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 『読んで面白い』『検索で来てもガッカリさせない』『おまけに見やすい』以上、三カ条を掲げた〜快文書〜創作プロフェッショナル共が、心底読み手を意識した娯楽文芸エンターテイメントを提供。映画評論から小説、漢詩、アートまでなんでもアリ。嘗てのカルチャー雑誌を彷彿とさせるカオスなひと時を、是非、御笑覧下さいませ。
No.
2024/11/23 (Sat) 16:55:03

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No.646
2013/05/15 (Wed) 00:27:08

 五月三日は学校の吹奏楽部の定期演奏会があった。せっかくの祝日を寝転んで過ごしたい僕にとって吹奏楽などどうでもよかったはずなのだが、たまたま教えに行っているクラスの女子の多くがそのクラブに属しており、ことあるごとに僕に演奏会を見にこいと言ってきてうるさかった。授業時間以外で学校と関わるのが嫌なために非常勤講師として勤めているのだから、僕は彼女らの誘いを適当な言葉ではぐらかし、演奏会には行かないつもりでいた。

 しかし三日の早朝まだ夜の明けない四時ごろ、遠方の友人と電話で話していてすこし気持ちがぐらつき始めた。僕が今の教師の仕事での最大の関心事は来年の四月以降も契約を延長して雇ってもらえるかどうかだ、というと彼女は、それならぜひ吹奏楽部の演奏会に行くべきだ、という。子供は先生が見に来てくれるというのを喜ぶものだし、きっと僕のことを親御さんに良い先生だと言うようになるだろう、とにかくこういう機会に親御さんへの得点を稼いでおけば雇い主へのアピールになるはずだ、というのだ。なるほど一理あると思い、夜が明けると僕は学校に電話をかけ、演奏会の場所と、それが午後二時に始まるということを確かめた。しかしそれは遠方であって、その距離は僕の意気をくじくのに十分なものであり、行こうという気持ちをすっかり失ってしまい昼過ぎまでぼんやりしていた。しかしながら僕はいっこうに頭が冴えず、休日に自分に課している書き物がまったく進まないのに嫌気がさし、時計が一時を指すと気分を一新して吹奏楽部の定期演奏会に出かけることに決めた。

 服を着替え急いでひげを剃ると上唇を切ってしまった。血が止まらないまま家を出て自転車を飛ばし、電車を乗り継いでなんとか目的地に着いたのは二時二十分ぐらいだった。顔見知りの二年生が受付をやっていて、プログラムを渡され会場に入り、舞台にいる生徒たちの顔がよく見えるよう前のほうの席に陣取った。二曲目のムソルグスキーの「展覧会の絵」の途中だった。
 授業中はまるでやる気を見せない女子生徒が、真剣な面持ちでフルートを吹いているのがまず目に付いた。真ん中の奥の席ではいつも授業をかき乱すおかっぱの女子が真っ赤な顔をしてトランペットを吹いている。とにかく知っている生徒が何の楽器をやっているのか目を皿のようにして確かめていった。一人だけ確認できなかった生徒はおそらくユーフォニウムの陰に顔が隠れていたのであり、せっかくの晴れ舞台に顔が出せないとは可哀そうなことだと思った。
 いつもは弦の音の入った演奏をCDで聴いている「展覧会の絵」だが、吹奏楽でも十分に聴き応えがあった。フルート、クラリネット、サックス、トランペットなどそれぞれに音色が違い、この曲にふさわしい華やかな音の色彩を生み出していた。

 次はOB・OGによるステージだったが、その前の休憩の時間に小さな子供を連れた女性が僕の一列前の席に来てあいさつしてきた。同じ学校の国語の先生だった(この学校では国語は「日語」と呼ばれている)。会場までどういうルートで来たのかといった世間話をしていたら再び僕の上唇から血が噴き出してきたから弱った。ところでその先生は古典も教えているけれども、この学校の生徒の約半数は韓国語を第一言語としており、彼らにとって外国語である日本語の、しかも古典を学ぶというのはそうとうの苦痛であるらしい。しかし日本の文科省の認可を受けた学校である以上、日本の古典はどうしてもやらせなければならないようだ。

 OB・OGたちはCジャム・ブルースなどのジャズナンバーを三曲ほどやって、次の部で再び現役生の舞台になったが「ポップスステージ」と題して親しみやすいナンバーを次々演奏した。
「アルセナール」だの「Make Her Mine」などという初めての曲もあったが、「松田聖子メドレー」だの「津軽海峡冬景色」だの「ハナミズキ」だのといった誰もが耳にした事のある曲が続いた。この定期演奏会の慣習なのか、長いソロをとる奏者はわざわざ前に出てきて楽器を吹いた。楽員たちはだいたい中学一年で入部して高校卒業までの六年間活動するらしく(この学校は幼稚園から高校までの一貫校である)、高校生たちの楽器の腕前はみななかなかのものだった。にぎやかな曲が続いたあとのしっとりした「ハナミズキ」のメロディは耳に心地よかった。ところでこの原曲の歌詞にある「君と好きな人が百年続きますように」という台詞を発しうる人というのはいったいどんな人間なのだろう。作詞をした一青窈がこれを本気で言っているとしたら、彼女は古代中国の堯・舜に始まり、孔子・孟子と続く系列に加えてもよいほどの聖人ではなかろうか。
 続いて「アンパンマンのマーチ」それから「Born This Way」という曲があって、「君の瞳に恋してる」で締めくくりとなったが、どうやらお約束らしいアンコールとなった。アンコール曲のときに高三生の吹奏楽部の部長が前に出てきてあいさつし、そしてクラブの引退が近いのか個人的な思い出や感謝の気持ちを述べ、思わず涙ぐんだときは感動の場面だった。

 プログラムがすべて終わり、観客が会場を出て行くとき、出口のところで今日の演奏者が並んであいさつしていた。いつも授業をかき乱すおかっぱのトランペッターが目についたから「良かったよ」と声をかけると照れくさいのかそっぽを向かれてしまった。他の女子生徒たちはくったくなく僕が来たことを喜んでくれていたようだった。
 この女子生徒たちのクラスではどうも僕と生徒たちとの間に溝があるのを感じてきたのだが、これをきっかけにすこしは打ち解けられればいいと願うばかりである。

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No.645
2013/05/15 (Wed) 00:19:37

 篝火(かがりび)の影しるければうばたまの夜河の底に水も燃えけり  紀貫之

 塚本邦雄のアンソロジー『王朝百首』で知った作品。かがり火の光がくっきりとしているから、夜の川面にそれが映って、あたかも川底の水が燃えているかのようだ、といっている。自分は詩歌を読むとき頭が理系に働くのか、恋の歌などよりはこうした、自然の中にシンメトリー等の美しさを発見した喜びを歌ったものに心惹かれる。
(ところで塚本邦雄によると小倉百人一首には優れた歌はひとつもないという。おかきで有名なお菓子メーカー「小倉山荘」の関係者が塚本の読者でないことを祈ろう。)


月下獨酌  李白

花間一壺酒 獨酌無相親
擧杯邀名月 對影成三人
月既不解飮 影徒隨我身
暫伴月將影 行樂須及春
我歌月徘徊 我舞影零亂
醒時同交歡 酔後各分散
永結無情遊 相期邈雲漢

花の間で酒壺をひとつ置き 友もいないから独り酒を飲む
杯を挙げて名月を迎え 自分の影も合わせれば仲間は三人だ
しかし月は酒を飲む楽しみを知らないし 影は自分に従って動くだけ
だがまあ月と影とを相手に 今宵はぜひとも春の楽しみを味わおう
わたしが歌うと月はさまよい わたしが舞えば影もふらふら踊りだす
正気のうちはこうして一緒に悦びあっているが 酩酊したあとはめいめいばらばらになってしまう
しかし月と影とわたしの三人は世俗を離れた遊び仲間のちぎりを永久に結ぶ 落ち合う約束の場所は天の川のはるか彼方だ

 有名な李白の詩だが、これも「はじめは一人だった、月を見つけて二人になった、そして影も見つかって三人になった」というのが、僕には「認識主体がいたから世界が始まった」という宇宙観を思い起こさせ、また一つ、二つ、三つと数えることが数学の始まりでもある、といったような理系的な面白さを感じるのである。
 もちろんこの詩は酒の徳と愉しみを詠って酔余の幻想を極大にまで拡大してみせた李白一代の傑作であって、これを味わうのに読者が理系だの文系だのといった区別などまるで要しないことはいうまでもない。


宇治川を船渡せをと喚(よ)ばへども聞えざるらし楫(かぢ)の音(と)もせず 作者不詳(万葉集巻七・一一三八)

 これまでにも何度か取り上げた歌である。夜に宇治川の岸に来て、船を渡せと呼ぶけれども、聞こえないのか、こいでくる櫂(かい)の音がしない、と言っている。それだけの歌だが、闇のなか河の向こうで何が起こっているのか推測するしかない、そこで何が起こっているのか分からない、というところが闇に覆われた空間の広大さを思わせ、僕はそこに宇宙的な広がりを感じるのである。ブルックナーの交響曲も連想するし、またいつくるか分からない船を闇の中で待っている情景は、闇を宇宙にたとえるなら、素粒子物理学の巨大な実験装置「スーパーカミオカンデ」が太陽から飛来する微細なニュートリノを静かに待ち続けるのにも似ている。
 あと絶対に面白いと思ってtwitter やmixiにアップした発言に意外に何の反応もなく、茫然と待ちつくすさまにも似ていなくもない。

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No.644
2013/05/15 (Wed) 00:01:05

 富士山が世界遺産に登録される運びらしいが、雑誌「ニュートン」の今年の二月号によれば、その富士山が近いうちに噴火する可能性が大いにあるそうだ。近いうちというのは今年か来年あたりである。その根拠は、歴史上世界で起きた火山の噴火について調べると、しばしばそれが大地震のあとに連動して起こっていることである。マグニチュード九・〇以上の大地震についていえば、一九一〇年から二〇一〇年の間に五回起きているが、地震の翌日から三年以内に例外なく近くの火山が噴火を起こしている。そして二〇一一年三月十一日に起きた東日本大震災はマグニチュード九・〇で、いまだに付近の火山は噴火していない。東日本には箱根山など、富士山以外にも火山はあるが、とくに富士山は三つのプレートの境界が合わさるところに位置していて、地震との関係でいえばもっとも噴火を起こしやすいと考えられる。
 
 富士山が噴火すればその近隣がこうむるであろう災害はもちろん大きなもので、とくに厄介なのは火山灰だそうだが、僕は世界遺産に登録された大きなゆえんであろう富士山の優美な形状が噴火のあとどうなるのかが気になるのだ。
 一般に火山はその頂上が噴火するとは限らないもので、じっさい富士山がもっとも最近噴火した一七〇七年の場合では、南東の山腹七合目あたりからマグマが噴き出している。富士山にはフィリピン海プレートに乗った伊豆半島がつねに南東方向から圧力をかけているそうで、そのため南東から北西にかけての山腹には岩盤に裂け目が出来やすくなっており、そこが噴火口になりやすい。
 そこで心配になってくるのだが、かりに有史以来の大噴火がそうした岩盤の裂け目から起きた場合、富士山南東の山腹が大きく欠けてしまい、南西あるいは北東方向から見るとまるで左右対称でないブサイクな山になってしまわないだろうか。富士山はあるいは天皇にもまさるとも劣らない日本の象徴なのだから、これは由々しき問題である。もしそのときは、日本民族の超人的な勤勉さと科学技術を結集して、富士山を元のかたちに修復してもらいたいものだ。富士山の左右対称性を保つというだけなら、山の反対側である北西の山腹を同じ程度に削るほうがあるいは簡単かも知れないが、そういうことはして欲しくないのだ。日本人の美意識が狂っていないことを信じたいところである。

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執筆陣
HN:
快文書作成ユニット(仮)
自己紹介:
 各々が皆、此の侭座して野に埋もるるには余りに口惜しい、正に不世出の文芸家を自称しております次第。以下、【快文書館】(仮)が誇る精鋭を御紹介します。


 ❁ ntr 〜 またの名を中村震。小説、エッセイ、漢詩などを書きます。mixiでも活動。ふだん高校で数学を教えているため、数学や科学について書くこともあります。試験的にハヤカワ・ポケット・ブックSFのレビューを始めてみました。

 ❖ 呂仁為 Ⅱ 〜 昭和の想い出話や親しみやすい時代物、歴史小説などについて書きます。

 ✿ 流火-rjuka- ~ 主に漢詩の創作、訳詩などを行っています。架空言語による詩も今後作りたいと思っています。

 ☃ ちゅうごくさるなし
主に小説を書きます。気が向けば弟のカヲスな物語や、独り言呟きなことを書くかもしれません。

 ♘ ED-209ブログ引っ越しました。

 ☠ 杏仁ブルマ
セカイノハテから覗くモノ 



 我ら一同、只管に【快文書】を綴るのみ。お気に入りの本の頁をめくる感覚で、ゆるりとお楽しみ頂ければ僥倖に御座居ます。









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