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 『読んで面白い』『検索で来てもガッカリさせない』『おまけに見やすい』以上、三カ条を掲げた〜快文書〜創作プロフェッショナル共が、心底読み手を意識した娯楽文芸エンターテイメントを提供。映画評論から小説、漢詩、アートまでなんでもアリ。嘗てのカルチャー雑誌を彷彿とさせるカオスなひと時を、是非、御笑覧下さいませ。
No.
2025/04/21 (Mon) 19:25:23

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No.153
2009/12/09 (Wed) 04:26:58

はっくしょん! はーっくしょん!
くしゃみを二度した私は身震いした。近頃はみんな私の噂をしているのだろう。
さてここは高校の職員室で、いま期末試験期間中であり、ちょうど私の作成した「数学Ⅱ」の試験が行われている最中だ。テスト開始から三十分経ったから、教室を見てこよう……おっと、頭と尻にプラグを差し込むのを忘れるところだった。プラグをつけていなければ、私は九九もできないでくのぼうなのだ。
ずるずると頭と尻から長いコードを引きずりながら、私は教室に向かった。
「試験問題について、何か質問はありますか」
生徒達は一瞬私をちらりと見たが、しんとしていた。何もないようだから立ち去ろうとすると、女子生徒の手が上がった。生徒たちのカバンにコードが引っかからないように難儀しながら、私はその生徒の机のところまで来た。
「何ですか」
すると女子生徒は声をひそめて「先生、結婚してください」
私は驚いた。試験時間中にそんな重大な申し出を受けようとは。冷静に考えなくては……私とこの生徒との接点は、ほとんど授業時間しかない。つまり彼女は数学の教員としての私しか知らないのだ。とすると、結婚したら私は彼女の前でこのプラグを抜くわけには行かない。いつもコードを引きずって歩く必要がある。たとえば新婚旅行に行って、どこかのトンネルをくぐったとしよう。私は必ずもと来た道を引き返さなければ、コードが引っかかって帰ることが出来なくなってしまう。そうした不自由をあれこれ考えているうちに、突如私のコードが後ろから引っ張られた。あちこちにつまずきながら、後ろ向きに教室から出て行った私は、そのまま校長室にまで引っ張ってこられた。
「N先生」ソファに座った校長が言った。「この学校では、生徒と教師の交際が禁じられているのはご存知ですか」
「はあ、しかし私はそんなことはしていません」
「二年六組のM.Mの保護者から連絡がありました。先生は彼女に結婚を迫ったそうですね」
「いえ、その逆です。私が結婚を迫られたのです」
「事実はどうあれ」校長は表情を曇らせて言った。「そのような噂が立ったというだけで学校の信用に関わります。N先生、責任を取ってください」
というわけで、私はその高校を辞職した。
学校からの帰途、電車の椅子に座って頭にプラグを差し込み、虚ろな目をした若者たちが数名目にとまった。彼らは瞳をすばしこく動かし、脳内でゲームを楽しんでいるようだった。近頃は、ゲーム機を手にすることなく直接脳でゲームをするようになったのだった。私もつまらない現実から逃避しようと思い、列車内の壁から多数出ているゲーム用のプラグを自分の頭に差し込んだ。

という夢を見た。目が覚めた私は、いま剣を片手にモンスターと戦っている。


(c) 2009 ntr ,all rights reserved.
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No.152
2009/12/08 (Tue) 01:15:01

 

 ゴーゴリの短編小説「ヴィイ」、あるいはその映画化「妖婆死棺の呪い」のパロディ。


 神学生ホマ・ブルートは、ある富裕なコサック中尉から、死んだ娘のために三晩にわたって祈祷を上げてほしいとの依頼を受け、キエフから五十キロほど離れたそのコサックの地所にやって来た。なんでもその娘は、ある日散歩に出て、何者かに全身にひどい傷を負わされて息も絶え絶えになって帰宅し、死ぬ間際にホマ・ブルートに三日間の祈祷を上げさせるよう遺言を残したのだとか。ホマはその娘とは会ったこともなかったから驚き、当初は断ったが、コサック中尉の意思は断固としたものであり、神学校の校長からも厳命を受けたから仕方なく引き受けることにした。
 ホマは知らなかった。その娘が、しばらく前に自分に襲いかかってきたため慌てて打ち殺した、妖術使いの老婆だったとは。

「こんな暗いあばら家に女の棺と差し向かいで、三晩も祈祷を上げるなんてぞっとしねえな。外から錠も掛けられちまったし……よし、ありったけの蝋燭に灯をともして、うんと明るくしてやろう」
 ホマは何百本もの大小の蝋燭を、その古い建物の至るところに立てた。その灯りは、部屋を昼のように明るくし、薄気味悪い感じはすっかり消え失せてしまったようだった。
「よし、これで元気も出てきたぞ。そろそろ始めるとするか」
 ホマは大きな聖書を開き、大声で祈祷を始めた。棺のほうをチラチラ見ながら……。
「もし、死んだ女が起き上がったら、どうしよう? いやいや、そんなことなんてあるものか」
 しばらく祈祷に熱中して、ふと棺を見ると娘の死体は起き上がって座っていた。そして立ち上がり、手を伸ばしてホマのほうにフラフラと歩いてきた。
「ぎゃあ! どうすりゃいいんだ。よし、『聖なる円』を描こう。この中には邪悪なものは入って来れないんだ」
 ホマはチョークで自分の周囲の床に直径三メートルほどの円を描き、必死に祈祷を続けた。
 若い女の死体が言った。
「あなた、馬鹿じゃない? 妖怪だって年々科学的になってきてるのよ。何よこんな円。ホラホラ」
 そう言って若い女は聖なる円の中に何度も手を突き入れた。
「うぬ……ではどれぐらい科学的か試そうじゃないか。この円を原点中心半径1として、ここを点(1,0)とする。点(3,1)を通るこの円の接線を考えたとき、その接点からならお前は入っていいことにしようじゃないか」
「やっぱり哀れなほど馬鹿だわ……計算しなくたって点(0,1)がそうだって分かるじゃない。ホラホラ入るわよ」
「いや待った! 今の問題は間違いだ。えーと、そうだな、10の100乗ラジアンの点からなら入っていいことにする(ラジアンは点(1,0)からこの円の円周を反時計回りに測ったときの長さの単位)」
「何ですって!? 10の100乗を2πで割ってその余りを求めるのかしら。ちょっと待ちなさい」
 女は考えながら棺に戻っていき、やがて棺は女を乗せたまま宙を舞い、聖なる円の周りをグルグル回り始めた。
「アハハ、馬鹿な女! そうやって10の100乗だけの距離をまわるつもりかい? 百年かかったって回れやしねえや」
 そのとき暁を告げる鶏の声が響いてきた。棺はゆっくりと着地し、女はいらいらして人差し指を立てて震わせながら、バタンと横になった。

 次の日の晩。ホマが再びあばら家に戻り、チョークで聖なる円を描きなおして立ち上がると、もうそこに女が立って待ちかまえていた。
「ひひひひひ……一日考えて分かったのよ。10の100乗ラジアンの座標が。じゃ、遠慮なく入るわよ」
「待った、待ったー。その問題の回答はもう締め切った。惜しかったな。えっと、次の問題を出すぞ。円周率の小数点以下で、1が1000回続けて表れる部分は小数第何位からか答えろ」
「え、1が1000回!? えーと、3.14159265358979323846264338327950288419716939937510582097494459230781640628
620899……そんなの分かるわけないじゃない! だいいち1が1000回続けて表れる保証なんてどこにもないわ」
「どこにも表れなければその証明をしてみせろ。しかしもし表れるなら、どこから表れるかは神様がご存知のはずだ。神様に聞いてみるんだな。でも妖女のお前が神様にものを尋ねるなんて出来っこないかな。ハハハハ」
「き、きぃー悔しい! 覚えてらっしゃい!!」
そう言って妖女は棺に乗り、棺は窓を突き破って地の果てまで飛び去っていった。


(c) 2009 ntr ,all rights reserved.
No.151
2009/12/08 (Tue) 01:02:14

 哲学に造詣の深いかたが読まれていたら、初めに謝っておかなければならない。僕の哲学への無理解を書き連ねるのだから。

 mixiで出会った教養ある人に「哲学書をあまり読まない」というと、「ああ、僕もそうなんですよね」という答えはほとんど返ってこない。相手は「それぐらい読むべきだ」と思って閉口してしまっているのだろうか。僕にはよくわからない。

 僕のように数学に親しんでいる人が哲学書を熱心に読むってどんな感じなんだろう。
 数学では、まず「無定義述語」があって、それらを関連付けた「公理」が用意されていて、そこから議論を進めるためのルールである「推論規則」が明確に存在している。たとえて言えばぴかぴかに磨かれたチェスの駒が整然と盤面に並べられていて、おのおのの駒の動きが明確に指定されているようなものだ。だから安心してゲームを始められる。
「無定義述語」とは幾何学で言えば「点、面、直線」のようなもので、それらにはもはや定義は存在しない。ユークリッド原論では「直線とは一様に横たわる点である」などと訳がわかったようなわからないような定義を与えているが、現代ではそれはもはや定義とは認められていない。Aという言葉の定義にBという言葉が使われ、言葉Bの定義にCが使われ、言葉Cの定義にDが使われ……と、定義には際限がないから、数学では「この言葉にはもうこれ以上定義を与えない」という行き止まり、つまり無定義述語がきちんと用意されている。
 そして公理は「これ以上疑いようのない万人が認めうる真実」などでは決してなく、単に「証明を与えない命題」に過ぎない。事実Aの証明に事実Bを使い、事実Bの証明に事実Cを使い……と事実の証明にも際限がないから、数学はこれにも「公理」という行き止まりを与えているに過ぎない。
 だから数学は厳密にはこの世の真実を解き明かすものではない。「仮に公理と推論規則を認めれば何が導かれるか」を探求するに過ぎない。

 いわゆる哲学書というものを開くと「この世の真実」を解き明かそうとしているように見える。だからその中の公理らしきものは、「これ以上疑いようのない万人が認めうる真実」という古い数学の公理のような性質を帯びている。無定義述語もはっきりしない。だからどうしても気持ちが悪い。で、読み始めてもつい途中で放り出してしまう。
 プラトンの書物を読もうとしたことが何度かあったが、そこに出てくるソクラテスの議論の進め方にちょっとした論理的誤謬が見つかって、その先はもう読む価値がないように感じて読むのをやめた。真実を探求するのが目的なら、議論のステップの誤りは致命的だ。

 数学をやっている人は哲学書を読むとき「世界について考えたいけど、そういう場合は数学のように、不純物のないぴかぴかのチェス盤から話を始めるわけにはいかないよね」と妥協して、言葉や議論の不明確さを感じることがあっても、うまく折り合いをつけて付き合っている、のだろうか。僕もそういう感覚で哲学書に付き合ってみようとチャレンジしてみることはあるのだが、ついくじけてしまうのである。

「存在とは何か」といったことが哲学ではよく問題になるらしい。もっともなことだと思う。哲学書は「世界」について語ろうとする。では世界とは何か、ということになると、素朴な定義としては「存在するものの全体」というのがあるだろう。しかしこの「存在」をどう定義したらよいかが難しいところだ。

 以下、不勉強を省みず、僕なりに「存在」について思うことを書きつらねてみよう。
 数学で「存在とは何か」と明示的に定義しているのは不勉強にして見たことがないが、一般的感覚としては、そこで考えられている公理系で「そういうものを想定しても矛盾を生じないこと」ということになろうか。

 数学に接していると、僕などはギリシアの哲学者が言った「真、善、美」という三つの徳が、結局はすべて同じものなのではないかという幻想にとらわれることがある。
 ポアンカレの著作にも似たようなことが書かれていて敢えて自分も言ってみるのだが、美しいことは真であり、真であることは美しいのである。善いことは真であり美であるのである。数学関係者も読んでいるのを知っていてさらに暴走して書くのだが、数学的真実、数学的存在は、真善美と相互に深いところでつながっている……そこにはわれわれの思考を理想主義的に方向付ける何かがある……のではなかろうか。
 しかし数学の世界とは違う、なまの現実の世界はそうではない。
 醜いものが存在して、真であるかのように厳として存在する。

 フレドリック・ブラウンに『火星人ゴーホーム』という小説がある。
 ある日いきなり地球の各所に、チビで緑色の火星人が群をなして現れる。地球人に直接暴力を振るったりはしない。ただ人間の前に姿を現して、千里眼を駆使してイヤなことを喋りまくるだけである。
「おい、いまお前の彼女が男とホテルに入って行ったぞ。仕事上の付き合いってこともありうるな。しかしその男、ホテルの部屋で腕時計以外は何も身につけていなかったがね」
 世の中、自分の弱点をたくみについてイヤなことをチクチク言ってくるやつがいるものだ。その火星人はその権化のようなものだが、体はまるで幻であるかのように、殴ろうとしても手がするりと通り抜けてしまう。退治しようにも実体がなく、どうにも手の付けようがない。
 この小説の主人公は、はじめは火星人に悩まされノイローゼに陥っていたが、最後にはまるで気にしなくなった。火星人が目の前に現れても彼は無意識に目をそらす。火星人が何か喋っても、耳が反応しなくなって、本当に聞こえなくなった。主人公は心の中から、火星人を完全に追い出すことに成功したのだった。

 僕は中学に教育実習に行ったとき、はじめはこの『火星人ゴーホーム』の主人公の最後の姿のように、中学生のつまらない罵声がまったく耳に入らなかった。話しかけられてもほとんど気付かなかった。そういうふうな罵声、そのような話しかけ方が、自分の中で存在が許せないものだったからかも知れない。
 しかし、受け持ちのクラスに非常に毒舌な少女が一人いた。僕を目にするたびにイヤなことを言い続けた。はじめは無視していたが、あまりに腹が立ったからつい「うるさい!」と怒鳴り返してしまった。どこかの塾講師が小学生の女子を殺した、なんてニュースがあったが、なるほどこんな女子生徒なら殺したくなるのも分かる、というぐらいに憎らしく思った。
 しかし今にして思うと、僕は『火星人ゴーホーム』の主人公のようであってはならず、その女の子の醜い罵詈雑言にきちんと向き合わねばならなかったのかも知れない。そういう醜い事柄が、認めたくはなくともまぎれもない「この世の存在」なのだから。
 数学の世界の「存在」のように綺麗なものでない「存在」が現にそこにあるのだ。
 そういうことを、その女の子は僕にひどい言葉を浴びせ続けることによって知らせていたのではなかろうか……などと今になって深読みしている。
「お前にとっては嫌なやつかも知れないけど、わたしはここに存在するんだ! 存在する! 存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する」って。

 そうやって執拗に耳が痛くなるぐらいに言われて、ようやく僕は彼女の存在を認められた、認めざるを得なかった。
 そういうわけで、「存在とは何か」は難しいことだけど、「真・善・美」と密接に関わる数学的存在とは性質を異にしたこの世の存在、ありのままの存在というものは、おもに「不快感」を通して知覚されるものではないか、という感じが僕にはする。

「存在とは何か」は面白い問いだし、各分野の専門家にその質問をぶつけてみて、学際的に「存在」というものを研究してみるのも有意義なことかも知れない。
 

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執筆陣
HN:
快文書作成ユニット(仮)
自己紹介:
 各々が皆、此の侭座して野に埋もるるには余りに口惜しい、正に不世出の文芸家を自称しております次第。以下、【快文書館】(仮)が誇る精鋭を御紹介します。


 ❁ ntr 〜 またの名を中村震。小説、エッセイ、漢詩などを書きます。mixiでも活動。ふだん高校で数学を教えているため、数学や科学について書くこともあります。試験的にハヤカワ・ポケット・ブックSFのレビューを始めてみました。

 ❖ 呂仁為 Ⅱ 〜 昭和の想い出話や親しみやすい時代物、歴史小説などについて書きます。

 ✿ 流火-rjuka- ~ 主に漢詩の創作、訳詩などを行っています。架空言語による詩も今後作りたいと思っています。

 ☃ ちゅうごくさるなし
主に小説を書きます。気が向けば弟のカヲスな物語や、独り言呟きなことを書くかもしれません。

 ♘ ED-209ブログ引っ越しました。

 ☠ 杏仁ブルマ
セカイノハテから覗くモノ 



 我ら一同、只管に【快文書】を綴るのみ。お気に入りの本の頁をめくる感覚で、ゆるりとお楽しみ頂ければ僥倖に御座居ます。









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