『読んで面白い』『検索で来てもガッカリさせない』『おまけに見やすい』以上、三カ条を掲げた〜快文書〜創作プロフェッショナル共が、心底読み手を意識した娯楽文芸エンターテイメントを提供。映画評論から小説、漢詩、アートまでなんでもアリ。嘗てのカルチャー雑誌を彷彿とさせるカオスなひと時を、是非、御笑覧下さいませ。
No.555
2012/04/02 (Mon) 19:43:35
歳のせいか陽気が悪いのか、なかなか冬支度から抜けない。
三寒四温とは言うけれどこのところ極端な気温変動が多く、手放したマフラーやワッチ帽をまた出してきたり・・・
さて、缶コーヒーのオマケもとりあえず気に入っているのは集めてしまった。
まあ、コンプリートという言葉は小生にとって昔から意味をなさないし、全部集めきるという行為にさほど興味を持たないから仕方ない。そのかわり、気に入ったものはいくつも買ったり集めたりする。
400FOURは一体、何人にあげたのかさえ思い出せないほどだ。
他の刀や隼も出来はいいのだけれど、シートのリベットまで綺麗に塗られたうえに、集合管の「ヨシムラ」までくっきりとステッカーロゴを再現しているのはルーペでチェックが必要なほどだ。
マクドナルドでトイザラスがなんとかセットに付けてるのは違うし、余計なギミックはなくても、机上で昭和を回想できる。
ホンダCB400FOURは70年代のというより昭和を代表する傑作バイクのひとつだ。免許制度の改正に合わせて、398ccと408ccが存在するが見た目はせいぜいタンクの色だけだ。
高校1年の秋、原付免許を取ってスズキのマメタンを乗り回していたが、学校の帰りにバイクで同級生のAの家に行くことになり、確か谷中の方へ乗っていった。
Aはその頃ミニトレ(ヤマハGT50)を乗っていたが、彼は既に自動2輪免許を持っており、近所に同い年でCB400FOURを所持している友達が居た。
「乗ってみるか?」と初対面のそいつに言われ、重さと大きさに負けてモノの30mくらいの直線しか乗れずに立ち止まった。「所詮、50とは違うさ、乗れねえだろう?」と嘲笑された。身体も小さく力も車両感覚(バイクの取り回し)に慣れていないのだから仕方ないのだが・・・。
Aは鴬谷の坂の下を一緒に降りて日光街道に出るまで自分を送ってくれた。
その1月後くらいに、Aの誘いで日光へツーリングに行くことになった。
早朝の北千住駅前で待ち合わせて日光街道をひた走ったが、50と400では出せるスピードも違うし、向こうは信号を2つも3つも先に行った。途中まではAがちょこちょこ待っていてくれたが、やがてはぐれてしまった。宇都宮か今市辺りだったと思うが疲れたから折り返し来た道を引き返した。「なんて、馬鹿馬鹿しい旅をしたんだろう」と思いながら交差点で信号待ちをしていたサニーのバンに追突してしまった。
チョッパーにしてあるフロントフォークは歪み、ハンドルは少し逆に向いていた。初めての事故でましてや止まっていた車に突っ込んだので気が動転していた。
ぶつけた相手は、こちらが子供だからバンパーが少し凹んだだけなのに「免許を見せて」とか家の住所と電話番号とか訊かれたと思う。「アルバイトした金でバンパーの修理代は送りますから家には電話しないでください」と懇願したが、曲がったフォークとハンドルで4時間ほどかけて帰宅したらとっくに両親にばれていた。
それからバイクは修理にまた数万近くかかり、サニーのバンパーの修理見積が3万位来た。母親はこと金に対しての執着が凄かったから顔を合わせばご飯どきであろうと始終、文句のいわれ通しだった。
結局、マメタンは修理が終わってしばらく封印したが、やがて新聞配達を始めた時に3万ほどで下取りに出して別の原付を買った。
Aとはその後、気まずくなり高校在学中は会っても言葉を交わす程度でやがて卒業後も会うことはなかった。
****************
先日、ある親しい友人と日暮里で落ち合い、駅に近い赤提灯で呑んだ。
おでんの品書きに釣られて入ったがなかなかどうして、谷中生姜や豆腐のサラダ、らっきょうが旨く、話も弾んで2時間ほども語らい共に飲んだ。そこへ行く途中にエドウインの直営のアウトレットがある。待ち合わせに行く前に覗いてみたら、かつてはLeeのアイテムも置いたいたのに見当たらなかった。女性店員に尋ねたら「当店はエドウインのオンリーショップになっております。リーのどのようなアイテムをお探しですか?」と応えられたので「うん、ストレートの左綾、201があるかなと思って・・・」
「ああ、かなりマニアックなリクエストですね。ええと、201を置いてるお店は現在ごくごく僅かでアメリカン・クラシック・ヴィンテージの・・・●×□▼・・・!?・・・」「あ、もういいわ。あんな銘品を省くからこの業界も駄目になるのさ・・・」女性店員はやや憮然としていたが店を出た。
201はLeeを代表するストレートの傑作だ。左綾のデニムはワンウオッシュからの色落ちが素晴らしく、個人の履き皺が白くなり、やがて濃いインディゴからうっすらと深い鮮やかなブルーに変わるのは人の皮膚に似て全て違う。
ジーンズとは既成で変てこな中古加工をするよりも、バイクと一緒で所有者の癖や生活を反映するものだから、縦の白い糸が目立つように履きこんだストレートのGパンは何とも言えぬ愛着を感じるし、左綾のデニムは表面もフラットで柔らかいので尚更だ。
人の足は2本しかないのに、これだけの魅惑あるストレートを置き去りにするメーカーなんて・・・かつて、北陸の郊外型のジーンズ・チェーン店でも働いた経験をあるのだがバディ・リーを今更語った処で仕方ない。
一世を風靡したあのマスコット人形は今でも愛くるしい。たまにヴィレッジ・ヴァンガードのウインドウなんかで観ることはあるけれど。
30代半ばで経験したその郊外店では、すそ直しの合間にコーヒーをサービスして傍らアンケートなどをやっていた。
あるとき、年配のお客から「ほっそりスリムとか太めのスリムとか日本語としておかしいだろう?脚は2本でも体型は皆違う。どうせなら100年変わらないジーパンを出してくれ!」と書かれていた。当時は確かに「ゆったり」とか「細め」とか、千本近い在庫の壁の棚に処狭しと各メーカーの表記で「ほっそり」とか「普通」とか「ゆったり」とか書かれて並んでいた。今でもその名残は棚を見ればわかるけれど。
百年変わらぬ・・・なんて大袈裟なと思っていたが、自分も50を超えてみて確かに感じるのは服も道具も街も変わるということだ。そして、人の心も。
****************
心おけぬ友人と旨いハイボールを幾杯も飲み、店を出ていつもの鴬谷へと歩を進める先には、ホテル街のネオンとJRの各電車の行きかう音が響く路地を過ぎて行く。
昔、マメタンで降りた坂はこの辺りだったろうか?ヨンフォアを停めて馬鹿にされたのはこの上辺りだったろうか?と思いを馳せる。
そんな思いも行きつけのカラオケに着いたころには忘れてしまったが。
街で見かけるヨンフォアはピカピカに磨かれ大事にされている。今でも程度の良い中古なら100万以上もする。
赤や紺色の独特のタンク形状と、工業製品の命であるかのような輝きをフェンダーや純正の集合管から出している。
物言わぬ鉄は人の手で磨かれ光ることはあっても自らは何も語らない。
ただ、そこにじっとしているだけだ。
永い間の風雨に耐え、大事にされてきても朽ちずに錆びずにいられることが幸福だとは決して語ることはないのかもしれない。
普段通る、鴬谷の坂を見上げたり見下ろす時、ぼんやりとAと原付で走った情景を思い出す。たかが、バンパーを少し凹ませたくらいでなぜあんなに叱られたかとも思い出す。
気の合う友人とはまた鴬谷でも日暮里でも呑むだろう。
だが、Aとはきっと死ぬまで会うことがないのかもしれない。
いや、会っているのかもしれないし会っても分からなかっただけかもしれない。
わずか百数十円の缶コーヒーのオマケで思いはいくつもよぎり、マメタンで感じた稲刈りを終わった田んぼの景色や匂いを思い出す。
暇を見つけて今度は201を探しに行こう。
CBの系譜を持つ傑作バイクなど求めることができても、維持保管し得る環境もないのだから・・・
そしてあるのは失われた街の片隅、いや脳裏の片隅にしまわれたはずの懐かしい景色や会話のやり取りの記憶の断片だ。
(c)2012 Ronnie Ⅱ , all rights reserved.
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三寒四温とは言うけれどこのところ極端な気温変動が多く、手放したマフラーやワッチ帽をまた出してきたり・・・
さて、缶コーヒーのオマケもとりあえず気に入っているのは集めてしまった。
まあ、コンプリートという言葉は小生にとって昔から意味をなさないし、全部集めきるという行為にさほど興味を持たないから仕方ない。そのかわり、気に入ったものはいくつも買ったり集めたりする。
400FOURは一体、何人にあげたのかさえ思い出せないほどだ。
他の刀や隼も出来はいいのだけれど、シートのリベットまで綺麗に塗られたうえに、集合管の「ヨシムラ」までくっきりとステッカーロゴを再現しているのはルーペでチェックが必要なほどだ。
マクドナルドでトイザラスがなんとかセットに付けてるのは違うし、余計なギミックはなくても、机上で昭和を回想できる。
ホンダCB400FOURは70年代のというより昭和を代表する傑作バイクのひとつだ。免許制度の改正に合わせて、398ccと408ccが存在するが見た目はせいぜいタンクの色だけだ。
高校1年の秋、原付免許を取ってスズキのマメタンを乗り回していたが、学校の帰りにバイクで同級生のAの家に行くことになり、確か谷中の方へ乗っていった。
Aはその頃ミニトレ(ヤマハGT50)を乗っていたが、彼は既に自動2輪免許を持っており、近所に同い年でCB400FOURを所持している友達が居た。
「乗ってみるか?」と初対面のそいつに言われ、重さと大きさに負けてモノの30mくらいの直線しか乗れずに立ち止まった。「所詮、50とは違うさ、乗れねえだろう?」と嘲笑された。身体も小さく力も車両感覚(バイクの取り回し)に慣れていないのだから仕方ないのだが・・・。
Aは鴬谷の坂の下を一緒に降りて日光街道に出るまで自分を送ってくれた。
その1月後くらいに、Aの誘いで日光へツーリングに行くことになった。
早朝の北千住駅前で待ち合わせて日光街道をひた走ったが、50と400では出せるスピードも違うし、向こうは信号を2つも3つも先に行った。途中まではAがちょこちょこ待っていてくれたが、やがてはぐれてしまった。宇都宮か今市辺りだったと思うが疲れたから折り返し来た道を引き返した。「なんて、馬鹿馬鹿しい旅をしたんだろう」と思いながら交差点で信号待ちをしていたサニーのバンに追突してしまった。
チョッパーにしてあるフロントフォークは歪み、ハンドルは少し逆に向いていた。初めての事故でましてや止まっていた車に突っ込んだので気が動転していた。
ぶつけた相手は、こちらが子供だからバンパーが少し凹んだだけなのに「免許を見せて」とか家の住所と電話番号とか訊かれたと思う。「アルバイトした金でバンパーの修理代は送りますから家には電話しないでください」と懇願したが、曲がったフォークとハンドルで4時間ほどかけて帰宅したらとっくに両親にばれていた。
それからバイクは修理にまた数万近くかかり、サニーのバンパーの修理見積が3万位来た。母親はこと金に対しての執着が凄かったから顔を合わせばご飯どきであろうと始終、文句のいわれ通しだった。
結局、マメタンは修理が終わってしばらく封印したが、やがて新聞配達を始めた時に3万ほどで下取りに出して別の原付を買った。
Aとはその後、気まずくなり高校在学中は会っても言葉を交わす程度でやがて卒業後も会うことはなかった。
****************
先日、ある親しい友人と日暮里で落ち合い、駅に近い赤提灯で呑んだ。
おでんの品書きに釣られて入ったがなかなかどうして、谷中生姜や豆腐のサラダ、らっきょうが旨く、話も弾んで2時間ほども語らい共に飲んだ。そこへ行く途中にエドウインの直営のアウトレットがある。待ち合わせに行く前に覗いてみたら、かつてはLeeのアイテムも置いたいたのに見当たらなかった。女性店員に尋ねたら「当店はエドウインのオンリーショップになっております。リーのどのようなアイテムをお探しですか?」と応えられたので「うん、ストレートの左綾、201があるかなと思って・・・」
「ああ、かなりマニアックなリクエストですね。ええと、201を置いてるお店は現在ごくごく僅かでアメリカン・クラシック・ヴィンテージの・・・●×□▼・・・!?・・・」「あ、もういいわ。あんな銘品を省くからこの業界も駄目になるのさ・・・」女性店員はやや憮然としていたが店を出た。
201はLeeを代表するストレートの傑作だ。左綾のデニムはワンウオッシュからの色落ちが素晴らしく、個人の履き皺が白くなり、やがて濃いインディゴからうっすらと深い鮮やかなブルーに変わるのは人の皮膚に似て全て違う。
ジーンズとは既成で変てこな中古加工をするよりも、バイクと一緒で所有者の癖や生活を反映するものだから、縦の白い糸が目立つように履きこんだストレートのGパンは何とも言えぬ愛着を感じるし、左綾のデニムは表面もフラットで柔らかいので尚更だ。
人の足は2本しかないのに、これだけの魅惑あるストレートを置き去りにするメーカーなんて・・・かつて、北陸の郊外型のジーンズ・チェーン店でも働いた経験をあるのだがバディ・リーを今更語った処で仕方ない。
一世を風靡したあのマスコット人形は今でも愛くるしい。たまにヴィレッジ・ヴァンガードのウインドウなんかで観ることはあるけれど。
30代半ばで経験したその郊外店では、すそ直しの合間にコーヒーをサービスして傍らアンケートなどをやっていた。
あるとき、年配のお客から「ほっそりスリムとか太めのスリムとか日本語としておかしいだろう?脚は2本でも体型は皆違う。どうせなら100年変わらないジーパンを出してくれ!」と書かれていた。当時は確かに「ゆったり」とか「細め」とか、千本近い在庫の壁の棚に処狭しと各メーカーの表記で「ほっそり」とか「普通」とか「ゆったり」とか書かれて並んでいた。今でもその名残は棚を見ればわかるけれど。
百年変わらぬ・・・なんて大袈裟なと思っていたが、自分も50を超えてみて確かに感じるのは服も道具も街も変わるということだ。そして、人の心も。
****************
心おけぬ友人と旨いハイボールを幾杯も飲み、店を出ていつもの鴬谷へと歩を進める先には、ホテル街のネオンとJRの各電車の行きかう音が響く路地を過ぎて行く。
昔、マメタンで降りた坂はこの辺りだったろうか?ヨンフォアを停めて馬鹿にされたのはこの上辺りだったろうか?と思いを馳せる。
そんな思いも行きつけのカラオケに着いたころには忘れてしまったが。
街で見かけるヨンフォアはピカピカに磨かれ大事にされている。今でも程度の良い中古なら100万以上もする。
赤や紺色の独特のタンク形状と、工業製品の命であるかのような輝きをフェンダーや純正の集合管から出している。
物言わぬ鉄は人の手で磨かれ光ることはあっても自らは何も語らない。
ただ、そこにじっとしているだけだ。
永い間の風雨に耐え、大事にされてきても朽ちずに錆びずにいられることが幸福だとは決して語ることはないのかもしれない。
普段通る、鴬谷の坂を見上げたり見下ろす時、ぼんやりとAと原付で走った情景を思い出す。たかが、バンパーを少し凹ませたくらいでなぜあんなに叱られたかとも思い出す。
気の合う友人とはまた鴬谷でも日暮里でも呑むだろう。
だが、Aとはきっと死ぬまで会うことがないのかもしれない。
いや、会っているのかもしれないし会っても分からなかっただけかもしれない。
わずか百数十円の缶コーヒーのオマケで思いはいくつもよぎり、マメタンで感じた稲刈りを終わった田んぼの景色や匂いを思い出す。
暇を見つけて今度は201を探しに行こう。
CBの系譜を持つ傑作バイクなど求めることができても、維持保管し得る環境もないのだから・・・
そしてあるのは失われた街の片隅、いや脳裏の片隅にしまわれたはずの懐かしい景色や会話のやり取りの記憶の断片だ。
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目次
上段の『☆ 索引』、及び、下段の『☯ 作家別索引』からどうぞ。本や雑誌をパラパラめくる感覚で、読みたい記事へと素早くアクセスする事が出来ます。
執筆陣
HN:
快文書作成ユニット(仮)
自己紹介:
各々が皆、此の侭座して野に埋もるるには余りに口惜しい、正に不世出の文芸家を自称しております次第。以下、【快文書館】(仮)が誇る精鋭を御紹介します。
❁ ntr 〜 またの名を中村震。小説、エッセイ、漢詩などを書きます。mixiでも活動。ふだん高校で数学を教えているため、数学や科学について書くこともあります。試験的にハヤカワ・ポケット・ブックSFのレビューを始めてみました。
❖ 呂仁為 Ⅱ 〜 昭和の想い出話や親しみやすい時代物、歴史小説などについて書きます。
✿ 流火-rjuka- ~ 主に漢詩の創作、訳詩などを行っています。架空言語による詩も今後作りたいと思っています。
☃ ちゅうごくさるなし
主に小説を書きます。気が向けば弟のカヲスな物語や、独り言呟きなことを書くかもしれません。
♘ ED-209 〜 ブログ引っ越しました。
☠ 杏仁ブルマ
セカイノハテから覗くモノ
我ら一同、只管に【快文書】を綴るのみ。お気に入りの本の頁をめくる感覚で、ゆるりとお楽しみ頂ければ僥倖に御座居ます。
※ 基本的に当ページはリンクフリーです。然し乍ら見易さ追求の為、相互には承っておりません。悪しからず御了承下さい。※
❁ ntr 〜 またの名を中村震。小説、エッセイ、漢詩などを書きます。mixiでも活動。ふだん高校で数学を教えているため、数学や科学について書くこともあります。試験的にハヤカワ・ポケット・ブックSFのレビューを始めてみました。
❖ 呂仁為 Ⅱ 〜 昭和の想い出話や親しみやすい時代物、歴史小説などについて書きます。
✿ 流火-rjuka- ~ 主に漢詩の創作、訳詩などを行っています。架空言語による詩も今後作りたいと思っています。
☃ ちゅうごくさるなし
主に小説を書きます。気が向けば弟のカヲスな物語や、独り言呟きなことを書くかもしれません。
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☠ 杏仁ブルマ
セカイノハテから覗くモノ
我ら一同、只管に【快文書】を綴るのみ。お気に入りの本の頁をめくる感覚で、ゆるりとお楽しみ頂ければ僥倖に御座居ます。
※ 基本的に当ページはリンクフリーです。然し乍ら見易さ追求の為、相互には承っておりません。悪しからず御了承下さい。※
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