『読んで面白い』『検索で来てもガッカリさせない』『おまけに見やすい』以上、三カ条を掲げた〜快文書〜創作プロフェッショナル共が、心底読み手を意識した娯楽文芸エンターテイメントを提供。映画評論から小説、漢詩、アートまでなんでもアリ。嘗てのカルチャー雑誌を彷彿とさせるカオスなひと時を、是非、御笑覧下さいませ。
No.565
2012/05/04 (Fri) 09:14:53
近所でむかし酒屋だった場所にセブンイレブンが建っていて、そこの経営はもとの酒屋の主人だった人物がしている。現在八十六歳である。相当の資産があるらしいが、その人が最近「近ごろは夢も希望もなくなった」と語ったそうだ。お金があっても使う元気がないということか、ずいぶんつまらない話だと思ったが、八十六歳の老人に「おい元気出せよ」と言って元気が出るものなのか、また元気が出るとどうなるのか、ちょっと興味深くはある。
老後に備えて貯金、とよく人はいうけれど、お金があるがゆえに働かずやることがなくなって、かえって元気をなくしたり、病気になって早く死んでしまう老人は多い。だから貯金の有無と幸不幸とはあまり関係がないようにも感じる。そもそも、自分には老後という言葉がどうもピンとこない。第一に、自分が老人になるまで生きているという保証はどこにもない。また第二には、老いという言葉からは活動の停止を連想し、活動しないのであればもはや生きる意味はなく、あとは死ぬしかなかろう、と思ってしまうから。
ところで死んだ後はというと、魂はまったく消滅するか、そうでなければブラックホールに行くのである。というのも、魂が消滅しないとすると、これまでの地球人類すべての魂がどこかにあるはずで、では輪廻するのかというとそれでは地球人口の増加とどうも整合性がつかず、輪廻説は不自然である。だから死んだ人間の魂は絶えず増え続けるが、それがいつまでも地球周辺に漂っていたのでは生きている人間の邪魔になる。だから無限に物質を受け入れることのできるブラックホールにおもむき吸い込まれると考えるのが合理的だ。実際ブラックホールの中心、いわゆる特異点においては密度が無限大であると考えられており、それならば特異点の近傍には質量を持った物質が無限に多く存在することが出来て、魂が行く場所としてもっとも適当である。またブラックホールと外の宇宙との境界面においては時間が止まって見えると考えられており、魂は永遠に存在する一方でその主観は境界面に到達するまでの有限の時間しか経験できない、ということもいえるのである。
(c) 2012 ntr ,all rights reserved.
老後に備えて貯金、とよく人はいうけれど、お金があるがゆえに働かずやることがなくなって、かえって元気をなくしたり、病気になって早く死んでしまう老人は多い。だから貯金の有無と幸不幸とはあまり関係がないようにも感じる。そもそも、自分には老後という言葉がどうもピンとこない。第一に、自分が老人になるまで生きているという保証はどこにもない。また第二には、老いという言葉からは活動の停止を連想し、活動しないのであればもはや生きる意味はなく、あとは死ぬしかなかろう、と思ってしまうから。
ところで死んだ後はというと、魂はまったく消滅するか、そうでなければブラックホールに行くのである。というのも、魂が消滅しないとすると、これまでの地球人類すべての魂がどこかにあるはずで、では輪廻するのかというとそれでは地球人口の増加とどうも整合性がつかず、輪廻説は不自然である。だから死んだ人間の魂は絶えず増え続けるが、それがいつまでも地球周辺に漂っていたのでは生きている人間の邪魔になる。だから無限に物質を受け入れることのできるブラックホールにおもむき吸い込まれると考えるのが合理的だ。実際ブラックホールの中心、いわゆる特異点においては密度が無限大であると考えられており、それならば特異点の近傍には質量を持った物質が無限に多く存在することが出来て、魂が行く場所としてもっとも適当である。またブラックホールと外の宇宙との境界面においては時間が止まって見えると考えられており、魂は永遠に存在する一方でその主観は境界面に到達するまでの有限の時間しか経験できない、ということもいえるのである。
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No.564
2012/04/08 (Sun) 18:10:00
やっと、桜も見ごろのシーズンになった。
昼間は暖かくても夜は一変して冷えるのがこの季節の特徴だ。
聞く処によれば、今年の花見で救急搬送された数は昨年の8倍にも達するとか。震災後の自粛があったとはいえ、のど元過ぎればなんとかの典型だとも思う。
恒例の日曜日のアメ横に出勤し「寒いからジャンパーを出してよ」などと、開店のシャッターを開けると同時に70歳くらいの婆チャンが杖をハンガーラックに引っ掛けて入ってくる。
試着をするなり「重いだのきついだの高いだの」とのたまうので「あ、それならユニクロでも行けば?すぐ其処だから・・・・」というと、「田舎から出てきてる方向音痴だから分からない・・・」「そんじゃ、こんな処来なけりゃいいのに・・」「一度、上野の桜を観たいと思ってきたのに・・」こんなやり取りが続き、買い物の後に今度は杖を置いて行ってしまった。気持ちは分からなくはないのだけれど。
前の職場に、花見の時期が近付くと始末しなければならない書類仕事が残っていても「野暮用、夜桜帰ります・・!」などとスッ恍けたことを勝手に挨拶して職場の顰蹙を買いながら帰宅する妙なオッサンが居た。寒い晩に灯に照らされる桜を見ても風流と言うか粋だ、綺麗だとは周囲の環境によるので、あながち桜の名所などは桜だか人の頭なのか観ていて分からなくなるので出かけはしない。
以前小売業についていた頃、各売り場の同僚たちと店が終わってからブルーシートや発泡酒の箱や肴などを各人で分担して用意した酒宴が楽しい時もあったが・・・個人的には、独りで歩きながら普段の道で忘れたのを思い出させるようにひっそりと咲く桜が好きだ。
昨日、ニュースを観ていたら隅田川の畔や水上バスの上からスカイツリーを入れて写真を撮る観光客が多数映し出されたが、確かに絵になるのだろうが絵葉書を取ってる訳でもないだろうにとも思う。
職場への行き帰りに徒歩や自転車で通る大横川親水公園と言うのがある。昭和の時代に川だった処を埋め立てて釣り堀やらビオトープやらのゾーンを造り、親水公園として行政が整備したものだ。
最近ではスカイツリーの開業に合わせて、さらに整備し近所の寺社や仏閣旧跡などを写真入りで細かく由来や在り処を地図で説明している。こういうのは、金のかからぬ散歩を趣味にする小生にとってはとてもありがたい。
何気なくいつも通ってきた春慶寺は鬼平犯科帳にも登場するし、山岡鉄舟の屋敷跡が今は小学校になっていたりする。
テニスコートの横を歩いていて野蒜を見つけ引き抜いたら綺麗に抜けたので撮ってみた。
都心で採れることができるのは白い球根で、子供の指の先ほどもあればいい方だ。
郊外へ行って、根元の太いのを掘り当てれば少し小ぶりなラッキョウくらいのを
採取できるけれど。
いつも春先になるといくつか山菜にまつわる日記を書いてしまうのだが、今年も他聞のもれず、そうしてしまった。
綺麗に引きぬくと子供の指先くらいの白い光沢のある球根がついていて、おもにこの球根の部分と白い茎のところを洗って髭のような根を切り味噌をつけて味わう。
スーパーで売っているエシャレットも歯ごたえはいいが、天然の野蒜ほどの土の香りやコクは味わえない。まさに天からの享受だと思う。青い葉や茎は味噌汁や納豆に入れてもよし、鷹の爪とパスタに和えてもなかなか旨かった。
最近、復興イベントと相まって、有楽町など都心の大きな駅の近辺で産直の野菜や山菜などを即売しているイベントがあって、蕗の薹やセリ、アサツキなども見かける。
天ぷらやお浸しにしてと、常温の日本酒を江戸切子のショットに注いで春の宵を堪能してみたいとも思うが、ずぼらな家人の御蔭で些細で風流な贅沢も楽しめずにいる。
昨年の今頃は、よく巣鴨へ出かけた折に八百屋の店先でよく旬の山菜を見かけたので求めた。その足で馴染みの小料理屋へ持って行き、「後で職場の仲間を連れてくるから出してやって欲しい、食べ方は任せるから」と頼んでおき、仲間を連れて行って春の味覚を楽しんだ。
ある時など行者大蒜まで食わせて貰う機会を得たものだが、仕事も職場も変わってしまい、連れて行った同僚も今じゃ散り散りになってしまった。
思い出せば、一昨年の春は富山に行く機会が多かったので、家に持ち帰る食材はホタルイカが多かった。沖漬や干物やらいろんな味わい方を楽しんだ。今年は異常低温のせいか獲れ高も少なく不漁が続いていると聞く。
最近、特に思うことだが、コンビニやファストフードの御蔭で何処でも食えるものは何時でも食べられる、が、「地のもの」、「旬のもの」と言う食材はやはり身近な人が運んでくれたり自分で求めたり採ったりする行為、儀式、慣習が感じられた方がより旨い。
採取、購買、運搬のストーリーや経路がくれた人、持ち帰った人の口から語られれば尚更だ。そこに名物とか特産という云われが存在するのだろう。昨今、耳にするこだわりというやつだ。
最近、上野駅に復興の意味も兼ねて「地のもの」とかいう茨城、栃木あたりの名産を売るコーナーができて結構賑わっている。○×スイーツなどという洒落た紙と箱や包装の洋菓子ばかりが並ばずに、地酒や特産の食材が並ぶのはなんだかホッとする。甘いのは一瞬で、食べ終われば無駄な箱やごみが出るのはなんとなく切ない気がしてしまうのは自分だけだろうか?
ECO= エコなる言葉の意味をもう一度考えてみたくなる。
小学生の頃、桜の季節になる度、死んだ親父はよく庭や家屋の手入れを早めに済ませると一升瓶の清酒と湯呑を持って実家の傍の元荒川の土手へ出かけて行った。
土手へ降りたあたりで野蒜を採り、公園の水道で泥を落として酒肴にしていた。
その頃は野蒜など小学生の腹の足しには少し辛くて食えなかったが、大人になればこんな楽しい思いも出来るのだと子供心に思ったものだ。
当時は缶ビールなんてそんなに旨いものではなかったと思う。アルコールと言えば日本酒か瓶ビールかたまにウイスキーぐらいだったろう。ペットボトルなんて存在すらしなかったし、カサカサ音のするコンビニの袋の恩恵にもあずかれなかった時代だ。多分、一升瓶と湯呑は割れないように新聞紙でくるんで、それこそ後生大事に風呂敷に巻いて持って行ったと思う、おぼろげな記憶だが。
昨日、アメ横で相手をしたフランス人はキャノンのカメラに大きなレンズを付けていたので「何を撮ってきたんだい?」と訊いたら、プロのジャーナリストで浅草や上野の桜を朝から丹念に撮影して回ったと云っていた。店で流してるストーンズのベストを"GOOD MUSIC!Nice,The Rolling Stones!!"と褒めてくれた彼は、恐らく齢60近くだろう。
連れのブロンドの彼女にパナマ帽のような帽子をプレゼントして貰って陽気に帰っていった。
スカイツリーを構図に入れた写真を撮りに行く人が多いのだ、と今朝のニュースでやっていた。郵便局へ行けばスカイツリーの旅行記念切手、隅田川、浅草、上野・・・なんていうのを1シート=¥800で売りだすそうだ。
北陸の金沢に住んだ頃、郊外へ車で通りがかった時に目にする山の中に、ポツンと1本だけ咲く桜を観るのが好きだった。
犀川の川べりをはじめとして、兼六園や金沢城の側だけでなく、到る所に桜を目にすることができる。四季折々の風情や草木の香りもあの土地では随分感じていたような気がする。親父が生きていれば連れてきて昔のように・・・と何度思ったことかしれない。野蒜を教えてくれた父親に、採りたてのアサツキや蕗の薹を食わせることができなかったのは返す返すも残念だが仕方ない。
桜は何処で観てもいつ見てもいくつで観ても、感概や追憶を抱きながら見れば熱いものもこみ上げるし切ないし儚い。数年前の大河ドラマの「葵 徳川三代」のオープニングで出てくる桜は、切ないながらも威風堂々として歳月の輪廻を語り継ぐドラマの内容にピッタリだった。なのに今年の「平清盛」は視聴率もワーストで無理やり、夫婦競演させて視聴率を稼ぐ・・・そんな馬鹿バカしい話もあるそうだ。今更、日本人の精神性など議論する気もないけど、図に乗り過ぎているいい例だろう。
桜の咲いてもすぐに散ってしまうという処が日本人の精神性に大きく影響しているのはきっとそうだ。右翼でも国粋主義でもないが「同期の桜」などの歌詞を聴けば、潔く、散る、ことこそ本分とわきまえた諦めの良さにたどり着くのかもしれない。
既に半世紀を生きてしまった今、これからどんな素晴らしい桜に出会える事か分からない。
だが、風呂敷に包んだ一升瓶を提げて歩く父親の後ろ姿の向こうに見えた桜咲く土手の景色には出会うこともない。
台東区の自宅の近所の寺には「台東区の百景」に選ばれた立派な枝垂れ桜がある。
毎年、その桜が咲き散ってしまうといつの間にか夏になっている。
枝ぶりは見事で花も綺麗だ。遅くまで呑んで、月明かりに照らされるその妖艶さと 云ったら喩えが見つからないほど悩ましい。
だが、意外とここで写真を撮る人を見かけるのは珍しい。
職場の近所の、どちらかと言えば街路樹に近い位の枝垂れ桜を、ムキになって写メを撮っている人を見かけるが、あの桜を見ればそんな気など起こらなくなるだろう。
携帯やデジカメで「ここぞ」という時の1枚と言うのは、撮ったり、持ち歩いたり、手軽に送ったり、できるようになった。全く、便利な世の中である。
だが取って置きの壱葉とか忘れ得ぬ景色と云うのは本来、心の中の残像として大事にしまわれるものだ。
(c)2012 Ronnie Ⅱ , all rights reserved.
☆ 索引 〜 昭和の憧憬 へ戻る
昼間は暖かくても夜は一変して冷えるのがこの季節の特徴だ。
聞く処によれば、今年の花見で救急搬送された数は昨年の8倍にも達するとか。震災後の自粛があったとはいえ、のど元過ぎればなんとかの典型だとも思う。
恒例の日曜日のアメ横に出勤し「寒いからジャンパーを出してよ」などと、開店のシャッターを開けると同時に70歳くらいの婆チャンが杖をハンガーラックに引っ掛けて入ってくる。
試着をするなり「重いだのきついだの高いだの」とのたまうので「あ、それならユニクロでも行けば?すぐ其処だから・・・・」というと、「田舎から出てきてる方向音痴だから分からない・・・」「そんじゃ、こんな処来なけりゃいいのに・・」「一度、上野の桜を観たいと思ってきたのに・・」こんなやり取りが続き、買い物の後に今度は杖を置いて行ってしまった。気持ちは分からなくはないのだけれど。
前の職場に、花見の時期が近付くと始末しなければならない書類仕事が残っていても「野暮用、夜桜帰ります・・!」などとスッ恍けたことを勝手に挨拶して職場の顰蹙を買いながら帰宅する妙なオッサンが居た。寒い晩に灯に照らされる桜を見ても風流と言うか粋だ、綺麗だとは周囲の環境によるので、あながち桜の名所などは桜だか人の頭なのか観ていて分からなくなるので出かけはしない。
以前小売業についていた頃、各売り場の同僚たちと店が終わってからブルーシートや発泡酒の箱や肴などを各人で分担して用意した酒宴が楽しい時もあったが・・・個人的には、独りで歩きながら普段の道で忘れたのを思い出させるようにひっそりと咲く桜が好きだ。
昨日、ニュースを観ていたら隅田川の畔や水上バスの上からスカイツリーを入れて写真を撮る観光客が多数映し出されたが、確かに絵になるのだろうが絵葉書を取ってる訳でもないだろうにとも思う。
職場への行き帰りに徒歩や自転車で通る大横川親水公園と言うのがある。昭和の時代に川だった処を埋め立てて釣り堀やらビオトープやらのゾーンを造り、親水公園として行政が整備したものだ。
最近ではスカイツリーの開業に合わせて、さらに整備し近所の寺社や仏閣旧跡などを写真入りで細かく由来や在り処を地図で説明している。こういうのは、金のかからぬ散歩を趣味にする小生にとってはとてもありがたい。
何気なくいつも通ってきた春慶寺は鬼平犯科帳にも登場するし、山岡鉄舟の屋敷跡が今は小学校になっていたりする。
テニスコートの横を歩いていて野蒜を見つけ引き抜いたら綺麗に抜けたので撮ってみた。
都心で採れることができるのは白い球根で、子供の指の先ほどもあればいい方だ。
郊外へ行って、根元の太いのを掘り当てれば少し小ぶりなラッキョウくらいのを
採取できるけれど。
いつも春先になるといくつか山菜にまつわる日記を書いてしまうのだが、今年も他聞のもれず、そうしてしまった。
綺麗に引きぬくと子供の指先くらいの白い光沢のある球根がついていて、おもにこの球根の部分と白い茎のところを洗って髭のような根を切り味噌をつけて味わう。
スーパーで売っているエシャレットも歯ごたえはいいが、天然の野蒜ほどの土の香りやコクは味わえない。まさに天からの享受だと思う。青い葉や茎は味噌汁や納豆に入れてもよし、鷹の爪とパスタに和えてもなかなか旨かった。
最近、復興イベントと相まって、有楽町など都心の大きな駅の近辺で産直の野菜や山菜などを即売しているイベントがあって、蕗の薹やセリ、アサツキなども見かける。
天ぷらやお浸しにしてと、常温の日本酒を江戸切子のショットに注いで春の宵を堪能してみたいとも思うが、ずぼらな家人の御蔭で些細で風流な贅沢も楽しめずにいる。
昨年の今頃は、よく巣鴨へ出かけた折に八百屋の店先でよく旬の山菜を見かけたので求めた。その足で馴染みの小料理屋へ持って行き、「後で職場の仲間を連れてくるから出してやって欲しい、食べ方は任せるから」と頼んでおき、仲間を連れて行って春の味覚を楽しんだ。
ある時など行者大蒜まで食わせて貰う機会を得たものだが、仕事も職場も変わってしまい、連れて行った同僚も今じゃ散り散りになってしまった。
思い出せば、一昨年の春は富山に行く機会が多かったので、家に持ち帰る食材はホタルイカが多かった。沖漬や干物やらいろんな味わい方を楽しんだ。今年は異常低温のせいか獲れ高も少なく不漁が続いていると聞く。
最近、特に思うことだが、コンビニやファストフードの御蔭で何処でも食えるものは何時でも食べられる、が、「地のもの」、「旬のもの」と言う食材はやはり身近な人が運んでくれたり自分で求めたり採ったりする行為、儀式、慣習が感じられた方がより旨い。
採取、購買、運搬のストーリーや経路がくれた人、持ち帰った人の口から語られれば尚更だ。そこに名物とか特産という云われが存在するのだろう。昨今、耳にするこだわりというやつだ。
最近、上野駅に復興の意味も兼ねて「地のもの」とかいう茨城、栃木あたりの名産を売るコーナーができて結構賑わっている。○×スイーツなどという洒落た紙と箱や包装の洋菓子ばかりが並ばずに、地酒や特産の食材が並ぶのはなんだかホッとする。甘いのは一瞬で、食べ終われば無駄な箱やごみが出るのはなんとなく切ない気がしてしまうのは自分だけだろうか?
ECO= エコなる言葉の意味をもう一度考えてみたくなる。
小学生の頃、桜の季節になる度、死んだ親父はよく庭や家屋の手入れを早めに済ませると一升瓶の清酒と湯呑を持って実家の傍の元荒川の土手へ出かけて行った。
土手へ降りたあたりで野蒜を採り、公園の水道で泥を落として酒肴にしていた。
その頃は野蒜など小学生の腹の足しには少し辛くて食えなかったが、大人になればこんな楽しい思いも出来るのだと子供心に思ったものだ。
当時は缶ビールなんてそんなに旨いものではなかったと思う。アルコールと言えば日本酒か瓶ビールかたまにウイスキーぐらいだったろう。ペットボトルなんて存在すらしなかったし、カサカサ音のするコンビニの袋の恩恵にもあずかれなかった時代だ。多分、一升瓶と湯呑は割れないように新聞紙でくるんで、それこそ後生大事に風呂敷に巻いて持って行ったと思う、おぼろげな記憶だが。
昨日、アメ横で相手をしたフランス人はキャノンのカメラに大きなレンズを付けていたので「何を撮ってきたんだい?」と訊いたら、プロのジャーナリストで浅草や上野の桜を朝から丹念に撮影して回ったと云っていた。店で流してるストーンズのベストを"GOOD MUSIC!Nice,The Rolling Stones!!"と褒めてくれた彼は、恐らく齢60近くだろう。
連れのブロンドの彼女にパナマ帽のような帽子をプレゼントして貰って陽気に帰っていった。
スカイツリーを構図に入れた写真を撮りに行く人が多いのだ、と今朝のニュースでやっていた。郵便局へ行けばスカイツリーの旅行記念切手、隅田川、浅草、上野・・・なんていうのを1シート=¥800で売りだすそうだ。
北陸の金沢に住んだ頃、郊外へ車で通りがかった時に目にする山の中に、ポツンと1本だけ咲く桜を観るのが好きだった。
犀川の川べりをはじめとして、兼六園や金沢城の側だけでなく、到る所に桜を目にすることができる。四季折々の風情や草木の香りもあの土地では随分感じていたような気がする。親父が生きていれば連れてきて昔のように・・・と何度思ったことかしれない。野蒜を教えてくれた父親に、採りたてのアサツキや蕗の薹を食わせることができなかったのは返す返すも残念だが仕方ない。
桜は何処で観てもいつ見てもいくつで観ても、感概や追憶を抱きながら見れば熱いものもこみ上げるし切ないし儚い。数年前の大河ドラマの「葵 徳川三代」のオープニングで出てくる桜は、切ないながらも威風堂々として歳月の輪廻を語り継ぐドラマの内容にピッタリだった。なのに今年の「平清盛」は視聴率もワーストで無理やり、夫婦競演させて視聴率を稼ぐ・・・そんな馬鹿バカしい話もあるそうだ。今更、日本人の精神性など議論する気もないけど、図に乗り過ぎているいい例だろう。
桜の咲いてもすぐに散ってしまうという処が日本人の精神性に大きく影響しているのはきっとそうだ。右翼でも国粋主義でもないが「同期の桜」などの歌詞を聴けば、潔く、散る、ことこそ本分とわきまえた諦めの良さにたどり着くのかもしれない。
既に半世紀を生きてしまった今、これからどんな素晴らしい桜に出会える事か分からない。
だが、風呂敷に包んだ一升瓶を提げて歩く父親の後ろ姿の向こうに見えた桜咲く土手の景色には出会うこともない。
台東区の自宅の近所の寺には「台東区の百景」に選ばれた立派な枝垂れ桜がある。
毎年、その桜が咲き散ってしまうといつの間にか夏になっている。
枝ぶりは見事で花も綺麗だ。遅くまで呑んで、月明かりに照らされるその妖艶さと 云ったら喩えが見つからないほど悩ましい。
だが、意外とここで写真を撮る人を見かけるのは珍しい。
職場の近所の、どちらかと言えば街路樹に近い位の枝垂れ桜を、ムキになって写メを撮っている人を見かけるが、あの桜を見ればそんな気など起こらなくなるだろう。
携帯やデジカメで「ここぞ」という時の1枚と言うのは、撮ったり、持ち歩いたり、手軽に送ったり、できるようになった。全く、便利な世の中である。
だが取って置きの壱葉とか忘れ得ぬ景色と云うのは本来、心の中の残像として大事にしまわれるものだ。
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No.555
2012/04/02 (Mon) 19:43:35
歳のせいか陽気が悪いのか、なかなか冬支度から抜けない。
三寒四温とは言うけれどこのところ極端な気温変動が多く、手放したマフラーやワッチ帽をまた出してきたり・・・
さて、缶コーヒーのオマケもとりあえず気に入っているのは集めてしまった。
まあ、コンプリートという言葉は小生にとって昔から意味をなさないし、全部集めきるという行為にさほど興味を持たないから仕方ない。そのかわり、気に入ったものはいくつも買ったり集めたりする。
400FOURは一体、何人にあげたのかさえ思い出せないほどだ。
他の刀や隼も出来はいいのだけれど、シートのリベットまで綺麗に塗られたうえに、集合管の「ヨシムラ」までくっきりとステッカーロゴを再現しているのはルーペでチェックが必要なほどだ。
マクドナルドでトイザラスがなんとかセットに付けてるのは違うし、余計なギミックはなくても、机上で昭和を回想できる。
ホンダCB400FOURは70年代のというより昭和を代表する傑作バイクのひとつだ。免許制度の改正に合わせて、398ccと408ccが存在するが見た目はせいぜいタンクの色だけだ。
高校1年の秋、原付免許を取ってスズキのマメタンを乗り回していたが、学校の帰りにバイクで同級生のAの家に行くことになり、確か谷中の方へ乗っていった。
Aはその頃ミニトレ(ヤマハGT50)を乗っていたが、彼は既に自動2輪免許を持っており、近所に同い年でCB400FOURを所持している友達が居た。
「乗ってみるか?」と初対面のそいつに言われ、重さと大きさに負けてモノの30mくらいの直線しか乗れずに立ち止まった。「所詮、50とは違うさ、乗れねえだろう?」と嘲笑された。身体も小さく力も車両感覚(バイクの取り回し)に慣れていないのだから仕方ないのだが・・・。
Aは鴬谷の坂の下を一緒に降りて日光街道に出るまで自分を送ってくれた。
その1月後くらいに、Aの誘いで日光へツーリングに行くことになった。
早朝の北千住駅前で待ち合わせて日光街道をひた走ったが、50と400では出せるスピードも違うし、向こうは信号を2つも3つも先に行った。途中まではAがちょこちょこ待っていてくれたが、やがてはぐれてしまった。宇都宮か今市辺りだったと思うが疲れたから折り返し来た道を引き返した。「なんて、馬鹿馬鹿しい旅をしたんだろう」と思いながら交差点で信号待ちをしていたサニーのバンに追突してしまった。
チョッパーにしてあるフロントフォークは歪み、ハンドルは少し逆に向いていた。初めての事故でましてや止まっていた車に突っ込んだので気が動転していた。
ぶつけた相手は、こちらが子供だからバンパーが少し凹んだだけなのに「免許を見せて」とか家の住所と電話番号とか訊かれたと思う。「アルバイトした金でバンパーの修理代は送りますから家には電話しないでください」と懇願したが、曲がったフォークとハンドルで4時間ほどかけて帰宅したらとっくに両親にばれていた。
それからバイクは修理にまた数万近くかかり、サニーのバンパーの修理見積が3万位来た。母親はこと金に対しての執着が凄かったから顔を合わせばご飯どきであろうと始終、文句のいわれ通しだった。
結局、マメタンは修理が終わってしばらく封印したが、やがて新聞配達を始めた時に3万ほどで下取りに出して別の原付を買った。
Aとはその後、気まずくなり高校在学中は会っても言葉を交わす程度でやがて卒業後も会うことはなかった。
****************
先日、ある親しい友人と日暮里で落ち合い、駅に近い赤提灯で呑んだ。
おでんの品書きに釣られて入ったがなかなかどうして、谷中生姜や豆腐のサラダ、らっきょうが旨く、話も弾んで2時間ほども語らい共に飲んだ。そこへ行く途中にエドウインの直営のアウトレットがある。待ち合わせに行く前に覗いてみたら、かつてはLeeのアイテムも置いたいたのに見当たらなかった。女性店員に尋ねたら「当店はエドウインのオンリーショップになっております。リーのどのようなアイテムをお探しですか?」と応えられたので「うん、ストレートの左綾、201があるかなと思って・・・」
「ああ、かなりマニアックなリクエストですね。ええと、201を置いてるお店は現在ごくごく僅かでアメリカン・クラシック・ヴィンテージの・・・●×□▼・・・!?・・・」「あ、もういいわ。あんな銘品を省くからこの業界も駄目になるのさ・・・」女性店員はやや憮然としていたが店を出た。
201はLeeを代表するストレートの傑作だ。左綾のデニムはワンウオッシュからの色落ちが素晴らしく、個人の履き皺が白くなり、やがて濃いインディゴからうっすらと深い鮮やかなブルーに変わるのは人の皮膚に似て全て違う。
ジーンズとは既成で変てこな中古加工をするよりも、バイクと一緒で所有者の癖や生活を反映するものだから、縦の白い糸が目立つように履きこんだストレートのGパンは何とも言えぬ愛着を感じるし、左綾のデニムは表面もフラットで柔らかいので尚更だ。
人の足は2本しかないのに、これだけの魅惑あるストレートを置き去りにするメーカーなんて・・・かつて、北陸の郊外型のジーンズ・チェーン店でも働いた経験をあるのだがバディ・リーを今更語った処で仕方ない。
一世を風靡したあのマスコット人形は今でも愛くるしい。たまにヴィレッジ・ヴァンガードのウインドウなんかで観ることはあるけれど。
30代半ばで経験したその郊外店では、すそ直しの合間にコーヒーをサービスして傍らアンケートなどをやっていた。
あるとき、年配のお客から「ほっそりスリムとか太めのスリムとか日本語としておかしいだろう?脚は2本でも体型は皆違う。どうせなら100年変わらないジーパンを出してくれ!」と書かれていた。当時は確かに「ゆったり」とか「細め」とか、千本近い在庫の壁の棚に処狭しと各メーカーの表記で「ほっそり」とか「普通」とか「ゆったり」とか書かれて並んでいた。今でもその名残は棚を見ればわかるけれど。
百年変わらぬ・・・なんて大袈裟なと思っていたが、自分も50を超えてみて確かに感じるのは服も道具も街も変わるということだ。そして、人の心も。
****************
心おけぬ友人と旨いハイボールを幾杯も飲み、店を出ていつもの鴬谷へと歩を進める先には、ホテル街のネオンとJRの各電車の行きかう音が響く路地を過ぎて行く。
昔、マメタンで降りた坂はこの辺りだったろうか?ヨンフォアを停めて馬鹿にされたのはこの上辺りだったろうか?と思いを馳せる。
そんな思いも行きつけのカラオケに着いたころには忘れてしまったが。
街で見かけるヨンフォアはピカピカに磨かれ大事にされている。今でも程度の良い中古なら100万以上もする。
赤や紺色の独特のタンク形状と、工業製品の命であるかのような輝きをフェンダーや純正の集合管から出している。
物言わぬ鉄は人の手で磨かれ光ることはあっても自らは何も語らない。
ただ、そこにじっとしているだけだ。
永い間の風雨に耐え、大事にされてきても朽ちずに錆びずにいられることが幸福だとは決して語ることはないのかもしれない。
普段通る、鴬谷の坂を見上げたり見下ろす時、ぼんやりとAと原付で走った情景を思い出す。たかが、バンパーを少し凹ませたくらいでなぜあんなに叱られたかとも思い出す。
気の合う友人とはまた鴬谷でも日暮里でも呑むだろう。
だが、Aとはきっと死ぬまで会うことがないのかもしれない。
いや、会っているのかもしれないし会っても分からなかっただけかもしれない。
わずか百数十円の缶コーヒーのオマケで思いはいくつもよぎり、マメタンで感じた稲刈りを終わった田んぼの景色や匂いを思い出す。
暇を見つけて今度は201を探しに行こう。
CBの系譜を持つ傑作バイクなど求めることができても、維持保管し得る環境もないのだから・・・
そしてあるのは失われた街の片隅、いや脳裏の片隅にしまわれたはずの懐かしい景色や会話のやり取りの記憶の断片だ。
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三寒四温とは言うけれどこのところ極端な気温変動が多く、手放したマフラーやワッチ帽をまた出してきたり・・・
さて、缶コーヒーのオマケもとりあえず気に入っているのは集めてしまった。
まあ、コンプリートという言葉は小生にとって昔から意味をなさないし、全部集めきるという行為にさほど興味を持たないから仕方ない。そのかわり、気に入ったものはいくつも買ったり集めたりする。
400FOURは一体、何人にあげたのかさえ思い出せないほどだ。
他の刀や隼も出来はいいのだけれど、シートのリベットまで綺麗に塗られたうえに、集合管の「ヨシムラ」までくっきりとステッカーロゴを再現しているのはルーペでチェックが必要なほどだ。
マクドナルドでトイザラスがなんとかセットに付けてるのは違うし、余計なギミックはなくても、机上で昭和を回想できる。
ホンダCB400FOURは70年代のというより昭和を代表する傑作バイクのひとつだ。免許制度の改正に合わせて、398ccと408ccが存在するが見た目はせいぜいタンクの色だけだ。
高校1年の秋、原付免許を取ってスズキのマメタンを乗り回していたが、学校の帰りにバイクで同級生のAの家に行くことになり、確か谷中の方へ乗っていった。
Aはその頃ミニトレ(ヤマハGT50)を乗っていたが、彼は既に自動2輪免許を持っており、近所に同い年でCB400FOURを所持している友達が居た。
「乗ってみるか?」と初対面のそいつに言われ、重さと大きさに負けてモノの30mくらいの直線しか乗れずに立ち止まった。「所詮、50とは違うさ、乗れねえだろう?」と嘲笑された。身体も小さく力も車両感覚(バイクの取り回し)に慣れていないのだから仕方ないのだが・・・。
Aは鴬谷の坂の下を一緒に降りて日光街道に出るまで自分を送ってくれた。
その1月後くらいに、Aの誘いで日光へツーリングに行くことになった。
早朝の北千住駅前で待ち合わせて日光街道をひた走ったが、50と400では出せるスピードも違うし、向こうは信号を2つも3つも先に行った。途中まではAがちょこちょこ待っていてくれたが、やがてはぐれてしまった。宇都宮か今市辺りだったと思うが疲れたから折り返し来た道を引き返した。「なんて、馬鹿馬鹿しい旅をしたんだろう」と思いながら交差点で信号待ちをしていたサニーのバンに追突してしまった。
チョッパーにしてあるフロントフォークは歪み、ハンドルは少し逆に向いていた。初めての事故でましてや止まっていた車に突っ込んだので気が動転していた。
ぶつけた相手は、こちらが子供だからバンパーが少し凹んだだけなのに「免許を見せて」とか家の住所と電話番号とか訊かれたと思う。「アルバイトした金でバンパーの修理代は送りますから家には電話しないでください」と懇願したが、曲がったフォークとハンドルで4時間ほどかけて帰宅したらとっくに両親にばれていた。
それからバイクは修理にまた数万近くかかり、サニーのバンパーの修理見積が3万位来た。母親はこと金に対しての執着が凄かったから顔を合わせばご飯どきであろうと始終、文句のいわれ通しだった。
結局、マメタンは修理が終わってしばらく封印したが、やがて新聞配達を始めた時に3万ほどで下取りに出して別の原付を買った。
Aとはその後、気まずくなり高校在学中は会っても言葉を交わす程度でやがて卒業後も会うことはなかった。
****************
先日、ある親しい友人と日暮里で落ち合い、駅に近い赤提灯で呑んだ。
おでんの品書きに釣られて入ったがなかなかどうして、谷中生姜や豆腐のサラダ、らっきょうが旨く、話も弾んで2時間ほども語らい共に飲んだ。そこへ行く途中にエドウインの直営のアウトレットがある。待ち合わせに行く前に覗いてみたら、かつてはLeeのアイテムも置いたいたのに見当たらなかった。女性店員に尋ねたら「当店はエドウインのオンリーショップになっております。リーのどのようなアイテムをお探しですか?」と応えられたので「うん、ストレートの左綾、201があるかなと思って・・・」
「ああ、かなりマニアックなリクエストですね。ええと、201を置いてるお店は現在ごくごく僅かでアメリカン・クラシック・ヴィンテージの・・・●×□▼・・・!?・・・」「あ、もういいわ。あんな銘品を省くからこの業界も駄目になるのさ・・・」女性店員はやや憮然としていたが店を出た。
201はLeeを代表するストレートの傑作だ。左綾のデニムはワンウオッシュからの色落ちが素晴らしく、個人の履き皺が白くなり、やがて濃いインディゴからうっすらと深い鮮やかなブルーに変わるのは人の皮膚に似て全て違う。
ジーンズとは既成で変てこな中古加工をするよりも、バイクと一緒で所有者の癖や生活を反映するものだから、縦の白い糸が目立つように履きこんだストレートのGパンは何とも言えぬ愛着を感じるし、左綾のデニムは表面もフラットで柔らかいので尚更だ。
人の足は2本しかないのに、これだけの魅惑あるストレートを置き去りにするメーカーなんて・・・かつて、北陸の郊外型のジーンズ・チェーン店でも働いた経験をあるのだがバディ・リーを今更語った処で仕方ない。
一世を風靡したあのマスコット人形は今でも愛くるしい。たまにヴィレッジ・ヴァンガードのウインドウなんかで観ることはあるけれど。
30代半ばで経験したその郊外店では、すそ直しの合間にコーヒーをサービスして傍らアンケートなどをやっていた。
あるとき、年配のお客から「ほっそりスリムとか太めのスリムとか日本語としておかしいだろう?脚は2本でも体型は皆違う。どうせなら100年変わらないジーパンを出してくれ!」と書かれていた。当時は確かに「ゆったり」とか「細め」とか、千本近い在庫の壁の棚に処狭しと各メーカーの表記で「ほっそり」とか「普通」とか「ゆったり」とか書かれて並んでいた。今でもその名残は棚を見ればわかるけれど。
百年変わらぬ・・・なんて大袈裟なと思っていたが、自分も50を超えてみて確かに感じるのは服も道具も街も変わるということだ。そして、人の心も。
****************
心おけぬ友人と旨いハイボールを幾杯も飲み、店を出ていつもの鴬谷へと歩を進める先には、ホテル街のネオンとJRの各電車の行きかう音が響く路地を過ぎて行く。
昔、マメタンで降りた坂はこの辺りだったろうか?ヨンフォアを停めて馬鹿にされたのはこの上辺りだったろうか?と思いを馳せる。
そんな思いも行きつけのカラオケに着いたころには忘れてしまったが。
街で見かけるヨンフォアはピカピカに磨かれ大事にされている。今でも程度の良い中古なら100万以上もする。
赤や紺色の独特のタンク形状と、工業製品の命であるかのような輝きをフェンダーや純正の集合管から出している。
物言わぬ鉄は人の手で磨かれ光ることはあっても自らは何も語らない。
ただ、そこにじっとしているだけだ。
永い間の風雨に耐え、大事にされてきても朽ちずに錆びずにいられることが幸福だとは決して語ることはないのかもしれない。
普段通る、鴬谷の坂を見上げたり見下ろす時、ぼんやりとAと原付で走った情景を思い出す。たかが、バンパーを少し凹ませたくらいでなぜあんなに叱られたかとも思い出す。
気の合う友人とはまた鴬谷でも日暮里でも呑むだろう。
だが、Aとはきっと死ぬまで会うことがないのかもしれない。
いや、会っているのかもしれないし会っても分からなかっただけかもしれない。
わずか百数十円の缶コーヒーのオマケで思いはいくつもよぎり、マメタンで感じた稲刈りを終わった田んぼの景色や匂いを思い出す。
暇を見つけて今度は201を探しに行こう。
CBの系譜を持つ傑作バイクなど求めることができても、維持保管し得る環境もないのだから・・・
そしてあるのは失われた街の片隅、いや脳裏の片隅にしまわれたはずの懐かしい景色や会話のやり取りの記憶の断片だ。
(c)2012 Ronnie Ⅱ , all rights reserved.
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執筆陣
HN:
快文書作成ユニット(仮)
自己紹介:
各々が皆、此の侭座して野に埋もるるには余りに口惜しい、正に不世出の文芸家を自称しております次第。以下、【快文書館】(仮)が誇る精鋭を御紹介します。
❁ ntr 〜 またの名を中村震。小説、エッセイ、漢詩などを書きます。mixiでも活動。ふだん高校で数学を教えているため、数学や科学について書くこともあります。試験的にハヤカワ・ポケット・ブックSFのレビューを始めてみました。
❖ 呂仁為 Ⅱ 〜 昭和の想い出話や親しみやすい時代物、歴史小説などについて書きます。
✿ 流火-rjuka- ~ 主に漢詩の創作、訳詩などを行っています。架空言語による詩も今後作りたいと思っています。
☃ ちゅうごくさるなし
主に小説を書きます。気が向けば弟のカヲスな物語や、独り言呟きなことを書くかもしれません。
♘ ED-209 〜 ブログ引っ越しました。
☠ 杏仁ブルマ
セカイノハテから覗くモノ
我ら一同、只管に【快文書】を綴るのみ。お気に入りの本の頁をめくる感覚で、ゆるりとお楽しみ頂ければ僥倖に御座居ます。
※ 基本的に当ページはリンクフリーです。然し乍ら見易さ追求の為、相互には承っておりません。悪しからず御了承下さい。※
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