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 『読んで面白い』『検索で来てもガッカリさせない』『おまけに見やすい』以上、三カ条を掲げた〜快文書〜創作プロフェッショナル共が、心底読み手を意識した娯楽文芸エンターテイメントを提供。映画評論から小説、漢詩、アートまでなんでもアリ。嘗てのカルチャー雑誌を彷彿とさせるカオスなひと時を、是非、御笑覧下さいませ。
No.
2024/11/21 (Thu) 17:53:07

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No.575
2012/08/19 (Sun) 02:51:53

 中高生のころはお金が無かったものだから、クラシック音楽のCDが欲しいと思ったら近所のレンタルビデオ店に行って、わずかばかりのクラシックのコーナーから借りてきて、カセットテープに録音したものだった。当時はPCも普及していないから、自分でCDを焼くということも出来なかった。クラシックの演奏家たちの流行は今とはだいぶ違っていたと思う。どこのレンタル店に行っても、指揮者でいうとモーツァルトならクーベリックやベーム、ストラヴィンスキーならブレーズ、バッハならトレヴァー・ピノックあるいはリヒターによるものが多かった。カラヤンは現在CDショップで見るほどには多くなかったように思う。ピアニストならグレン・グールドの人気が凄まじく、当時ラジオ番組でもグールドの演奏があふれんばかりに流れてきたものだった。あとレンタル店に多く置かれていたのはアシュケナージのアルバムだろうか。クラシックを熱心に聴きだしたのは1991年のモーツァルト没後200年のころで、トン・コープマン氏がなんとかいう楽団を率いて来日し、古楽器によるモーツァルトの交響曲の全曲を演奏するというイベントがあって、ラジオで実況していた。こんにちの古楽器演奏とは比べ物にならない貧弱な音で、ヴァイオリンなどプラモデルではないかと思わせるような頼りない安っぽい音を出していたように思う。そのご古楽器演奏のレベルはどんどん上がっていったが、果たして18世紀の人が聴いていたクラシック音楽の音色に本当に近いのはどれなのだろう。

 話がそれたが、その当時いやおうなく聴いていた演奏家の演奏はもう耳にたこというか、クーベリックによるモーツァルト六大交響曲など今もって評価は高いが、僕には退屈でならない。それでCDがすこしばかり買えるようになると、クラシックの音楽評論を参考に良い演奏を探そうと思い、まず吉田秀和氏の著作をいろいろ読んでみた。御多分に洩れず僕も吉田氏の文章の美しさに酔ったが、まだCDの文化はクラシック音楽にはさほど浸透していなかったのか、吉田氏の著書に紹介されている演奏はなかなか聴けなかった。もともと吉田秀和という人は、基本的に実演を聴いた上でないと演奏家を批評しない実演中心主義の人だから、吉田氏と感動を共有する機会があまりなかったのは自然の流れだったのかも知れない。そこで、よく新書で出ていた宇野功芳氏の本を読んでみた。クラシックCDのガイドブックでは一番分かりやすい文章を書く人だろう。例えばドヴォルザークの交響曲第九番「新世界より」なら「イシュトヴァン・ケルテス指揮ウィーン・フィルが最高。他は要らない」などと言い切っている。それで宇野氏の薦めるアルバムをいろいろと聴いた。上述のケルテス指揮による「新世界より」、シューリヒト指揮によるモーツァルトの交響曲第38番「プラハ」、ワルター指揮コロンビア交響楽団によるベートーヴェンの交響曲第6番「田園」などを知ったのは宇野氏のおかげだ。

 しかし、どんな批評家にも曲目に好き嫌いがあり、演奏家の評価にも偏りがあるものだ、とだんだん分かってきた。たとえば吉田秀和氏はチャイコフスキーとラヴェルの音楽が大嫌いである。宇野功芳氏は指揮者ではカラヤンや小澤征爾、ピアニストではミケランジェリやポリーニが大嫌いで、ほとんど褒めない。批評家にとっては「好き嫌い」と「よしあし」は別のものであるべきで、執筆に際し個人の「好き嫌い」は極力排しているのかも知れないが、それでも批評家による評価の偏りには、読者は大いに迷惑をこうむることがあるのである。例えば僕は吉田秀和さんの批評のファンだったころは、チャイコフスキーやラヴェルはまったくと言っていいほど聴かなかった。宇野さんの批評をよく読んでいたときは、カラヤンも小澤もまったく聴かなかった。そうしたことは今思うと勿体ないことだった。ミケランジェリに関しては、批評家の間でも評価が分かれている人だから、ひとつ自分の耳で聴いてみなくてはなるまいと思い、例のドビュッシーの前奏曲集やベートーヴェンのソナタなどを聴いてみたらずいぶん気に入った。

 ただカラヤンについていえば、僕はいまだにアンチ・カラヤンである。いつだったかシューマンの交響曲でカラヤン指揮のものを聴いたら、まったく気の抜けた演奏で、というより問題なのは、その曲を「好きで演奏しているわけではない」という彼の気持ちがありありと伝わってくることだった。これでは聴衆をあまりになめている。もちろんカラヤンだっていつもそうではないだろう。だがだいたい彼の演奏には、僕を感動させるに足る重要な何かが抜け落ちている。重厚さ、と言えばいちばん近いかも知れない。ただモーツァルトの演奏などでは、その欠点があまり気にならない。モーツァルトのセレナードやディヴェルティメントなどの小曲、あるいは協奏曲の伴奏のときなど、いい演奏だなぁと思う。協奏曲では、デニス・ブレインと組んだホルン協奏曲全集など、チャーミングな伴奏を聴かせている。

 きょう中古CD店に行くと、オーマンディ指揮のものがセールでずいぶん安く売られていた。オーマンディも高校生のころレンタルショップに行くと、定番の指揮者で、よく聴いた。そのご聴かなくなったのは、当時はやや刺激が足りない演奏と感じたためかも知れない。で、久しぶりにその店でオーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団による、ブルックナーの交響曲第四番、チャイコフスキーの「白鳥の湖」他、を買った。帰って聴いてみると、とくにブルックナーなどメリハリがあって刺激がないなどということは全然なかった。そしてとにかく、どの楽器の音も美しい。高校生のころ僕は何を聴いていたのだろう?

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 各々が皆、此の侭座して野に埋もるるには余りに口惜しい、正に不世出の文芸家を自称しております次第。以下、【快文書館】(仮)が誇る精鋭を御紹介します。


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