『読んで面白い』『検索で来てもガッカリさせない』『おまけに見やすい』以上、三カ条を掲げた〜快文書〜創作プロフェッショナル共が、心底読み手を意識した娯楽文芸エンターテイメントを提供。映画評論から小説、漢詩、アートまでなんでもアリ。嘗てのカルチャー雑誌を彷彿とさせるカオスなひと時を、是非、御笑覧下さいませ。
No.9
2009/10/15 (Thu) 21:31:48
元建設会社社長のミズタ氏は、会社が倒産し多額の負債を負い、夜逃げ同然に国境を越えてT国にやって来た。ボストンバッグひとつを持った彼は、夜通し歩き続け、いつしか名も知らぬ森にさまよいこんでいた。やがて白々と夜は明けてきたが、辺りは濃い霧が立ち込め、自分がどこにいるのか見当もつかなかった。枯葉を踏む音だけがかさかさと耳についた。
ミズタ氏は立ち止まり、周囲を見回した。近くに、誰かの気配を感じた。いきなり、長い白髪を振り乱した老人が、剣を振るってミズタ氏に襲いかかってきた。ミズタ氏は間一髪で切っ先を避け、しばらく二人はもみあい、地面を転げまわった。二人は坂を転げ落ち、老人は岩に頭をぶつけ、ぐったりとなった。ミズタ氏は突然のことに気は動転し、息を切らして茫然と立ち尽くした。
「やったか!」
と坂の上から声がした。ミズタ氏が仰ぎ見ると、四、五人の長衣をまとった老人たちがこちらを見下ろしている。ごま塩頭の、長いあごひげの老人が坂を下りてきて、先ほどの剣を振るった老人の脈をとった。
「死んでいる!」
坂の上の老人たちは、おお、と感嘆の声を上げた。彼らも坂を下りてきて、中の一人が言った。
「私はデルミンと申す者、長老議会の議長を務めております。あなたが今殺した人物はザミといって、我々の王でした。という訳で、あなたは我々の新しい王となられたのです。失礼ですが、お名前は」
「ちょっと待って下さい、事情がよく飲み込めないのですが」
ミズタ氏が困惑げに言うと、デルミンは次のような話をした。
この地域はT国内でも半独立の地位を占めていて、その国王は「森の王」と呼ばれる。森の王は祭司であって、この地域の象徴である「神木」を守っている。森の王の交代は、先代の王を殺す事によって行われる。つまり誰でも、森の王を殺せば、自分が森の王となれる。森の王に代わって実際の政治は、われわれ長老議会がとりしきっている。さらに、森の王は莫大な財宝をわが手にすることができる。
「すると私は、その『森の王』とやらになったわけか」
ミズタ氏は言った。彼は思い迷った。この地位を喜ぶべきか悲しむべきか。しかし、デルミンに案内されて森の王の保有する宝物蔵を見て、彼の考えは変わった。そこには、確かに莫大な財宝があった。金貨銀貨をつめた長持が山と積まれ、珍しい宝石をあしらった装飾品や剣がまばゆいばかりの光を放っていた。これだけの財宝があればどんなことができるだろう。森の王も結構ではないか。
「ただし、森の王はこの地を離れてはなりません。また、他の者に自分の身を守らせてはなりません。つまり、自分の身は自分で守る。これが掟です」
デルミンが言った。
ミズタ氏はまず、自分の身を守る鉄の箱を作った。そしてその中で、自分の住居の設計を始めた。彼はもともと、建築士として世に出たのである。自分の身を守るのに最適な住居、それは怪しい者を一歩たりとも近づけない堅固な要塞でなければならなかった。こうしてミズタ氏は、手に入れた財宝にものを言わせて大勢の人員を雇い、先端技術の粋を尽くした要塞の建設を、着々と進めていった。
これを見た長老議会の連中は、もちろんびっくりした。古式ゆかしき森の王の神域が、大規模に開発され、見た事もないような建物がだんだん建設されていく。それに、その建設に関わる人の多さ。これは「自分の身は自分で守る」という掟を犯す事にならないだろうか。長老たちは議論を重ねた。代々森の王は、長剣ひとつで自分の身を守ってきた。しかし、それももう時代遅れなのかもしれない。こう結論した議会は、ミズタ氏の所業を黙って見守る事にした。
ミズタ氏は終始、息苦しい鉄の箱の中から、建築技師たちに指示を出した。いつ寝首をかかれるかも知れない。そうした緊張感がミズタ氏にはあった。
そうして要塞は完成した。防犯カメラを数百台備え、空から爆撃されても平気で耐えうる強度の壁を持っていた。そして入り口からミズタ氏の部屋までは、複雑な迷路のようになっており、不審物を持ち込めないように金属探知機を備えていた。森の王が守るべき神木は、中庭にあった。宝物蔵は地下に移しかえた。
ミズタ氏は、この森の王という地位が、非常に気に入りだした。ここには、虚飾とか権謀術策といったものがまるでなかった。殺すか殺されるか。まことに単純明快だった。ミズタ氏は、自分の会社を守るのがどんなに大変だったかに思いをはせた。今は、自分の身ひとつを守ればよい。楽なものだ。
ミズタ氏は、防犯カメラの映像を写すテレビ画面が壁一面にある自室に、財宝の一部と武器弾薬を持ち込み、ひとり悦に入った。好きなワインを飲み、クラシック音楽に耳を傾ける。最高の気分だった。
彼はもともと信心深いほうではなかったが、森の王となって要塞が完成してからは、神木に朝夕祈りを捧げた。朝には今日の身の安全を祈り、夕にはその日の無事を感謝した。
ミズタ氏は要塞の設備維持や身のまわりの世話をさせるために、数人の人間を雇っていた。しかし、自室には誰一人として入れなかった。もちろん身の安全のためだった。召使も、ミズタ氏の部屋まで行く道は知らなかった。ミズタ氏はマイクで召使に命令を告げ、召使が物をミズタ氏の部屋に届けるときは、専用の小さなエレベーターにその物だけ乗せて運んだ。
ミズタ氏は最初は部屋の財宝を眺めては幸せな気分にひたっていたが、次第に、誰にも会えない孤独感に悩まされだした。そこで、古い友人に手紙を書いてみたりした。返事は来なかった。冷たい実業家としての彼の半生は、彼から多くの友人を奪っていた。彼は次第に酒に溺れていった。
そんなある晩の事である。いつものように酒を飲んでいると、部屋の隅を、鼠が走っているのが目に付いた。彼はぞっとした。蟻の子一匹入れないはずのこの部屋に、あんな大きな鼠がいる! ミズタ氏はピストルを鼠に向けて狂気のように撃ちまくった。鼠は逃げてしまった。
今まで絶対安心だと信じていた自分の身が、必ずしも安全ではないかもしれないと思い始めたとき、ミズタ氏は猛烈な不安感に襲われ、次第に体調を崩していった。今までかっぷくのいい初老の紳士だったミズタ氏は、目がおちくぼみ、ガリガリになっていった。
T国の神域に、ある若い夫婦がやってきた。夫のリュウは料理人だったが、勤めていたレストランがつぶれ、新しい勤め先を探しているところに、ミズタ氏が料理人を募集している事を知ったのだった。もといたミズタ氏の料理人が急死したのだという。
美食家のミズタ氏は、フランス料理、イタリア料理、中国料理など、色々な料理を作ることを要求し、そのための採用試験が行われた。リュウはその試験にパスした。妻のユリは邸内の掃除などをする小間使いとして雇われた。
二人はもともと貧乏だったが、ミズタ氏の出す給料はかなりのものだった。二人は森の王の何たるかについて、はじめは知らなかったが、やがてユリがその情報を聞きつけてきた。
「ものすごい財宝なのよ。ミズタ氏を殺せば、それだけの財宝が私たちのものになるのよ」
「ユリ。僕らは今だって幸せに暮らしているじゃないか。それにミズタ氏を殺すといったって、方法がないじゃないか。彼の部屋までの行き方は僕らには知らされていないし、料理に毒を入れようったって、ちゃんと毒見役がいるんだからね」
「方法はきっとあるはずだわ」
そう、ミズタ氏は毎日の料理を、高給で雇った毒見役に少し食べさせ、その様子をモニターでチェックしてから、料理を小型エレベーターで自分のところに運ばせるのだった。また彼は常に武器を携帯し、寝るときは頑丈な鋼鉄の箱の中だった。ミズタ氏に隙があるようには見えなかった。
しかし、料理人夫婦はミズタ氏をあの世に送る巧妙な計略を考え出した。
ある晩のこと、リュウは鳥の丸焼きを夕食に出した。それは、深くナイフを入れると部屋に充満するほどの煙が出る仕掛けになっていた。毒見役はいつもの習慣で少しだけナイフを入れたので、仕掛けのことは気づかれずに料理はミズタ氏のもとへ運ばれていく。さて、料理が運ばれていったあと、かなり小柄なユリが小型エレベーターに乗り込んで、ミズタ氏の部屋の片隅で待っている。彼女はもちろんガスマスクをつけ、ナイフを手に持っていた。
ミズタ氏は料理に深くナイフを突き入れた。一瞬の間ののち、鳥の丸焼きからは黒い煙がふきだし、煙はまたたくまに部屋に充満した。ミズタ氏はたまらず部屋を出た。その後ろからユリは近づき、ナイフで彼の首を切った。ミズタ氏はあっけなく死んだ。ユリがミズタ氏を殺す有様は防犯カメラにしっかりと映されていた。ミズタ氏の部屋には、外まで出る地図が置いてあったので、ユリは悠々と部屋を出て、長老議会の人々を呼んだ。
議会の人々は、ミズタ氏の死体を見、防犯カメラに映る映像を見て、ユリを新しい森の王と認めた。
それからというもの、リュウとユリとはミズタ氏の部屋で暮らすようになった。二人は愛し合っていたから、財宝は二人の物だった。二人は何不自由なく暮らすようになった。
とはいうものの、ユリは身の安全のため、部屋から出ることは出来なかった。終日リュウとゲームをして遊んだり、友達と電話でお喋りして過ごした。
まず、リュウがユリの相手をするのに飽きだした。終日部屋にこもっているのはつまらなかった。ひとりで夜の街に出て遊ぶようになった。ユリはそんなリュウをうらめしく見ていた。
リュウは、邸内の別な小間使いと、街に出て遊ぶようになった。そして、あろうことか、二人は屋敷の庭の木陰で恋人同士のようにキスをした。その様子は、防犯カメラに映され、ユリの目に入った。
ユリは激怒し、夫婦は大喧嘩となった。
「今すぐここから出て行ってちょうだい」
「いいとも。しかし財宝の半分はもらっていくぜ」
「馬鹿言わないでちょうだい。森の王はわたしなのよ。財宝は全てわたしのものだわ」
「じゃあ俺が森の王になるまでだ」
リュウは隠し持っていたナイフをユリに突き刺そうとした。しかし、ユリも用心にピストルを持っていた。ピストルが火を吹き、リュウを撃ち殺した。
それ以来彼女は孤独になった。ユリはミズタ氏と違って人を信用しやすい性質だったから、信頼できる召使をよく自分の部屋に招いて、話し相手になってもらった。
ユリも、神木に毎日祈りをささげるようになった。自分の孤独が早く癒されるようにと祈っていたのだった。
ユリは、もともと美人だったが、森の王としての威厳が加わったのか、今や絶世の美人といってもよかった。
あるとき、ゴーシュという美男子が、森の王の要塞に雇われにきた。彼ははじめから森の王位を狙って来たのだったが、ユリはそんな事も知らずにさっさと雇ってしまった。如才なく口のうまいゴーシュはまもなくユリの気に入るところとなり、ユリの自室にもしばしば招き入れられることとなった。
ゴーシュはユリをはじめて見たとき、そのあまりの美しさに息を呑んだ。ぬけるような白い肌、茶色くうるんだ瞳は敏感に動く。ゴーシュはユリを殺す気持ちを失ってしまった。
「外の世界のお話、聞かせていただきたいわ、ゴーシュさん」
王女のような気品にすっかり魅入られたゴーシュは、はじめはどもりながら、しかし次第に夢中になって話をした。
「楽しいお話でしたわ、ゴーシュさん。またいらしてくださいね」
それ以来、彼はしばしばユリの部屋に招かれた。二人は次第に親密になり、ゴーシュは二人で幸せに暮らすことを真剣に考え始めた。財宝は、二人で山分けにすればいい。ゴーシュがユリに結婚を申し込むと、ユリは喜んで応じた。
「ただし、わたくしを決して裏切らないこと。いいわね」
二人は数週間を楽しくユリの部屋で過ごした。世界で必要なものはお互いだけだ、と二人は信じた。
しかし、幸せな蜜月時代が過ぎると、ゴーシュは外の世界に出られないユリに退屈を感じ始めた。そして、自分ひとり、夜の街に出て遊ぶようになった。リュウのように……。ユリは不安を感じ始めた。また自分は、孤独に突き落とされてしまうのではないか。酒に酔って帰ってきたゴーシュを見て、ますますその思いを強くした。彼は泥酔して眠っている。ゴーシュの上着の匂いをかいで見ると、自分の知らない香水のかおりがする。ユリの心に、急激な怒りが走った。
「あなたが悪いのよ、ゴーシュ」
ユリは、眠っているゴーシュの背中にナイフを突き刺した。彼はうめき声を上げ、すぐに息絶えた。
その後も、ユリを殺す目的で雇われにくる男がやって来た。しかし、その男もユリのこの世ならぬ美しさを見て、自分の来た目的を忘れてしまうのだった。
「こちらへいらっしゃい。わたくしも人間なのよ」
ユリは鈴のなるような声で、男に話しかけた。
この男もまもなくユリとベッドをともにし、幸せな数週間を過ごした後にユリに殺された。
ユリは自分が相手の男に飽きられるのを恐れていた。またどうしようもなく孤独だった。
男を連れ込んでは殺すユリの所業はその後も続いた。
議会の長老たちをはじめ神域の人々は、この事態を非常に憂えた。絶世の美人である魔女が森の王の座につき、男たちを虜にしては殺している。
そんなある日、ユリが死体で発見された。彼女は石で殴られたらしく、丸い石が現場に転がっていた。遺体は神木のもとに倒れており、祈りを捧げていたところだったらしい。長老たちは、ユリを殺したのは誰かと皆に問いただした。誰も名乗りを上げる者はいなかった。
長老たちは協議の結果、ユリを殺した石は隕石であろう、と結論した。それも、太陽から降ってきた隕石である、従って新しい森の王は太陽である、と長老たちは発表した。それは、ユリの所業を見ていた長老たちが、森の王という地位の恐ろしさを身にしみて感じての結論だった。なるほど太陽が森の王なら、誰も殺すことはできまい。
森の王という制度は、こうして事実上の廃止となった。古風で残忍な因習は世界のあちこちにあり、それらは次々と姿を消していく趨勢にあるが、この森の王も今や文字通りの伝説となったのである。
(終)
(c) 2009 ntr ,all rights reserved.
ミズタ氏は立ち止まり、周囲を見回した。近くに、誰かの気配を感じた。いきなり、長い白髪を振り乱した老人が、剣を振るってミズタ氏に襲いかかってきた。ミズタ氏は間一髪で切っ先を避け、しばらく二人はもみあい、地面を転げまわった。二人は坂を転げ落ち、老人は岩に頭をぶつけ、ぐったりとなった。ミズタ氏は突然のことに気は動転し、息を切らして茫然と立ち尽くした。
「やったか!」
と坂の上から声がした。ミズタ氏が仰ぎ見ると、四、五人の長衣をまとった老人たちがこちらを見下ろしている。ごま塩頭の、長いあごひげの老人が坂を下りてきて、先ほどの剣を振るった老人の脈をとった。
「死んでいる!」
坂の上の老人たちは、おお、と感嘆の声を上げた。彼らも坂を下りてきて、中の一人が言った。
「私はデルミンと申す者、長老議会の議長を務めております。あなたが今殺した人物はザミといって、我々の王でした。という訳で、あなたは我々の新しい王となられたのです。失礼ですが、お名前は」
「ちょっと待って下さい、事情がよく飲み込めないのですが」
ミズタ氏が困惑げに言うと、デルミンは次のような話をした。
この地域はT国内でも半独立の地位を占めていて、その国王は「森の王」と呼ばれる。森の王は祭司であって、この地域の象徴である「神木」を守っている。森の王の交代は、先代の王を殺す事によって行われる。つまり誰でも、森の王を殺せば、自分が森の王となれる。森の王に代わって実際の政治は、われわれ長老議会がとりしきっている。さらに、森の王は莫大な財宝をわが手にすることができる。
「すると私は、その『森の王』とやらになったわけか」
ミズタ氏は言った。彼は思い迷った。この地位を喜ぶべきか悲しむべきか。しかし、デルミンに案内されて森の王の保有する宝物蔵を見て、彼の考えは変わった。そこには、確かに莫大な財宝があった。金貨銀貨をつめた長持が山と積まれ、珍しい宝石をあしらった装飾品や剣がまばゆいばかりの光を放っていた。これだけの財宝があればどんなことができるだろう。森の王も結構ではないか。
「ただし、森の王はこの地を離れてはなりません。また、他の者に自分の身を守らせてはなりません。つまり、自分の身は自分で守る。これが掟です」
デルミンが言った。
ミズタ氏はまず、自分の身を守る鉄の箱を作った。そしてその中で、自分の住居の設計を始めた。彼はもともと、建築士として世に出たのである。自分の身を守るのに最適な住居、それは怪しい者を一歩たりとも近づけない堅固な要塞でなければならなかった。こうしてミズタ氏は、手に入れた財宝にものを言わせて大勢の人員を雇い、先端技術の粋を尽くした要塞の建設を、着々と進めていった。
これを見た長老議会の連中は、もちろんびっくりした。古式ゆかしき森の王の神域が、大規模に開発され、見た事もないような建物がだんだん建設されていく。それに、その建設に関わる人の多さ。これは「自分の身は自分で守る」という掟を犯す事にならないだろうか。長老たちは議論を重ねた。代々森の王は、長剣ひとつで自分の身を守ってきた。しかし、それももう時代遅れなのかもしれない。こう結論した議会は、ミズタ氏の所業を黙って見守る事にした。
ミズタ氏は終始、息苦しい鉄の箱の中から、建築技師たちに指示を出した。いつ寝首をかかれるかも知れない。そうした緊張感がミズタ氏にはあった。
そうして要塞は完成した。防犯カメラを数百台備え、空から爆撃されても平気で耐えうる強度の壁を持っていた。そして入り口からミズタ氏の部屋までは、複雑な迷路のようになっており、不審物を持ち込めないように金属探知機を備えていた。森の王が守るべき神木は、中庭にあった。宝物蔵は地下に移しかえた。
ミズタ氏は、この森の王という地位が、非常に気に入りだした。ここには、虚飾とか権謀術策といったものがまるでなかった。殺すか殺されるか。まことに単純明快だった。ミズタ氏は、自分の会社を守るのがどんなに大変だったかに思いをはせた。今は、自分の身ひとつを守ればよい。楽なものだ。
ミズタ氏は、防犯カメラの映像を写すテレビ画面が壁一面にある自室に、財宝の一部と武器弾薬を持ち込み、ひとり悦に入った。好きなワインを飲み、クラシック音楽に耳を傾ける。最高の気分だった。
彼はもともと信心深いほうではなかったが、森の王となって要塞が完成してからは、神木に朝夕祈りを捧げた。朝には今日の身の安全を祈り、夕にはその日の無事を感謝した。
ミズタ氏は要塞の設備維持や身のまわりの世話をさせるために、数人の人間を雇っていた。しかし、自室には誰一人として入れなかった。もちろん身の安全のためだった。召使も、ミズタ氏の部屋まで行く道は知らなかった。ミズタ氏はマイクで召使に命令を告げ、召使が物をミズタ氏の部屋に届けるときは、専用の小さなエレベーターにその物だけ乗せて運んだ。
ミズタ氏は最初は部屋の財宝を眺めては幸せな気分にひたっていたが、次第に、誰にも会えない孤独感に悩まされだした。そこで、古い友人に手紙を書いてみたりした。返事は来なかった。冷たい実業家としての彼の半生は、彼から多くの友人を奪っていた。彼は次第に酒に溺れていった。
そんなある晩の事である。いつものように酒を飲んでいると、部屋の隅を、鼠が走っているのが目に付いた。彼はぞっとした。蟻の子一匹入れないはずのこの部屋に、あんな大きな鼠がいる! ミズタ氏はピストルを鼠に向けて狂気のように撃ちまくった。鼠は逃げてしまった。
今まで絶対安心だと信じていた自分の身が、必ずしも安全ではないかもしれないと思い始めたとき、ミズタ氏は猛烈な不安感に襲われ、次第に体調を崩していった。今までかっぷくのいい初老の紳士だったミズタ氏は、目がおちくぼみ、ガリガリになっていった。
T国の神域に、ある若い夫婦がやってきた。夫のリュウは料理人だったが、勤めていたレストランがつぶれ、新しい勤め先を探しているところに、ミズタ氏が料理人を募集している事を知ったのだった。もといたミズタ氏の料理人が急死したのだという。
美食家のミズタ氏は、フランス料理、イタリア料理、中国料理など、色々な料理を作ることを要求し、そのための採用試験が行われた。リュウはその試験にパスした。妻のユリは邸内の掃除などをする小間使いとして雇われた。
二人はもともと貧乏だったが、ミズタ氏の出す給料はかなりのものだった。二人は森の王の何たるかについて、はじめは知らなかったが、やがてユリがその情報を聞きつけてきた。
「ものすごい財宝なのよ。ミズタ氏を殺せば、それだけの財宝が私たちのものになるのよ」
「ユリ。僕らは今だって幸せに暮らしているじゃないか。それにミズタ氏を殺すといったって、方法がないじゃないか。彼の部屋までの行き方は僕らには知らされていないし、料理に毒を入れようったって、ちゃんと毒見役がいるんだからね」
「方法はきっとあるはずだわ」
そう、ミズタ氏は毎日の料理を、高給で雇った毒見役に少し食べさせ、その様子をモニターでチェックしてから、料理を小型エレベーターで自分のところに運ばせるのだった。また彼は常に武器を携帯し、寝るときは頑丈な鋼鉄の箱の中だった。ミズタ氏に隙があるようには見えなかった。
しかし、料理人夫婦はミズタ氏をあの世に送る巧妙な計略を考え出した。
ある晩のこと、リュウは鳥の丸焼きを夕食に出した。それは、深くナイフを入れると部屋に充満するほどの煙が出る仕掛けになっていた。毒見役はいつもの習慣で少しだけナイフを入れたので、仕掛けのことは気づかれずに料理はミズタ氏のもとへ運ばれていく。さて、料理が運ばれていったあと、かなり小柄なユリが小型エレベーターに乗り込んで、ミズタ氏の部屋の片隅で待っている。彼女はもちろんガスマスクをつけ、ナイフを手に持っていた。
ミズタ氏は料理に深くナイフを突き入れた。一瞬の間ののち、鳥の丸焼きからは黒い煙がふきだし、煙はまたたくまに部屋に充満した。ミズタ氏はたまらず部屋を出た。その後ろからユリは近づき、ナイフで彼の首を切った。ミズタ氏はあっけなく死んだ。ユリがミズタ氏を殺す有様は防犯カメラにしっかりと映されていた。ミズタ氏の部屋には、外まで出る地図が置いてあったので、ユリは悠々と部屋を出て、長老議会の人々を呼んだ。
議会の人々は、ミズタ氏の死体を見、防犯カメラに映る映像を見て、ユリを新しい森の王と認めた。
それからというもの、リュウとユリとはミズタ氏の部屋で暮らすようになった。二人は愛し合っていたから、財宝は二人の物だった。二人は何不自由なく暮らすようになった。
とはいうものの、ユリは身の安全のため、部屋から出ることは出来なかった。終日リュウとゲームをして遊んだり、友達と電話でお喋りして過ごした。
まず、リュウがユリの相手をするのに飽きだした。終日部屋にこもっているのはつまらなかった。ひとりで夜の街に出て遊ぶようになった。ユリはそんなリュウをうらめしく見ていた。
リュウは、邸内の別な小間使いと、街に出て遊ぶようになった。そして、あろうことか、二人は屋敷の庭の木陰で恋人同士のようにキスをした。その様子は、防犯カメラに映され、ユリの目に入った。
ユリは激怒し、夫婦は大喧嘩となった。
「今すぐここから出て行ってちょうだい」
「いいとも。しかし財宝の半分はもらっていくぜ」
「馬鹿言わないでちょうだい。森の王はわたしなのよ。財宝は全てわたしのものだわ」
「じゃあ俺が森の王になるまでだ」
リュウは隠し持っていたナイフをユリに突き刺そうとした。しかし、ユリも用心にピストルを持っていた。ピストルが火を吹き、リュウを撃ち殺した。
それ以来彼女は孤独になった。ユリはミズタ氏と違って人を信用しやすい性質だったから、信頼できる召使をよく自分の部屋に招いて、話し相手になってもらった。
ユリも、神木に毎日祈りをささげるようになった。自分の孤独が早く癒されるようにと祈っていたのだった。
ユリは、もともと美人だったが、森の王としての威厳が加わったのか、今や絶世の美人といってもよかった。
あるとき、ゴーシュという美男子が、森の王の要塞に雇われにきた。彼ははじめから森の王位を狙って来たのだったが、ユリはそんな事も知らずにさっさと雇ってしまった。如才なく口のうまいゴーシュはまもなくユリの気に入るところとなり、ユリの自室にもしばしば招き入れられることとなった。
ゴーシュはユリをはじめて見たとき、そのあまりの美しさに息を呑んだ。ぬけるような白い肌、茶色くうるんだ瞳は敏感に動く。ゴーシュはユリを殺す気持ちを失ってしまった。
「外の世界のお話、聞かせていただきたいわ、ゴーシュさん」
王女のような気品にすっかり魅入られたゴーシュは、はじめはどもりながら、しかし次第に夢中になって話をした。
「楽しいお話でしたわ、ゴーシュさん。またいらしてくださいね」
それ以来、彼はしばしばユリの部屋に招かれた。二人は次第に親密になり、ゴーシュは二人で幸せに暮らすことを真剣に考え始めた。財宝は、二人で山分けにすればいい。ゴーシュがユリに結婚を申し込むと、ユリは喜んで応じた。
「ただし、わたくしを決して裏切らないこと。いいわね」
二人は数週間を楽しくユリの部屋で過ごした。世界で必要なものはお互いだけだ、と二人は信じた。
しかし、幸せな蜜月時代が過ぎると、ゴーシュは外の世界に出られないユリに退屈を感じ始めた。そして、自分ひとり、夜の街に出て遊ぶようになった。リュウのように……。ユリは不安を感じ始めた。また自分は、孤独に突き落とされてしまうのではないか。酒に酔って帰ってきたゴーシュを見て、ますますその思いを強くした。彼は泥酔して眠っている。ゴーシュの上着の匂いをかいで見ると、自分の知らない香水のかおりがする。ユリの心に、急激な怒りが走った。
「あなたが悪いのよ、ゴーシュ」
ユリは、眠っているゴーシュの背中にナイフを突き刺した。彼はうめき声を上げ、すぐに息絶えた。
その後も、ユリを殺す目的で雇われにくる男がやって来た。しかし、その男もユリのこの世ならぬ美しさを見て、自分の来た目的を忘れてしまうのだった。
「こちらへいらっしゃい。わたくしも人間なのよ」
ユリは鈴のなるような声で、男に話しかけた。
この男もまもなくユリとベッドをともにし、幸せな数週間を過ごした後にユリに殺された。
ユリは自分が相手の男に飽きられるのを恐れていた。またどうしようもなく孤独だった。
男を連れ込んでは殺すユリの所業はその後も続いた。
議会の長老たちをはじめ神域の人々は、この事態を非常に憂えた。絶世の美人である魔女が森の王の座につき、男たちを虜にしては殺している。
そんなある日、ユリが死体で発見された。彼女は石で殴られたらしく、丸い石が現場に転がっていた。遺体は神木のもとに倒れており、祈りを捧げていたところだったらしい。長老たちは、ユリを殺したのは誰かと皆に問いただした。誰も名乗りを上げる者はいなかった。
長老たちは協議の結果、ユリを殺した石は隕石であろう、と結論した。それも、太陽から降ってきた隕石である、従って新しい森の王は太陽である、と長老たちは発表した。それは、ユリの所業を見ていた長老たちが、森の王という地位の恐ろしさを身にしみて感じての結論だった。なるほど太陽が森の王なら、誰も殺すことはできまい。
森の王という制度は、こうして事実上の廃止となった。古風で残忍な因習は世界のあちこちにあり、それらは次々と姿を消していく趨勢にあるが、この森の王も今や文字通りの伝説となったのである。
(終)
(c) 2009 ntr ,all rights reserved.
PR
No.8
2009/10/15 (Thu) 21:30:16
会社に入るまでは、こんなに大変な仕事だとは思わなかった。
僕はコンピュータ関係の仕事をしている。会社自体は出版社なのだが、コンピュータソフトも作っていて、僕はその開発部門で働いているのだ。会社には他に、書籍の編集者や、営業社員などがいる。
「あ、もう十一時か」僕と向かい合わせの席にいる、同じ部署の先輩が言った。
「アーア」僕は伸びをした。これから帰ったら、家に着くのは十二時半だ。このところ、連日こんな日が続いている。他の部署の社員は、もうとっくに帰ってしまった。コンピュータソフトの開発は、他の部の仕事に比べて時間がかかるものなのだ。
「よし、このテストだけ終わらせて帰ろう」僕は再びパソコンの画面に向かった。
どうもやる気が出ない。そんなに難しくなく、いつもなら簡単にできる作業なのだが、そのときに限って心にブレーキがかかったようになって、手がつけられないのだ。
すると、僕の心の中に、ある荒涼とした風景が浮かび上がった。石ころだらけの急な坂で、大きな岩でできた球体を懸命に転がして登ろうとしている男。その男はぼろぼろのグレーの服を着た、痩せた若い男だった。髪がボウボウに伸びている。空は真っ白、坂道は鉄色で、すべては無彩色の世界だった。
僕は、その心の風景をうちはらって仕事にかかろうとしたが、その風景は消えなかった。
しかたがないので、僕は無理にでもと、仕事にかかった。するとおかしなことに、心の中のあの坂道で、痩せた男がぐいぐいと岩の球体を転がし始めたのだった。球体は坂道を、男の背丈一つぶんぐらい登った。
僕はしかし、すこし仕事を始めたところで、またもややる気をなくし、再び手を止めてしまった。すると心の中では、痩せた男が球体の重みに負けて、ずるずると坂を下ってしまった。球体の位置は初めよりも下になっていた。それでも男は懸命に球体を支え続けている。
「だめだ。今日はもう帰ろう」僕は言った。あんな風景が執拗に心に現れるのは、疲れているからに違いない。
「お先に失礼します」僕は足早に会社をあとにした。
次の日。
きのうと同じく、僕は会社で忙しい時間を過ごしていた。コンピュータソフトの開発担当といったって、ただコンピュータのプログラミングだけやっていればいいというものじゃない。ソフトの使用方法についての問い合わせの電話は頻繁にかかってくる、ソフトの注文やカタログを送ってほしいというファックスもくるのでそれも処理しなければならない、コンピュータウィルスの騒ぎがあれば部内のパソコンのすべてをチェックしなければならない、などさまざまだ。
そんなことをやっている間に、本来の業務の予定がどんどん遅れていく。そして、帰りはいつも深夜……。
まったく、こんなきつい仕事が他にあるもんか。僕は、心の中で叫んだ。いつか転職しよう……他のどんな仕事も、これよりは楽だろう。
僕がきのうの仕事の続きをしていると、再び倦怠感がやってきた。仕事をしようという意志はあるのだが、どうしても思考力が働かず、とうとう手が止まってしまった。
そのとき、またあの坂道の風景が心に浮かんだ。痩せた若い男は、あいかわらず大きな岩の球体を押し上げようとしている。口をへの字にして、額から汗をタラタラ流しながら、頑張っている。
よし、がんばれ!僕は心の中で叫んだ。するとその男に伝わったのか、男はぐいぐい球体を押し上げ、ついに坂道の頂上にたどりついた。頂上は平(たい)らになっていて、男はそこでやっと休むことができるのだった。
すると不思議なことに、僕は急に心が軽くなって、難なく仕事をすすめる事が出来るようになった。仕事はすいすいはかどり、やがて昼休みになった。僕は食事をしに外に出て行った。
あの坂道の男は、僕の意志力というか、心のエネルギーの象徴に違いない。
それからというもの、その坂道の風景は、ひんぱんに現れるようになった。一日のうち何度も、僕が意志力を必要とするときにはいつでも、心の中に現れるのだ。多いときは一日に十回以上現れることもある。そのたびに、やせた若い男は岩の球体とともに坂道の下のほうにおり、球体をぐいぐい押し上げる。うまく頂上まで運べるときもあれば、結局失敗に終わることもある。頂上までたどり着いたときは、僕も業務をうまくやり終えることができ、球体が結局坂を登りきれなかったときは、僕も仕事に取り掛かれないのだった。
坂道の風景は、会社の勤務時間以外にも現れるようになった。駅の長い階段を登ろうとするときや、眠ろうとしてなかなか眠れないときなど、ちょっとでも意志力を必要とするときには、いつでも現れるのだ。そのたびにグレーのぼろ服の若い男は、坂道で苦悶の表情をあらわして頑張っていた。球体の押し上げに成功したときの彼はこの上ない歓喜をあらわし、失敗したときは実にしょんぼりした顔をしていた。
僕は、彼のことを実にかわいいやつだと思うようになった。彼があんなに頑張っているのだから、俺も頑張ろう、という気になるのだった。
ところが、あるときから、その坂道の男の作業が、全然成功しなくなったのだ。もうちょっとで頂上というところで、いつも球体はずるずると転げ落ち、男は、みじめな、悲しげな顔をした。当然、僕のほうも意志力が働かなくなり、簡単な仕事にも取り掛かれなくなってきた。
当然、業務は進捗せず、僕はたびたび上司の叱責を受けた。坂道の岩の球体のことなど口が裂けても言えないので、僕はしばしば「体調がすぐれない」と言い訳した。
僕は勤務時間中、パソコンのディスプレイに向かいながら、何度も坂道の男を励ました。一度などはオフィス全体に響く声で「がんばれ!」と叫んでしまったほどだ。
いよいよ業務に差し障りが出るようになって、僕は困り果て、精神科医の診療を受けた。
「うつ病の一種ですね」
僕が心の中の坂道の男のことをさんざん説明したあと、精神科医はひと言そういった。「薬を出しておきましょう。一週間後にまた来てください」
僕は、精神科医が僕の少年時代の心の傷をさぐるものとばかり思っていたのだが、あっさりしたもので、薬を処方するだけなのだった。
しかし、医者の出してくれた薬を飲んでも、あいかわらず坂道の男は岩の押し上げに失敗し続け、僕も仕事に失敗し続けた。
ある晩のこと。
僕はなかなか寝つけなかった。どうしても眠れない。
するとやはり、あの坂道の心象風景が現れた。男が、あいかわらず頑張っている。頂上に持ち上げれば僕に眠りをもたらすはずの、あの大きな岩を、頬をぴくぴく引きつらせながら、懸命に押し上げている。
「がんばれ、がんばれ!」僕は叫んだ。
男は、頂上付近まで球体を押し上げた。
「もうすこしだぞ!」僕は叫んだ。
男の顔に、急に変化が現れた。それまで真っ赤だったその顔が、みるみる青白くなってきたのである。力尽きて、気絶しそうになっているのがわかった。
「危ない!」僕は叫んだ。気絶したら男はあの岩の下敷きだ!
その瞬間。僕は自分の手がざらざらした岩の表面を触っているのに気が付いた。僕は石ころだらけの坂道に立って、あの男のとなりで岩の球体を押しているのだった。僕は自分で自分の心象風景に入り込んだのか?
しかし、そんなことはどうでもいい。この岩を頂上まで、なんとしても運ばなければ。
僕が加勢したことで、痩せた男も元気を取り戻し、二人でなんとか球体を頂上まで運ぶことができた。
「いや、ありがとう」痩せた男が僕に言った。僕ははじめてこの男の声を聞いた。いままでこの坂道の風景は、見えるだけでその音は聞こえなかったのだ。
「執行官殿、代わりのかたが来ました」痩せた男が大きな声で言って、走っていった。
見ると十メートルほど向こうに、机と椅子があって、口髭をした、太った偉そうな男が座っていた。こんな男ははじめて見た。今まで僕の心象風景の中では、ちょうど画面が切れて見えない部分に彼がいたのだ。
若い男はその口髭の男のところに行き、胸のポケットから白いカードを取り出した。そのカードには、赤いスタンプのようなものが一つ、押されていた。執行官と呼ばれた口髭の男は、そのカードを検分し、ガチャリともう一つスタンプを押した。若い男はそのカードをもらうと、執行官に一礼し、嬉しそうにどこかに走り去った。
口髭の執行官は、机の抽出(ひきだし)から新しいカードを取り出し、スタンプをガチャリと押した。彼はそのカードを持って、僕のところに来て言った。
「お前は、さっきの男に代わり、今日からこの坂で岩の押し上げ作業をやることになった。お前は今後、六六五三七号と呼ばれる。わしのことは執行官殿と呼ぶこと。無礼は許さん。それから、このカードを常に携帯すること」
僕はカードを押し付けられ、茫然としていた。
それからというもの、僕は来る日も来る日も岩を押し上げ続けた。岩がちょっとでも坂をずり下がると、容赦なく執行官の罵声がとぶのだ。
「どうした六六五三七号、七回も続けて失敗しているではないか!貴様ほんとうにやる気があるのか!」
まったく、こんなきつい仕事が他にあるもんか! (終)
(c) 2009 ntr ,all rights reserved.
僕はコンピュータ関係の仕事をしている。会社自体は出版社なのだが、コンピュータソフトも作っていて、僕はその開発部門で働いているのだ。会社には他に、書籍の編集者や、営業社員などがいる。
「あ、もう十一時か」僕と向かい合わせの席にいる、同じ部署の先輩が言った。
「アーア」僕は伸びをした。これから帰ったら、家に着くのは十二時半だ。このところ、連日こんな日が続いている。他の部署の社員は、もうとっくに帰ってしまった。コンピュータソフトの開発は、他の部の仕事に比べて時間がかかるものなのだ。
「よし、このテストだけ終わらせて帰ろう」僕は再びパソコンの画面に向かった。
どうもやる気が出ない。そんなに難しくなく、いつもなら簡単にできる作業なのだが、そのときに限って心にブレーキがかかったようになって、手がつけられないのだ。
すると、僕の心の中に、ある荒涼とした風景が浮かび上がった。石ころだらけの急な坂で、大きな岩でできた球体を懸命に転がして登ろうとしている男。その男はぼろぼろのグレーの服を着た、痩せた若い男だった。髪がボウボウに伸びている。空は真っ白、坂道は鉄色で、すべては無彩色の世界だった。
僕は、その心の風景をうちはらって仕事にかかろうとしたが、その風景は消えなかった。
しかたがないので、僕は無理にでもと、仕事にかかった。するとおかしなことに、心の中のあの坂道で、痩せた男がぐいぐいと岩の球体を転がし始めたのだった。球体は坂道を、男の背丈一つぶんぐらい登った。
僕はしかし、すこし仕事を始めたところで、またもややる気をなくし、再び手を止めてしまった。すると心の中では、痩せた男が球体の重みに負けて、ずるずると坂を下ってしまった。球体の位置は初めよりも下になっていた。それでも男は懸命に球体を支え続けている。
「だめだ。今日はもう帰ろう」僕は言った。あんな風景が執拗に心に現れるのは、疲れているからに違いない。
「お先に失礼します」僕は足早に会社をあとにした。
次の日。
きのうと同じく、僕は会社で忙しい時間を過ごしていた。コンピュータソフトの開発担当といったって、ただコンピュータのプログラミングだけやっていればいいというものじゃない。ソフトの使用方法についての問い合わせの電話は頻繁にかかってくる、ソフトの注文やカタログを送ってほしいというファックスもくるのでそれも処理しなければならない、コンピュータウィルスの騒ぎがあれば部内のパソコンのすべてをチェックしなければならない、などさまざまだ。
そんなことをやっている間に、本来の業務の予定がどんどん遅れていく。そして、帰りはいつも深夜……。
まったく、こんなきつい仕事が他にあるもんか。僕は、心の中で叫んだ。いつか転職しよう……他のどんな仕事も、これよりは楽だろう。
僕がきのうの仕事の続きをしていると、再び倦怠感がやってきた。仕事をしようという意志はあるのだが、どうしても思考力が働かず、とうとう手が止まってしまった。
そのとき、またあの坂道の風景が心に浮かんだ。痩せた若い男は、あいかわらず大きな岩の球体を押し上げようとしている。口をへの字にして、額から汗をタラタラ流しながら、頑張っている。
よし、がんばれ!僕は心の中で叫んだ。するとその男に伝わったのか、男はぐいぐい球体を押し上げ、ついに坂道の頂上にたどりついた。頂上は平(たい)らになっていて、男はそこでやっと休むことができるのだった。
すると不思議なことに、僕は急に心が軽くなって、難なく仕事をすすめる事が出来るようになった。仕事はすいすいはかどり、やがて昼休みになった。僕は食事をしに外に出て行った。
あの坂道の男は、僕の意志力というか、心のエネルギーの象徴に違いない。
それからというもの、その坂道の風景は、ひんぱんに現れるようになった。一日のうち何度も、僕が意志力を必要とするときにはいつでも、心の中に現れるのだ。多いときは一日に十回以上現れることもある。そのたびに、やせた若い男は岩の球体とともに坂道の下のほうにおり、球体をぐいぐい押し上げる。うまく頂上まで運べるときもあれば、結局失敗に終わることもある。頂上までたどり着いたときは、僕も業務をうまくやり終えることができ、球体が結局坂を登りきれなかったときは、僕も仕事に取り掛かれないのだった。
坂道の風景は、会社の勤務時間以外にも現れるようになった。駅の長い階段を登ろうとするときや、眠ろうとしてなかなか眠れないときなど、ちょっとでも意志力を必要とするときには、いつでも現れるのだ。そのたびにグレーのぼろ服の若い男は、坂道で苦悶の表情をあらわして頑張っていた。球体の押し上げに成功したときの彼はこの上ない歓喜をあらわし、失敗したときは実にしょんぼりした顔をしていた。
僕は、彼のことを実にかわいいやつだと思うようになった。彼があんなに頑張っているのだから、俺も頑張ろう、という気になるのだった。
ところが、あるときから、その坂道の男の作業が、全然成功しなくなったのだ。もうちょっとで頂上というところで、いつも球体はずるずると転げ落ち、男は、みじめな、悲しげな顔をした。当然、僕のほうも意志力が働かなくなり、簡単な仕事にも取り掛かれなくなってきた。
当然、業務は進捗せず、僕はたびたび上司の叱責を受けた。坂道の岩の球体のことなど口が裂けても言えないので、僕はしばしば「体調がすぐれない」と言い訳した。
僕は勤務時間中、パソコンのディスプレイに向かいながら、何度も坂道の男を励ました。一度などはオフィス全体に響く声で「がんばれ!」と叫んでしまったほどだ。
いよいよ業務に差し障りが出るようになって、僕は困り果て、精神科医の診療を受けた。
「うつ病の一種ですね」
僕が心の中の坂道の男のことをさんざん説明したあと、精神科医はひと言そういった。「薬を出しておきましょう。一週間後にまた来てください」
僕は、精神科医が僕の少年時代の心の傷をさぐるものとばかり思っていたのだが、あっさりしたもので、薬を処方するだけなのだった。
しかし、医者の出してくれた薬を飲んでも、あいかわらず坂道の男は岩の押し上げに失敗し続け、僕も仕事に失敗し続けた。
ある晩のこと。
僕はなかなか寝つけなかった。どうしても眠れない。
するとやはり、あの坂道の心象風景が現れた。男が、あいかわらず頑張っている。頂上に持ち上げれば僕に眠りをもたらすはずの、あの大きな岩を、頬をぴくぴく引きつらせながら、懸命に押し上げている。
「がんばれ、がんばれ!」僕は叫んだ。
男は、頂上付近まで球体を押し上げた。
「もうすこしだぞ!」僕は叫んだ。
男の顔に、急に変化が現れた。それまで真っ赤だったその顔が、みるみる青白くなってきたのである。力尽きて、気絶しそうになっているのがわかった。
「危ない!」僕は叫んだ。気絶したら男はあの岩の下敷きだ!
その瞬間。僕は自分の手がざらざらした岩の表面を触っているのに気が付いた。僕は石ころだらけの坂道に立って、あの男のとなりで岩の球体を押しているのだった。僕は自分で自分の心象風景に入り込んだのか?
しかし、そんなことはどうでもいい。この岩を頂上まで、なんとしても運ばなければ。
僕が加勢したことで、痩せた男も元気を取り戻し、二人でなんとか球体を頂上まで運ぶことができた。
「いや、ありがとう」痩せた男が僕に言った。僕ははじめてこの男の声を聞いた。いままでこの坂道の風景は、見えるだけでその音は聞こえなかったのだ。
「執行官殿、代わりのかたが来ました」痩せた男が大きな声で言って、走っていった。
見ると十メートルほど向こうに、机と椅子があって、口髭をした、太った偉そうな男が座っていた。こんな男ははじめて見た。今まで僕の心象風景の中では、ちょうど画面が切れて見えない部分に彼がいたのだ。
若い男はその口髭の男のところに行き、胸のポケットから白いカードを取り出した。そのカードには、赤いスタンプのようなものが一つ、押されていた。執行官と呼ばれた口髭の男は、そのカードを検分し、ガチャリともう一つスタンプを押した。若い男はそのカードをもらうと、執行官に一礼し、嬉しそうにどこかに走り去った。
口髭の執行官は、机の抽出(ひきだし)から新しいカードを取り出し、スタンプをガチャリと押した。彼はそのカードを持って、僕のところに来て言った。
「お前は、さっきの男に代わり、今日からこの坂で岩の押し上げ作業をやることになった。お前は今後、六六五三七号と呼ばれる。わしのことは執行官殿と呼ぶこと。無礼は許さん。それから、このカードを常に携帯すること」
僕はカードを押し付けられ、茫然としていた。
それからというもの、僕は来る日も来る日も岩を押し上げ続けた。岩がちょっとでも坂をずり下がると、容赦なく執行官の罵声がとぶのだ。
「どうした六六五三七号、七回も続けて失敗しているではないか!貴様ほんとうにやる気があるのか!」
まったく、こんなきつい仕事が他にあるもんか! (終)
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目次
上段の『☆ 索引』、及び、下段の『☯ 作家別索引』からどうぞ。本や雑誌をパラパラめくる感覚で、読みたい記事へと素早くアクセスする事が出来ます。
執筆陣
HN:
快文書作成ユニット(仮)
自己紹介:
各々が皆、此の侭座して野に埋もるるには余りに口惜しい、正に不世出の文芸家を自称しております次第。以下、【快文書館】(仮)が誇る精鋭を御紹介します。
❁ ntr 〜 またの名を中村震。小説、エッセイ、漢詩などを書きます。mixiでも活動。ふだん高校で数学を教えているため、数学や科学について書くこともあります。試験的にハヤカワ・ポケット・ブックSFのレビューを始めてみました。
❖ 呂仁為 Ⅱ 〜 昭和の想い出話や親しみやすい時代物、歴史小説などについて書きます。
✿ 流火-rjuka- ~ 主に漢詩の創作、訳詩などを行っています。架空言語による詩も今後作りたいと思っています。
☃ ちゅうごくさるなし
主に小説を書きます。気が向けば弟のカヲスな物語や、独り言呟きなことを書くかもしれません。
♘ ED-209 〜 ブログ引っ越しました。
☠ 杏仁ブルマ
セカイノハテから覗くモノ
我ら一同、只管に【快文書】を綴るのみ。お気に入りの本の頁をめくる感覚で、ゆるりとお楽しみ頂ければ僥倖に御座居ます。
※ 基本的に当ページはリンクフリーです。然し乍ら見易さ追求の為、相互には承っておりません。悪しからず御了承下さい。※
❁ ntr 〜 またの名を中村震。小説、エッセイ、漢詩などを書きます。mixiでも活動。ふだん高校で数学を教えているため、数学や科学について書くこともあります。試験的にハヤカワ・ポケット・ブックSFのレビューを始めてみました。
❖ 呂仁為 Ⅱ 〜 昭和の想い出話や親しみやすい時代物、歴史小説などについて書きます。
✿ 流火-rjuka- ~ 主に漢詩の創作、訳詩などを行っています。架空言語による詩も今後作りたいと思っています。
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主に小説を書きます。気が向けば弟のカヲスな物語や、独り言呟きなことを書くかもしれません。
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セカイノハテから覗くモノ
我ら一同、只管に【快文書】を綴るのみ。お気に入りの本の頁をめくる感覚で、ゆるりとお楽しみ頂ければ僥倖に御座居ます。
※ 基本的に当ページはリンクフリーです。然し乍ら見易さ追求の為、相互には承っておりません。悪しからず御了承下さい。※
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