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 『読んで面白い』『検索で来てもガッカリさせない』『おまけに見やすい』以上、三カ条を掲げた〜快文書〜創作プロフェッショナル共が、心底読み手を意識した娯楽文芸エンターテイメントを提供。映画評論から小説、漢詩、アートまでなんでもアリ。嘗てのカルチャー雑誌を彷彿とさせるカオスなひと時を、是非、御笑覧下さいませ。
No.
2024/11/21 (Thu) 17:49:57

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No.417
2011/03/02 (Wed) 16:11:20

 自分が大学院時代、修士課程、博士課程を通じてお世話になったのはK教授という小柄な初老の人物だった。K教授の研究室では、大まかに言って群の表現という分野が研究されており、当然自分の専門分野も群の表現だった。

 大学の数学教室では、学部四年生以上になると「セミナー」というものに出席することが義務付けられる。それは学生が自分の研究テーマに沿った英語の数学書を読んできて、指導教授の座っている前で、理解した内容を黒板を使って説明するというものである。数学科の学生は昔も今も、このセミナーという形式で数学的思考と発表の仕方を訓練し、数学者としての基礎を身につけていくのである。セミナーには、発表の際に自分の勉強している本を見てはならないというルールがある。だから学生は、あらかじめ用意してきた自筆のメモを参照しながらセミナーを進めることになる。

 さて自分も修士課程に入ると、K教授の指導のもとセミナーを行うことになった。K教授のセミナーは、他の教授のそれよりもさらに厳格だった。発表の際には、メモすらも見てはならないというのだ! 私はJ.-P. Serre の Linear Representations of Finite Groups という書物でセミナーを行った。毎週一回、セミナー室と呼ばれる小さな部屋で、K教授たった一人を相手に二、三時間の発表を行った。その間メモの類をいっさい見られないということで、セミナーの前日はいつも徹夜で勉強した。
 それは確かに勉強になった。そうやって骨を折った甲斐があったのか、入学二年目の冬に書き上げた修士論文は好評をもって迎え入れられた。

 修士を出たあと私は一般企業に就職したが、のちに同じ大学の大学院に戻り、再びK教授の指導を仰いだ。博士課程に入ったわけだが、数年間のブランクがあったため、同じ研究室には年下の先輩が何人もいるという状態になった。

 今度私がセミナーで読むことになったのは、コクセター群の組み合わせ論という分野の本だったが、そのほか学生たちだけで自主的に行うセミナーにも出席した。コクセター群のほうは私の発表だったが、自主セミナーのほうでは私は聴き手で、K教授もいないから、だいぶ気が楽だった。自主セミナーでの発表者はOさんという年下の先輩だったが、講読する本はHartshorne の Algebraic Geometry だった。代数幾何の有名な入門書である。代数幾何は我々の研究室の研究テーマとは少しかけ離れたものであり、難しいことで有名な分野だ。しかし難しいと同時に華々しい内容を持っており、日本でフィールズ賞を受賞した小平、広中、森の三氏の研究分野がいずれも代数幾何だったこともあって、聴講者たちにもある種の期待感があったのではなかろうか。

 この自主セミナーは毎週日曜に行われた。大学の講義棟には鍵がかかっていたが、学生証のカード認証で中に入ることができた。だいたい午後一時ごろからの開始だったが、Oさんの都合で遅くなることもあった。したがって毎回の終わりに、次回の開始時間の確認が行われた。しかしあるとき、Oさんが「次回は午後一時からで」というべきところを「午前一時からで」と言い間違えた。みんな「午前一時!?」といっせいに驚きの声を上げた。Y先輩はにやにやしながら「僕は午前一時でもかまわないよ」と言った。するとみな冗談交じりに「じゃあ僕も午前一時でいい」と口々に言いはじめ、その声はOさんの「いや、午後一時です」という小さな声を押しつぶしてしまった。しばし談笑が続いたが、当然次回は午後一時からということをみな了解して、その日は解散となった。

 みな了解していたはずだった。しかしT君という修士一年の青年だけは違っていた。T君は寡黙で、セミナーの出席者の中でもほんのときどきしか発言しなかった。だから彼一人が午前一時開始という誤解が解けないまま帰ってしまったとしても、他の者が気づかなかったのは無理もなかった。
 さてT君は次の日曜日の午前一時、すなわち通常は土曜日の深夜と認識されている時間にいつものセミナー室にやってきた。そしていつも座っている一番前の席に陣取って、ずっと皆が集まるのを待っていた。

 そのころ、学校荒らしが深夜、頻々と出没していた。数学科の教授の部屋が、何度か荒らされる被害もあった。いちど大学の監視カメラがその学校荒らしの姿をとらえたことがあって、その写真が廊下に張り出されていた。それは頭の禿げ上がった五十代半ばぐらいの痩せた小さな男で、暗い廊下をいかにも不審な目つきで歩いているところが写されていた。

 T君が三十分ばかりセミナー室で待っていると、がちゃりと戸が開いた。入ってきたのは件の写真に写っていた学校荒らしだった。
「何の用ですか」T君が尋ねると、
「お前こそ何をしている」という返事。
「セミナーが始まるんです」
「こんな時間にか?」
「あなたは誰ですか。泥棒ですか」とT君。
「俺がか? それは誤解だ。俺はこの大学の数学科の卒業生だ」

 学校荒らしと目されてきたこの人物によると、彼は過去に長くこの大学の大学院に在籍したが、指導教授との仲違いから退学し、以来どこの大学にも籍をおかず独自に数学を研究してきたのだという。自分の最近の研究成果をこの大学の教授のもとに送ったが、まったく相手にされないため、最近の研究の動向を知るために深夜大学に忍び込み、教授たちの部屋にある資料を見て回っていたらしい。

 その学校荒らしは思いがけずT君という数学科の学生と出くわし、多年の研究成果を聞いてもらおうと思い立ったらしく、黒板を使って彼の理論を説明し始めた。
 T君は真面目にその話を聞いていたが、専門外の微分幾何の話題だったため、途中で理解できなくなってしまった。しかし黙ってこの見知らぬ男の話を聞き続けた。

 突然「こんな時間に何してる?」と大きな声がして、扉が開いた。K教授だった。教授は忘れ物を取りに大学に来たのだった。そしてセミナー室に自分の教え子と不審な初老の男がいるのを認めたが、黒板にびっしり書かれた数式を見て、すぐにセミナーが行われていると理解した。そして学校荒らしも学生と同等に扱い、「学校は二十四時間営業じゃない。すぐ帰ってください」と促した。しかし学校荒らしは大学の教授が来たのを知り、ここを先途とばかりに自分の発見したことを聞くようK教授に迫った。K教授は黒板中に書かれたテンソル記号やちまちました添え字や微分作用素を見て、
「どうも私の専門じゃないようだが」といいつつも、この不審人物の話に耳を傾け始めた。

 K教授ははじめはじっと立って黒板を注視し、また話が難しいところにくると、いつもするようにうつむきながら部屋を行ったり来たりした。
 やがて夜が白々と明けてきたころ、教授は初めて口を開き「きみの話には飛躍がある」と言った。K教授は学生に対しては「きみ」、大学に職を得ているものは「先生」と呼び、その言葉を截然と使い分けていた。学校荒らしは学生として扱われたわけだ。

 K教授が指摘した「飛躍」は、この学校荒らしによる主定理の証明の、いわば根幹に関わっていた。その「飛躍」によって、彼の研究成果は台無しになってしまうのである。教授の指摘によって、自分の多年の努力がどうやら水の泡になってしまったのを理解すると、学校荒らしはがっくりとうなだれた。

 朝になって警備員が出勤してくると、セミナー室に座って呆然としている学校荒らしを見咎め、彼はお縄になった。あとで聞くと、その男は強盗殺人の罪で全国に指名手配中の人物だったそうだ。


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 各々が皆、此の侭座して野に埋もるるには余りに口惜しい、正に不世出の文芸家を自称しております次第。以下、【快文書館】(仮)が誇る精鋭を御紹介します。


 ❁ ntr 〜 またの名を中村震。小説、エッセイ、漢詩などを書きます。mixiでも活動。ふだん高校で数学を教えているため、数学や科学について書くこともあります。試験的にハヤカワ・ポケット・ブックSFのレビューを始めてみました。

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