『読んで面白い』『検索で来てもガッカリさせない』『おまけに見やすい』以上、三カ条を掲げた〜快文書〜創作プロフェッショナル共が、心底読み手を意識した娯楽文芸エンターテイメントを提供。映画評論から小説、漢詩、アートまでなんでもアリ。嘗てのカルチャー雑誌を彷彿とさせるカオスなひと時を、是非、御笑覧下さいませ。
No.198
2010/01/22 (Fri) 03:50:00
タイトルのとおり馬鹿な話なので、半分冗談だと思って読んでください。
だいぶ前に大学の研究室で、先輩であるDさん、Kさんと無駄話に興じていたときの話。Kさんは六十をこえておられ、某有名テレビ局を定年退職して聴講生として大学に来られていた。Dさんは僕と年齢が近かった。そのとき、なぜテレビで「キチガイ」という言葉を使ってはならないのかという話題になった。
Dさん「そうですよね。テレビでは馬鹿とかアホという言葉は平気で使っているのに、キチガイはなぜ駄目なんでしょう」
Kさん「精神病が治りかけている人がキチガイという言葉を聞くと、治りかけた病がぶりかえしてしまうから駄目なのだと聞きました。事実はどうか知りませんけど、私はそのような説明を受けましたね」
ntr「では、馬鹿が治りかけている人はどうなるんですか」
Kさん「……ウーム」
Dさん「馬鹿は治らない、ということでいいんじゃないですか」
そのときはそれで話が終わったが、おそらく三人とも「自分は馬鹿ではない」と思っていて無邪気にそんなことを言っていたのだろう。でも今は「自分はかなりの馬鹿なのではないか」と時々真剣に悩むので、この「馬鹿は治らない」という言葉は僕の耳には不吉に響く(ここでいう馬鹿とは、数学などの勉強ができないという意味の馬鹿ではなく、日常生活に支障をきたすという意味での馬鹿である)。最近でこそ周りの人も僕のことを「馬鹿だけどそれなりにまともな人」と思ってくれているのか、さほど困ることもなくなってきてはいるが。
自虐的な話をしてもしょうがないから詳しい話は避けるが、「自分は馬鹿という名の病気ではないか」と思い、いろいろ調べてみたが「馬鹿を治します」という医師を見つけることはできなかった。現代医学では馬鹿は病気とは認められていないようだ。
別役実の『当世病気道楽』という本に、馬鹿の問題を詳しく考えている部分がある。この本はいろいろな病気について項目をもうけ、その病気をいかに楽しむかが書かれている。基本的には冗談で、どこまで本当かわからない書き方をしているが、鋭く世相を分析しているように思える箇所も多い。この本の中に「馬鹿」という項目がある。
「もちろん、馬鹿の中には、本来そうであるものと、症状としてそうであるものの二種類がある。そして、本来そうであるものは、言葉通り本来そうであるのだから、これはもうどうしようもない。問題なのは、本来はそうではないにもかかわらず、症状としてそうである馬鹿のことである。」
「人々は本来そうである馬鹿に対してよりも、症状としてそうである馬鹿の方に、つらく当たる。結果としては表に出された『馬鹿さ加減』は同じなのであるから、公平の観点からすればいささか問題はあるにせよ、人情としてはそうせざるを得ないところであろう。」
「ここで言っている馬鹿というのは、知能程度の低い人間のことではない。『本当に馬鹿だね、お前は』と言われる馬鹿のことであり、この『本当に』に、さほど力をこめずに言う場合の馬鹿が本来の馬鹿であり、『本当に』に、あらんかぎりの力をこめて言う場合の馬鹿が、症状としての馬鹿である。つまり、本来の馬鹿に対しては、既にあらためて馬鹿であることを発見したという感動がないのであり、症状としての馬鹿に対しては、何度もそう言ってきたにもかかわらず、やはりあらためて感動せざるを得ないところがあって、『本当に』に新たな思いをこめたくなるのである。」
この本の中では、本来そうである馬鹿と、症状としてそうである馬鹿のなんたるかを、明らかな仕方で記述してはいないが、なんとなくその区別はイメージできるのではなかろうか。僕はこの「症状としての馬鹿」にかなり共感できてしまうのである。ただ救いは、自分が最近なんとなく「本来そうである馬鹿」に推移してきたように感じられることである。
このように自分の馬鹿さ加減について深く考えてきたつもりなので、僕は他人の「馬鹿な行い」をとがめることはあっても、「お前は馬鹿だ」と言って責めることをしない人間になった。ひとの馬鹿さ加減をとやかく言える立場ではないし、他人の「馬鹿な行い」が気になるのであれば、その行いだけに注目して直してもらえば済む話なのだ。
(こういう態度は、人の上に立つ者にとっても大事なんじゃないかな……目下の人間に無際限に罵詈雑言を浴びせてよいと考えている人がいるが、それは僕には不合理な態度に思える。)
ちなみに、僕の心の奥底には「自分はひょっとしたら賢いのではないか」という思いもあるが、そう思うことこそ馬鹿なのかもしれない。人間は複雑だ……。
(c) 2010 ntr ,all rights reserved.
だいぶ前に大学の研究室で、先輩であるDさん、Kさんと無駄話に興じていたときの話。Kさんは六十をこえておられ、某有名テレビ局を定年退職して聴講生として大学に来られていた。Dさんは僕と年齢が近かった。そのとき、なぜテレビで「キチガイ」という言葉を使ってはならないのかという話題になった。
Dさん「そうですよね。テレビでは馬鹿とかアホという言葉は平気で使っているのに、キチガイはなぜ駄目なんでしょう」
Kさん「精神病が治りかけている人がキチガイという言葉を聞くと、治りかけた病がぶりかえしてしまうから駄目なのだと聞きました。事実はどうか知りませんけど、私はそのような説明を受けましたね」
ntr「では、馬鹿が治りかけている人はどうなるんですか」
Kさん「……ウーム」
Dさん「馬鹿は治らない、ということでいいんじゃないですか」
そのときはそれで話が終わったが、おそらく三人とも「自分は馬鹿ではない」と思っていて無邪気にそんなことを言っていたのだろう。でも今は「自分はかなりの馬鹿なのではないか」と時々真剣に悩むので、この「馬鹿は治らない」という言葉は僕の耳には不吉に響く(ここでいう馬鹿とは、数学などの勉強ができないという意味の馬鹿ではなく、日常生活に支障をきたすという意味での馬鹿である)。最近でこそ周りの人も僕のことを「馬鹿だけどそれなりにまともな人」と思ってくれているのか、さほど困ることもなくなってきてはいるが。
自虐的な話をしてもしょうがないから詳しい話は避けるが、「自分は馬鹿という名の病気ではないか」と思い、いろいろ調べてみたが「馬鹿を治します」という医師を見つけることはできなかった。現代医学では馬鹿は病気とは認められていないようだ。
別役実の『当世病気道楽』という本に、馬鹿の問題を詳しく考えている部分がある。この本はいろいろな病気について項目をもうけ、その病気をいかに楽しむかが書かれている。基本的には冗談で、どこまで本当かわからない書き方をしているが、鋭く世相を分析しているように思える箇所も多い。この本の中に「馬鹿」という項目がある。
「もちろん、馬鹿の中には、本来そうであるものと、症状としてそうであるものの二種類がある。そして、本来そうであるものは、言葉通り本来そうであるのだから、これはもうどうしようもない。問題なのは、本来はそうではないにもかかわらず、症状としてそうである馬鹿のことである。」
「人々は本来そうである馬鹿に対してよりも、症状としてそうである馬鹿の方に、つらく当たる。結果としては表に出された『馬鹿さ加減』は同じなのであるから、公平の観点からすればいささか問題はあるにせよ、人情としてはそうせざるを得ないところであろう。」
「ここで言っている馬鹿というのは、知能程度の低い人間のことではない。『本当に馬鹿だね、お前は』と言われる馬鹿のことであり、この『本当に』に、さほど力をこめずに言う場合の馬鹿が本来の馬鹿であり、『本当に』に、あらんかぎりの力をこめて言う場合の馬鹿が、症状としての馬鹿である。つまり、本来の馬鹿に対しては、既にあらためて馬鹿であることを発見したという感動がないのであり、症状としての馬鹿に対しては、何度もそう言ってきたにもかかわらず、やはりあらためて感動せざるを得ないところがあって、『本当に』に新たな思いをこめたくなるのである。」
この本の中では、本来そうである馬鹿と、症状としてそうである馬鹿のなんたるかを、明らかな仕方で記述してはいないが、なんとなくその区別はイメージできるのではなかろうか。僕はこの「症状としての馬鹿」にかなり共感できてしまうのである。ただ救いは、自分が最近なんとなく「本来そうである馬鹿」に推移してきたように感じられることである。
このように自分の馬鹿さ加減について深く考えてきたつもりなので、僕は他人の「馬鹿な行い」をとがめることはあっても、「お前は馬鹿だ」と言って責めることをしない人間になった。ひとの馬鹿さ加減をとやかく言える立場ではないし、他人の「馬鹿な行い」が気になるのであれば、その行いだけに注目して直してもらえば済む話なのだ。
(こういう態度は、人の上に立つ者にとっても大事なんじゃないかな……目下の人間に無際限に罵詈雑言を浴びせてよいと考えている人がいるが、それは僕には不合理な態度に思える。)
ちなみに、僕の心の奥底には「自分はひょっとしたら賢いのではないか」という思いもあるが、そう思うことこそ馬鹿なのかもしれない。人間は複雑だ……。
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No.197
2010/01/21 (Thu) 23:19:04
タイムリーな話題でもないが、脳死移植というものについてときどき考える。考えるといってもぼんやり考えているので、その関係の本を読み漁るなどということはしていない。いくつかその関係のHPを見ていると、次のような記述があった。
―*―*―*―*―*―*―*―*―
脳死:全脳機能 (大脳~脳幹) の不可逆的停止状態、全脳死。各臓器への血流が保たれている状態で、臓器移植のドナーとして理想的と考えられている。欧米では脳死を人の死と法律で定義しているが、反対の考えの人もいる。日本では「臓器の移植に関する法律」により、臓器移植が適切に行われる場合に限り心臓死でなく脳死を人の死とする限定脳死説を採用。
植物状態:大脳機能のみの不可逆的停止状態、大脳死。個人 (人格) を精神活動で定義するならば、植物状態になった時点でその人の死とする考え方もある。
―*―*―*―*―*―*―*―*―
つまり欧米では「脳が死んだ」ことをもって「その人が死んだ」とする、という具合に死を定義しているが、日本はそうではない。日本の法律では、人の死は基本的に「三徴候死(心停止・呼吸停止・対光反射の消失)」で定義され、「心臓が止まる」ことが不可欠である。しかし、脳死した人がドナーカードなどで臓器移植に同意しており、家族全員の同意もあり、回復の見込みがないといった条件が重なって、「この人から臓器を取り出しても倫理上問題がなかろう」となった場合には、特別に「脳死=人の死」とみなし、臓器を取り出すのである。これが日本で採用されている「限定脳死説」のようだ。
何年か前、日本で初めて脳死移植が行われた際、その経過がリアルタイムで報道された。何時何分に脳死が確認され、臓器が次々取り出され、肝臓は…県に、腎臓は…県にいま輸送されている、という具合に。脳死した人についてはプライバシーが保護され名前などは公表されていなかったが、何かぞっとさせられるものがあった。脳死したとたんに、その人の体が「道具」として扱われてしまう違和感とでも言うのか……。
しかしこの後「ドナー患者に十分な治療は尽くされただろうか?」という問題点が指摘されたようである。脳死は上述のように、全脳機能の「不可逆的」停止状態でなければならないから、「現在行いうるすべての適切な治療手段をもってしても,回復の可能性が全くないと判断される」状態である必要がある。だからドナー患者に本当に最善の医療が施されたかどうかが常に問題になる。しかし医学という分野もきっと複雑広大で、脳死患者のいる病院に「現在行いうるすべての適切な治療手段」を行いうる医師が必ずいるかというと、何か怪しい気がする。そう考えると「全脳機能 (大脳~脳幹) の不可逆的停止状態」という脳死の定義も、曖昧に思えてくる。
脳死判定というのは、次のように行われるそうである。
―*―*―*―*―*―*―*―*―
脳死判定基準:
(1) 深昏睡、(2) 瞳孔散大・固定、(3) 脳幹反射消失、(4) 平坦脳波、(5) 自発呼吸停止の5項目を6時間おいて2回判定。聴性脳幹誘発反応の実施も推奨。
―*―*―*―*―*―*―*―*―
ところで僕の最大の疑問は、こんな風に「脳が死んだ」と判定された人は、本当に精神活動が行えなくなるのだろうか、ということである。つまり「脳が死んだ人間でも物事が考えられる」という状態は絶対にありえないのだろうか。
「テストによって『脳が生きている』と判定されれば、その人はものを考えることができる」というのは確かめられるかもしれない。脳が生きていれば、四肢や言語を操れる可能性があって、その人との意思疎通もありえるからだ。
しかし逆に「その人がものを考えることができるならば、必ずテストによって『脳が生きている』と判定されるものだ」というのはどうだろう。確認のしようがあるだろうか。上述の(1)~(6)のテストをやって、脳が死んだと判定されているのに、やはりその人がものを考えているという場合、その人の精神活動をとらえることはできないのではないか。その人は手足や口を動かせないから、外界との意思疎通はできない。だから傍目には死んでいるようにしか見えないはずである。
昔、楳図かずおの漫画にあったが、生前心臓移植に同意していた少女が交通事故に遭い、医師によって外見的に死が確認されたため、心臓を取り出されることになった。しかし少女の意識ははっきりしており、ただ手足も口も動かせず、意思をまったく表現できない。「私は生きてるのよ!」という心の叫びが外界に届かず、「この子は死んだね」「じゃあ心臓を取り出そう」という医師たちの会話を耳にし、胸を裂かれ自分の心臓が取り出されるのをただ黙って見ている恐怖。
手塚治虫の「ブラック・ジャック」にも、少し似た話があった。何かの会社の若い社長が、昏睡状態に陥り植物人間に。若社長の周りには、家族や幹部社員が集まり、植物人間であることをいいことに傍らで遺産の分配についてもめ事をしたり、悪口を言ったり。常識的にはものを考えられないはずの植物人間だが、ときどき変わった呼吸音を出すことに傍らの医師が気づいた。その呼吸音は実はモールス信号のようなもので、解読してみると「うるさい奴を部屋から出て行かせてくれ」だった。
「脳が死んだらものが考えられなくなるのか」という疑問は、医学を学べば解消する類のものなのだろうか。この方面に詳しい方、ご教示願えれば幸いです。
今回参考にしたHP
http://www3.kmu.ac.jp/legalmed/ethics/theme3.html
http://www.ceres.dti.ne.jp/~gengen/masui/nousi.html
(c) 2010 ntr ,all rights reserved.
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脳死:全脳機能 (大脳~脳幹) の不可逆的停止状態、全脳死。各臓器への血流が保たれている状態で、臓器移植のドナーとして理想的と考えられている。欧米では脳死を人の死と法律で定義しているが、反対の考えの人もいる。日本では「臓器の移植に関する法律」により、臓器移植が適切に行われる場合に限り心臓死でなく脳死を人の死とする限定脳死説を採用。
植物状態:大脳機能のみの不可逆的停止状態、大脳死。個人 (人格) を精神活動で定義するならば、植物状態になった時点でその人の死とする考え方もある。
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つまり欧米では「脳が死んだ」ことをもって「その人が死んだ」とする、という具合に死を定義しているが、日本はそうではない。日本の法律では、人の死は基本的に「三徴候死(心停止・呼吸停止・対光反射の消失)」で定義され、「心臓が止まる」ことが不可欠である。しかし、脳死した人がドナーカードなどで臓器移植に同意しており、家族全員の同意もあり、回復の見込みがないといった条件が重なって、「この人から臓器を取り出しても倫理上問題がなかろう」となった場合には、特別に「脳死=人の死」とみなし、臓器を取り出すのである。これが日本で採用されている「限定脳死説」のようだ。
何年か前、日本で初めて脳死移植が行われた際、その経過がリアルタイムで報道された。何時何分に脳死が確認され、臓器が次々取り出され、肝臓は…県に、腎臓は…県にいま輸送されている、という具合に。脳死した人についてはプライバシーが保護され名前などは公表されていなかったが、何かぞっとさせられるものがあった。脳死したとたんに、その人の体が「道具」として扱われてしまう違和感とでも言うのか……。
しかしこの後「ドナー患者に十分な治療は尽くされただろうか?」という問題点が指摘されたようである。脳死は上述のように、全脳機能の「不可逆的」停止状態でなければならないから、「現在行いうるすべての適切な治療手段をもってしても,回復の可能性が全くないと判断される」状態である必要がある。だからドナー患者に本当に最善の医療が施されたかどうかが常に問題になる。しかし医学という分野もきっと複雑広大で、脳死患者のいる病院に「現在行いうるすべての適切な治療手段」を行いうる医師が必ずいるかというと、何か怪しい気がする。そう考えると「全脳機能 (大脳~脳幹) の不可逆的停止状態」という脳死の定義も、曖昧に思えてくる。
脳死判定というのは、次のように行われるそうである。
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脳死判定基準:
(1) 深昏睡、(2) 瞳孔散大・固定、(3) 脳幹反射消失、(4) 平坦脳波、(5) 自発呼吸停止の5項目を6時間おいて2回判定。聴性脳幹誘発反応の実施も推奨。
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ところで僕の最大の疑問は、こんな風に「脳が死んだ」と判定された人は、本当に精神活動が行えなくなるのだろうか、ということである。つまり「脳が死んだ人間でも物事が考えられる」という状態は絶対にありえないのだろうか。
「テストによって『脳が生きている』と判定されれば、その人はものを考えることができる」というのは確かめられるかもしれない。脳が生きていれば、四肢や言語を操れる可能性があって、その人との意思疎通もありえるからだ。
しかし逆に「その人がものを考えることができるならば、必ずテストによって『脳が生きている』と判定されるものだ」というのはどうだろう。確認のしようがあるだろうか。上述の(1)~(6)のテストをやって、脳が死んだと判定されているのに、やはりその人がものを考えているという場合、その人の精神活動をとらえることはできないのではないか。その人は手足や口を動かせないから、外界との意思疎通はできない。だから傍目には死んでいるようにしか見えないはずである。
昔、楳図かずおの漫画にあったが、生前心臓移植に同意していた少女が交通事故に遭い、医師によって外見的に死が確認されたため、心臓を取り出されることになった。しかし少女の意識ははっきりしており、ただ手足も口も動かせず、意思をまったく表現できない。「私は生きてるのよ!」という心の叫びが外界に届かず、「この子は死んだね」「じゃあ心臓を取り出そう」という医師たちの会話を耳にし、胸を裂かれ自分の心臓が取り出されるのをただ黙って見ている恐怖。
手塚治虫の「ブラック・ジャック」にも、少し似た話があった。何かの会社の若い社長が、昏睡状態に陥り植物人間に。若社長の周りには、家族や幹部社員が集まり、植物人間であることをいいことに傍らで遺産の分配についてもめ事をしたり、悪口を言ったり。常識的にはものを考えられないはずの植物人間だが、ときどき変わった呼吸音を出すことに傍らの医師が気づいた。その呼吸音は実はモールス信号のようなもので、解読してみると「うるさい奴を部屋から出て行かせてくれ」だった。
「脳が死んだらものが考えられなくなるのか」という疑問は、医学を学べば解消する類のものなのだろうか。この方面に詳しい方、ご教示願えれば幸いです。
今回参考にしたHP
http://www3.kmu.ac.jp/legalmed/ethics/theme3.html
http://www.ceres.dti.ne.jp/~gengen/masui/nousi.html
(c) 2010 ntr ,all rights reserved.
No.196
2010/01/21 (Thu) 23:03:47
子供のころは、計算機を使って他愛もない計算をしてよく楽しんだ。サンタクロースが、クリスマスの晩に世界中の子供たちにプレゼントを渡して回るには、いったいどれぐらいの速度で飛ばなければならないのか? その計算結果は忘れてしまったが、たしか恐るべき高速で、それだけでサンタクロースなどこの世に存在しないことが確認できたような気がした。
俳句というのは、十七字からなるが、果たしてどれだけの俳句がありうるのだろう? ということもよく考えた。あいうえおかきくけこ……と数えて、「うぅ」「てぇ」のような少し不自然な音まで数えると、きっと数え方は一通りではないと思うが、ひとまず日本語の音は全部で150個、と数え上げた。漢字の使い方などは無視して、この150個の音の配列でどれだけの俳句ができるかというと、
150の17乗=9852612533569335937500000000000000000
つまり約「9.85×10の36乗」個できることになる。これはどういう数字かというと、1年を365日として、世界の総人口60億人が、1秒に1つずつ俳句を作り続けるとしたとき、全ての俳句を作り尽くすのに「約5207京年」かかる計算になる。「1京」は1兆の1万倍である。5207京年がどういう年数かというと、地球の年齢が約45億年といわれているが、その100億倍以上である。つまり、俳句の総数というのは、60億人がそれぞれ1秒に1つずつ俳句を作り続けるとしても、全てを作り尽くすには、地球のこれまでの歴史の100億倍以上の年数かかってしまう、それほどの数である。だから、俳句はわれわれの感覚からすれば、無数にあるといってよい。だから俳人たちも安心して俳句を作り続けていられるのだろう……。
昔、何とかいうドイツ人が書いた古いSF小説で「万能図書館」というのを読んだ。登場人物が架空の「万能図書館」について語り合うのだが、どんな図書館かというと、そこにはありとあらゆる本がある。「ありとあらゆる本」というのはこれまで出版された全ての本というのではなくて、「過去現在未来において書かれうる全ての書物」という意味である。どうしてそんな図書館が可能かというと、まずその図書館に収められる本は、「1冊500ページで、1ページには何文字」というように規格が統一されている。さて、文字は有限個である。これはドイツの話だからまず大文字小文字のアルファベットがあって、他にもピリオド、コンマ、コロン、セミコロン、ダッシュ、空白などがある。先ほどの俳句と同じように、その有限個の文字の全ての組み合わせを数え上げると、この図書館で定められた規格での書物が幾種類ありうるかが計算できる。きっとそれは莫大な数字になるだろうが、とにかく有限個であることは間違いない。そして、その「考えられる全ての本」を収蔵しているのが「万能図書館」である。
そこには、最初から最後まで「AAAA....」とAだけが並んだような無意味な本もあるが、古今の名著もすべて収められていることになる。『カンタベリイ物語』、シェイクスピアの『ハムレット』、カントの『純粋理性批判』……と、何でもあるはずである(この図書館の規格の本に収まりきらない長さの内容なら、上下に分冊などすればよい)。そればかりか、ここには未来に書かれるであろう名著もすべて揃っているはずだ。なんと素晴らしい図書館ではないか……というところで登場人物の一人が気づくのだが、ではその図書館で「名著」を見つけ出すにはどうすればよいのか。そこにはもちろん『ハムレット』も収められているはずだが、『ハムレット』の1つの文章だけ違っていたり、1つのピリオドがコンマに変わっているだけというような本も収められているはずではないか。だから万能図書館で『ハムレット』を見つけ出せるのは、その全てを暗記している者に限られる。それに未来に書かれるであろう名著も収められているというが、ハムレットのときと同じように、その名著の一部が微妙に違っている書物も膨大にあるはずであり、その名著をそこで探し出せるということは、すなわち自分自身がその名著を書きうるということである。こんな無意味な図書館があろうか……と一人が嘆息するところでこの話は終わっている。
僕はこの話を読んで考えたのだが、立派な書物を書く人というのはもちろん偉い。しかし、埋もれて誰も見向きもしなくなった古い書物や、今は評価を受けていない書き手が書いたものについて、真価を見出す者も同じぐらいに偉いのではないだろうか。世界中には古今の書物があふれかえっており、それはますます増大しつつある。それは、ある意味「万能図書館」に近い。だからこの世界で、良い本を「良い」と気づくことができるというのも、大きな才能と言っていいのではないか。小さいころ小説家にあこがれ、大人になってそれが職業としてはほとんど全く金にならないものだと気づき、意欲がくじけてしまった僕だが、こんなふうに、埋もれた書物の価値に気づいて人に伝えるのも立派な事業である……そう思えば、すこし気も楽になってくるのである。
註
この文章をmixiで発表したとき何名かの方に指摘されたのですが、万能図書館は、実際には「万能」ではありません。
というのも、この図書館での本の規格が「一冊に収められる文字数はn個」となっていたとき、n個を超える文字数の内容の書物は、何巻にか分けて収められます。ところが、文字の種類が全部でm個だったとき、この図書館に収められている本は全部でm^n冊なので、図書館内の本に含まれる文字をすべてあわせると、n×m^n個。だから、n×m^n個を超える文字数の内容の書物の場合「何冊かに分けて収める」としても、この図書館ではどうしてもどれかの本を重複して読まなくてはならない。そしてどの本をどの順序で読めば「その書物」の内容になるのかという情報がなければ、「その書物」がこの図書館に存在するとは言いがたい。しかし「将来に書かれうる本」というと、(そこで使われる文字数に制限がない以上)無限にありえるから、「この図書館のどの本をどの順序で読めばその本の内容になるか」という情報も無限個あって、この無限の情報を図書館に収める術がない。だから「全ての書物を収めるのは不可能」ということになります。
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俳句というのは、十七字からなるが、果たしてどれだけの俳句がありうるのだろう? ということもよく考えた。あいうえおかきくけこ……と数えて、「うぅ」「てぇ」のような少し不自然な音まで数えると、きっと数え方は一通りではないと思うが、ひとまず日本語の音は全部で150個、と数え上げた。漢字の使い方などは無視して、この150個の音の配列でどれだけの俳句ができるかというと、
150の17乗=9852612533569335937500000000000000000
つまり約「9.85×10の36乗」個できることになる。これはどういう数字かというと、1年を365日として、世界の総人口60億人が、1秒に1つずつ俳句を作り続けるとしたとき、全ての俳句を作り尽くすのに「約5207京年」かかる計算になる。「1京」は1兆の1万倍である。5207京年がどういう年数かというと、地球の年齢が約45億年といわれているが、その100億倍以上である。つまり、俳句の総数というのは、60億人がそれぞれ1秒に1つずつ俳句を作り続けるとしても、全てを作り尽くすには、地球のこれまでの歴史の100億倍以上の年数かかってしまう、それほどの数である。だから、俳句はわれわれの感覚からすれば、無数にあるといってよい。だから俳人たちも安心して俳句を作り続けていられるのだろう……。
昔、何とかいうドイツ人が書いた古いSF小説で「万能図書館」というのを読んだ。登場人物が架空の「万能図書館」について語り合うのだが、どんな図書館かというと、そこにはありとあらゆる本がある。「ありとあらゆる本」というのはこれまで出版された全ての本というのではなくて、「過去現在未来において書かれうる全ての書物」という意味である。どうしてそんな図書館が可能かというと、まずその図書館に収められる本は、「1冊500ページで、1ページには何文字」というように規格が統一されている。さて、文字は有限個である。これはドイツの話だからまず大文字小文字のアルファベットがあって、他にもピリオド、コンマ、コロン、セミコロン、ダッシュ、空白などがある。先ほどの俳句と同じように、その有限個の文字の全ての組み合わせを数え上げると、この図書館で定められた規格での書物が幾種類ありうるかが計算できる。きっとそれは莫大な数字になるだろうが、とにかく有限個であることは間違いない。そして、その「考えられる全ての本」を収蔵しているのが「万能図書館」である。
そこには、最初から最後まで「AAAA....」とAだけが並んだような無意味な本もあるが、古今の名著もすべて収められていることになる。『カンタベリイ物語』、シェイクスピアの『ハムレット』、カントの『純粋理性批判』……と、何でもあるはずである(この図書館の規格の本に収まりきらない長さの内容なら、上下に分冊などすればよい)。そればかりか、ここには未来に書かれるであろう名著もすべて揃っているはずだ。なんと素晴らしい図書館ではないか……というところで登場人物の一人が気づくのだが、ではその図書館で「名著」を見つけ出すにはどうすればよいのか。そこにはもちろん『ハムレット』も収められているはずだが、『ハムレット』の1つの文章だけ違っていたり、1つのピリオドがコンマに変わっているだけというような本も収められているはずではないか。だから万能図書館で『ハムレット』を見つけ出せるのは、その全てを暗記している者に限られる。それに未来に書かれるであろう名著も収められているというが、ハムレットのときと同じように、その名著の一部が微妙に違っている書物も膨大にあるはずであり、その名著をそこで探し出せるということは、すなわち自分自身がその名著を書きうるということである。こんな無意味な図書館があろうか……と一人が嘆息するところでこの話は終わっている。
僕はこの話を読んで考えたのだが、立派な書物を書く人というのはもちろん偉い。しかし、埋もれて誰も見向きもしなくなった古い書物や、今は評価を受けていない書き手が書いたものについて、真価を見出す者も同じぐらいに偉いのではないだろうか。世界中には古今の書物があふれかえっており、それはますます増大しつつある。それは、ある意味「万能図書館」に近い。だからこの世界で、良い本を「良い」と気づくことができるというのも、大きな才能と言っていいのではないか。小さいころ小説家にあこがれ、大人になってそれが職業としてはほとんど全く金にならないものだと気づき、意欲がくじけてしまった僕だが、こんなふうに、埋もれた書物の価値に気づいて人に伝えるのも立派な事業である……そう思えば、すこし気も楽になってくるのである。
註
この文章をmixiで発表したとき何名かの方に指摘されたのですが、万能図書館は、実際には「万能」ではありません。
というのも、この図書館での本の規格が「一冊に収められる文字数はn個」となっていたとき、n個を超える文字数の内容の書物は、何巻にか分けて収められます。ところが、文字の種類が全部でm個だったとき、この図書館に収められている本は全部でm^n冊なので、図書館内の本に含まれる文字をすべてあわせると、n×m^n個。だから、n×m^n個を超える文字数の内容の書物の場合「何冊かに分けて収める」としても、この図書館ではどうしてもどれかの本を重複して読まなくてはならない。そしてどの本をどの順序で読めば「その書物」の内容になるのかという情報がなければ、「その書物」がこの図書館に存在するとは言いがたい。しかし「将来に書かれうる本」というと、(そこで使われる文字数に制限がない以上)無限にありえるから、「この図書館のどの本をどの順序で読めばその本の内容になるか」という情報も無限個あって、この無限の情報を図書館に収める術がない。だから「全ての書物を収めるのは不可能」ということになります。
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目次
上段の『☆ 索引』、及び、下段の『☯ 作家別索引』からどうぞ。本や雑誌をパラパラめくる感覚で、読みたい記事へと素早くアクセスする事が出来ます。
執筆陣
HN:
快文書作成ユニット(仮)
自己紹介:
各々が皆、此の侭座して野に埋もるるには余りに口惜しい、正に不世出の文芸家を自称しております次第。以下、【快文書館】(仮)が誇る精鋭を御紹介します。
❁ ntr 〜 またの名を中村震。小説、エッセイ、漢詩などを書きます。mixiでも活動。ふだん高校で数学を教えているため、数学や科学について書くこともあります。試験的にハヤカワ・ポケット・ブックSFのレビューを始めてみました。
❖ 呂仁為 Ⅱ 〜 昭和の想い出話や親しみやすい時代物、歴史小説などについて書きます。
✿ 流火-rjuka- ~ 主に漢詩の創作、訳詩などを行っています。架空言語による詩も今後作りたいと思っています。
☃ ちゅうごくさるなし
主に小説を書きます。気が向けば弟のカヲスな物語や、独り言呟きなことを書くかもしれません。
♘ ED-209 〜 ブログ引っ越しました。
☠ 杏仁ブルマ
セカイノハテから覗くモノ
我ら一同、只管に【快文書】を綴るのみ。お気に入りの本の頁をめくる感覚で、ゆるりとお楽しみ頂ければ僥倖に御座居ます。
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❁ ntr 〜 またの名を中村震。小説、エッセイ、漢詩などを書きます。mixiでも活動。ふだん高校で数学を教えているため、数学や科学について書くこともあります。試験的にハヤカワ・ポケット・ブックSFのレビューを始めてみました。
❖ 呂仁為 Ⅱ 〜 昭和の想い出話や親しみやすい時代物、歴史小説などについて書きます。
✿ 流火-rjuka- ~ 主に漢詩の創作、訳詩などを行っています。架空言語による詩も今後作りたいと思っています。
☃ ちゅうごくさるなし
主に小説を書きます。気が向けば弟のカヲスな物語や、独り言呟きなことを書くかもしれません。
♘ ED-209 〜 ブログ引っ越しました。
☠ 杏仁ブルマ
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