『読んで面白い』『検索で来てもガッカリさせない』『おまけに見やすい』以上、三カ条を掲げた〜快文書〜創作プロフェッショナル共が、心底読み手を意識した娯楽文芸エンターテイメントを提供。映画評論から小説、漢詩、アートまでなんでもアリ。嘗てのカルチャー雑誌を彷彿とさせるカオスなひと時を、是非、御笑覧下さいませ。
No.674
2014/03/12 (Wed) 00:01:47
タツオが中学に入学してすぐに気が付いた奇異なことに、ガラス屋の老婆のことがある。朝はその老婆は姿を見せないが、学校からの帰り道、日の照った頃合いになると店の前に椅子を出してひなたぼっこするようで、道行く子供たちをにこにこ眺めて静かに座っているのである。それのどこが奇異なのかといえば、その老婆の顔には細かい切り傷が無数にあり、それも真新しい傷で、血がにじんでいるのが常なのだった。
タツオが老婆に初めて気づいたときがそんなふうで、しかも日に日に傷の数は増え、二週間もたつと顔面血だらけになっており、だが老婆自身も道行く人もそれを治療しようなどというそぶりは一向に起こさなかった。タツオはあまり社交的なほうではなかったが、ある日その老婆に「その傷は大丈夫なんですか」と思い切って尋ねてみた。老婆は
「なあに、年中ガラスをいじくっとると生傷は絶えんもんでの、いちいち治そうとしとったらきりがないわ。それに婆ちゃんぐらいに年寄りになると体中から水分がすっかり抜けてしもうて、傷から入ったバイキンもよう繁殖せんでの。化膿せんから傷はついついほったらかしになるんじゃわ」
と語った。
なるほどそういうものかとタツオは思ったが、顔面血みどろの状態が「それでいい」わけはないと心中思わざるを得なかった。
タツオは小学校のころから空地で友達とよく野球をして遊んでいたが、ある日、中学で新たに知り合った友達と野球することになった。しかし、タツオたちが小学生のときやっていたのはほんのお遊びに過ぎなかったとすぐに思い知らされた。タツオはセカンドを守ったが、ちょっとエラーをしただけで味方から物凄い怒号が飛んだ。これは場違いなところにやってきたぞ、早く試合が終わりますように……そんな弱気な思いが彼の心を支配しつつあった。
タツオが打席に立つ番が来た。もともとバッティングは上手くなかったから、目をつぶって一、二の三で振ってやれ、と思った。そんな彼の自信のなさを見抜いたのか、相手チームは守備位置をかなり前のほうに移してきた。悔しくないこともないが、力んだって打つのが上手くなるわけじゃない。さっさと三振しよう。
と思って軽く振ったのが良かったのか、バットに当たったボールは青天をぐんぐん伸びていき、まさかあそこまで飛ばせる者はいまいと誰もが思っていた外野フェンスをはるかに超えていった。場外ホームラン。タツオは呆然とした。こんな打球を飛ばしたのは生まれて初めてだ。それから喜びが湧き上がってこようかというところで、ガチャンという音が聞こえ「こらーっ」という男の怒号が聞こえてきた。どこかの家のガラスを割ってしまったらしい。
タツオは謝りに行こうと思った。一緒に野球していた仲間もついてくるかと思ったが、みな逃げてしまった。薄情な奴らだ。
ガラスが割れた家はすぐに見つかった。「岡本」と表札の出ている一軒家だった。呼び鈴を押すと、作務衣(さむえ)を着て頭の禿げた六十代くらいの男が出てきた。タツオはガラスの件をすぐに謝った。しかし作務衣の男は許さなかった。
「おんどれここで野球したらあかんって貼り紙してあんのが見えへんのか。ここは小っちゃい子も遊ぶ広場なんや、お前らの野球のボールでその子らが怪我したらどないするつもりやねん。それよりうちのガラスどう落とし前つける気や。見てみい、うちの雨戸の大きいガラスがみごとに割れとるがな。お前らの小遣いで何とかなるような代物ちゃうで。わかっとんのかこのボケ」
そこへいつの間にか小さなお婆さんが割り込んできて
「まあまあ、お怒りはごもっともやけど岡本さん、わしの顔に免じて許してくれませんかいなぁ」
それは学校からの帰り道にいつも見るガラス屋の老婆だった。
「もちろん割れたガラスはうちでぴっかぴかの新品と取り換えさせていただきますよってに」
「ガラス屋のおばちゃんがそういうねんやったらなぁ……おい坊主、二度とここで野球さらすなよ」
そういうと岡本氏は奥に引っ込み戸をぴしゃりと閉じた。
「お婆ちゃん、ありがとう! ガラス代は親に言うて払ってもらいます」
「そんなんええええ。お金なんか、そんなん」
と老婆は滅相もないというふうに手をふった。
「ちょっとあんたうちに寄ってってくれるか」
「お婆ちゃんのうちに? ええけど」
タツオは老婆についてガラス屋まで歩いていった。
「ちょっと狭いけど、そこで靴脱いで上がってや」
「お邪魔します」
先を行く老婆のほうからジャリ、ジャリという音が聞こえてくる。
「ほなあんた、ガラスの神さんにお参りしぃ」
老婆は床の間に据えられている、巨大な透明の置物を指さした。
「ここに座って手ぇついて、頭を三べん下げるんや」
しかし六畳ほどのその部屋は、床一面にガラスの破片が散乱していた。緑色のや焦げ茶色のや赤いのや青いのが、その鋭いぎざぎざを上に向けて、無数に散らばっていたのだ。
「婆ちゃん、スリッパかなんか、ないのん?」
「スリッパ? これから神さんにお参りするのにスリッパ履くボケがどこにおる。そのままで入ってきぃ」
老婆はその部屋でも平気らしく、足の裏には大きなガラス片がいくつもずぶりと突き刺さっていた。タツオはちょっとでも怪我を軽くしようと、四つん這いになって出来るだけそっと部屋に入っていこうとした。
「男がなんちゅうへっぴり腰や!」
老婆はそう叫んでタツオの頭を上から踏みつけた。タツオはガラス片の海に顔からのめりこみ、目にもガラスが突き刺さったのがはっきり分かった。
「ほらほら神さんの前に来るんや」
老婆はタツオの襟首をつかんでご神体の前まで引きずっていった。
「ええか。あんたはきょう人様の家のガラスを割ったんや。岡本さんちのガラス、今ごろ痛い痛い言うて泣いてはるわ。あんたはここで落とし前をつけなあかん。さっき金は払うとかおかしなことぬかしたけど、なんでも金で解決できるもんちゃうねんで! わかったか! わかったら神さんに頭さげえ」
タツオが顔から血を流しながらちょっと頭を下げると、老婆に頭をつかまれ
「どたまを床にくっつけるんや!」
と再び勢いよくガラスの海に顔を押し付けられた。今度は頬から刺さったガラスが歯ぐきに当たったのが分かった。
「ほれ、三回頭下げる!」
タツオは、もう顔全体から火が出るような痛みを感じ、どこをどう切ったかなど細かいことは分からなくなった。
ようやく老婆から解放されたタツオは、その後しばらくの記憶はなく、気が付くと病院のベッドの上だった。
野球がもとで地獄の苦しみを味わったタツオが、その後プロ野球選手になったのだから、世の中分からないものである。あのときのタツオの打球をたまたま見ていたプロ野球のスカウトが、その非凡な素質を見抜き、彼が野球の道に進むよう説得したのだった。
もちろんホームランを打ったことがもとで体中をガラスでずたずたにされたことはタツオにとってトラウマだった。だから彼は打つときにホームランを打つまいと無意識に力を抜く。ところがこの「力を抜く」というのが他の選手のなかなか真似できないところで、それがために彼のバットは理想的な軌道を過不足のない力で振りぬかれ、かえって異常な飛距離の打球が打てたのである。それに、野球の名門校やプロで野球をしていると、設備が整っているため打球がどこかの家のガラスを割るということはまずなかった。
そんなこんなで、プロに入ったタツオはめきめきと頭角をあらわし、数年のうちにレギュラーの地位を勝ち取り、そしてクリーンアップの一角を占めるようになった。
タツオはその日、自チームの優勝のかかる大一番で、九回裏の打席に立っていた。一点負けており、一塁にランナーが一人いる。つまりそこで本塁打を打てばサヨナラだ。球場全体がそれを期待していた。その球場は、今では珍しいドームでない球場だった。そして両翼九十五メートルと広く、タツオといえども簡単にホームランが打てる場所ではない。
しかし、今年のタツオは神がかっていた。八月も終わりに近づいているのに打率は三割七分を保ち、すでに五十本のホームランを打っていた。
ワンストライクツーボールからの四球目。勝負球。内寄りの甘い球。タツオの体は無意識に反応し、彼の打ち返した球は夜空を矢のように切り裂いて、ライトスタンドのはるか上空に消えていった。場外ホームランでサヨナラ。なんという劇的な幕切れ! ファンは、勝ったこともうれしかったが、この広い球場でまさか場外ホームランが出るとは思わなかったから、その素晴らしい打球の軌道が目に焼き付き、誰にとっても忘れられぬ思い出となった。
タツオはその晩ホテルで横になりながら、今日のサヨナラ本塁打の感触を思い出していた。あんな打球は、もう二度と打てないかも知れない。
時計は午前一時過ぎを指していた。窓が、ごつ、ごつと音をたてる。ここはホテルの九階だ。何の音だろう? タツオは窓のほうを見やった。
ガシャーンという大音響とともに、タツオの部屋に風が吹き込んだ。ガラスが割れたのだ! そしてカーテンをめくって、小さな人影が部屋に入り込んでくるのが見えた。タツオはルームサービスを呼ぼうとしたが、不通だった。
「ふ、電話線は切っておいたでな」
それは見覚えのある顔だった。そう、ガラス屋の老婆だ!
「あんた、ここに何しに来た!?」
「あんたが今日打った場外ホームランだがね。あの打球が田中さんというお宅のガラスをぶち破ったんだ。というよりあたしゃたまげたよ。おんどれまだ野球さらしとったんか。またガラスの神さんとこ謝りに行くか?」
老婆はタツオの襟首をつかんでベッドから引きずり出そうとした。片手には大きなトンカチをもっている。それで窓を割ったのだろう。
「おい婆さん、あんた自分でもガラスを割ってここに入ってきたんじゃないか。そんなことしていいのか?」
「あたしゃ毎日ガラスの神さんを拝んで功徳を積んどるから、多少は融通が効くんじゃ。だがあんたみたいな近頃の若いもんがガラスを割るのは許されへんのや! もっぺん目ん玉やら肝臓やらにガラス突き刺して中学生からやりなおせ!」
タツオは襟首を掴まれながら、ベッドの下を手探りしていた。彼はいつでも素振りできるように寝室にバットを持ちこんでいるのだ。彼はやっとそれをさぐり当てた。
「お前みたいな妖怪婆ぁはこうじゃ!」
タツオはガラス婆さんの頭をボールに見立てて、ホームランを打つつもりで勢いよく振りぬいた。
婆さんの小さな頭はその衝撃で吹き飛んで床に転がった。そして首だけになりながらも
「そう! 今のスウィングじゃ。忘れるなよ」
と言ってこと切れた。
タツオはガラス屋の老婆の頭を吹き飛ばしたスウィングでさらなる打撃の極意をつかみ、生涯に九百本ホームランを打った。
彼は引退後ひっそりと小さなガラス屋を営んだ。そして近所を野球少年が通りかかると無理やり捕まえ、野球の極意を教えると称してガラス製の拷問器具で痛めつけ、狂人の名をほしいままにしたという。
(c) 2014 ntr ,all rights reserved.
タツオが老婆に初めて気づいたときがそんなふうで、しかも日に日に傷の数は増え、二週間もたつと顔面血だらけになっており、だが老婆自身も道行く人もそれを治療しようなどというそぶりは一向に起こさなかった。タツオはあまり社交的なほうではなかったが、ある日その老婆に「その傷は大丈夫なんですか」と思い切って尋ねてみた。老婆は
「なあに、年中ガラスをいじくっとると生傷は絶えんもんでの、いちいち治そうとしとったらきりがないわ。それに婆ちゃんぐらいに年寄りになると体中から水分がすっかり抜けてしもうて、傷から入ったバイキンもよう繁殖せんでの。化膿せんから傷はついついほったらかしになるんじゃわ」
と語った。
なるほどそういうものかとタツオは思ったが、顔面血みどろの状態が「それでいい」わけはないと心中思わざるを得なかった。
タツオは小学校のころから空地で友達とよく野球をして遊んでいたが、ある日、中学で新たに知り合った友達と野球することになった。しかし、タツオたちが小学生のときやっていたのはほんのお遊びに過ぎなかったとすぐに思い知らされた。タツオはセカンドを守ったが、ちょっとエラーをしただけで味方から物凄い怒号が飛んだ。これは場違いなところにやってきたぞ、早く試合が終わりますように……そんな弱気な思いが彼の心を支配しつつあった。
タツオが打席に立つ番が来た。もともとバッティングは上手くなかったから、目をつぶって一、二の三で振ってやれ、と思った。そんな彼の自信のなさを見抜いたのか、相手チームは守備位置をかなり前のほうに移してきた。悔しくないこともないが、力んだって打つのが上手くなるわけじゃない。さっさと三振しよう。
と思って軽く振ったのが良かったのか、バットに当たったボールは青天をぐんぐん伸びていき、まさかあそこまで飛ばせる者はいまいと誰もが思っていた外野フェンスをはるかに超えていった。場外ホームラン。タツオは呆然とした。こんな打球を飛ばしたのは生まれて初めてだ。それから喜びが湧き上がってこようかというところで、ガチャンという音が聞こえ「こらーっ」という男の怒号が聞こえてきた。どこかの家のガラスを割ってしまったらしい。
タツオは謝りに行こうと思った。一緒に野球していた仲間もついてくるかと思ったが、みな逃げてしまった。薄情な奴らだ。
ガラスが割れた家はすぐに見つかった。「岡本」と表札の出ている一軒家だった。呼び鈴を押すと、作務衣(さむえ)を着て頭の禿げた六十代くらいの男が出てきた。タツオはガラスの件をすぐに謝った。しかし作務衣の男は許さなかった。
「おんどれここで野球したらあかんって貼り紙してあんのが見えへんのか。ここは小っちゃい子も遊ぶ広場なんや、お前らの野球のボールでその子らが怪我したらどないするつもりやねん。それよりうちのガラスどう落とし前つける気や。見てみい、うちの雨戸の大きいガラスがみごとに割れとるがな。お前らの小遣いで何とかなるような代物ちゃうで。わかっとんのかこのボケ」
そこへいつの間にか小さなお婆さんが割り込んできて
「まあまあ、お怒りはごもっともやけど岡本さん、わしの顔に免じて許してくれませんかいなぁ」
それは学校からの帰り道にいつも見るガラス屋の老婆だった。
「もちろん割れたガラスはうちでぴっかぴかの新品と取り換えさせていただきますよってに」
「ガラス屋のおばちゃんがそういうねんやったらなぁ……おい坊主、二度とここで野球さらすなよ」
そういうと岡本氏は奥に引っ込み戸をぴしゃりと閉じた。
「お婆ちゃん、ありがとう! ガラス代は親に言うて払ってもらいます」
「そんなんええええ。お金なんか、そんなん」
と老婆は滅相もないというふうに手をふった。
「ちょっとあんたうちに寄ってってくれるか」
「お婆ちゃんのうちに? ええけど」
タツオは老婆についてガラス屋まで歩いていった。
「ちょっと狭いけど、そこで靴脱いで上がってや」
「お邪魔します」
先を行く老婆のほうからジャリ、ジャリという音が聞こえてくる。
「ほなあんた、ガラスの神さんにお参りしぃ」
老婆は床の間に据えられている、巨大な透明の置物を指さした。
「ここに座って手ぇついて、頭を三べん下げるんや」
しかし六畳ほどのその部屋は、床一面にガラスの破片が散乱していた。緑色のや焦げ茶色のや赤いのや青いのが、その鋭いぎざぎざを上に向けて、無数に散らばっていたのだ。
「婆ちゃん、スリッパかなんか、ないのん?」
「スリッパ? これから神さんにお参りするのにスリッパ履くボケがどこにおる。そのままで入ってきぃ」
老婆はその部屋でも平気らしく、足の裏には大きなガラス片がいくつもずぶりと突き刺さっていた。タツオはちょっとでも怪我を軽くしようと、四つん這いになって出来るだけそっと部屋に入っていこうとした。
「男がなんちゅうへっぴり腰や!」
老婆はそう叫んでタツオの頭を上から踏みつけた。タツオはガラス片の海に顔からのめりこみ、目にもガラスが突き刺さったのがはっきり分かった。
「ほらほら神さんの前に来るんや」
老婆はタツオの襟首をつかんでご神体の前まで引きずっていった。
「ええか。あんたはきょう人様の家のガラスを割ったんや。岡本さんちのガラス、今ごろ痛い痛い言うて泣いてはるわ。あんたはここで落とし前をつけなあかん。さっき金は払うとかおかしなことぬかしたけど、なんでも金で解決できるもんちゃうねんで! わかったか! わかったら神さんに頭さげえ」
タツオが顔から血を流しながらちょっと頭を下げると、老婆に頭をつかまれ
「どたまを床にくっつけるんや!」
と再び勢いよくガラスの海に顔を押し付けられた。今度は頬から刺さったガラスが歯ぐきに当たったのが分かった。
「ほれ、三回頭下げる!」
タツオは、もう顔全体から火が出るような痛みを感じ、どこをどう切ったかなど細かいことは分からなくなった。
ようやく老婆から解放されたタツオは、その後しばらくの記憶はなく、気が付くと病院のベッドの上だった。
野球がもとで地獄の苦しみを味わったタツオが、その後プロ野球選手になったのだから、世の中分からないものである。あのときのタツオの打球をたまたま見ていたプロ野球のスカウトが、その非凡な素質を見抜き、彼が野球の道に進むよう説得したのだった。
もちろんホームランを打ったことがもとで体中をガラスでずたずたにされたことはタツオにとってトラウマだった。だから彼は打つときにホームランを打つまいと無意識に力を抜く。ところがこの「力を抜く」というのが他の選手のなかなか真似できないところで、それがために彼のバットは理想的な軌道を過不足のない力で振りぬかれ、かえって異常な飛距離の打球が打てたのである。それに、野球の名門校やプロで野球をしていると、設備が整っているため打球がどこかの家のガラスを割るということはまずなかった。
そんなこんなで、プロに入ったタツオはめきめきと頭角をあらわし、数年のうちにレギュラーの地位を勝ち取り、そしてクリーンアップの一角を占めるようになった。
タツオはその日、自チームの優勝のかかる大一番で、九回裏の打席に立っていた。一点負けており、一塁にランナーが一人いる。つまりそこで本塁打を打てばサヨナラだ。球場全体がそれを期待していた。その球場は、今では珍しいドームでない球場だった。そして両翼九十五メートルと広く、タツオといえども簡単にホームランが打てる場所ではない。
しかし、今年のタツオは神がかっていた。八月も終わりに近づいているのに打率は三割七分を保ち、すでに五十本のホームランを打っていた。
ワンストライクツーボールからの四球目。勝負球。内寄りの甘い球。タツオの体は無意識に反応し、彼の打ち返した球は夜空を矢のように切り裂いて、ライトスタンドのはるか上空に消えていった。場外ホームランでサヨナラ。なんという劇的な幕切れ! ファンは、勝ったこともうれしかったが、この広い球場でまさか場外ホームランが出るとは思わなかったから、その素晴らしい打球の軌道が目に焼き付き、誰にとっても忘れられぬ思い出となった。
タツオはその晩ホテルで横になりながら、今日のサヨナラ本塁打の感触を思い出していた。あんな打球は、もう二度と打てないかも知れない。
時計は午前一時過ぎを指していた。窓が、ごつ、ごつと音をたてる。ここはホテルの九階だ。何の音だろう? タツオは窓のほうを見やった。
ガシャーンという大音響とともに、タツオの部屋に風が吹き込んだ。ガラスが割れたのだ! そしてカーテンをめくって、小さな人影が部屋に入り込んでくるのが見えた。タツオはルームサービスを呼ぼうとしたが、不通だった。
「ふ、電話線は切っておいたでな」
それは見覚えのある顔だった。そう、ガラス屋の老婆だ!
「あんた、ここに何しに来た!?」
「あんたが今日打った場外ホームランだがね。あの打球が田中さんというお宅のガラスをぶち破ったんだ。というよりあたしゃたまげたよ。おんどれまだ野球さらしとったんか。またガラスの神さんとこ謝りに行くか?」
老婆はタツオの襟首をつかんでベッドから引きずり出そうとした。片手には大きなトンカチをもっている。それで窓を割ったのだろう。
「おい婆さん、あんた自分でもガラスを割ってここに入ってきたんじゃないか。そんなことしていいのか?」
「あたしゃ毎日ガラスの神さんを拝んで功徳を積んどるから、多少は融通が効くんじゃ。だがあんたみたいな近頃の若いもんがガラスを割るのは許されへんのや! もっぺん目ん玉やら肝臓やらにガラス突き刺して中学生からやりなおせ!」
タツオは襟首を掴まれながら、ベッドの下を手探りしていた。彼はいつでも素振りできるように寝室にバットを持ちこんでいるのだ。彼はやっとそれをさぐり当てた。
「お前みたいな妖怪婆ぁはこうじゃ!」
タツオはガラス婆さんの頭をボールに見立てて、ホームランを打つつもりで勢いよく振りぬいた。
婆さんの小さな頭はその衝撃で吹き飛んで床に転がった。そして首だけになりながらも
「そう! 今のスウィングじゃ。忘れるなよ」
と言ってこと切れた。
タツオはガラス屋の老婆の頭を吹き飛ばしたスウィングでさらなる打撃の極意をつかみ、生涯に九百本ホームランを打った。
彼は引退後ひっそりと小さなガラス屋を営んだ。そして近所を野球少年が通りかかると無理やり捕まえ、野球の極意を教えると称してガラス製の拷問器具で痛めつけ、狂人の名をほしいままにしたという。
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目次
上段の『☆ 索引』、及び、下段の『☯ 作家別索引』からどうぞ。本や雑誌をパラパラめくる感覚で、読みたい記事へと素早くアクセスする事が出来ます。
執筆陣
HN:
快文書作成ユニット(仮)
自己紹介:
各々が皆、此の侭座して野に埋もるるには余りに口惜しい、正に不世出の文芸家を自称しております次第。以下、【快文書館】(仮)が誇る精鋭を御紹介します。
❁ ntr 〜 またの名を中村震。小説、エッセイ、漢詩などを書きます。mixiでも活動。ふだん高校で数学を教えているため、数学や科学について書くこともあります。試験的にハヤカワ・ポケット・ブックSFのレビューを始めてみました。
❖ 呂仁為 Ⅱ 〜 昭和の想い出話や親しみやすい時代物、歴史小説などについて書きます。
✿ 流火-rjuka- ~ 主に漢詩の創作、訳詩などを行っています。架空言語による詩も今後作りたいと思っています。
☃ ちゅうごくさるなし
主に小説を書きます。気が向けば弟のカヲスな物語や、独り言呟きなことを書くかもしれません。
♘ ED-209 〜 ブログ引っ越しました。
☠ 杏仁ブルマ
セカイノハテから覗くモノ
我ら一同、只管に【快文書】を綴るのみ。お気に入りの本の頁をめくる感覚で、ゆるりとお楽しみ頂ければ僥倖に御座居ます。
※ 基本的に当ページはリンクフリーです。然し乍ら見易さ追求の為、相互には承っておりません。悪しからず御了承下さい。※
❁ ntr 〜 またの名を中村震。小説、エッセイ、漢詩などを書きます。mixiでも活動。ふだん高校で数学を教えているため、数学や科学について書くこともあります。試験的にハヤカワ・ポケット・ブックSFのレビューを始めてみました。
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セカイノハテから覗くモノ
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