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 『読んで面白い』『検索で来てもガッカリさせない』『おまけに見やすい』以上、三カ条を掲げた〜快文書〜創作プロフェッショナル共が、心底読み手を意識した娯楽文芸エンターテイメントを提供。映画評論から小説、漢詩、アートまでなんでもアリ。嘗てのカルチャー雑誌を彷彿とさせるカオスなひと時を、是非、御笑覧下さいませ。
No.
2024/11/24 (Sun) 15:50:23

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No.99
2009/10/18 (Sun) 04:12:07

(すこし以前に書いたもの。当時はネットで知り合った人とリアルで会う事に非常な抵抗を感じる人がけっこういた。)


大学の教職の授業で、心理学系の教授が担当しているものがあるのだが、その教授の話が自分のものの考え方や感じ方と相容れないと感じることが多い。

その先生は中学校のスクール・カウンセラーもしていて、自分の中学校の女子生徒が三十代の男性と出会い系サイトで出会い、メールのやり取りを繰り返すうち「では実際に会おう」ということになり、友達が止めたが聞かないので、その先生のところに話を持ち込んできた。メールの内容を見ると、どぎつい性的描写が目立ち、「とにかく会うのはやめたほうが良い」と説得した。その女子中学生は「大人の男性に会ってみたい」という好奇心が非常に強く、説得にはかなりの労力を要した、とのこと。
ついこのあいだも長野の小学六年の女児が、ネットで知り合った三十一歳の男性に「ドライブに行こう」と誘われ、何日間か行方不明になったという事件がおきた。
こういう例が目立つため「ネットでの出会いはデメリットが多い。現代人は顔を突き合わせての対話をせずに、文字だけの付き合いにのめりこむことも多いが、そうしたバーチャルの出会いはあくまでバーチャルのままで終わらせるべきだ。なぜ実際に会いたいと思うのか理解できない」とその先生は言う。これは教職の授業だから、主に中学校・高校の年端も行かない生徒について語ったのかも知れない。

しかし、文字による交流が顔を突き合わせての対話に劣るという考えは、一概には正しいと思わない。

自分は書物に書かれた文章を読んで感動する心を持っている。「文は人なり」という言葉もある程度信じていて、立派な文章を書く人は立派な人間であろうと思う。こういう考えは、文字が発明されて以来、たえず人間の心に去来してきたはずだ。中国の古い時代などではとくに、立派な詩や文章を書くということが教養あるものの必須の条件であり、その時代の文人の書いたものを読むと、一語一句にいかに刻苦精励していたかが分かる。「文は人なり」という風潮が非常に強かったから、小は職を得るため大は皇帝に諫言の上表をするため「立派な文」を作らんと命懸けだったし、単に自己の思いをつづる文章も後世に残るものにしようと身を削る思いだった。「言、人を驚かさずんば死すともやまず」というのは杜甫の言葉で、そういう気持ちで作られた彼の詩は、今日に至るまで我々の心を揺さぶり、自分も立派な詩文を作りたいものだと多くの人々を感化してきたのである(実際に杜甫に会ったからといって、我々はこのような感動を得られるだろうか?)。

文を重んずる思いは、読書という行為によって古代から連綿と引き継がれ、汗牛充棟の名著とともに、ずっしりと重みのある伝統を形づくって今に至っている。今日でも読書を好む人は、古い時代の書物を読まずとも、知らず識らずその伝統の余波に接し古人の余徳を享けて、自分も何ほどか良い文章を物したいという意思を心に宿すのである。その意思にも深浅あって、もちろん粗雑イイカゲンな文を書く者もいて自分もそうでないとは言わないが、こうした背景を考えれば発表の場がPCのディスプレイになったからといって、文章で意見を交換することそのものを軽んじる物の言いようをするのは無神経の極みではあるまいか。「文字だけのコミュニケーションはバーチャル」などと、悠久の歴史を有し我々がその伝統に大きな信頼を置くところの「文字」を、「バーチャル」のような浮薄なカタカナ語と並べて貶めんとする輩は、おのれを育んだ文化に唾する慢心外道であって、その口は必ずや災いを呼び身を滅ぼすであろう。

などと大時代な口調で反論したくなるのです、「バーチャル」なんて言われると……。
つけ加えるに、文字に宿るとされる「言霊」は、たとえネット回線を通してでも人を動かす力を持っているのであり、その力は決して「仮想現実」ではない……そう思っている。

しかしネットで知り合った人間と実際に会って、災難に会うという危険はやはりあるのだろう。
ただ、良い書物に出会って心底感動し、それを書いた人物に会ってみたいと思う感情は昔から自然にあったに違いなく、その文章が書物からPCのディスプレイに移ったからといって「会ってみたい感情」そのものが、突如として全否定されるのはやっぱり合点がいかない。

なかにはキチガイもいるに違いない。しかし「ネットで知り合って、リアルでも会おうなどと思う人間は皆キチガイに違いない」とまで考えるのは行き過ぎではないか。「文は人なり」という立場に立つ人間同士が、互いの文を見て本当の知己に出会った思いがし、実際に会ってみたいと感じるのは、実に自然な感情だと思うのだが。

(c) 2009 ntr ,all rights reserved.
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No.98
2009/10/18 (Sun) 04:04:53

 龍氣をうそぶけば雲を成す。雲はもとより龍より靈ならざるなり。然れども龍是の氣に乘じ、茫洋として玄閒を窮め、日月にせまり、光景に伏し、震電に感じ、変化を神にし、下土を水にし、陵谷をしづむ。雲もまた靈怪なるかな。雲は龍のよく靈たらしむる所なり。龍の靈のごときは、すなはち雲のよく靈たらしむる所にあらざるなり。然れども龍は雲を得ざれば、もって其の靈を神にする無し。其の憑依する所を失へばまことに不可なるか。異なるかな、其の憑依する所は、すなはち其の自らなす所なり。易に曰く、雲は龍に従ふと。既に龍と曰へば、雲これに従ふ。

(韓愈「雑説一」)


 元来聖君には補佐に当たる賢臣のあるべきことを龍に従ふ雲になぞらへた文なれど、その意の兼ぬるところ狭からず。人類と所謂文明との関係もかくあるべきと考へるも可なり。如何に発達せる文明も其れを霊怪たらしむるは飽くまで人類にして、吾人が文明の繁縟に五官を麻痺せらるるは本末転倒なり、何処までも造化の分身としての精神面目を発揮せんと努めざるべからざるなり。
 中学に教育実習に赴きし折、初老の教諭が余に問ひて曰く、汝は数学を通じ子供に何を伝へんとするかと。余は返答に窮したり。数学は飽くまで数学にして、他の何事かを伝へるが如き物とは思はざればなり。然し翻つて思ふに、数学も技芸なり、人間の精神を龍とせば技芸は雲なり。基礎教育に於て数学が学ぶ者の精神に裨益するところなければ、その教育は徒事に了れり。
 思ふに数学の大部分は、吾人の生活に直接に役立つ物にはあらざるなり。然し余は、生活の役に立たざる物を好む精神は、吾人の生活を大いに有意義ならしむると信ず。近時は格差社会などいふ語が新聞雑誌紙上を賑わし、あたかも所持せる金銭の多少が其のまま吾人の幸不幸を決めるものと言はんばかりなり。物質文明の恩恵に浴することのみが吾人の幸福なりといふ信条を勧めんがごとき勢ひなり。余はここに於て、吾人の精神生活を無形に豊かならしむる学問が赫々たる光を放つと信ずる者なり。物質文明の与へぬ無形の物に価値を見出すことが、吾人の生活を真に豊かならしめ、学問はその有力な糸口となるべきものなり。余は数学に限らず、全ての学問にこの効能を見出さんとす。
 精神は龍なり。全ての物質文明は雲に過ぎず。余はその主客転倒の愚を犯さぬやう導くを真の教育と信ず。

(c) 2009 ntr ,all rights reserved.
No.97
2009/10/18 (Sun) 04:00:16

桂枝雀さんが「猫の忠信」という落語のマクラで言っていたのだが、いま日本は高齢化社会になっている。昔は「人生五十年」などと言われていたが、いまは男女とも平均寿命八十歳を超えようかという勢いで、こんな時代はわれわれには初めての体験である。そこで、従来どおり六十歳ぐらいの定年を迎えたあと、どのように過ごしてよいのか分からず困っている人も多い。そこで、楽器を演奏したり、俳句を作ったり、何か自分独自のものを表現する趣味というのはたいへん結構なもので、その点、落語というのも立派な趣味になりうる。

「年とったら、皆さん噺家になったらええと思うんですよ。落語なんて初めはちょっとした約束事がありますが、それさえ覚えれば誰にだって出来ます。一億総噺家時代。道端でいきなり誰かが座りこんで『ご隠居さんこんにちは』『ああ熊さんやないか、こっちお入り』なんて喋りだして、喋り終えたら今度は聞いてた人が話し手になって『ええ世の中にはいろんな商売がありますが』なんてやりだす。町中のみんながあっちこっちの道端で落語をやっているという、まあそんな時代はけえへんやろと思いますが……」

僕はいちおう数学なんぞを子供に教えて糊口をしのごうと考えているから、上の話の落語のように数学が流行りだしたらずいぶん生きやすくなるだろうと思う。実際、数学というのは金もかからないし、人に迷惑がかかることもない、良い趣味だと思うのだ。みんながチョークを持ち歩いて、何か思いついたら地面で計算したり作図をして、見知らぬ通りがかりの人がそれを見て「ちょっとあんたその議論はおかしくないかい」と突っ込みを入れる。そんな光景が町中いたるところで繰り広げられるという、これほど平和な街並みが他にあろうか。

そんな時代になったら、僕ていどの者でも、昔の浄瑠璃や三味線のお師匠さんみたいに、自宅にお弟子さんを集めて月謝を集められるかも知れない(逆にみんなのレベルが上がって難しくなる恐れもあるけど)。あくまで趣味だから、弟子をヨイショして気持ちよくさせてね。
(現実にも趣味の種類によっては、そうやって個人の教室を成功させている人もいる。)

数学って、ちょっと深くはまり込んだところになるとあまり生活の役には立たない物だと思うし、金を取ってあくびを教えるという落語「あくび指南」みたいに、微笑ましい世界になりうるんじゃないかな。


知人のPALさんは「スタートレック」を世に広めることをコンセプトにしたバー「BAR TREK」を経営されているが、そこにお邪魔したときも
「バーってある意味何でもありの世界やで。ntrくんが『数学バー』を作ったらマジで流行るかもしれん。早くやったもん勝ちやで」
なんて仰っていた。まあ僕がバーテンでは、プロフェッショナルの数学者の話相手としては苦しそうだけど、実際そんなバーがあっても面白そうだ。店の奥に黒板を置いて、ときどきゲストに喋ってもらって酒を飲みながら聞くの。

皆さんも、これが世の中で流行ったら自分は得するのにな、とか、こんなバーがあったらいいな、みたいなことありますか。

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執筆陣
HN:
快文書作成ユニット(仮)
自己紹介:
 各々が皆、此の侭座して野に埋もるるには余りに口惜しい、正に不世出の文芸家を自称しております次第。以下、【快文書館】(仮)が誇る精鋭を御紹介します。


 ❁ ntr 〜 またの名を中村震。小説、エッセイ、漢詩などを書きます。mixiでも活動。ふだん高校で数学を教えているため、数学や科学について書くこともあります。試験的にハヤカワ・ポケット・ブックSFのレビューを始めてみました。

 ❖ 呂仁為 Ⅱ 〜 昭和の想い出話や親しみやすい時代物、歴史小説などについて書きます。

 ✿ 流火-rjuka- ~ 主に漢詩の創作、訳詩などを行っています。架空言語による詩も今後作りたいと思っています。

 ☃ ちゅうごくさるなし
主に小説を書きます。気が向けば弟のカヲスな物語や、独り言呟きなことを書くかもしれません。

 ♘ ED-209ブログ引っ越しました。

 ☠ 杏仁ブルマ
セカイノハテから覗くモノ 



 我ら一同、只管に【快文書】を綴るのみ。お気に入りの本の頁をめくる感覚で、ゆるりとお楽しみ頂ければ僥倖に御座居ます。









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