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 『読んで面白い』『検索で来てもガッカリさせない』『おまけに見やすい』以上、三カ条を掲げた〜快文書〜創作プロフェッショナル共が、心底読み手を意識した娯楽文芸エンターテイメントを提供。映画評論から小説、漢詩、アートまでなんでもアリ。嘗てのカルチャー雑誌を彷彿とさせるカオスなひと時を、是非、御笑覧下さいませ。
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No.151
2009/12/08 (Tue) 01:02:14

 哲学に造詣の深いかたが読まれていたら、初めに謝っておかなければならない。僕の哲学への無理解を書き連ねるのだから。

 mixiで出会った教養ある人に「哲学書をあまり読まない」というと、「ああ、僕もそうなんですよね」という答えはほとんど返ってこない。相手は「それぐらい読むべきだ」と思って閉口してしまっているのだろうか。僕にはよくわからない。

 僕のように数学に親しんでいる人が哲学書を熱心に読むってどんな感じなんだろう。
 数学では、まず「無定義述語」があって、それらを関連付けた「公理」が用意されていて、そこから議論を進めるためのルールである「推論規則」が明確に存在している。たとえて言えばぴかぴかに磨かれたチェスの駒が整然と盤面に並べられていて、おのおのの駒の動きが明確に指定されているようなものだ。だから安心してゲームを始められる。
「無定義述語」とは幾何学で言えば「点、面、直線」のようなもので、それらにはもはや定義は存在しない。ユークリッド原論では「直線とは一様に横たわる点である」などと訳がわかったようなわからないような定義を与えているが、現代ではそれはもはや定義とは認められていない。Aという言葉の定義にBという言葉が使われ、言葉Bの定義にCが使われ、言葉Cの定義にDが使われ……と、定義には際限がないから、数学では「この言葉にはもうこれ以上定義を与えない」という行き止まり、つまり無定義述語がきちんと用意されている。
 そして公理は「これ以上疑いようのない万人が認めうる真実」などでは決してなく、単に「証明を与えない命題」に過ぎない。事実Aの証明に事実Bを使い、事実Bの証明に事実Cを使い……と事実の証明にも際限がないから、数学はこれにも「公理」という行き止まりを与えているに過ぎない。
 だから数学は厳密にはこの世の真実を解き明かすものではない。「仮に公理と推論規則を認めれば何が導かれるか」を探求するに過ぎない。

 いわゆる哲学書というものを開くと「この世の真実」を解き明かそうとしているように見える。だからその中の公理らしきものは、「これ以上疑いようのない万人が認めうる真実」という古い数学の公理のような性質を帯びている。無定義述語もはっきりしない。だからどうしても気持ちが悪い。で、読み始めてもつい途中で放り出してしまう。
 プラトンの書物を読もうとしたことが何度かあったが、そこに出てくるソクラテスの議論の進め方にちょっとした論理的誤謬が見つかって、その先はもう読む価値がないように感じて読むのをやめた。真実を探求するのが目的なら、議論のステップの誤りは致命的だ。

 数学をやっている人は哲学書を読むとき「世界について考えたいけど、そういう場合は数学のように、不純物のないぴかぴかのチェス盤から話を始めるわけにはいかないよね」と妥協して、言葉や議論の不明確さを感じることがあっても、うまく折り合いをつけて付き合っている、のだろうか。僕もそういう感覚で哲学書に付き合ってみようとチャレンジしてみることはあるのだが、ついくじけてしまうのである。

「存在とは何か」といったことが哲学ではよく問題になるらしい。もっともなことだと思う。哲学書は「世界」について語ろうとする。では世界とは何か、ということになると、素朴な定義としては「存在するものの全体」というのがあるだろう。しかしこの「存在」をどう定義したらよいかが難しいところだ。

 以下、不勉強を省みず、僕なりに「存在」について思うことを書きつらねてみよう。
 数学で「存在とは何か」と明示的に定義しているのは不勉強にして見たことがないが、一般的感覚としては、そこで考えられている公理系で「そういうものを想定しても矛盾を生じないこと」ということになろうか。

 数学に接していると、僕などはギリシアの哲学者が言った「真、善、美」という三つの徳が、結局はすべて同じものなのではないかという幻想にとらわれることがある。
 ポアンカレの著作にも似たようなことが書かれていて敢えて自分も言ってみるのだが、美しいことは真であり、真であることは美しいのである。善いことは真であり美であるのである。数学関係者も読んでいるのを知っていてさらに暴走して書くのだが、数学的真実、数学的存在は、真善美と相互に深いところでつながっている……そこにはわれわれの思考を理想主義的に方向付ける何かがある……のではなかろうか。
 しかし数学の世界とは違う、なまの現実の世界はそうではない。
 醜いものが存在して、真であるかのように厳として存在する。

 フレドリック・ブラウンに『火星人ゴーホーム』という小説がある。
 ある日いきなり地球の各所に、チビで緑色の火星人が群をなして現れる。地球人に直接暴力を振るったりはしない。ただ人間の前に姿を現して、千里眼を駆使してイヤなことを喋りまくるだけである。
「おい、いまお前の彼女が男とホテルに入って行ったぞ。仕事上の付き合いってこともありうるな。しかしその男、ホテルの部屋で腕時計以外は何も身につけていなかったがね」
 世の中、自分の弱点をたくみについてイヤなことをチクチク言ってくるやつがいるものだ。その火星人はその権化のようなものだが、体はまるで幻であるかのように、殴ろうとしても手がするりと通り抜けてしまう。退治しようにも実体がなく、どうにも手の付けようがない。
 この小説の主人公は、はじめは火星人に悩まされノイローゼに陥っていたが、最後にはまるで気にしなくなった。火星人が目の前に現れても彼は無意識に目をそらす。火星人が何か喋っても、耳が反応しなくなって、本当に聞こえなくなった。主人公は心の中から、火星人を完全に追い出すことに成功したのだった。

 僕は中学に教育実習に行ったとき、はじめはこの『火星人ゴーホーム』の主人公の最後の姿のように、中学生のつまらない罵声がまったく耳に入らなかった。話しかけられてもほとんど気付かなかった。そういうふうな罵声、そのような話しかけ方が、自分の中で存在が許せないものだったからかも知れない。
 しかし、受け持ちのクラスに非常に毒舌な少女が一人いた。僕を目にするたびにイヤなことを言い続けた。はじめは無視していたが、あまりに腹が立ったからつい「うるさい!」と怒鳴り返してしまった。どこかの塾講師が小学生の女子を殺した、なんてニュースがあったが、なるほどこんな女子生徒なら殺したくなるのも分かる、というぐらいに憎らしく思った。
 しかし今にして思うと、僕は『火星人ゴーホーム』の主人公のようであってはならず、その女の子の醜い罵詈雑言にきちんと向き合わねばならなかったのかも知れない。そういう醜い事柄が、認めたくはなくともまぎれもない「この世の存在」なのだから。
 数学の世界の「存在」のように綺麗なものでない「存在」が現にそこにあるのだ。
 そういうことを、その女の子は僕にひどい言葉を浴びせ続けることによって知らせていたのではなかろうか……などと今になって深読みしている。
「お前にとっては嫌なやつかも知れないけど、わたしはここに存在するんだ! 存在する! 存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する存在する」って。

 そうやって執拗に耳が痛くなるぐらいに言われて、ようやく僕は彼女の存在を認められた、認めざるを得なかった。
 そういうわけで、「存在とは何か」は難しいことだけど、「真・善・美」と密接に関わる数学的存在とは性質を異にしたこの世の存在、ありのままの存在というものは、おもに「不快感」を通して知覚されるものではないか、という感じが僕にはする。

「存在とは何か」は面白い問いだし、各分野の専門家にその質問をぶつけてみて、学際的に「存在」というものを研究してみるのも有意義なことかも知れない。
 

(c) 2009 ntr ,all rights reserved.
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執筆陣
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快文書作成ユニット(仮)
自己紹介:
 各々が皆、此の侭座して野に埋もるるには余りに口惜しい、正に不世出の文芸家を自称しております次第。以下、【快文書館】(仮)が誇る精鋭を御紹介します。


 ❁ ntr 〜 またの名を中村震。小説、エッセイ、漢詩などを書きます。mixiでも活動。ふだん高校で数学を教えているため、数学や科学について書くこともあります。試験的にハヤカワ・ポケット・ブックSFのレビューを始めてみました。

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