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 『読んで面白い』『検索で来てもガッカリさせない』『おまけに見やすい』以上、三カ条を掲げた〜快文書〜創作プロフェッショナル共が、心底読み手を意識した娯楽文芸エンターテイメントを提供。映画評論から小説、漢詩、アートまでなんでもアリ。嘗てのカルチャー雑誌を彷彿とさせるカオスなひと時を、是非、御笑覧下さいませ。
No.
2024/11/24 (Sun) 04:30:49

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No.227
2010/02/10 (Wed) 07:43:35

2006年、モーツァルト生誕250年の年に書いたもの。

前に「モーツァルト・イヤー」として盛り上がりを見せたのは1991年だった(モーツァルトは1791年に死んだから、このときは「没後200年」)。このときは今より盛大にモーツァルト関連のイベントが行われていたような気がする。当時高校生だった僕は、テレビやラジオでしきりに放送されるモーツァルト関連の番組を見聞きし、また小林秀雄の『モオツァルト』を読んでひどく感激し、すぐさまモーツァルトの虜になった。彼が亡くなった12月5日に大々的な追悼イベントが行われたが、そのときまでどの媒体でも、つねに高いテンションでこの作曲家のことを取り上げていたから、活字からも耳からも、一気に大量のモーツァルト情報が流れ込んできた一年だった。クラシック音楽を本格的に聴くのも初めてだったから、毎日が新鮮だった。FMラジオから流れるモーツァルトの音楽を、毎日のようにテープに録音しては繰り返し聴いていた。

すぐに好きになったのは、交響曲第35番K.385「ハフナー」、同第36番K.425「リンツ」、同第41番K.551「ジュピター」、クラリネット協奏曲K.622、フルートとハープのための協奏曲K.299、ピアノ協奏曲の第20番から第27番までの全部、ヴァイオリン協奏曲第5番K.219、ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲K.364、弦楽五重奏曲第3番K.515、同第6番K.614、などなど。

交響曲の第35番から41番までの「後期六大交響曲」は、確かクーベリック指揮バイエルン放送交響楽団で初めて聴いたけれども、どれを聴いても「何と完璧な音楽なのだろう」と驚きの連続だった。ジュピター交響曲第一楽章を初めて聴いたときは「なんとヘンテコな展開をする音楽だろう」と思ったが、ヘンテコなのに音楽としてちゃんと成立しているのがすごい、融通無碍の境地とはこのことだ……と溜息が出た。終楽章の、簡単なメロディが少しずつ形を変えながら大規模になって、果てしもなく繰り返されるフーガにはそれにもまして魅了された(通常よりも「繰り返し」の多い演奏だったような気がする)。
「リンツ」については変な思い出がある。テープで聴いているうちにウトウトしてしまって、半覚醒状態で聴いていると、終楽章にいたってメロディとともに緑や青の美しい立方体だの円錐だのが無数に脳裏に浮かび、音楽に合わせて色や形を変えながら離合集散を繰り返し、最後はパーッと砕けて飛び散った。聴覚と視覚が融合したような感じで、あんまり美しかったから同じような経験を再びしたいと思い、ウトウトしながらの音楽鑑賞をその後もしばしば試みたが、なかなかうまくいかなかった(再びそういう体験をしたのは何年もたってから、ベートーヴェンの第五交響曲をフルトヴェングラー指揮ウィーン・フィルによる演奏のテープを聴いたときだった。ベートーヴェンの「第五」で名盤として有名なのは「フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィル(1947)」のほうだが、そういう経験をしたために、自分の中では「第五」は「フルトヴェングラーとウィーン・フィル」が最高だと思っている)。
「ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲K.364」は、ヴァイオリン(男性)とヴィオラ(女性)によって男女の交歓を表現しているに違いないと思った。つがいの鳥が睦ましげに鳴き交わすように、はずむような言葉を交わし、一緒に悲しんだり、二人で期待に胸を膨らませたり。初めて聴いたのがクレーメルとカシュカシアンという男女の奏者による演奏だったせいか、そういう聴き方しかできなくなってしまった。たまにこの曲をヴァイオリンもヴィオラも男で演奏しているのを目にすると、違和感を覚えてしまう。

モーツァルトについて上記のほか、たくさんの曲を繰り返し聴いてきたが、なかなかその良さがわからないものも多かった。しかし長い年月聴き込んでようやく好きになった曲というのは、逆に飽きのこない味わい深さを感じる。
初めて聴いて以来十年以上たってようやく好きになった曲は、交響曲第39番K.543、クラリネット五重奏曲K.581、弦楽三重奏のためのディヴェルティメントK.563など。ディヴェルティメント第17番K.334、セレナード第10番K.361「グラン・パルティータ」なども良さがわかるのに何年もかかった記憶がある。
「ディヴェルティメント」とか「セレナード」と呼ばれるものは、主に貴族のパーティなどでBGMとして奏されたもので、強烈な個性で聴き手の注意を一気に奪うというよりは、あくまでさりげない典雅さをたたえているものが多い。なんでもない音楽だと思って聴くと本当に退屈に聞こえてしまうが、いったんその虜になるとこの種の曲は「長い」だけにこたえられない贅沢感を味わえる。
「グラン・パルティータ」は、映画「アマデウス」の中ではじめてモーツァルトが登場するシーンで流れていた曲。パーティが開かれている邸宅の控え室みたいなところで、彼が恋人のコンスタンツェとじゃれあっていると、遠くからこの曲で流れてくる。「僕の曲だ。あいつら勝手に演奏を始めやがった」と言ってあわてて駆け出す。様子を見ていた宮廷作曲家のサリエリは、そこではじめてその下品な青年が高名なモーツァルトであることを知る。演奏が終わった後、指揮台にあった「グラン・パルティータ」の第三楽章の譜面を見てサリエリは、そこにまぎれもない天才の業が刻まれているのを目の当たりにしてしばし陶然となる……というのが映画の最初のクライマックスだった。

ともあれこんな風に、聴いてすぐ好きになる曲もあれば、良さがわかるのに何年もかかってしまう曲もあるという奥深さが、自分にとっては長年つきあっても決して飽きのこない、モーツァルトの魅力だろうか。

しかし「クラシック音楽は好きだがモーツァルトの魅力がどうしてもわからない」という人にもときどき出会う。「モーツァルトの作品は大部分が駄作である」「オリジナリティがない」「モーツァルトのような作品ならコンピュータに作曲させることが可能だ」という人もいた。最初はそういう言葉を聞くたびに憤慨していたが、最近は、モーツァルトを良いと思わないのは何も感受性が鈍いとか耳が悪いとかいうことではなく、その人の感性がたまたまモーツァルトとすれ違っているだけだと思うようになった。
僕はクラシック・ファンの中でも、実際にはモーツァルト好きの人は、昔からそれほど多くはいなかったような気がする。いつの時代にも「固定客」は確実にいただろうけれど。それに対してベートーヴェンなどは、ずっと多くのファンを獲得してきたのではないか。

モーツァルトはそもそも「万人に聴かせるため」という動機で作曲することは少なかったと思う。大部分は貴族や富裕な人からの注文で作曲していたわけで、多くの場合念頭にあったのは「依頼者の好み」だったのではないか。彼の場合は「宮廷作曲家」のような安定した地位を求めざるを得なかったし、「貴族文化に合った音楽」という枠組みの中で仕事するのが普通だった。もちろんモーツァルトも、その枠組みをはみだすような深刻な個性の発露が見られる音楽も作っていて、たとえばウィーンでの予約演奏会のために作曲された、ピアノ協奏曲の20番以降などはまさにそうだと思う。しかしそうした深刻な音楽は当時の聴衆にとって耳障りに感じるものだったのか、まもなく演奏会は閑古鳥が鳴くようになった。明るい曲調の中にフッと舞い込んでくる悲しいメロディは、今でこそ「曲に深みを与える」美点と見なされているが、当時の人たちにとっては不安な気持ちにさせられるだけのものだったらしい。客を呼び戻すためか、彼はその「不気味な転調」を全く封印した、ひたすらに明るいピアノ協奏曲第26番K.537「戴冠式」を書いた(この曲は昔はモーツァルトの代表作の一つとされていたが、最近は評判が落ちている。人々は長い間彼の本当の魅力を見抜けなかったのだ)。個性を発露しようにもそれを理解できる客がいなければ、プロの作曲家としては、迎合といわれようと聴衆に好まれる音楽を書かざるを得ない。

ベートーヴェンはというと、貴族文化が衰退しつつある時代になって、貴族など特定の依頼者の好みに迎合しない「万人のための音楽」を目指すことができた。モーツァルトとベートーヴェンの時代の間に起こったフランス革命の余波も受けて、ベートーヴェンのときには「市民」を主役とする新しい時代の雰囲気があった。またモーツァルトの頃には音楽は「社交の道具」であることを要求されがちで、それに相応しい節度を保たねばならなかったが、ベートーヴェンの音楽はそれを聴くためだけに集まった真剣な聴衆を想定した「雄弁なもの」であることが可能だった。

ざっくりと言えば、モーツァルトは「貴族のために」、ベートーヴェンは「万人のために」作曲していたのであって、モーツァルトの音楽がベートーヴェンなどに比べて人々の心に響きにくいのは当然だと思う。しかし、ブラームスだのリヒャルト・シュトラウスだの、わが国では上述の小林秀雄だの、影響力のある人たちがしばしばモーツァルトを賛美してきたせいもあって、「大作曲家」という地位が多くの人に認められるようになったという面もあると思う。モーツァルトの魅力がわからない人は、それが気に食わないのではないか。自分にわからないものだから「大作曲家」という看板を引きずりおろしたくなる。またモーツァルトの音楽はエラクわかりやすそうな簡素さがあるから、ちょっと聴いてつまらないと感じたら「駄作だ」と結論してもよさそうに感じてしまう。しかし僕が感じるのは、聴いていて理解するのに年数もかかって、一番難しいと思うのがモーツァルトなのである。


「ケッヘル番号によるモーツァルトの人生の時代区分(独断)」「名演・名盤」「ウェストミンスターのモーツァルト」など、書きたいことはまだ山ほどあるけれど、あんまり長くなりすぎてもまとまりがなくなるから、この辺にしておきます。


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No.226
2010/02/09 (Tue) 23:24:44

      

科学者で医師である主人公は、飛行機事故の現場から、富豪にして狡猾な実業家ドノヴァンの遺体を引き取り、その脳髄だけを生かす実験を始める。ドノヴァンの脳は主人公にテレパシーを発するようになり、やがて主人公の肉体を自由に操るようになる……

小松左京に「ぬすまれた味」という短編があるけど、アイディアがこれとよく似ていた。元ネタになった作品?

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No.225
2010/02/09 (Tue) 23:21:17

      

未来世界では、裕福な人は半年に一回「霊魂バンク」に行って自分の知識や経験を磁気テープみたいなものに記憶させ、その人の人格「パーソナ」を常に最新の状態で保存させておく。その人が死んだら、その「パーソナ」は別な人間の脳の中に埋め込まれ、別な人間の心の中で生き返ることになる。といっても「パーソナ」が宿主を乗っ取るのではなく、宿主の心の中のもう一つの人格として共存し、互いによき相談相手となったりする。それでこの小説の登場人物たちも「死んでもパーソナとして誰かの心の中で甦ることができる」と思っている。

主人公の若い娘と、その富豪の祖父の強烈な個性も、読者の関心をぐいぐい引っ張っていく。

ただこれは一種の「不老不死」の話だけど、クローン人間と同じで、本当にそれで「生き返った」ことになるのかやや疑問を感じた。

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執筆陣
HN:
快文書作成ユニット(仮)
自己紹介:
 各々が皆、此の侭座して野に埋もるるには余りに口惜しい、正に不世出の文芸家を自称しております次第。以下、【快文書館】(仮)が誇る精鋭を御紹介します。


 ❁ ntr 〜 またの名を中村震。小説、エッセイ、漢詩などを書きます。mixiでも活動。ふだん高校で数学を教えているため、数学や科学について書くこともあります。試験的にハヤカワ・ポケット・ブックSFのレビューを始めてみました。

 ❖ 呂仁為 Ⅱ 〜 昭和の想い出話や親しみやすい時代物、歴史小説などについて書きます。

 ✿ 流火-rjuka- ~ 主に漢詩の創作、訳詩などを行っています。架空言語による詩も今後作りたいと思っています。

 ☃ ちゅうごくさるなし
主に小説を書きます。気が向けば弟のカヲスな物語や、独り言呟きなことを書くかもしれません。

 ♘ ED-209ブログ引っ越しました。

 ☠ 杏仁ブルマ
セカイノハテから覗くモノ 



 我ら一同、只管に【快文書】を綴るのみ。お気に入りの本の頁をめくる感覚で、ゆるりとお楽しみ頂ければ僥倖に御座居ます。









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