『読んで面白い』『検索で来てもガッカリさせない』『おまけに見やすい』以上、三カ条を掲げた〜快文書〜創作プロフェッショナル共が、心底読み手を意識した娯楽文芸エンターテイメントを提供。映画評論から小説、漢詩、アートまでなんでもアリ。嘗てのカルチャー雑誌を彷彿とさせるカオスなひと時を、是非、御笑覧下さいませ。
No.132
2009/11/10 (Tue) 00:05:43
期待 デーメル
赤い館のかたわら
海緑色の池から
樫の死木のしたに
月が照る
館がくらく
水にうつるところに
男がひとり立ち
指環をはずす
三粒のオパールがきらめき
青白い石のないぶに
赤や緑がきらきらと浮び
流れ沈みゆく
男は石に口づけし
瞳は海緑色
の水底のようにかがやき
窓がひとつひらく
樫の死木のかたわらの
赤い館から
青白い女の手が
男にむかってひらひらと動く
岩波文庫『ドイツ名詩選』より(檜山哲彦訳)。
好きな作品であると同時に、どうも解釈に苦しむ詩だ。
題名を「期待(Erwartung)」というけれど、いったい誰が何を期待しているのだろうか。
池のほとりに立って指環をはずした男が、宝石のなかに明滅する赤や緑のきらめきを眼にし、何かよいことが起こるのを予感して石に口づけした。まずそんなふうに感じるのだが、館の窓から女の手(Frauenhand)が出てきて男に何事か合図をする、その手が青白い、血色が悪い(bleich)というのが気にかかる。なんとなく、期待というよりは不安になるような女の手だ。
あるいは何かを期待しているのは、手を振った女のほうだろうか。彼女は病弱な体だ。さきほどその男性に、自分の形見にとオパールの指環を渡した。彼が池のほとりで、その宝石をじっと見て口づけし、その瞳のなかに澄んだ輝きを宿しているのを彼女は見た。きっと彼は、彼女のことをずっと忘れないだろう……という期待。
しかし、詩の中では女の手は遠景の一部に過ぎない感もあり、そこまで想像するのは恣意的な気もする。
「樫の死木」という言葉から、男が立っている場所はきっとさびしげな場所だ。館も暗いし、ひとけはないけれど、月が皎々と照らし、そして何より指環の青白い宝石は、周囲のことを忘れて見入ってしまうような美しさだ。男の心は満ち足りている。
なんとなく詩ぜんたいが、ひとつの夢のようにも感じられる。脈絡がないようで意味ありげな青白い女の手も、印象的な夢の幕切れのようだ。だから強いて解釈を試みなくてもいいのかも知れない。じじつ、これまで解釈しようとしなくても好きな作品だったのだから。
元来これが収められている作者デーメル(Richard Dehmel 1863 - 1920)の『女と世界』という詩集をみれば、もっと何か分かるかも知れない。
ドイツ語に詳しい方のために、この詩の原文を掲げておきます。
Erwartung
Aus dem meergrünen Teiche
neben der roten Villa
unter der toten Eiche
scheint der Mond.
Wo ihr dunkles Abbild
durch das Wasser greift,
steht ein Mann und streift
einen Ring von seiner Hand.
Drei Opale blinken;
durch die bleichen Steine
schwimmen rot und grüne
Funken und versinken.
Und er küßt sie, und
seine Augen leuchten
wie der meergrüne Grund:
ein Fenster tut sich auf.
Aus der roten Villa
neben der toten Eiche
winkt ihm eine bleiche
Frauenhand ....
(c) 2009 ntr ,all rights reserved.
赤い館のかたわら
海緑色の池から
樫の死木のしたに
月が照る
館がくらく
水にうつるところに
男がひとり立ち
指環をはずす
三粒のオパールがきらめき
青白い石のないぶに
赤や緑がきらきらと浮び
流れ沈みゆく
男は石に口づけし
瞳は海緑色
の水底のようにかがやき
窓がひとつひらく
樫の死木のかたわらの
赤い館から
青白い女の手が
男にむかってひらひらと動く
岩波文庫『ドイツ名詩選』より(檜山哲彦訳)。
好きな作品であると同時に、どうも解釈に苦しむ詩だ。
題名を「期待(Erwartung)」というけれど、いったい誰が何を期待しているのだろうか。
池のほとりに立って指環をはずした男が、宝石のなかに明滅する赤や緑のきらめきを眼にし、何かよいことが起こるのを予感して石に口づけした。まずそんなふうに感じるのだが、館の窓から女の手(Frauenhand)が出てきて男に何事か合図をする、その手が青白い、血色が悪い(bleich)というのが気にかかる。なんとなく、期待というよりは不安になるような女の手だ。
あるいは何かを期待しているのは、手を振った女のほうだろうか。彼女は病弱な体だ。さきほどその男性に、自分の形見にとオパールの指環を渡した。彼が池のほとりで、その宝石をじっと見て口づけし、その瞳のなかに澄んだ輝きを宿しているのを彼女は見た。きっと彼は、彼女のことをずっと忘れないだろう……という期待。
しかし、詩の中では女の手は遠景の一部に過ぎない感もあり、そこまで想像するのは恣意的な気もする。
「樫の死木」という言葉から、男が立っている場所はきっとさびしげな場所だ。館も暗いし、ひとけはないけれど、月が皎々と照らし、そして何より指環の青白い宝石は、周囲のことを忘れて見入ってしまうような美しさだ。男の心は満ち足りている。
なんとなく詩ぜんたいが、ひとつの夢のようにも感じられる。脈絡がないようで意味ありげな青白い女の手も、印象的な夢の幕切れのようだ。だから強いて解釈を試みなくてもいいのかも知れない。じじつ、これまで解釈しようとしなくても好きな作品だったのだから。
元来これが収められている作者デーメル(Richard Dehmel 1863 - 1920)の『女と世界』という詩集をみれば、もっと何か分かるかも知れない。
ドイツ語に詳しい方のために、この詩の原文を掲げておきます。
Erwartung
Aus dem meergrünen Teiche
neben der roten Villa
unter der toten Eiche
scheint der Mond.
Wo ihr dunkles Abbild
durch das Wasser greift,
steht ein Mann und streift
einen Ring von seiner Hand.
Drei Opale blinken;
durch die bleichen Steine
schwimmen rot und grüne
Funken und versinken.
Und er küßt sie, und
seine Augen leuchten
wie der meergrüne Grund:
ein Fenster tut sich auf.
Aus der roten Villa
neben der toten Eiche
winkt ihm eine bleiche
Frauenhand ....
(c) 2009 ntr ,all rights reserved.
PR
No.131
2009/11/09 (Mon) 23:21:08
自分は喧嘩ということはほとんどしないし好きでない。一時の激情に駆られて日頃の不満を相手にぶちまけ、相手も負けじとこちらの痛いところを突いてくる、そんなやりとりが嫌いだ。相手に不満を感じたらそれを溜めたりせずに、注意深く言葉を選んでアッサリと率直に伝えたい。感情を抑制して考えを伝えれば、喧嘩になんかならないものだ。
感情の衝突が起きそうになったときの言葉の選び方は重要だ。相手の反対の意見を述べるのでも、「でも」や「しかし」で始めると受け入れられにくいし、雰囲気も険悪になる。相手の意見を認めた上で「それでね」と始めれば、話も聞いてくれやすいし雰囲気も穏やかになる。
ネットでは、かなり人を傷つけるような物言いでやりとりが交わされている場もよく見かける。ミクシィでもコミュニティによっては、ずいぶんきつい罵倒が飛び交っている。そういう場に入っていく機会はあまりないが、仮に当事者になったら「まあまあ……」とうまくみんなの喧嘩を収められたら愉快だろうな。まあ遠くから荒っぽい喧嘩を眺めるのも面白かったりするけど。
そのように平和的雰囲気を志向する一方で、詩などの文学作品では、騒乱をも予感させるような勇猛なものも好きだ。幕末の志士による詩は、しばしば意気天を衝くような憂国の熱情にあふれていて、心を動かされることが多い。何も国や天皇陛下のためでなくても、自分も自らの大切な主義主張のために熱誠を尽くして戦ってみたいものだ、などと夢想することもある。
次の詩の作者越智春雲は、歴史の本では河野顕三という名で呼ばれることが多いらしい。彼は文久2年(1862)、同志六人とともに坂下門外で老中安藤信正を襲撃。歴史に暗いので本からの引き写しになるが、皇妹和宮の降嫁を実現した「公武合体政策」を初めとする、安藤政権の施策に憤激してのことだったという。襲撃は失敗し、その場で河野は死んだ。年二十五。
偶成 越智春雲
奮然決死掃榛荊
一劍直當百萬兵
成否元來是天耳
欲留報國盡忠名
奮然死を決して榛荊(いばら)を掃い
一剣をひっさげて直ちに百万の兵に当たる
成功失敗は天命であって致し方ない
報国尽忠の我が名を後世に残したいと思う
次の詩は坂下門事件からさかのぼること二年、万延元年(1860)に起きた桜田門外の変に参加した水戸浪士、黒沢勝算によるもの。よく知られるように、この事件で大老井伊直弼が暗殺された。この「絶命詞」は黒沢が刑死する日に詠んだ辞世の詩。彼はこの時二十二歳。
絶命詞 黑澤勝算
呼狂呼賊任他評
幾歳妖雲一旦晴
正是櫻花好時節
櫻田門外血如櫻
狂人と呼ぶも乱賊と呼ぶも それは他人の評に任せよう
長年の妖雲も一時に晴れた気持ちだ
時まさに桜の花咲く好時節
桜田門外に飛び散った血も桜の花のようだった
前者の「偶成」は日常口ずさんでもよさそうな爽快も感じるが、「絶命詞」のほうは少し狂気じみた恐ろしさも感じる。
……と、自分はこういう詩を読むと気分の高揚を感じるのだが、慣れない人はドキリとするものなのかもしれない。右翼的な感じがして、近寄るのはやめておこうと思ったりもするだろうか。
また黒沢勝算も越智春雲も、それぞれ黒沢忠三郎、三島三郎の名で靖国神社に「殉難の士」として祀られているそうで、上のような詩を軽々しく好きだの嫌いだのと言うと、不謹慎だ、あるいは反動的だと怒る人もいるのかも知れない。
ただ優れた文学作品というのは、読む人の主義信条を超えて訴えかけてくるものがあるのだと思う。そういうとき読者はあたかも俳優のように、書き手の気持ちになって作品を味わっているのではなかろうか。書物を読んで心が豊かになるというのは、一つにはそういうことだと思う。読んでいて喚起される感情が自分の普段の感情とかけ離れているほど、心が柔軟に、より豊かになっていくのだろう。とくに古典を読む場合、この「書き手の感情を真似てみる」ことをしないとつまらないと思う。書き手の感情を理解した上で、その感情を受け入れるもよし、捨てるもよし、としたほうが面白そうだ。
ふだん感情がなだらかな自分だけに、上のような詩に興味を持つのかもしれない。ただ興味を持ったからといって、テロ容認など社会に迷惑をかける主義信条を持つようになるわけではない。人間の多種多様な感情を理解しうる「心の柔軟さ」を持ちたいと思っているだけだ。
(c) 2009 ntr ,all rights reserved.
感情の衝突が起きそうになったときの言葉の選び方は重要だ。相手の反対の意見を述べるのでも、「でも」や「しかし」で始めると受け入れられにくいし、雰囲気も険悪になる。相手の意見を認めた上で「それでね」と始めれば、話も聞いてくれやすいし雰囲気も穏やかになる。
ネットでは、かなり人を傷つけるような物言いでやりとりが交わされている場もよく見かける。ミクシィでもコミュニティによっては、ずいぶんきつい罵倒が飛び交っている。そういう場に入っていく機会はあまりないが、仮に当事者になったら「まあまあ……」とうまくみんなの喧嘩を収められたら愉快だろうな。まあ遠くから荒っぽい喧嘩を眺めるのも面白かったりするけど。
そのように平和的雰囲気を志向する一方で、詩などの文学作品では、騒乱をも予感させるような勇猛なものも好きだ。幕末の志士による詩は、しばしば意気天を衝くような憂国の熱情にあふれていて、心を動かされることが多い。何も国や天皇陛下のためでなくても、自分も自らの大切な主義主張のために熱誠を尽くして戦ってみたいものだ、などと夢想することもある。
次の詩の作者越智春雲は、歴史の本では河野顕三という名で呼ばれることが多いらしい。彼は文久2年(1862)、同志六人とともに坂下門外で老中安藤信正を襲撃。歴史に暗いので本からの引き写しになるが、皇妹和宮の降嫁を実現した「公武合体政策」を初めとする、安藤政権の施策に憤激してのことだったという。襲撃は失敗し、その場で河野は死んだ。年二十五。
偶成 越智春雲
奮然決死掃榛荊
一劍直當百萬兵
成否元來是天耳
欲留報國盡忠名
奮然死を決して榛荊(いばら)を掃い
一剣をひっさげて直ちに百万の兵に当たる
成功失敗は天命であって致し方ない
報国尽忠の我が名を後世に残したいと思う
次の詩は坂下門事件からさかのぼること二年、万延元年(1860)に起きた桜田門外の変に参加した水戸浪士、黒沢勝算によるもの。よく知られるように、この事件で大老井伊直弼が暗殺された。この「絶命詞」は黒沢が刑死する日に詠んだ辞世の詩。彼はこの時二十二歳。
絶命詞 黑澤勝算
呼狂呼賊任他評
幾歳妖雲一旦晴
正是櫻花好時節
櫻田門外血如櫻
狂人と呼ぶも乱賊と呼ぶも それは他人の評に任せよう
長年の妖雲も一時に晴れた気持ちだ
時まさに桜の花咲く好時節
桜田門外に飛び散った血も桜の花のようだった
前者の「偶成」は日常口ずさんでもよさそうな爽快も感じるが、「絶命詞」のほうは少し狂気じみた恐ろしさも感じる。
……と、自分はこういう詩を読むと気分の高揚を感じるのだが、慣れない人はドキリとするものなのかもしれない。右翼的な感じがして、近寄るのはやめておこうと思ったりもするだろうか。
また黒沢勝算も越智春雲も、それぞれ黒沢忠三郎、三島三郎の名で靖国神社に「殉難の士」として祀られているそうで、上のような詩を軽々しく好きだの嫌いだのと言うと、不謹慎だ、あるいは反動的だと怒る人もいるのかも知れない。
ただ優れた文学作品というのは、読む人の主義信条を超えて訴えかけてくるものがあるのだと思う。そういうとき読者はあたかも俳優のように、書き手の気持ちになって作品を味わっているのではなかろうか。書物を読んで心が豊かになるというのは、一つにはそういうことだと思う。読んでいて喚起される感情が自分の普段の感情とかけ離れているほど、心が柔軟に、より豊かになっていくのだろう。とくに古典を読む場合、この「書き手の感情を真似てみる」ことをしないとつまらないと思う。書き手の感情を理解した上で、その感情を受け入れるもよし、捨てるもよし、としたほうが面白そうだ。
ふだん感情がなだらかな自分だけに、上のような詩に興味を持つのかもしれない。ただ興味を持ったからといって、テロ容認など社会に迷惑をかける主義信条を持つようになるわけではない。人間の多種多様な感情を理解しうる「心の柔軟さ」を持ちたいと思っているだけだ。
(c) 2009 ntr ,all rights reserved.
No.129
2009/11/09 (Mon) 22:34:59
しばしば長文を書くけれど、自分はどちらかというと無口なほうで、ふだん実際に顔を合わせている人が僕の日記を見ると、あるいはギャップを感じるかもしれない。ふだん無口な理由として
・頭の回転が鈍いため、その場に適した発言を即座にはできない。
・基本的に物の考え方が邪悪かつトンチンカンで、思っていることをそのまま口に出すとえらいことになる。
・口を開くのが面倒で、気まずい沈黙が訪れない限りは、人が喋っているのを聞いているほうが楽だ。
といったことがある。回転が悪く勘が鈍いのは、さらに掘り下げた理由として「テンションが低い」ということがある。僕は生まれてこの方、口喧嘩というものをほとんどしたことがない。人に不快なことを言われても、だいたいポカンとしている。言われてからだいぶ時間が経ってから、自分が不愉快なことを言われたことに気付いてカチンときて、さらに二時間ほど経ってから「あのときこう言えば相手をへこますことができたのに」と思いつく。たまには喧嘩もしてみたい。
一方何か考えたとしても、その内容はたいてい邪悪あるいはトンチンカンなもので、口を開くときにはよくよく注意しなければならない。頭の中から湧き出たものをよく常識と照らし合わせて、理性の検閲にかけてから口に出す必要がある。鈍い頭でそういう作業をするから発言にも時間がかかる。だからネット上でも、いわゆるチャットということをするのは難しい。
携帯メールでもミクシィでも、大変なスピードでレスをくれる人が結構いる。長文の日記を書いてアップしても、「足あと」がついてからものの数分でコメントをくださる方がいて「いったいどうやってそんなに早く」と驚愕する。それもきちんと読んでくださった上での的確なコメント。僕にはそんなことはとても不可能だ。「文面はキーボードを打つ指先で考える」という人もいるが、僕はどうやっても脳でしか考えられない。また脳から発せられた信号が神経を伝わって指先に到達するのも、人様の倍ぐらい時間がかかっているような気がする。
昔見た恐竜図鑑で、「ステゴザウルスは尻尾を叩かれても、神経が鈍いから痛みを感じるまで三秒以上かかる」というのを読んで「へー」と思ったが、僕の神経の情報伝達速度もおそらく恐竜なみだ。スピード化の著しい現代、これで生きていけるのかとても不安だ。
ところで以前『ゾウの時間ネズミの時間』という本がベストセラーになったことがあった。読んではいないけれど新聞の書評を目にした限りでは、概ね次のようなことが書かれているらしい。つまりネズミのような小動物はチョコマカすばしこく動き回ることができるが、生命エネルギーを使い果たすのも早くて寿命も短い。一方ゾウなどは、のっそりとして動きも鈍いが、エネルギーを使うのもゆっくりで、そのぶん長く生きることができる。
そういう考え方をすれば、恐竜のような僕は皆さんよりだいぶ長生きするのかも知れませんねアハハ。
以下、映画「恐竜100万年」のレビューにお付き合いください。
原始時代の人間と恐竜との戦いを描いた1966年のイギリス映画で、当時の代表的なグラマー女優だったラクエル・ウェルチの主演。ウェルチをはじめ、皮のビキニを着たプレイメイツのような金髪美女がたくさん出てきて海辺でたわむれ、果たして原始時代にこのような光景があったろうかという非常なる違和感。いやそもそも恐竜時代に人間はいなかったわけで、設定そのものからして純然たるファンタジーである。CGではなく、コマ撮りによって恐竜の細かな動きを表現する、レイ・ハリーハウゼンの見事なSFX。翼竜にわしづかみにされ泣き叫ぶウェルチ。子どもは恐竜に胸ときめかせ、大人は金髪美女から目が離せないという家族みんなで楽しめる作品。つっこみどころ満載の映画であり、ご覧になったことのない方は是非。
(c) 2009 ntr ,all rights reserved.
・頭の回転が鈍いため、その場に適した発言を即座にはできない。
・基本的に物の考え方が邪悪かつトンチンカンで、思っていることをそのまま口に出すとえらいことになる。
・口を開くのが面倒で、気まずい沈黙が訪れない限りは、人が喋っているのを聞いているほうが楽だ。
といったことがある。回転が悪く勘が鈍いのは、さらに掘り下げた理由として「テンションが低い」ということがある。僕は生まれてこの方、口喧嘩というものをほとんどしたことがない。人に不快なことを言われても、だいたいポカンとしている。言われてからだいぶ時間が経ってから、自分が不愉快なことを言われたことに気付いてカチンときて、さらに二時間ほど経ってから「あのときこう言えば相手をへこますことができたのに」と思いつく。たまには喧嘩もしてみたい。
一方何か考えたとしても、その内容はたいてい邪悪あるいはトンチンカンなもので、口を開くときにはよくよく注意しなければならない。頭の中から湧き出たものをよく常識と照らし合わせて、理性の検閲にかけてから口に出す必要がある。鈍い頭でそういう作業をするから発言にも時間がかかる。だからネット上でも、いわゆるチャットということをするのは難しい。
携帯メールでもミクシィでも、大変なスピードでレスをくれる人が結構いる。長文の日記を書いてアップしても、「足あと」がついてからものの数分でコメントをくださる方がいて「いったいどうやってそんなに早く」と驚愕する。それもきちんと読んでくださった上での的確なコメント。僕にはそんなことはとても不可能だ。「文面はキーボードを打つ指先で考える」という人もいるが、僕はどうやっても脳でしか考えられない。また脳から発せられた信号が神経を伝わって指先に到達するのも、人様の倍ぐらい時間がかかっているような気がする。
昔見た恐竜図鑑で、「ステゴザウルスは尻尾を叩かれても、神経が鈍いから痛みを感じるまで三秒以上かかる」というのを読んで「へー」と思ったが、僕の神経の情報伝達速度もおそらく恐竜なみだ。スピード化の著しい現代、これで生きていけるのかとても不安だ。
ところで以前『ゾウの時間ネズミの時間』という本がベストセラーになったことがあった。読んではいないけれど新聞の書評を目にした限りでは、概ね次のようなことが書かれているらしい。つまりネズミのような小動物はチョコマカすばしこく動き回ることができるが、生命エネルギーを使い果たすのも早くて寿命も短い。一方ゾウなどは、のっそりとして動きも鈍いが、エネルギーを使うのもゆっくりで、そのぶん長く生きることができる。
そういう考え方をすれば、恐竜のような僕は皆さんよりだいぶ長生きするのかも知れませんねアハハ。
以下、映画「恐竜100万年」のレビューにお付き合いください。
原始時代の人間と恐竜との戦いを描いた1966年のイギリス映画で、当時の代表的なグラマー女優だったラクエル・ウェルチの主演。ウェルチをはじめ、皮のビキニを着たプレイメイツのような金髪美女がたくさん出てきて海辺でたわむれ、果たして原始時代にこのような光景があったろうかという非常なる違和感。いやそもそも恐竜時代に人間はいなかったわけで、設定そのものからして純然たるファンタジーである。CGではなく、コマ撮りによって恐竜の細かな動きを表現する、レイ・ハリーハウゼンの見事なSFX。翼竜にわしづかみにされ泣き叫ぶウェルチ。子どもは恐竜に胸ときめかせ、大人は金髪美女から目が離せないという家族みんなで楽しめる作品。つっこみどころ満載の映画であり、ご覧になったことのない方は是非。
(c) 2009 ntr ,all rights reserved.
目次
上段の『☆ 索引』、及び、下段の『☯ 作家別索引』からどうぞ。本や雑誌をパラパラめくる感覚で、読みたい記事へと素早くアクセスする事が出来ます。
執筆陣
HN:
快文書作成ユニット(仮)
自己紹介:
各々が皆、此の侭座して野に埋もるるには余りに口惜しい、正に不世出の文芸家を自称しております次第。以下、【快文書館】(仮)が誇る精鋭を御紹介します。
❁ ntr 〜 またの名を中村震。小説、エッセイ、漢詩などを書きます。mixiでも活動。ふだん高校で数学を教えているため、数学や科学について書くこともあります。試験的にハヤカワ・ポケット・ブックSFのレビューを始めてみました。
❖ 呂仁為 Ⅱ 〜 昭和の想い出話や親しみやすい時代物、歴史小説などについて書きます。
✿ 流火-rjuka- ~ 主に漢詩の創作、訳詩などを行っています。架空言語による詩も今後作りたいと思っています。
☃ ちゅうごくさるなし
主に小説を書きます。気が向けば弟のカヲスな物語や、独り言呟きなことを書くかもしれません。
♘ ED-209 〜 ブログ引っ越しました。
☠ 杏仁ブルマ
セカイノハテから覗くモノ
我ら一同、只管に【快文書】を綴るのみ。お気に入りの本の頁をめくる感覚で、ゆるりとお楽しみ頂ければ僥倖に御座居ます。
※ 基本的に当ページはリンクフリーです。然し乍ら見易さ追求の為、相互には承っておりません。悪しからず御了承下さい。※
❁ ntr 〜 またの名を中村震。小説、エッセイ、漢詩などを書きます。mixiでも活動。ふだん高校で数学を教えているため、数学や科学について書くこともあります。試験的にハヤカワ・ポケット・ブックSFのレビューを始めてみました。
❖ 呂仁為 Ⅱ 〜 昭和の想い出話や親しみやすい時代物、歴史小説などについて書きます。
✿ 流火-rjuka- ~ 主に漢詩の創作、訳詩などを行っています。架空言語による詩も今後作りたいと思っています。
☃ ちゅうごくさるなし
主に小説を書きます。気が向けば弟のカヲスな物語や、独り言呟きなことを書くかもしれません。
♘ ED-209 〜 ブログ引っ越しました。
☠ 杏仁ブルマ
セカイノハテから覗くモノ
我ら一同、只管に【快文書】を綴るのみ。お気に入りの本の頁をめくる感覚で、ゆるりとお楽しみ頂ければ僥倖に御座居ます。
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