね……もしもし、アデラインですけど?」
「いやアデラインさん、今回はありがとう。息子は見違えるようだ。今日はなんと、結婚したい人がいるから申し込んでくると言って出て行きおった! 今までの内気なあいつには考えられんことだ。いや本当にありがとう」
「えっと、彼、あたしのところに来てるんですが。うーん……困ったわ。セバスチャン、どうしたらいいのかしら? というか何とかしてくれない?」
「これはお嬢様の自業自得です。ご自分で何とかなさるべきでしょう」
アデラインはしどろもどろになってティモテオの申し出を断ろうとしたが、うまく言えなかった。結局用があるからと言って自家用ロケットで飛んで逃げっていったが、どれぐらい逃げ続ければいいのか彼女には見当もつかなかった。
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アデライン 天才科学者にして絶世の美女。十九歳。
セバスチャン アデラインの執事。彼女によって造られたアンドロイド。
ティモテオがアデラインの視線を最初に意識したのは、合宿が始まって二日目の夕食のとき、食堂でのことだった。アデラインは女友達と楽しげに喋り、パンをほおばりながらも、ずっと目をティモテオに据えたままだったのだ。うるんだ茶色い瞳、透き通るような白い肌、長く美しい栗色の髪。すぐに彼はアデラインの虜になった。しかし元来引っ込み思案だったティモテオは、すぐに彼女に話しかけることは出来なかった。
その合宿は、ティモテオの所属する大学が、マローナ語の修得を志望する学生のために冬季に行っているものだった。本場マローナ公国の合宿所で、受講者たちは現地の学生たちと交流を深め、三週間で会話の基本を身につけるのだった。ティモテオは父の経営する貿易会社のあとを継ぐ身であり、マローナ語は仕事がら必須のものだった。はじめは科学者・発明家として名高いアデラインがなぜこの合宿に来ているのか不思議に思ったが、同世代の若者と混じって勉強したほうがより効果があがると考えたらしい。そう、彼女は著名人とはいっても、まだ十九歳なのだから。
その有名なアデラインが、ことあるごとに自分と目を合わせてくる。ティモテオははじめそんな馬鹿なことがあるかと思ったが、次第に彼女とぜひ友達になろうと考えるようになった。しかし、前を歩くアデラインが振り向いて魅力的なまなざしを自分に向けているからといって、近づいて話しかけようとすると、彼女はいつもさりげなく離れていってしまうのだった。ある日、アデラインが一人で昼食をとっているのをみとめ、ティモテオはチャンスだと思い近づいていって話しかけた。
「アデラインさん。僕、ティモテオといいます」
「え?」アデラインはびっくりしたような顔をして「え、ああ、こんにちは」
ティモテオは彼女が意外に自分に無関心なのに驚き、どう話を続けていいか迷った。
「マローナ語はだいぶ話せるようになりましたか」
「ええ、そうね。まだ聞き取るのが難しいけど」
「ですよね。ネイティブの人は文法書のようには話してくれませんしね」
「うん……ごちそうさま。それじゃ、ティモテオ」
といってアデラインはさっさと席を立ってしまった。
アデラインは何を考えているんだろう? もっと喜んで話してくれると思ったのに……ティモテオは彼女の心の中を測りかねた。
しかしその後も、意味ありげなアデラインの視線は続き、合宿も最終日となった。
四か月前。ティモテオの父、アウグスト・サヴァント氏がアデラインのもとを訪ねてきた。
「私は貿易会社を営んでいます。自分で言うのもなんですが、かなり大きな会社です。それをいま大学に通っている一人息子にいずれ継がせようと思っているんですがね。しかし息子を見ていると、どうも心配なのです。学者肌というんですかな、気が弱いというのか、どうも生き馬の眼を抜くようなこの業界には向いておらんような気がするのです。もちろん彼には早いうちから会社で仕事をさせて、慣れさせるつもりですがね。しかしそれだけでは不安なのです。なにか精神療法のようなものも受けさせる必要があると思うのです」
「でも、わたしは精神科医ではありませんよ」とアデライン。
「分かっています。しかし、息子はわしに性格についてとやかく言われるのをとかく嫌がりましてな。精神科医にかからせるなど到底できませんよ」
「それでわたしに何をしろと仰るんですか」
「アデラインさんはたいへんな発明家と聞いています。ここにティモテオが健康診断を受けたときの基本脳波パターンと、内分泌物質についてのデータがあります。そこで彼に知られずに、もっと押しの強い性格になるよう精神的な治療を施してほしいのです」
「むずかしい注文ですね……人の性格を人為的に変えるなんてこと、できるかどうか分かりませんし、そのうえ相手に知られずに、だなんて」
「無理は承知です。報酬はいかほどでもお支払いしますので」
「とりあえず考えてはみますが……」
そこでアデラインは、まず人の性格と内分泌物の関係について研究を始め、性格そのものを決定するのではないにしても、物事を実行するためのいわゆる「勇気」と深くつながる物質、アルファ・ピノクシンを増加させる方法を考え出した。それは視覚からの外部刺激による方法で、あとはティモテオ自身に知られずにいかにその刺激を与えるかが問題だった。結局アデラインは、その刺激を離れた場所から与えられるコンタクト・レンズを開発し、それを自分が装着してティモテオの眼を見る、という方法を取ることにした。
「必要以上に男性の眼を見つめたりすると、いらぬ誤解を与えるのではありませんか?」とセバスチャン。
「たかだか三週間だし、きっと大丈夫よ。じゃ、しばらくマローナ公国に行ってるわね」
そして合宿の最終日。現地の学生とのお別れパーティもあって、アデラインは華やかな明るい赤いワンピースを着て、たくさんの仲間とお喋りした。著名な科学者ということで初めは遠巻きに見ていた学生たちも、輝くばかりに美しいのに屈託がまるでないアデラインの人柄に魅了され、彼女はすっかり人気者になっていた。
その晩ティモテオは何度かアデラインに話しかけることができた。しかし実は二人きりで話したいことがあったのだが、その機会はなかった。
合宿から帰るとアデラインは
「三週間だけど、ティモテオもだいぶ変わったと思うわ。次に彼が健康診断を受けるまでは正確なことは分からないけど」
「お嬢様、お客様がお見えです。ティモテオ・サヴァント様です」とセバスチャン。
「え、ティモテオが来てるの? 何の用かしら」
アデラインが玄関口に下りていくと、ティモテオは真剣な目をして待っていた。
「アデライン、合宿お疲れさま。実は二人きりで話したいことがあって来たんだよ。合宿が終って、僕たち、もう会う機会がないだろう? だから思い切って言うんだけど……僕とお付き合いしてくれませんか? いや、本当は結婚して欲しいんだ」
アデラインは目を丸くした。
「え……急にそんなこと言われても……」
「他に好きな人がいるんですか?」
「え、いや……」
アデラインが口ごもっていると、セバスチャンが「お嬢様、アウグスト・サヴァント氏からお電話です」
「ちょっと待っててね……もしもし、アデラインですけど?」
「いやアデラインさん、今回はありがとう。息子は見違えるようだ。今日はなんと、結婚したい人がいるから申し込んでくると言って出て行きおった! 今までの内気なあいつには考えられんことだ。いや本当にありがとう」
「えっと、彼、あたしのところに来てるんですが。うーん……困ったわ。セバスチャン、どうしたらいいのかしら? というか何とかしてくれない?」
「これはお嬢様の自業自得です。ご自分で何とかなさるべきでしょう」
アデラインはしどろもどろになってティモテオの申し出を断ろうとしたが、うまく言えなかった。結局用があるからと言って自家用ロケットで飛んで逃げっていったが、どれぐらい逃げ続ければいいのか彼女には見当もつかなかった。
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目次
上段の『☆ 索引』、及び、下段の『☯ 作家別索引』からどうぞ。本や雑誌をパラパラめくる感覚で、読みたい記事へと素早くアクセスする事が出来ます。
執筆陣
HN:
快文書作成ユニット(仮)
自己紹介:
各々が皆、此の侭座して野に埋もるるには余りに口惜しい、正に不世出の文芸家を自称しております次第。以下、【快文書館】(仮)が誇る精鋭を御紹介します。
❁ ntr 〜 またの名を中村震。小説、エッセイ、漢詩などを書きます。mixiでも活動。ふだん高校で数学を教えているため、数学や科学について書くこともあります。試験的にハヤカワ・ポケット・ブックSFのレビューを始めてみました。
❖ 呂仁為 Ⅱ 〜 昭和の想い出話や親しみやすい時代物、歴史小説などについて書きます。
✿ 流火-rjuka- ~ 主に漢詩の創作、訳詩などを行っています。架空言語による詩も今後作りたいと思っています。
☃ ちゅうごくさるなし
主に小説を書きます。気が向けば弟のカヲスな物語や、独り言呟きなことを書くかもしれません。
♘ ED-209 〜 ブログ引っ越しました。
☠ 杏仁ブルマ
セカイノハテから覗くモノ
我ら一同、只管に【快文書】を綴るのみ。お気に入りの本の頁をめくる感覚で、ゆるりとお楽しみ頂ければ僥倖に御座居ます。
※ 基本的に当ページはリンクフリーです。然し乍ら見易さ追求の為、相互には承っておりません。悪しからず御了承下さい。※
❁ ntr 〜 またの名を中村震。小説、エッセイ、漢詩などを書きます。mixiでも活動。ふだん高校で数学を教えているため、数学や科学について書くこともあります。試験的にハヤカワ・ポケット・ブックSFのレビューを始めてみました。
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✿ 流火-rjuka- ~ 主に漢詩の創作、訳詩などを行っています。架空言語による詩も今後作りたいと思っています。
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我ら一同、只管に【快文書】を綴るのみ。お気に入りの本の頁をめくる感覚で、ゆるりとお楽しみ頂ければ僥倖に御座居ます。
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