『読んで面白い』『検索で来てもガッカリさせない』『おまけに見やすい』以上、三カ条を掲げた〜快文書〜創作プロフェッショナル共が、心底読み手を意識した娯楽文芸エンターテイメントを提供。映画評論から小説、漢詩、アートまでなんでもアリ。嘗てのカルチャー雑誌を彷彿とさせるカオスなひと時を、是非、御笑覧下さいませ。
No.424
2011/03/15 (Tue) 23:29:27
ええっと、毎年のこととは言え、ホワイトデーには何を贈ったらいいのかな。バレンタインデーになると必ず、会社の女子一同から男子一同へチョコレートが贈られるから、毎年男子一同からもお返ししないといけない。今年は集金係が橋本君で、プレゼントの買出しが僕になった。プレゼントを選ぶセンスなんて皆無なのにな。
まあキャンディでいいんだろうけど、毎年プラスアルファでおまけがついたものを贈っているからな。ミニアルバムなんていいかな、無難そうだ。だめだ、池田係長がいる。池田さんは写真を撮られると魂のいくぶんかが抜け出てしまうらしく、記念写真なんかのあとは必ず吐いて顔面蒼白になるんだよな。ハンカチはどうだろう。ハンカチを贈られて困る人はいまい。今中主任なんか美人のくせに毎日鼻血を出しているから、ハンカチだったらいくらあっても歓迎だろう。そうすると赤いハンカチかな。だめだ、赤は横川課長がふだんからラッキーカラーと称しているから、彼女と仲の悪い木村課長から「お前は横川派か」と勘ぐられかねない。そうするとやはり現金かな。現金をもらって嫌な人もいるまい。いやそれもきっと差し障りがあるだろうな。うーん、どうすべきか。ぎゃーっ、車が、車が。
職場の女子の皆さん、結局ホワイトデーのプレゼントを決めきれないまま、車に轢かれて死ぬことになりそうです。よろしければ、僕の遺体を食べてください。食べた方々には、食べた分量に応じて、僕の貯金を差し上げます。
という遺書を死に際に書き終えようというとき、私は目が覚めた。いま何時かな。なんで会社員だったころの夢なんか見たんだろう。思い起こせば、その当時車に轢かれて意識を失った私は、気がつくと牛になっていた。ちょうど死にかけの牛がいたから、私の脳を牛に移植したのだそうだ。
私は本棚から使い込んだ六法全書を取り出し、日課になっている法律の勉強を始める。人生七転び八起き。私は牛になってから弁護士を目指し始めたのだ。私は乳牛だから、搾り出した乳を売って生活費を稼ぎつつ、司法試験に備えて勉強している。無理解な牛仲間からは「そのエネルギーをええ乳出すことに使おうや」と言われているが、彼らに人間だった私の気持ちがわかってたまるか。
今日も梅田に出ると、東北関東大震災への義捐金を呼びかけている若者たちがいる。私も元人間として自分の出来ることはしたい。しかし街角の募金集めの人々にはあるいは偽者が紛れ込んでいるかも知れぬから、募金するなら確実なルートからにしようと思う。
ところで自分の住む大阪市の七十代の女性が、義捐金として一千万円を役所に届けたそうだ。金はあるところにはあるものだ。
(c) 2011 ntr ,all rights reserved.
まあキャンディでいいんだろうけど、毎年プラスアルファでおまけがついたものを贈っているからな。ミニアルバムなんていいかな、無難そうだ。だめだ、池田係長がいる。池田さんは写真を撮られると魂のいくぶんかが抜け出てしまうらしく、記念写真なんかのあとは必ず吐いて顔面蒼白になるんだよな。ハンカチはどうだろう。ハンカチを贈られて困る人はいまい。今中主任なんか美人のくせに毎日鼻血を出しているから、ハンカチだったらいくらあっても歓迎だろう。そうすると赤いハンカチかな。だめだ、赤は横川課長がふだんからラッキーカラーと称しているから、彼女と仲の悪い木村課長から「お前は横川派か」と勘ぐられかねない。そうするとやはり現金かな。現金をもらって嫌な人もいるまい。いやそれもきっと差し障りがあるだろうな。うーん、どうすべきか。ぎゃーっ、車が、車が。
職場の女子の皆さん、結局ホワイトデーのプレゼントを決めきれないまま、車に轢かれて死ぬことになりそうです。よろしければ、僕の遺体を食べてください。食べた方々には、食べた分量に応じて、僕の貯金を差し上げます。
という遺書を死に際に書き終えようというとき、私は目が覚めた。いま何時かな。なんで会社員だったころの夢なんか見たんだろう。思い起こせば、その当時車に轢かれて意識を失った私は、気がつくと牛になっていた。ちょうど死にかけの牛がいたから、私の脳を牛に移植したのだそうだ。
私は本棚から使い込んだ六法全書を取り出し、日課になっている法律の勉強を始める。人生七転び八起き。私は牛になってから弁護士を目指し始めたのだ。私は乳牛だから、搾り出した乳を売って生活費を稼ぎつつ、司法試験に備えて勉強している。無理解な牛仲間からは「そのエネルギーをええ乳出すことに使おうや」と言われているが、彼らに人間だった私の気持ちがわかってたまるか。
今日も梅田に出ると、東北関東大震災への義捐金を呼びかけている若者たちがいる。私も元人間として自分の出来ることはしたい。しかし街角の募金集めの人々にはあるいは偽者が紛れ込んでいるかも知れぬから、募金するなら確実なルートからにしようと思う。
ところで自分の住む大阪市の七十代の女性が、義捐金として一千万円を役所に届けたそうだ。金はあるところにはあるものだ。
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No.423
2011/03/15 (Tue) 23:23:37
「もしもし?」礼子が電話に出た。
「青柳です。夜分遅くにすみません、緊急の要件なんです」
「どういうことですか?」
青柳は、緑川が自宅マンションに忍び込んだこと、溝口も狙われる恐れがあることを告げた。
「いいですか、戸締りを厳重にして、誰が来てもドアを開けないでください」
「わかったわ」
未明、溝口礼子の住むマンションに、光る目をした数名の男女が忍び寄っていた。彼女の部屋の扉に、彼らは爪を立て、生臭い息を吐き、中に押し入ろうとした。その者どもは人間のものとは思えぬ野太い叫び声をあげ、今度は窓を叩き割ろうとする。
礼子は警察に通報した。住所を言い、暴漢が家に押し入ろうとしていると伝えると、しばらくしてパトカーのサイレンが聞こえてきた。と同時に怪物じみた暴漢どもはどこかへ消えたようで、辺りは静かになった。警官たちは、礼子の部屋の鉄製の扉につけられた暴漢たちの引っかき傷を見て、異常者が徘徊していると認め、以後この地域のパトロールを強化すると言って去っていった。
礼子は出勤すると、さっそく青柳にこのことを伝えた。
「野獣のような野太い声に、生臭い息を感じたんですね? しかも相手は複数、間違いないですか」
「ええ」
「すると、緑川は仲間の吸血鬼をすでに増やしているに違いない……そしてその集団は、我々を亡き者にするか、でなければ吸血鬼の仲間に引き込もうとしている」
「でも、吸血鬼の話なんて警察は信じないでしょうし……」
「僕の古い友人の兄が、刑事をやっています。信じてもらえるかどうかは分からないが、紹介してくれるようその友人に連絡を取りました。明日の夕方、会う予定です。溝口先生も来てもらえませんか」
青柳が紹介を受けた刑事は、河合虎児郎(かわい・こじろう)という三十代後半の背の低い人物だった。ひとなつこい柔和な笑顔の、刑事らしからぬ男だ。青柳は、これまでのいきさつを河合に話して聞かせた。とくに緑川がバラバラ死体から血を吸っていた件は、まだ警察には話していなかったから、河合刑事は興味深げに聞きいっていた。
「もちろん警察でも、これまでのバラバラ殺人の被害者の遺体には、人間のものとは思えない牙のような歯で噛まれた跡があることは把握していました。しかも共通の歯形です」河合刑事はゆっくり話し始めた。「はじめは野犬か何かの仕業だろうとされてたんですが、連続殺人で刀を持った人間と野犬が共犯とは考えにくい。青柳さんのほかにも、怪物じみた人間の目撃例は数件あります……ただちに吸血鬼どもがここらを徘徊しているとは結論できないが、私は緑川蘭三を張ってみようと思います。お二人のご自宅近くには、パトロール強化に加えて、私の部下を配置しましょう」
「あ、それから警察の行動は富沢と藤堂にも知られないように」
「もちろんですとも」
「河合警部は、きょうから緑川蘭三の監視を始めるようです」河合の上司である刑事課長の山倉が、警察署長に告げた。
「そうか」窓を見つめたまま、熊のように大柄な署長が応えた。署長の口からは、緑川と同じく鋭い牙が伸びており、生臭い息が大きくひとつ吐き出された。
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「青柳です。夜分遅くにすみません、緊急の要件なんです」
「どういうことですか?」
青柳は、緑川が自宅マンションに忍び込んだこと、溝口も狙われる恐れがあることを告げた。
「いいですか、戸締りを厳重にして、誰が来てもドアを開けないでください」
「わかったわ」
未明、溝口礼子の住むマンションに、光る目をした数名の男女が忍び寄っていた。彼女の部屋の扉に、彼らは爪を立て、生臭い息を吐き、中に押し入ろうとした。その者どもは人間のものとは思えぬ野太い叫び声をあげ、今度は窓を叩き割ろうとする。
礼子は警察に通報した。住所を言い、暴漢が家に押し入ろうとしていると伝えると、しばらくしてパトカーのサイレンが聞こえてきた。と同時に怪物じみた暴漢どもはどこかへ消えたようで、辺りは静かになった。警官たちは、礼子の部屋の鉄製の扉につけられた暴漢たちの引っかき傷を見て、異常者が徘徊していると認め、以後この地域のパトロールを強化すると言って去っていった。
礼子は出勤すると、さっそく青柳にこのことを伝えた。
「野獣のような野太い声に、生臭い息を感じたんですね? しかも相手は複数、間違いないですか」
「ええ」
「すると、緑川は仲間の吸血鬼をすでに増やしているに違いない……そしてその集団は、我々を亡き者にするか、でなければ吸血鬼の仲間に引き込もうとしている」
「でも、吸血鬼の話なんて警察は信じないでしょうし……」
「僕の古い友人の兄が、刑事をやっています。信じてもらえるかどうかは分からないが、紹介してくれるようその友人に連絡を取りました。明日の夕方、会う予定です。溝口先生も来てもらえませんか」
青柳が紹介を受けた刑事は、河合虎児郎(かわい・こじろう)という三十代後半の背の低い人物だった。ひとなつこい柔和な笑顔の、刑事らしからぬ男だ。青柳は、これまでのいきさつを河合に話して聞かせた。とくに緑川がバラバラ死体から血を吸っていた件は、まだ警察には話していなかったから、河合刑事は興味深げに聞きいっていた。
「もちろん警察でも、これまでのバラバラ殺人の被害者の遺体には、人間のものとは思えない牙のような歯で噛まれた跡があることは把握していました。しかも共通の歯形です」河合刑事はゆっくり話し始めた。「はじめは野犬か何かの仕業だろうとされてたんですが、連続殺人で刀を持った人間と野犬が共犯とは考えにくい。青柳さんのほかにも、怪物じみた人間の目撃例は数件あります……ただちに吸血鬼どもがここらを徘徊しているとは結論できないが、私は緑川蘭三を張ってみようと思います。お二人のご自宅近くには、パトロール強化に加えて、私の部下を配置しましょう」
「あ、それから警察の行動は富沢と藤堂にも知られないように」
「もちろんですとも」
「河合警部は、きょうから緑川蘭三の監視を始めるようです」河合の上司である刑事課長の山倉が、警察署長に告げた。
「そうか」窓を見つめたまま、熊のように大柄な署長が応えた。署長の口からは、緑川と同じく鋭い牙が伸びており、生臭い息が大きくひとつ吐き出された。
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No.417
2011/03/02 (Wed) 16:11:20
自分が大学院時代、修士課程、博士課程を通じてお世話になったのはK教授という小柄な初老の人物だった。K教授の研究室では、大まかに言って群の表現という分野が研究されており、当然自分の専門分野も群の表現だった。
大学の数学教室では、学部四年生以上になると「セミナー」というものに出席することが義務付けられる。それは学生が自分の研究テーマに沿った英語の数学書を読んできて、指導教授の座っている前で、理解した内容を黒板を使って説明するというものである。数学科の学生は昔も今も、このセミナーという形式で数学的思考と発表の仕方を訓練し、数学者としての基礎を身につけていくのである。セミナーには、発表の際に自分の勉強している本を見てはならないというルールがある。だから学生は、あらかじめ用意してきた自筆のメモを参照しながらセミナーを進めることになる。
さて自分も修士課程に入ると、K教授の指導のもとセミナーを行うことになった。K教授のセミナーは、他の教授のそれよりもさらに厳格だった。発表の際には、メモすらも見てはならないというのだ! 私はJ.-P. Serre の Linear Representations of Finite Groups という書物でセミナーを行った。毎週一回、セミナー室と呼ばれる小さな部屋で、K教授たった一人を相手に二、三時間の発表を行った。その間メモの類をいっさい見られないということで、セミナーの前日はいつも徹夜で勉強した。
それは確かに勉強になった。そうやって骨を折った甲斐があったのか、入学二年目の冬に書き上げた修士論文は好評をもって迎え入れられた。
修士を出たあと私は一般企業に就職したが、のちに同じ大学の大学院に戻り、再びK教授の指導を仰いだ。博士課程に入ったわけだが、数年間のブランクがあったため、同じ研究室には年下の先輩が何人もいるという状態になった。
今度私がセミナーで読むことになったのは、コクセター群の組み合わせ論という分野の本だったが、そのほか学生たちだけで自主的に行うセミナーにも出席した。コクセター群のほうは私の発表だったが、自主セミナーのほうでは私は聴き手で、K教授もいないから、だいぶ気が楽だった。自主セミナーでの発表者はOさんという年下の先輩だったが、講読する本はHartshorne の Algebraic Geometry だった。代数幾何の有名な入門書である。代数幾何は我々の研究室の研究テーマとは少しかけ離れたものであり、難しいことで有名な分野だ。しかし難しいと同時に華々しい内容を持っており、日本でフィールズ賞を受賞した小平、広中、森の三氏の研究分野がいずれも代数幾何だったこともあって、聴講者たちにもある種の期待感があったのではなかろうか。
この自主セミナーは毎週日曜に行われた。大学の講義棟には鍵がかかっていたが、学生証のカード認証で中に入ることができた。だいたい午後一時ごろからの開始だったが、Oさんの都合で遅くなることもあった。したがって毎回の終わりに、次回の開始時間の確認が行われた。しかしあるとき、Oさんが「次回は午後一時からで」というべきところを「午前一時からで」と言い間違えた。みんな「午前一時!?」といっせいに驚きの声を上げた。Y先輩はにやにやしながら「僕は午前一時でもかまわないよ」と言った。するとみな冗談交じりに「じゃあ僕も午前一時でいい」と口々に言いはじめ、その声はOさんの「いや、午後一時です」という小さな声を押しつぶしてしまった。しばし談笑が続いたが、当然次回は午後一時からということをみな了解して、その日は解散となった。
みな了解していたはずだった。しかしT君という修士一年の青年だけは違っていた。T君は寡黙で、セミナーの出席者の中でもほんのときどきしか発言しなかった。だから彼一人が午前一時開始という誤解が解けないまま帰ってしまったとしても、他の者が気づかなかったのは無理もなかった。
さてT君は次の日曜日の午前一時、すなわち通常は土曜日の深夜と認識されている時間にいつものセミナー室にやってきた。そしていつも座っている一番前の席に陣取って、ずっと皆が集まるのを待っていた。
そのころ、学校荒らしが深夜、頻々と出没していた。数学科の教授の部屋が、何度か荒らされる被害もあった。いちど大学の監視カメラがその学校荒らしの姿をとらえたことがあって、その写真が廊下に張り出されていた。それは頭の禿げ上がった五十代半ばぐらいの痩せた小さな男で、暗い廊下をいかにも不審な目つきで歩いているところが写されていた。
T君が三十分ばかりセミナー室で待っていると、がちゃりと戸が開いた。入ってきたのは件の写真に写っていた学校荒らしだった。
「何の用ですか」T君が尋ねると、
「お前こそ何をしている」という返事。
「セミナーが始まるんです」
「こんな時間にか?」
「あなたは誰ですか。泥棒ですか」とT君。
「俺がか? それは誤解だ。俺はこの大学の数学科の卒業生だ」
学校荒らしと目されてきたこの人物によると、彼は過去に長くこの大学の大学院に在籍したが、指導教授との仲違いから退学し、以来どこの大学にも籍をおかず独自に数学を研究してきたのだという。自分の最近の研究成果をこの大学の教授のもとに送ったが、まったく相手にされないため、最近の研究の動向を知るために深夜大学に忍び込み、教授たちの部屋にある資料を見て回っていたらしい。
その学校荒らしは思いがけずT君という数学科の学生と出くわし、多年の研究成果を聞いてもらおうと思い立ったらしく、黒板を使って彼の理論を説明し始めた。
T君は真面目にその話を聞いていたが、専門外の微分幾何の話題だったため、途中で理解できなくなってしまった。しかし黙ってこの見知らぬ男の話を聞き続けた。
突然「こんな時間に何してる?」と大きな声がして、扉が開いた。K教授だった。教授は忘れ物を取りに大学に来たのだった。そしてセミナー室に自分の教え子と不審な初老の男がいるのを認めたが、黒板にびっしり書かれた数式を見て、すぐにセミナーが行われていると理解した。そして学校荒らしも学生と同等に扱い、「学校は二十四時間営業じゃない。すぐ帰ってください」と促した。しかし学校荒らしは大学の教授が来たのを知り、ここを先途とばかりに自分の発見したことを聞くようK教授に迫った。K教授は黒板中に書かれたテンソル記号やちまちました添え字や微分作用素を見て、
「どうも私の専門じゃないようだが」といいつつも、この不審人物の話に耳を傾け始めた。
K教授ははじめはじっと立って黒板を注視し、また話が難しいところにくると、いつもするようにうつむきながら部屋を行ったり来たりした。
やがて夜が白々と明けてきたころ、教授は初めて口を開き「きみの話には飛躍がある」と言った。K教授は学生に対しては「きみ」、大学に職を得ているものは「先生」と呼び、その言葉を截然と使い分けていた。学校荒らしは学生として扱われたわけだ。
K教授が指摘した「飛躍」は、この学校荒らしによる主定理の証明の、いわば根幹に関わっていた。その「飛躍」によって、彼の研究成果は台無しになってしまうのである。教授の指摘によって、自分の多年の努力がどうやら水の泡になってしまったのを理解すると、学校荒らしはがっくりとうなだれた。
朝になって警備員が出勤してくると、セミナー室に座って呆然としている学校荒らしを見咎め、彼はお縄になった。あとで聞くと、その男は強盗殺人の罪で全国に指名手配中の人物だったそうだ。
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大学の数学教室では、学部四年生以上になると「セミナー」というものに出席することが義務付けられる。それは学生が自分の研究テーマに沿った英語の数学書を読んできて、指導教授の座っている前で、理解した内容を黒板を使って説明するというものである。数学科の学生は昔も今も、このセミナーという形式で数学的思考と発表の仕方を訓練し、数学者としての基礎を身につけていくのである。セミナーには、発表の際に自分の勉強している本を見てはならないというルールがある。だから学生は、あらかじめ用意してきた自筆のメモを参照しながらセミナーを進めることになる。
さて自分も修士課程に入ると、K教授の指導のもとセミナーを行うことになった。K教授のセミナーは、他の教授のそれよりもさらに厳格だった。発表の際には、メモすらも見てはならないというのだ! 私はJ.-P. Serre の Linear Representations of Finite Groups という書物でセミナーを行った。毎週一回、セミナー室と呼ばれる小さな部屋で、K教授たった一人を相手に二、三時間の発表を行った。その間メモの類をいっさい見られないということで、セミナーの前日はいつも徹夜で勉強した。
それは確かに勉強になった。そうやって骨を折った甲斐があったのか、入学二年目の冬に書き上げた修士論文は好評をもって迎え入れられた。
修士を出たあと私は一般企業に就職したが、のちに同じ大学の大学院に戻り、再びK教授の指導を仰いだ。博士課程に入ったわけだが、数年間のブランクがあったため、同じ研究室には年下の先輩が何人もいるという状態になった。
今度私がセミナーで読むことになったのは、コクセター群の組み合わせ論という分野の本だったが、そのほか学生たちだけで自主的に行うセミナーにも出席した。コクセター群のほうは私の発表だったが、自主セミナーのほうでは私は聴き手で、K教授もいないから、だいぶ気が楽だった。自主セミナーでの発表者はOさんという年下の先輩だったが、講読する本はHartshorne の Algebraic Geometry だった。代数幾何の有名な入門書である。代数幾何は我々の研究室の研究テーマとは少しかけ離れたものであり、難しいことで有名な分野だ。しかし難しいと同時に華々しい内容を持っており、日本でフィールズ賞を受賞した小平、広中、森の三氏の研究分野がいずれも代数幾何だったこともあって、聴講者たちにもある種の期待感があったのではなかろうか。
この自主セミナーは毎週日曜に行われた。大学の講義棟には鍵がかかっていたが、学生証のカード認証で中に入ることができた。だいたい午後一時ごろからの開始だったが、Oさんの都合で遅くなることもあった。したがって毎回の終わりに、次回の開始時間の確認が行われた。しかしあるとき、Oさんが「次回は午後一時からで」というべきところを「午前一時からで」と言い間違えた。みんな「午前一時!?」といっせいに驚きの声を上げた。Y先輩はにやにやしながら「僕は午前一時でもかまわないよ」と言った。するとみな冗談交じりに「じゃあ僕も午前一時でいい」と口々に言いはじめ、その声はOさんの「いや、午後一時です」という小さな声を押しつぶしてしまった。しばし談笑が続いたが、当然次回は午後一時からということをみな了解して、その日は解散となった。
みな了解していたはずだった。しかしT君という修士一年の青年だけは違っていた。T君は寡黙で、セミナーの出席者の中でもほんのときどきしか発言しなかった。だから彼一人が午前一時開始という誤解が解けないまま帰ってしまったとしても、他の者が気づかなかったのは無理もなかった。
さてT君は次の日曜日の午前一時、すなわち通常は土曜日の深夜と認識されている時間にいつものセミナー室にやってきた。そしていつも座っている一番前の席に陣取って、ずっと皆が集まるのを待っていた。
そのころ、学校荒らしが深夜、頻々と出没していた。数学科の教授の部屋が、何度か荒らされる被害もあった。いちど大学の監視カメラがその学校荒らしの姿をとらえたことがあって、その写真が廊下に張り出されていた。それは頭の禿げ上がった五十代半ばぐらいの痩せた小さな男で、暗い廊下をいかにも不審な目つきで歩いているところが写されていた。
T君が三十分ばかりセミナー室で待っていると、がちゃりと戸が開いた。入ってきたのは件の写真に写っていた学校荒らしだった。
「何の用ですか」T君が尋ねると、
「お前こそ何をしている」という返事。
「セミナーが始まるんです」
「こんな時間にか?」
「あなたは誰ですか。泥棒ですか」とT君。
「俺がか? それは誤解だ。俺はこの大学の数学科の卒業生だ」
学校荒らしと目されてきたこの人物によると、彼は過去に長くこの大学の大学院に在籍したが、指導教授との仲違いから退学し、以来どこの大学にも籍をおかず独自に数学を研究してきたのだという。自分の最近の研究成果をこの大学の教授のもとに送ったが、まったく相手にされないため、最近の研究の動向を知るために深夜大学に忍び込み、教授たちの部屋にある資料を見て回っていたらしい。
その学校荒らしは思いがけずT君という数学科の学生と出くわし、多年の研究成果を聞いてもらおうと思い立ったらしく、黒板を使って彼の理論を説明し始めた。
T君は真面目にその話を聞いていたが、専門外の微分幾何の話題だったため、途中で理解できなくなってしまった。しかし黙ってこの見知らぬ男の話を聞き続けた。
突然「こんな時間に何してる?」と大きな声がして、扉が開いた。K教授だった。教授は忘れ物を取りに大学に来たのだった。そしてセミナー室に自分の教え子と不審な初老の男がいるのを認めたが、黒板にびっしり書かれた数式を見て、すぐにセミナーが行われていると理解した。そして学校荒らしも学生と同等に扱い、「学校は二十四時間営業じゃない。すぐ帰ってください」と促した。しかし学校荒らしは大学の教授が来たのを知り、ここを先途とばかりに自分の発見したことを聞くようK教授に迫った。K教授は黒板中に書かれたテンソル記号やちまちました添え字や微分作用素を見て、
「どうも私の専門じゃないようだが」といいつつも、この不審人物の話に耳を傾け始めた。
K教授ははじめはじっと立って黒板を注視し、また話が難しいところにくると、いつもするようにうつむきながら部屋を行ったり来たりした。
やがて夜が白々と明けてきたころ、教授は初めて口を開き「きみの話には飛躍がある」と言った。K教授は学生に対しては「きみ」、大学に職を得ているものは「先生」と呼び、その言葉を截然と使い分けていた。学校荒らしは学生として扱われたわけだ。
K教授が指摘した「飛躍」は、この学校荒らしによる主定理の証明の、いわば根幹に関わっていた。その「飛躍」によって、彼の研究成果は台無しになってしまうのである。教授の指摘によって、自分の多年の努力がどうやら水の泡になってしまったのを理解すると、学校荒らしはがっくりとうなだれた。
朝になって警備員が出勤してくると、セミナー室に座って呆然としている学校荒らしを見咎め、彼はお縄になった。あとで聞くと、その男は強盗殺人の罪で全国に指名手配中の人物だったそうだ。
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目次
上段の『☆ 索引』、及び、下段の『☯ 作家別索引』からどうぞ。本や雑誌をパラパラめくる感覚で、読みたい記事へと素早くアクセスする事が出来ます。
執筆陣
HN:
快文書作成ユニット(仮)
自己紹介:
各々が皆、此の侭座して野に埋もるるには余りに口惜しい、正に不世出の文芸家を自称しております次第。以下、【快文書館】(仮)が誇る精鋭を御紹介します。
❁ ntr 〜 またの名を中村震。小説、エッセイ、漢詩などを書きます。mixiでも活動。ふだん高校で数学を教えているため、数学や科学について書くこともあります。試験的にハヤカワ・ポケット・ブックSFのレビューを始めてみました。
❖ 呂仁為 Ⅱ 〜 昭和の想い出話や親しみやすい時代物、歴史小説などについて書きます。
✿ 流火-rjuka- ~ 主に漢詩の創作、訳詩などを行っています。架空言語による詩も今後作りたいと思っています。
☃ ちゅうごくさるなし
主に小説を書きます。気が向けば弟のカヲスな物語や、独り言呟きなことを書くかもしれません。
♘ ED-209 〜 ブログ引っ越しました。
☠ 杏仁ブルマ
セカイノハテから覗くモノ
我ら一同、只管に【快文書】を綴るのみ。お気に入りの本の頁をめくる感覚で、ゆるりとお楽しみ頂ければ僥倖に御座居ます。
※ 基本的に当ページはリンクフリーです。然し乍ら見易さ追求の為、相互には承っておりません。悪しからず御了承下さい。※
❁ ntr 〜 またの名を中村震。小説、エッセイ、漢詩などを書きます。mixiでも活動。ふだん高校で数学を教えているため、数学や科学について書くこともあります。試験的にハヤカワ・ポケット・ブックSFのレビューを始めてみました。
❖ 呂仁為 Ⅱ 〜 昭和の想い出話や親しみやすい時代物、歴史小説などについて書きます。
✿ 流火-rjuka- ~ 主に漢詩の創作、訳詩などを行っています。架空言語による詩も今後作りたいと思っています。
☃ ちゅうごくさるなし
主に小説を書きます。気が向けば弟のカヲスな物語や、独り言呟きなことを書くかもしれません。
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我ら一同、只管に【快文書】を綴るのみ。お気に入りの本の頁をめくる感覚で、ゆるりとお楽しみ頂ければ僥倖に御座居ます。
※ 基本的に当ページはリンクフリーです。然し乍ら見易さ追求の為、相互には承っておりません。悪しからず御了承下さい。※
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