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 『読んで面白い』『検索で来てもガッカリさせない』『おまけに見やすい』以上、三カ条を掲げた〜快文書〜創作プロフェッショナル共が、心底読み手を意識した娯楽文芸エンターテイメントを提供。映画評論から小説、漢詩、アートまでなんでもアリ。嘗てのカルチャー雑誌を彷彿とさせるカオスなひと時を、是非、御笑覧下さいませ。
No.
2024/11/22 (Fri) 16:30:05

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No.516
2011/12/02 (Fri) 13:50:03

 先日のNHKの娯楽探訪番組によれば、日本初の地下鉄の出入り口は浅草にあったという。銀座線の浅草〜上野間が最初の地下鉄だ。
 今はまた、スカイツリーのオープンを控え、浅草〜業平、押上一帯に脚光が集まっている。

             

 先の浅草の項でも述べたように台東区は狭いエリアだ。
 数キロ先に浅草と北の玄関口上野を擁する。新宿、渋谷、池袋街の名前は親近感があっても区を隔てている。

 仲見世や新仲見世、ロックスなどを抜けて、かっぱ橋道具街、寺社の立ち並ぶ通りを過ぎ、清洲橋通りから昭和通へ出ればそこは上野バイク街。

             

 いや、正確には上野バイク街があった場所というのだろう。
 
 数年前、アメ横で道を聞かれた。ミラノから来た若いカップルに「コーリン・タウンってどこですか?」と聞かれて、彼らが持っていたガイドブックを覗き込んだ。
 そこはかつて70軒以上のバイク屋、バイク用品屋があったエリアだ。

 初めて、そこに訪れたのは16か17くらいの時だった。
 原付免許の取り立てで、親類から貰ったホンダのCD50に乗っていた。

 最近は50ccのスポーツなどオンもオフもメーカーは作らないから、カブや実用車に独自の価値観を持って乗ってるような若者もいるが、我々の時代のカブやCDなどは集金や配達のためのバイクだ。
 だから、お椀形の白いヘルメットなんて・・・と思ってた。やがて、数寄屋橋の不二家でウェイターのバイトを新聞配達を辞めてするようになり、日曜日にCDではなく買ったばかりのスズキの新型、マメタンでバイトに行くようになった時、昭和通りを走っていてバイク好きの楽園みたいな街の存在を発見したからだ。

 70年代から80年代初頭にかけてはホンダ、ヤマハの熾烈な市場競争へ向かうさなかであり、ヤマハだけでもミニトレの愛称を持つGT50、RD50、MR50、カフェレーサー風にミニトレをアレンジしたGR50なんかが世に出ていたし、ホンダも4スト・ミニマムロードレーサーのCB50、ダックス、モンキー、オフロードのXE50、トライアル仕様のTL、それにノーティー・ダックスなんかもあった。
 
 ラッタッタ〜♪のCMにはソフィア・ローレンなんて大女優が起用されたが、マストロヤンニとの名作「ひまわり」に出てる人が、なんでこんなオモチャみたいなバイクの宣伝に出てるのか?なんて思ったものだ。

 変速機なしでエンジン掛けたら蝉の音のようなエンジンをスロットル回して走るだけ・・・。これが今のスクーターブームの原動に繋がっている。
 スポーツと言う意味合い、バイクとはこうして動くものと言う体感からはかなり大幅にずれてしまったが、車にしたってオートマが殆どを占める現在、これも世の習いだろう。軽く優しく快適に・・・だ。

 銀座の不二家でウェイターのバイトをし始めた時に、スズキのマメタンが出た。チョッパーもどきのスタイルに、パワフルなリードバルヴを引っ提げてRG50と一緒に世に出たこのバイクは、ネーミングすらして豆単から取ったというメーカーの触れ込みの割に、可愛いどころかなかなか頼もしいバイクだった。

 地元の埼玉の近所のバイク屋で購入したが口車に乗せられて、大枚のかかる改造をして見るからにギンギンのチョッパーとして改造してしまった。リアのショックを短いものに換え、フロントフォークを15cmも延長しメーカーオプションの炎ステッカーをライムグリンのタンクに貼り・・・。

 当時は当局も、改造ハンドルだのマフラーだのにはかなり目を光らせて暴走族退治に躍起になっていたから信号待ちではよく警察官に止められた。だが、集団暴走行為に当たるような不格好な段付きシートや、さらにハンドリングを難しくする怪しげな改造はしていなかったし、現実独りで風を受けて走るのが楽しみで集団で走ることなどなかったから注意だけで済んだが、格好の整備不良のように見られて散々止めやすいから止めたというような警察官の云い様には腹が立ったものだ。
 そのマメタンは400fourを乗った友人と日光へツーリングへ出かけたときにライトバンの後部バンパーにぶつけて半オシャカにしてしまった。

 専門学校へ行き始めて、浪費にうるさかった母親への見栄もあり新聞配達を始めるようになる。前回の時から数年が過ぎ、バイクで広いエリアを受け持った。前述の越谷レイクタウン一帯周辺である。当時はまだまだのどかな田園風景が延々と連なっていたものだが・・・。

 やがて、配達仲間の先輩でIさんと出会う。自衛隊上がりで大型自動2輪の免許を持つIさんは自分より5歳ほど上だった。
 新聞屋が寮にしていた木造の小汚いアパートで山のように重ねられたオートバイ、モーター・サイクリストなどをめくりながら、よく、かきの種かするめいかで日本酒を煽ったものだ。
 Iさんは酒も強く腕っ節も強くバイクも相当なものだったが、ある日、寝過して普段以上の新聞を積み急いで配達に向かう途中、無理な追い越しをかけてダンプの下へ入ってしまう。命を取り留めたが背髄を折る重傷だった。退院してきたのを知らされたがもう、新聞配達のバイトも専門学校も辞めていた。

 この頃から上野・バイク街には良く行くようになっていた。
ヘルメットや手袋、革のツナギに興味を持つのはこの辺りからだったが、中でも忘れがたいのはF1レーサーのニキ・ラウダのレーシングスーツを模したジャンパーだ。
 紙のような繊維でできていて中にはポリエステルの綿が入っていたが、ちっともあったかくはなかった。転ぶと摺れた箇所が目立ったが、それを補ってお釣りがくるほどロマクーレ、アジップ、グッドイヤーなどのスポンサーロゴの目立つブルゾンは格好よかった。当時のレースファッションはワンポイントやマルティニストライプなどさりげなさがよかったが、赤いジャンバーはとにかく目立った。

 中型免許を取ったのは21歳の誕生日間際だった。バイクはマメタンを求めたのとは別のバイク屋さんで約定してあった中古のGSX250だった。

 このバイク屋さんではいろんな事を教えて貰った。
 もともと、配達に使っている新聞屋のカブやメイトなどのメンテをしてもらっていて出入りするうちに仲良くなった。店のあけしめを手伝いながらご飯を御馳走になったり、近所の赤提灯でレバ刺に熱燗で一杯付き合されたりもした。確か屋号はK輪業と言ったはずだ。
 その後就職先が都心の日本橋へと移り、実家を出て都内に住むようになったたためK輪業へ行く機会も減ってしまった。

 82年くらいから80年代後半はレーサーレプリカをメーカーも凌ぎを削り世に出し続けた時代だ。

 純正では有り得なかったフルカウル、ハーフカウルをハイスペックのエンジンや水冷2サイクル、オイルクーラーを前面に配したようなバイクが次々と世に出たし、片山敬済や平忠彦の日本人ライダー、K・ロバーツ、B・シーン、F・スペンサーなどの個性あるライダーも海外に豊富だった。

 光輪はその勢いを駆って、AGVやSidi、SIMPSONなどと契約し、より廉価なレーサーレプリカヘルメット、ツナギ、ブーツなどの販売に乗り出し大成功をおさめ次々と店舗を拡張していった。

 WINNING RUNという映画は、ポールポジション1,2のダイジェストのような映画だったが、F1とバイクの500ccライダーの生き様を真摯に伝えたドキュメントだが、光輪の店先にビデオがあっていつもこの映画をかけていたので、近所に移り住んでいた頃は良く立ち止まって観ていたものだし、次のヘルメットを探しもしたものだ。
 アパレルの営業時代に出たボーナスの大半はバイクとヘルメットやブーツ、革ジャンに費やした。
 内外の一級品を置く「逸品館」などど、今となってはふざけたネーミングの店がバイク街の一等地に出来たのもこのころだ。

             

 既にロバーツ・レプリカを持っていたが、バリー・シーンのレプリカ・・・あのトレードマークの黒字に金ぴかのラインとドナルドダック・・・白字で抜かれたBarry Sheenとゼッケン”7”はたまらなかったが、7の字体が少し歪んでいるようにも見えた。
 オッサンみたいな店員に「あのさ、このナナが少し違うように見えるんだよね、ちゃんとしたナナのバリー・シーンはないの?」と訊いたら、すかさず「あのね、本物はバリーシーンがかぶっているだけでも二十何個もあるんだよ。そのうちのひとつをレプリカにしたんだ、これだって本物の一個なんだよ」結局、そこでしか当時、バリー・シーンの7は手に入らなかったので求めたが。

             
 ※画像は最近になって復刻されたレプリカで当時のモノとは異なります。


 数年が過ぎ、家庭を持ち、子が出来て、都内の暮らしになんだか悲観を感じていた頃に、北陸のある会社から誘われて金沢に移り住んだ。大事に持っていたかったバリーのヘルメットだったが、内部のスポンジが劣化してボロボロと嫌な感じで取れてしまったから止む無く捨てた。


 バイク街の発祥はやはり戦後だというが、これは既に国鉄上野駅という北からの玄関口が確立されて、昭和通りも関東大震災後に既に今の道幅で復興されていたわけだ。因って、 新宿や渋谷などより交通の要所となっていたはずだから、人もモノも金も流れやすかったのだろう。1960年代初頭にはかつてのバイク街の原型は出来ていたようだ。

 コーリン・・・光輪は旭東モータースと並んで先駆者であり成功者だった。
 当初は、バイクそのものを売って軌道に乗り、やがて訪れるバイク用品へ眼をつけていった目の付けどころは見事である。だが、バブル期を過ぎても順調にいくかと思われた経営内容か否かはわからないが、90年代に入ってから失速してしまったようだ。この90年代から2000年にかけての10年は北陸に移り住み上野に来る事もなかったので分からない。


 2001年を過ぎて東京へ舞い戻ったときには、あたりはすっかり変わっていて光輪があった場所は取り壊されたり、シャッターが閉まったままになっていたり、店の数も半分くらいになっていた。
 
 「ウイニング・ラン」のビデオでラウダのインタビューに夢中になって観た面影も、バリー・シーンのヘルメットを求めた時のあの会話も彼方に失われてしまった・・・・。

             


 閉じられた分厚い硝子の店先には、かつての魅惑たっぷりのバイクたちや内外のパーツや用品が並ぶわけではない。労使の紅い「・・・・○×●反対!」などの旗や屏風を、広げ過ぎて滅んだ残骸と復活や保護を求める従業員たちの悲痛な叫びが書きなぐってあるだけだった。

             


 やがて、それも段々目にしなくなり、気づくともはや更地になってマンションの建設計画が仮囲いしてあった。「逸品館」とされた三角のような使いにくいだろうそのビルには、昨年あたりからようやく中華や飲食が入り始めた。
 その残った店舗の一角で、創業者のバイクコレクションなのかしれないけど「バイク街の礎を築いたバイクたち」と言うタイトルで、とてつもなく古いバイクの展示会を催していたが、あまりにも古いバイクたちでとても見たいと思わなかった。朽ちた建物や史跡を観るのは好きだし道具もそうなのだが。

「そんなものを今更、見たところで何になるのだろう?」それしか浮かばなかった。 所有者には気の毒だが今の自分には何の価値もない。
 哀れな鉄屑の塊がいくつか其処にあるだけだ。

 二十歳そこそこで新聞配達の傍ら逆らいながらも、バイクを教えてくれたIさんには今でも何処かで会って、あの当時のように黄桜の一升瓶とスルメで思い切り飲んでみたい気もするが・・・きっと何処かで生きているのだろう。

 好きなバイクもとうに降りてしまった自分には、重くて窮屈な革のつなぎもナナのヘルメットも被る時はもう来ないだろう。


 冒頭に訊かれたイタリア人たちに説明したようにコーリン・タウンなどはもうない。そこはバイク街ではなくバイク街が在った街しかないのだと。



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No.514
2011/12/01 (Thu) 10:51:10

          

 故手塚治虫と並ぶ戦後漫画界の巨匠、横山光輝氏が不慮の火災事故で没してから数年がたつ。なんでも、寝煙草の火の不始末だったそうな。
 あまりにも有名な「鉄人28号」「伊賀の影丸」「仮面の忍者赤影」「魔法使いサリー」「バビル2世」・・・「三国志」「水滸伝」など、金字塔と呼ばれるばかりか傑作を超え、劇中の設定がそのまま史実のように受け取られたり、その後のコミック界のスタンダードのようになってしまうほどの感がある。

 たとえば鉄人⇒ジャイアントロボ⇒ポセイドン(バビル2世に登場)は、まさしく、「言うことを聞くロボット」の典型でありマジンガーZにも登場するロケットパンチであり安定感のある鋼鉄をイメージするスタイリング、デティールである。

 「伊賀の影丸」もそうだが、白土三平氏の「ワタリ」などと並び黒装束に鎖帷子を着こみ、手裏剣で勝負に出る・・というスタイルを決定づけたのはこの作品あたりからだろう。

  

 少年サンデーの連載は他に何があったかわからないが、サンデーの連載漫画をウィキペディアで検索してもあ、これも知ってる、こんなのもと想うくらい結構ある。今じゃ、漫画週刊誌など読まなくなったのだが。

 影丸はその任務内容によってあたかも少年のように描かれたり、青年あたりに描かれたり・・・。だが、服部半蔵は不老不死であるかのように座敷や床の間で読書をしているかと思えばまるでジェームズ・ボンドがMからの指示を受けるが如く、ざっと内偵内容を告げた後「ただちに探ってくれ」などと追い立て、後には数枚の木の葉とつむじ風を起し任務地や仲間との集合場所へ急ぐのだ。

         

 途中、察知した敵の忍者たちとも応戦や対決が続くのだが7,8人ずつの集団同士のトーナメント式の対決から段々、首領に近づき決着をつける。
 徳川将軍家の威信をかけた戦いに勝利しても結局は政策の道具として、同じ忍者を倒さなければならなかったことについて時として影丸は悩み、回を終える。
 だが、また半蔵様の呼び出しに応じて木の葉とともに現れる。

 ユニークな敵忍者も多かった。阿魔野邪気などは代表格だ。特別、何が強い得意でもないのだが斬られても数時間後にはトカゲの尻尾のように回復する。いわば、不死身なのだ。他には野犬や梟を自在に操ったりカメレオンのように何も使わずに景色に溶け込んだり・・・。いくら、毒薬を使われても倒れないとか、吹き矢だけが得意とか。
 同時期より少し遅れて白土三平氏の「サスケ」が連載されるが、この術ごとに種明かしする解説は面白かったが、子供にあんなことができないと思っていたし・・・。

 影丸自身も、不思議な木の葉で木の葉がくれや木の葉火輪で逃げおおせたり、相手を倒したりする。子供のころには、枯葉集めが公園のブランコに行くと日課だったりしたものだ。滑り台の上からそんな術の単語を絶叫して枯葉をばらまいてもちっとも強くはなれなかったが・・・。

 大体、なんで木の葉に染み込ませたしびれ薬で人が倒れたり木の葉が火の輪になって燃えだすのか・・・?そんな大量の木の葉はどれだけどんなふうに持っているんだろう・・・?と、子供ながらも不思議に思ったものだったが、そこはやはり忍者だからなのだろう。まあ、赤影にしたって仮面を付けてなくたって強いじゃん!っと思わせる時もあるし、実写に至っては、隠密行動の時は仮面を外して街道を歩いてるんだもんね。

 影丸にしても赤影にしても共通するのはそのモノトーンの景色の描写が素晴らしいことだ。単純な描写なのだが白黒で観れる世界に木々や城や屋敷など、リアルで重厚な佇まいや山々の稜線、樹木や原野の様子季節に応じてリアリティたっぷりに描かれていることだ。

 今の漫画を読まなくなってしまったのは、ストーリーや設定など歳をとった分ついていけなくなったと思うが、人物にしても景色、背景にしても無駄な線が多いことによる。なんだか、はっきりしないで見にくいからが大きな要因だ。技術、技量はきっと昭和の巨匠たちと劣らないとは思うが、思い入れやスピリッツが違うのだろう。



 子供の頃は餅を食って庭でバドミントンに飽きた二日か三日に出かけて、初詣の後開いている古本屋に寄って、「伊賀の影丸」を父親に買ってもらって、喜んで油臭い木の床の東武線で読みながら帰ったものだ。
 小学校4年くらいになって、秋田書店から出たサンデーコミックスでも影丸を買った。同時に秋田書店からは「忍者画報」みたいなムックが出ていて、手裏剣だの水蜘蛛だのといろんな知識を得た。伊賀甲賀などの派閥はその頃から知った。

 死んだ父親と今でも健在な母親が正月から喧嘩をしている場面だと、俺や弟を伴って浅草へ出かけ漫画を買ってもらってウキウキの自分と居酒屋で徳利を空ける親父がいた。
 影丸がそろそろ飽きた頃、親との初詣も行かなくなった。幼い弟妹がその行事のメインとなっていたからだ。出かけてきてからは高校生くらいになっていた自分と差し向かいで父親が大晦日あたりに造ったきんぴらで日本酒を飲んだ。
 当時の父親としては積極的に台所で酒肴を作ることを無常の悦びにする親父だったが、何せ、一杯引っ掛けて歳末特別番組だの片岡千恵蔵の時代劇なんぞを観ながら作るのだから、ごぼうなんて鉛筆のように太くて固かったし、飲んだ調子で味見して鷹の爪を袋の半分も入れちまうもんだから辛いことからいこと・・・で、食えないというと「俺が丹精を込めて作ったきんぴらがそんなに食えないか!?」などと喧嘩腰に叱咤されるもんだから、嫌が応なしに食いながら銚子の日本酒を何本も干した。この時に酒と辛いもの好きの人生が幕を開けたのかもしれない。

 台東区は東京23区でも最も狭い区だ。行政人口も少ない。江戸川、江東などと比較する比ではない。だが、上野も浅草もある。徳川家康が江戸へ入府した頃には浅草くらいしかまともな集落はなく言えば東京で最も古い町でもある。

 街路樹の木々の色が赤や黄色に変わり雨、風の度に堕ちて風に舞う。
 いろんな出来事の起きたこの夏の暑い日差しはとうの彼方だ。

 この時期のクリスマスのイルミネーションやウインドウは、街を歩いても目を奪われるものも確かにあるが、遠く彼方のモノトーンの木の葉を思い出すのも悪くない。
 出来あいの甘いきんぴらに七味をかけたくらいでは死んだ親父の一喝には遠く及ばないが、酔っ払って所々を端折って観た12時間ドラマや忠臣蔵を思い出す。
 三船敏郎や萬屋錦之介などの12時間連続ドラマなんか懐かしい。

 暮れには少しだけ燗酒を嗜むことにしよう。



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No.512
2011/11/21 (Mon) 20:25:19

             

 一昨日だったと思うが「マクラーレン・ホンダ復活か!?」の報に、古くからのF1ファン、モータースポーツ・ファン、HONDA・ファンは胸をときめかせた方もおいでだろう。

 かく言う、小生もその一人だが。
 mixiのコミュにも色々と復活再起を望む声も多い。

 無性に読みたくなったのが故海老沢泰久氏著の「F1地上の夢」だ。

 文庫本でも今はあるらしいけど、往年のウィリアムズの乗ったネルソン・ピケが表紙のハードカバーがたまらなく読みたい。
 確か、引越しの時に行方知らずになったままだ。
 先日、業平へ出かけた折にホンダ・ミュージアムが出しているのか、懐かしのRAシリーズからスピリット、ウィリアムズ、ロータス・・・と、A1の大きさで歴代のF1勢揃いのポスターを見かけ嬉しくなったが。


 町工場の親父に過ぎなかった本田宗一郎は、その先見性と独自性で一貫した経営センス・・・モノづくり、人づくりで生涯を貫いた。
 戦後の経営者、松下幸之助を筆頭に至誠一貫で商いに徹し社会に貢献してきたような人々が昭和には多い。
 時代が戦後復興から高度成長期へ向かい追い風と言うのもあったかもしれないし、今のように環境エネルギー、自然破壊、放射能とマイナス要因ばかりでなかったことも幸いしたとは思う。

 件の「F1 地上の夢」では60年代の初頭に当時ロータスの総帥コーリン・チャップマンからエンジン供給の依頼を受けていてさあ、これから実戦だという時に一方的にフォードのエンジンを載せることになったからキャンセル!と断られてしまう。ならば、シャシーもエンジンも全部ウチで造ろうじゃないか!とやり始めたのがHONDA・F1の系譜となる。
 この辺を読んだあたりでは二十数年前と言えど、脱帽し血沸き肉躍るような逞しさを感じたものだ。

 そして60年代の後半に入り、CVCCエンジンの開発に人手も金もかかってしまうことから所期の目的・・・タイトルは取れないまでもある程度は達成したとして最初の黄金期は終わり、80年代の半ばになってスピリットからウィリアムズ、ロータス・・・そしてマクラーレンでセナやプロストを擁した輝ける前人未到へと登り詰めていく。

 一般車へ目を向ければ今でこそ、カーナビだパワステだ、パワーウインドだというのは当たり前になっていて、だからこそ乳児を乗せた若い母親でも車で出かけられる社会になった。
 キャブレターだのプラグだの混合比だのというのは今は全部電子制御だし、その先鞭をつけたのはCVCCであったことには違いない。
 エア・バッグなども今じゃ一般装備だが80年代に国産で装備していたのは、プレリュードかレジェンドくらいだった。先進のメルセデスには装備されていたが。

             


 こうした先人たちのスピリッツや粉骨砕身の辛苦があって、今の便利も成り立っている。「不自由を常と思えば不足なし」の徳川家康ではないが技術者たちはそこに改善を見出し世に遺していった。
 これは建設も製造もそして流通もあらゆる産業のパイオニアたちが60年代から70年代後半に多く傑出し偉業を成している。
 残念ながら時流に合わず、没落や終焉もあったが。
 
 共通しているのは三現主義などと言われる現場主義だ。
高度情報化社会と言われて久しくブロードバンドだ形態だ、スマホだと、先日のある経済番組ではまるでスマホのエンジニアでなければ人にあらずくらいの調子で紹介している。
 若い技術者たちに限らず少なからず現実、現場と言うのを我が目、我が手で確認する作業を怠っていってしまう懸念を感じるのは小生だけだろうか?

 あまりにも、利便性、機能性ばかりが進み過ぎてモノを直しても使うとか、大事にするとか抜けていないだろうか?
 あまりにも売れるモノ、話題を呼ぶものばかりに目を奪われて製作者の意図や考えなど蚊帳の外ではないか?

 と警鐘を鳴らしたくなってしまう。

 映画についてもなぜこの時代の名作「栄光のルマン」や「グランプリ」をもっと多くの若い大衆に見せようとはせずに、CGで作った薄っぺらな大衆SFやテキトー・スペクタクルなんぞを次から次へと出すのだろう?
 「グランプリ」などはかの三船敏郎が本田宗一郎に扮した巨匠J・フランケンハイマーの名作なのに。「栄光のルマン」に至ってはこれ以上のカーレース映画は撮れないだろうとばかりに、マックイーンが挑んだ偉業のレベルには格段の撮影技術の進歩進捗があったというのに、そこに至ってはいないし、我々より10歳も若いと「栄光のルマン、なんですか?それ・・・」くらいにしか知られていないのが現実だ。

 若者偏重の文化、サブカルチャーがそうさせるのだろう。

             


 昨今の大王製紙やオリンパスにしても、日本を代表する企業でありながら実態ではこんなことをしてましたで済むのだろうか?
 オリンパスには黒塗りのロータスにJPSと並んでゴールドのロゴを入れ「日本企業の此処にあり」を見せてくれたのに・・・。

 バブルがいけなかったとか平成になってからそうだとか、ゆとり世代がどうの・・・と云うつもりはない。が、小生の身の周りも含めてだがどうしてこんな愚かな経営者や首脳陣が後を絶たないのだろう。

 「親の七光り」であまりにも単調で退屈な道を歩んでしまうからだろうか?
 あるいは親とは違うところで名を成して世間に知らしめてという野望が失敗するのだろうか?だが、「私で何代続く老舗でございます」なんてたまに見かけるし、事業家や商売人の子育てすべてが失敗するわけでも跡取り全員が間抜けなわけでもない。
 要は、「この仕事を通じて自分を高め世間に奉仕する」という固くて崇高な意思があればよいのではないか?

 だが、タレントや芸人たちが寄り集まって下らないダジャレに一喜一憂し、スイーツなんぞをいい大人が深夜に品評会をやって視聴率云々などと言うくらいでは先も知れている。

 マクラーレン・ホンダの復活は大いに興味があるところだが、技術陣は確かに80年代の末期でレギュレーションをかのFIAあたりに変更させられ、あの当時のノウハウ、遺産があればターボになってもかなりのアドバンテージはあるかもしれない。しかしながら、震災の影響に加え、タイの洪水、世界的な経済不安定・・・これらは盤石の態勢を作るのに足枷とはならぬのだろうか?

 F1は世界経済のショーウインドウともいわれたが今でもそうだろうか?

 夢よ、もう一度とは言わないし、思わない・・・

 だが、地上の夢をもう一度、探し出して読んでみたい。



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執筆陣
HN:
快文書作成ユニット(仮)
自己紹介:
 各々が皆、此の侭座して野に埋もるるには余りに口惜しい、正に不世出の文芸家を自称しております次第。以下、【快文書館】(仮)が誇る精鋭を御紹介します。


 ❁ ntr 〜 またの名を中村震。小説、エッセイ、漢詩などを書きます。mixiでも活動。ふだん高校で数学を教えているため、数学や科学について書くこともあります。試験的にハヤカワ・ポケット・ブックSFのレビューを始めてみました。

 ❖ 呂仁為 Ⅱ 〜 昭和の想い出話や親しみやすい時代物、歴史小説などについて書きます。

 ✿ 流火-rjuka- ~ 主に漢詩の創作、訳詩などを行っています。架空言語による詩も今後作りたいと思っています。

 ☃ ちゅうごくさるなし
主に小説を書きます。気が向けば弟のカヲスな物語や、独り言呟きなことを書くかもしれません。

 ♘ ED-209ブログ引っ越しました。

 ☠ 杏仁ブルマ
セカイノハテから覗くモノ 



 我ら一同、只管に【快文書】を綴るのみ。お気に入りの本の頁をめくる感覚で、ゆるりとお楽しみ頂ければ僥倖に御座居ます。









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