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 『読んで面白い』『検索で来てもガッカリさせない』『おまけに見やすい』以上、三カ条を掲げた〜快文書〜創作プロフェッショナル共が、心底読み手を意識した娯楽文芸エンターテイメントを提供。映画評論から小説、漢詩、アートまでなんでもアリ。嘗てのカルチャー雑誌を彷彿とさせるカオスなひと時を、是非、御笑覧下さいませ。
No.
2024/11/24 (Sun) 17:39:49

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No.84
2009/10/16 (Fri) 04:42:12

ウィキペディアより埋葬の歴史

原始人類の化石や遺跡は、時代が古くなるほど発見例が少なく、また破損や撹乱により原形を保っていない事も多く、彼らが埋葬行為を行なっていたかどうかの判定は困難であるが、わずかな証拠から、猿人・原人段階では埋葬はなかったと考えられる。北京原人(ホモ=エレクトゥス)は食人を行なっていた可能性が指摘されているが、埋葬をした形跡は認められない。
埋葬という行為が成立するためには、死を理解する事。また死者の魂や来世を考えるといった抽象的な思考力の発達が不可欠で、アウストラロピテクスやホモ=エレクトゥス・ホモ=エルガステルの段階ではまだ知的能力がそこまで発達していなかったと考えられる。
最も古い埋葬の例はネアンデルタール人のものがよく知られている。すなわち、埋葬の起源はおよそ10万年前にさかのぼる。発見されるネアンデルタール人類の化石は、事故や遭難のため埋葬される事なく遺棄されたと思われるものも少なくないが、洞窟内など特定の場所から何体もの骨格化石が副葬品と共に発見される場合も多く、彼らが死者を葬っていた証拠とされる。

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人類で始めての埋葬はどんなふうだったろう。それまで平気だったのに、あるとき近親者の死体が醜く朽ち果てていくのに慄然としたネアンデルタール人は、あわてて地面を掘り遺体をうずめる。しかし腐った家族の体を目にした記憶が頭から離れず、それまで死者をぞんざいに扱って平気だったことも思い起こされ、悔やんでも悔やみきれない思いに悩まされたりもしたのではなかろうか。

自分のいちばん古い記憶の中で、たぶん三歳ぐらいのとき、どこかの神社の石段で、小さな虫をもてあそんでいたことが強く心に焼き付いている。僕は小さなアシナガグモを捕まえては、その細く長い足を一本一本むしりとっていたのである。足が一本も無くなって身動きが取れなくなったアシナガグモをそのへんに放り出しておいたのである。
あとで、物心ついてからそれを思い起こし、自分は大変な自己嫌悪に陥った。そういうことをして平気だった自分が恐ろしかった。それに、やさしい両親は小さな僕がそういうことをしているのを見てどう思ったろう! 今でも、ときおりクモの足をぷつんぷつんとちぎっていた感触を思い出しては、自分の残酷さが恐ろしくなる。のちの僕は、ほとんど虫一匹殺せなくなった。そのあと辛い事はもちろんいろいろあったはずだが、もしかしたらこの記憶の辛さがいちばん大きいかも知れない。
この記憶のおかげで自分がなにか優しくなったとか、モラルが向上したとかいったことがあるのかどうか分からない。ただただ強烈な思い出だ。

ものごころがつくということに、そのように強烈な痛みがともなった人は、案外多いのではなかろうか。

(c) 2009 ntr ,all rights reserved.
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No.83
2009/10/16 (Fri) 04:38:23

ときどき、SFに出てくるテレポーテーション(物質転送)装置のことを考える。「スタートレック」には毎回のように出てくるし、映画「ザ・フライ」ではこの装置で人間の転送に失敗したことがハエ男を生んだのだった。

こうした装置は、物質をいったん分子レベルでばらばらにして、何らかの方法で別な位置に送り、そこで分子を再結合させ元の物質にもどす仕掛け、と説明されることが多いようである。
では、人間を転送した場合、その分子を間違って左右逆に再結合してしまったら、その人間は生きていけるのだろうか。

そうした失敗はこの装置において「起こりそうなこと」かも知れない。物質の各分子を別な場所に移動する際、これこれの場所(座標)へ移動させよという命令は、装置のプログラム上ではきっと「3次元の一次変換」として実行され、それも変に歪んだ形状で分子が再結合しないためには「直交変換」とよばれる操作がなされなければならない。直交変換は、行列式が ±1 である3次の行列で与えられる。行列式が 1 ならば物質の左右はそのままで、-1 なら左右が入れ替わる。だから変換の行列式がつねに 1 になるように装置はプログラムされるだろうが、-1 が 1 と認識されてしまうような誤作動が起きると、「物質の左右の逆転」が起きてしまうのである。

しかし人間の体を構成する分子の中には、左右対称でないもの(正確には「鏡に映すと別物に見えるもの」)が相当数入っているだろうし、左右逆にした再結合はうまくいかない可能性が高そうだ。パズルのピースの中に左右対称でないものが含まれていたら、完成品をばらばらにして各ピースを左右逆に並べようとしてもうまく組み合わさらないのと同様である。
だから人間をそのようにあやまって再結合しようとしたら死ぬのではなかろうか。

ここで、この装置が物質を「分子レベル」ではなくて「原子レベル」にばらばらにするとしたらどうだろうか。原子までばらばらにしてしまうと、再結合の際に非常に多くの「化学反応」が起きる必要がありそうに思え、そうした装置の実現は難しいのかも知れない。しかし仮にそういう装置があったとして、それで人間を左右逆に転送したらどうなるだろうか。

今度は左右対称でない分子は、転送によって左右逆になった分子(つまり「光学異性体」)に変わるから、再結合そのものは問題なさそうだ。問題はそうやって左右逆になった人間が生きていけるかである。
ごくまれに、内臓や血管のめぐり方がすべて通常と左右逆になっている人がいるようである。つまり心臓は右に、肝臓は左に、S字結腸は右にある、という具合である。そういう人は、内臓に欠陥を抱えていることが多いと聞くが、普通に生きていられるらしい。そこから推して、転送で左右逆になった人も生きていけると思っていいのだろうか。自分にはよく分からない。

たとえばDNAはどうだろうか。DNAはいわゆる「二重らせん構造」をしている。らせん状のものの鏡に映った像は、もとのものと別物に見える。右に回して締まるねじと左に回して締まるねじが別物なのと同様である。DNAがそのように別物になっても、生体維持に支障がないのだろうか。

その人の精神は、肉体が左右逆になると影響を受けるだろうか。脳細胞の配列がすべて左右逆になることで、それまで見ていた世界の記憶もすべて左右逆になって、文字などすべて記憶と違って見え、非常に苦痛を感じるかも知れない。性格的には、その人はもとと違った点が出てくるだろうか。性格と脳の構成分子の関係を知るのは、とても難しそうだ。

この問題について何かお分かりのかた、いらっしゃいますか。

(c) 2009 ntr ,all rights reserved.
No.82
2009/10/16 (Fri) 04:35:46

妖精の国   ポオ (入沢康夫訳)

おぼろな谷々――影ふかい水の流れ
そして 雲とみまがう森と森、
いたるところに降りそそぐ涙のゆえに、
さだかには見分け難い その形。
厖大な月たちが そこで満ち また虧(か)ける――
くりかえし――くりかえし――またくりかえし――
この夜の 刻一刻を――
はてることなく座をうつし――
青ざめた顔から吐く息で
星々の光を吹き消してしまうのだ。
月の時計の文字盤が十二時を指す頃おい
ひときわおぼろにかすむ月が一つ
(月たちが詮議のあげく
最上を認めた月が)
降りて来る――更に低く――なおも低く、
その中心を 高々とそびえる山の
頂きに ひたと向けて。
すると その広い円周は
寛(ひろ)やかな幕となって落ちかかる、
部落の上 家々の上
どこであろうとかまわずに――
奇怪な森の上に――海の上に――
翼ある精たちの上に――
うとうととまどろむものすべての上に――
そして 彼らを 光の迷宮の内部に
ことごとく埋めつくしてしまう――
おお そのときの彼らの睡気は
何と――何と深いことだろう!
朝が来て 彼らが目覚めれば
月光の幕はたちまちに舞い立って
嵐をまき起しながら
大空指して昇って行く。
そのありさまは――比類を絶するが――
いわば黄色い大信天翁(あほうどり)。
月のそれまでの役目――
つまり 私には
とほうもない贅沢と見えた
天幕の役目は終った――
とはいえ 月の無数の原子は
驟雨となって 微塵にちらばり、
そのささやかなかたみを、
空に憧れて舞い上り
また舞いおりる地上の蝶が
(常に心充たされぬ その生き物が)
はるばる運んで来たのだった
おののきふるえる翅に載せて。


むかしの人は、きょう中天にかかる青い月と、きのう地平線近くに見えた金色の月は別のものである、という考えを持つことがあったかも知れない。日々昇っては沈み、しかも形を変えるのだから、毎日違うものが空に浮んでいる、と自然に思う人もいたのではなかろうか。
しかしいったん「同じもの」と考えるようになると、なぜ以前は違うものに見えていたのか分からなくなり、むしろ以前の見方のほうが不自然に思えてくる。
日々違う物体が空に浮んでいると思うより、同じ物体が周期的に空に現れては消えていくと思うほうが、頭の中が整理されるし、「進んだ」考え方と言えそうだが、そこをあえて未整理な宇宙観で月を見るのがポオの詩想、ということになろうか。

初学の人にはまるで違って見えるものが、慣れた人にはほとんど同じに見える、という現象は、数学ではとくに顕著に起こるように感じる。代数系での「同型」なもの、トポロジーでの「同相」なものなど、教える側がまるで同じものと感じながら話しているのに接すると、教わる側は初め困惑する。

通常「~」という関係が次の3条件を満たしていると、「a ~ b」 は 「a と b は同じ」と思って差し支えないとされる(「~」は同値関係である、といわれる)。

・どんな a に対しても a ~ a(反射律)
・a ~ b ならば b ~ a(対称律)
・a ~ b , b ~ c ならば a ~ c (推移律)

たとえば a – b が 3 で割り切れることを
a ≡ b
と書くことにすれば「≡」は同値関係である。
つまりはじめは
17 ≡ 5
と書かれてもピンとこないのが、だんだん17と5が同じものに見えてくる、ということが起きる。

もちろん通常の「 = 」も上の3条件を満たしている。

・どんな a に対しても a = a .
・a = b ならば b = a .
・a = b , b = c ならば a = c .

こうした「同値関係」の話からの類推で、「同じ」ということ自体、人間の観念の中にしか存在しないのではなかろうか、などという考えもときおり浮んでくるが、人間は次のような不思議な操作を頭の中ですることがある。

2つの点が人間の目に別の点であると識別できるためには、最低限 X だけ距離が離れていなければならないとする。いま2点A ,B がちょうど X だけ離れているとすれば、人はA, Bを別な点と識別できる、つまりA ≠ B と思える。つぎにA, B の真ん中に点Cを打つとどうなるだろうか。AとC、BとCはそれぞれ X/2 だけしか離れておらず、それぞれ識別できない。つまり A = C, C = B のように見える。しかしA = C, C = Bであるのに A ≠ B であるというのは(推移律に反し)理性の上で納得できない。だからA = C, C = B というのは自分の目が欺かれているのであって、本当は A ≠ C または C ≠ B のはずである、と結論する。

果たして「A ≠ C または C ≠ B」は幻想なのか事実なのか、それともそのどちらでもよいのだろうか。

(c) 2009 ntr ,all rights reserved.
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執筆陣
HN:
快文書作成ユニット(仮)
自己紹介:
 各々が皆、此の侭座して野に埋もるるには余りに口惜しい、正に不世出の文芸家を自称しております次第。以下、【快文書館】(仮)が誇る精鋭を御紹介します。


 ❁ ntr 〜 またの名を中村震。小説、エッセイ、漢詩などを書きます。mixiでも活動。ふだん高校で数学を教えているため、数学や科学について書くこともあります。試験的にハヤカワ・ポケット・ブックSFのレビューを始めてみました。

 ❖ 呂仁為 Ⅱ 〜 昭和の想い出話や親しみやすい時代物、歴史小説などについて書きます。

 ✿ 流火-rjuka- ~ 主に漢詩の創作、訳詩などを行っています。架空言語による詩も今後作りたいと思っています。

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 我ら一同、只管に【快文書】を綴るのみ。お気に入りの本の頁をめくる感覚で、ゆるりとお楽しみ頂ければ僥倖に御座居ます。









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