『読んで面白い』『検索で来てもガッカリさせない』『おまけに見やすい』以上、三カ条を掲げた〜快文書〜創作プロフェッショナル共が、心底読み手を意識した娯楽文芸エンターテイメントを提供。映画評論から小説、漢詩、アートまでなんでもアリ。嘗てのカルチャー雑誌を彷彿とさせるカオスなひと時を、是非、御笑覧下さいませ。
No.163
2009/12/13 (Sun) 21:21:38
カニが島を行く
というのはA・ドニエプロフという旧ソ連の作家による短編小説。誰かの書いた小説の筋を紹介して記事を水増しするのは、前回同様で少し気が引けるが、現在絶版になっている本に載っていてちょっと面白味も感じるから書いてみようかと。
「技術官」と「中尉」と呼ばれる二人の男が、軍のためのある実験をしに小さな無人島に派遣される。その実験を思いつき、機材の準備を整えたのはこの技術官で、中尉のほうは何も知らされていなかった。
十個の重い箱が持ち込まれ、一つ目の箱には工具やテントや食料。二号箱から九号箱までを開けてみると、そこには板状や棒状のインゴット(金属の素材)がぎっしり詰まっていた。鉄、銅、亜鉛のインゴットで、技術官の指示のもと、二人はそれらを島の各所に積み上げたり埋めたりした。その後十番目の箱を開けると、カニの形をした金属性のおもちゃのような物が出てきた。三キログラムぐらいの小さな物で、六本の足、五対のハサミ、二対の触手を持ち、前後には眼があって、背中には小さな放物面反射鏡。砂浜に置かれたそれはじっとしていたが、人の影に入るとササと動いて、また日なたで温まっている。ときどき波打ち際に行って水を飲む。陽が傾くとそのカニは太陽光線を求めて西へ西へと移動。着いた場所の近くにはインゴットの山が一つあった。
翌日二人が観に行くと、なんとカニのロボットは二匹に増えていた。二匹はせわしなく動いていて、触手をインゴットの表面に当てると火花が散り、みるみる金属が切断されていき、その破片をせっせと口の中に放り込んでいた。カニの内部からはブンブンという音がしていて、ほどなく口から機械の部品が幾つも吐き出される。部品は口の下からせり出した工作台の上で素早く組み立てられていき、みるみるうちに自分と同じ形の金属製のカニが出来上がっていった。新たに生まれたカニは砂浜に降り立ち、やはり日光を受けてじっとしたり、水を飲みに行ったりした。驚いた中尉から説明を求められ、技術官が説明して言うには、この機械のカニは自分と同じ機械を作り出すことを唯一の使命としており、背中の反射鏡の奥にある太陽電池でエネルギーを集め、水を飲むことで蓄電池を機能させる。これは軍事目的に役に立つ。敵国の領土にこのカニを放せば、兵器をはじめ金属製の物なら何でも食い荒らして自己複製を続け、ついには敵国の金属物資を全て食い尽くすだろう。味方の領土内にカニが入ってきたら信号を送って機能をストップできるようにすればよい……。
金属製のカニは昼も夜も働いて増殖を続け、ついには島の全てのインゴットを食い尽くした。島中にあふれかえったカニは、次には共食いを始めた。観ていると、動きが他よりすばしこく力強いカニもいて、各々に実力差がある。強いカニは仲間を次々に倒しては相手の体を切り刻み、その金属部品を体内に取り込んで、倦むことなく複製のカニを作っていく。彼らが自分と同じ物を作っているにも関わらず個体差が生まれてくるのは、どんなに精密な機器でも完全に同じ二つの部品を作ることは出来ず、必然的に微妙な誤差が生まれてくるということによる。そしてこの生存競争では、たまたま優れた性能を持ったカニが生き残り、子孫を産んでいくはずだ。つまりは人間が図面を見て改良を重ねなくとも、放って置けばより優れた自動機械カニが生まれてくる……そう技術官は予想していた。
ぱちぱちさらさらと音を立てる火花放電で互いの体を切り刻みあう大戦争を繰り返すうち、ずんぐりとした特別に大きなカニがちらほら生まれてきて、他の小さな金属カニを掃討しだした。その大きなカニはさらに巨大なカニを生んでいった。それらは力強いが動きは鈍く、どうも軍事的観点からは役に立ちそうもない。金属のありかを鋭敏に探知できるカニたちは、やがて二人の食料の缶詰をもズタズタにしてしまう。最後は人間より大きな巨大ガニが、銀歯をはめていた技術官を追い回し、頭から食ってしまう。
読んでいて思ったが、原水爆も恐ろしいけれど、仮にこんな金属カニが実際にいたら、グロテスクさの点でもさらに恐ろしい「最終兵器」になるのではないだろうか。
しかし不気味ではあるけれど、この島でのような実験が本当にやれたらある意味面白そうだ。普通の実験では確かめられないダーウィンの進化論をある程度検証できるのかもしれないし、カニたちの共食いを見ていたら「人間はとどのつまり、何のために戦争をするのだろう?」といった考えを深められるのかも知れない。
有向ミクシィ
(以下、毒にも薬にもならぬ長い妄想話。)
上の小説を読んでいてふと思ったことだが、ミクシィに次のようにして競争原理を持ち込んだらどうなるのだろう。
ミクシィでは、AさんとBさんがマイミク同士のとき
Aさん ― Bさん
というように、どちらが優位でもない関係が結ばれている。これを
Aさん → Bさん
のように、Bさんの方が優位に立つようなマイミク関係にする。Bさんを「親マイミク」、Aさんを「子マイミク」と呼ぶことにする。で、次のような規約を設ける。
1.誰でも一人の親マイミクを持たなくてはならない。
2.子マイミクは何人でも持てるが、親マイミクは一人しか持てない。
3.誰かをミクシィに招待した場合、招待したほうが親マイミクになる。
「子 → 親」と向きの付いたマイミク関係だから、仮にこの世界を「有向ミクシィ」と名付けよう。
有向ミクシィでは、マイミク申請もこれまでとは違ったスリリングなものになるだろう。今まではただ「マイミクになりませんか?」というだけで済んでいたのが、子マイミク・親マイミクのどちらになってもらうのか選ばなくてはならない。
「親マイミクになってもらえませんか?」という場合、従来の自分の親マイミクとの縁を切らなくてはならないから、「自分の今までの親よりあなたの方が好きなんです」という切実なメッセージが込められることになる。
「子マイミクになってもらえませんか?」という場合、相手に従来の親マイミクと縁を切ってもらうようお願いするのだから、厚かましい申し出になる。この申請が通れば、今までの相手の親から彼(彼女)を「略奪」する形になる。
親マイミクは一人しか選べないから、子マイミクを増やすべく皆が奮闘することになる。より面白い日記を書いて皆の気を引こうとする者が増えるだろう。目立つための自己アピールが激化し、さまざまな迷惑メッセージが急増するかもしれない。
これまでひっそりと、マイミク少なめで満足していた人も、ある朝ログインしてみたら自分の子マイミクがゴッソリ誰かに引き抜かれているといった事もあり、心中穏やかでなくなるに違いない。
かくして面白い日記を書き、子マイミクへの気遣いも行き届いたマメな人物が、親マイミクとして「子分」を増やしていくことになる。
「親分、うちのページに荒らしが来ました!」と子マイミクから報告を受ければ飛んでいって、「うちの子分に何してくれてる、おう?」と凄むなどして荒らしを追い払う。子マイミクの人生相談にも親身になって乗ってやる。
面倒見が悪いと他の親の所に逃げられるかもしれないからだ。
子マイミクが一万人もいる「大親分」が何人か出現するようになったら、子マイミクの統制の仕方にも個性が現れて面白いかもしれない。
新興宗教の教祖のように独自の教理で子マイミクを洗脳する者、恐怖政治を布く者、セクシー路線で子マイミクを悩殺し続ける者など、色々だろう。
好きな親が既にいるのに、気になる人物から「子マイミクになって欲しい」と申請を受け、懊悩する人々が増える。
「ああ立派な親がいる身でありながら、他の方に心奪われるなんて! こんなとき体が二つあったらどんなにかいいだろう……え、体が二つ? そうだアカウントを二つ持てばいいんだ!」
と、マルチアカウントの者が急増する。それが親マイミクにばれると、
「おのれ浮気をしておったか!」
と折檻されるわけだ。といってもネット上だから、主に「言葉責め」だが。
こんなSNS、流行らないかもしれないな。日頃の煩わしい上下関係や、他人との競争を忘れられるのもミクシィの良いところだろうし。
もし「有向ミクシィ」なんて流行ったら、参加者のハマり方は尋常ではなくなるだろう。面白いけどやっぱり「やりすぎ」かも知れない。
(c) 2009 ntr ,all rights reserved.
というのはA・ドニエプロフという旧ソ連の作家による短編小説。誰かの書いた小説の筋を紹介して記事を水増しするのは、前回同様で少し気が引けるが、現在絶版になっている本に載っていてちょっと面白味も感じるから書いてみようかと。
「技術官」と「中尉」と呼ばれる二人の男が、軍のためのある実験をしに小さな無人島に派遣される。その実験を思いつき、機材の準備を整えたのはこの技術官で、中尉のほうは何も知らされていなかった。
十個の重い箱が持ち込まれ、一つ目の箱には工具やテントや食料。二号箱から九号箱までを開けてみると、そこには板状や棒状のインゴット(金属の素材)がぎっしり詰まっていた。鉄、銅、亜鉛のインゴットで、技術官の指示のもと、二人はそれらを島の各所に積み上げたり埋めたりした。その後十番目の箱を開けると、カニの形をした金属性のおもちゃのような物が出てきた。三キログラムぐらいの小さな物で、六本の足、五対のハサミ、二対の触手を持ち、前後には眼があって、背中には小さな放物面反射鏡。砂浜に置かれたそれはじっとしていたが、人の影に入るとササと動いて、また日なたで温まっている。ときどき波打ち際に行って水を飲む。陽が傾くとそのカニは太陽光線を求めて西へ西へと移動。着いた場所の近くにはインゴットの山が一つあった。
翌日二人が観に行くと、なんとカニのロボットは二匹に増えていた。二匹はせわしなく動いていて、触手をインゴットの表面に当てると火花が散り、みるみる金属が切断されていき、その破片をせっせと口の中に放り込んでいた。カニの内部からはブンブンという音がしていて、ほどなく口から機械の部品が幾つも吐き出される。部品は口の下からせり出した工作台の上で素早く組み立てられていき、みるみるうちに自分と同じ形の金属製のカニが出来上がっていった。新たに生まれたカニは砂浜に降り立ち、やはり日光を受けてじっとしたり、水を飲みに行ったりした。驚いた中尉から説明を求められ、技術官が説明して言うには、この機械のカニは自分と同じ機械を作り出すことを唯一の使命としており、背中の反射鏡の奥にある太陽電池でエネルギーを集め、水を飲むことで蓄電池を機能させる。これは軍事目的に役に立つ。敵国の領土にこのカニを放せば、兵器をはじめ金属製の物なら何でも食い荒らして自己複製を続け、ついには敵国の金属物資を全て食い尽くすだろう。味方の領土内にカニが入ってきたら信号を送って機能をストップできるようにすればよい……。
金属製のカニは昼も夜も働いて増殖を続け、ついには島の全てのインゴットを食い尽くした。島中にあふれかえったカニは、次には共食いを始めた。観ていると、動きが他よりすばしこく力強いカニもいて、各々に実力差がある。強いカニは仲間を次々に倒しては相手の体を切り刻み、その金属部品を体内に取り込んで、倦むことなく複製のカニを作っていく。彼らが自分と同じ物を作っているにも関わらず個体差が生まれてくるのは、どんなに精密な機器でも完全に同じ二つの部品を作ることは出来ず、必然的に微妙な誤差が生まれてくるということによる。そしてこの生存競争では、たまたま優れた性能を持ったカニが生き残り、子孫を産んでいくはずだ。つまりは人間が図面を見て改良を重ねなくとも、放って置けばより優れた自動機械カニが生まれてくる……そう技術官は予想していた。
ぱちぱちさらさらと音を立てる火花放電で互いの体を切り刻みあう大戦争を繰り返すうち、ずんぐりとした特別に大きなカニがちらほら生まれてきて、他の小さな金属カニを掃討しだした。その大きなカニはさらに巨大なカニを生んでいった。それらは力強いが動きは鈍く、どうも軍事的観点からは役に立ちそうもない。金属のありかを鋭敏に探知できるカニたちは、やがて二人の食料の缶詰をもズタズタにしてしまう。最後は人間より大きな巨大ガニが、銀歯をはめていた技術官を追い回し、頭から食ってしまう。
読んでいて思ったが、原水爆も恐ろしいけれど、仮にこんな金属カニが実際にいたら、グロテスクさの点でもさらに恐ろしい「最終兵器」になるのではないだろうか。
しかし不気味ではあるけれど、この島でのような実験が本当にやれたらある意味面白そうだ。普通の実験では確かめられないダーウィンの進化論をある程度検証できるのかもしれないし、カニたちの共食いを見ていたら「人間はとどのつまり、何のために戦争をするのだろう?」といった考えを深められるのかも知れない。
有向ミクシィ
(以下、毒にも薬にもならぬ長い妄想話。)
上の小説を読んでいてふと思ったことだが、ミクシィに次のようにして競争原理を持ち込んだらどうなるのだろう。
ミクシィでは、AさんとBさんがマイミク同士のとき
Aさん ― Bさん
というように、どちらが優位でもない関係が結ばれている。これを
Aさん → Bさん
のように、Bさんの方が優位に立つようなマイミク関係にする。Bさんを「親マイミク」、Aさんを「子マイミク」と呼ぶことにする。で、次のような規約を設ける。
1.誰でも一人の親マイミクを持たなくてはならない。
2.子マイミクは何人でも持てるが、親マイミクは一人しか持てない。
3.誰かをミクシィに招待した場合、招待したほうが親マイミクになる。
「子 → 親」と向きの付いたマイミク関係だから、仮にこの世界を「有向ミクシィ」と名付けよう。
有向ミクシィでは、マイミク申請もこれまでとは違ったスリリングなものになるだろう。今まではただ「マイミクになりませんか?」というだけで済んでいたのが、子マイミク・親マイミクのどちらになってもらうのか選ばなくてはならない。
「親マイミクになってもらえませんか?」という場合、従来の自分の親マイミクとの縁を切らなくてはならないから、「自分の今までの親よりあなたの方が好きなんです」という切実なメッセージが込められることになる。
「子マイミクになってもらえませんか?」という場合、相手に従来の親マイミクと縁を切ってもらうようお願いするのだから、厚かましい申し出になる。この申請が通れば、今までの相手の親から彼(彼女)を「略奪」する形になる。
親マイミクは一人しか選べないから、子マイミクを増やすべく皆が奮闘することになる。より面白い日記を書いて皆の気を引こうとする者が増えるだろう。目立つための自己アピールが激化し、さまざまな迷惑メッセージが急増するかもしれない。
これまでひっそりと、マイミク少なめで満足していた人も、ある朝ログインしてみたら自分の子マイミクがゴッソリ誰かに引き抜かれているといった事もあり、心中穏やかでなくなるに違いない。
かくして面白い日記を書き、子マイミクへの気遣いも行き届いたマメな人物が、親マイミクとして「子分」を増やしていくことになる。
「親分、うちのページに荒らしが来ました!」と子マイミクから報告を受ければ飛んでいって、「うちの子分に何してくれてる、おう?」と凄むなどして荒らしを追い払う。子マイミクの人生相談にも親身になって乗ってやる。
面倒見が悪いと他の親の所に逃げられるかもしれないからだ。
子マイミクが一万人もいる「大親分」が何人か出現するようになったら、子マイミクの統制の仕方にも個性が現れて面白いかもしれない。
新興宗教の教祖のように独自の教理で子マイミクを洗脳する者、恐怖政治を布く者、セクシー路線で子マイミクを悩殺し続ける者など、色々だろう。
好きな親が既にいるのに、気になる人物から「子マイミクになって欲しい」と申請を受け、懊悩する人々が増える。
「ああ立派な親がいる身でありながら、他の方に心奪われるなんて! こんなとき体が二つあったらどんなにかいいだろう……え、体が二つ? そうだアカウントを二つ持てばいいんだ!」
と、マルチアカウントの者が急増する。それが親マイミクにばれると、
「おのれ浮気をしておったか!」
と折檻されるわけだ。といってもネット上だから、主に「言葉責め」だが。
こんなSNS、流行らないかもしれないな。日頃の煩わしい上下関係や、他人との競争を忘れられるのもミクシィの良いところだろうし。
もし「有向ミクシィ」なんて流行ったら、参加者のハマり方は尋常ではなくなるだろう。面白いけどやっぱり「やりすぎ」かも知れない。
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No.162
2009/12/13 (Sun) 21:18:06
自分が教えに行っている個人指導の塾では、ちょっと目を離すとすぐに携帯電話をいじる生徒が結構いる。とくに女子。
自分の授業に緊迫感がないのかな、とも思うが、彼女らは勉強そのものは熱心にやっている。
僕の話を興味深げに聞き、一所懸命に問題を解くのだが、ちょっと疲れたり手持ち無沙汰になるとメールを打ったりして、携帯の小窓に没入するのである。あれは普段から空気を吸うのと同じぐらい、日常に溶け込んだ行為になっているのだと思う。
何事も中毒というのは気持ちのいいものではないな、と思うが、あまり人のことは言えない。自分も自宅にいてちょっとでも暇があれば、mixiにログインして足あとをチェックしたりしているし。
「卵形の水晶球」というH・G・ウェルズの短編がある。
ある古ぼけた骨董屋のかたすみに、その卵形の水晶球は陳列されていた。店を訪れた者がそれを買いたいと言うと、年老いた店主は法外な高値を付けて決して売るまいとする。それでも客がその値で買おうと言うと、店主はなんだかんだ言い訳して追い返してしまう。店主の女房は怒り、なぜ売らないのか、今度あの客が来たら何が何でも買ってもらうと主張したが、どうしても手放したくない店主は、秘かに懇意にしている大学の講師のところに水晶球をあずけることにした。
彼がその水晶球を大切にしていたのは、その球にある角度から光線を当てると、中に不思議なものが見えるからだった。
水晶球の中に見えるのはどうも異国の風景のようで、野原が広がっており鳥のようなものが飛んでいて、建物も見える。大きな運河が見え、その岸には奇妙な苔や樹木が生えている。あまりに不思議な風景が見えるため、それを観察するのに病み付きになった店主は、日常の仕事が手につかなくなり、暇さえあればそれを覗き込んでいたのだった。
水晶球をあずけられた若い大学の講師は大いに興味を持ち、店主とともに球の中の光景をさらに細かく観察し、精密に研究することにした。
まず風景の中でたくさん飛び回っていた鳥のようなものだが、よく観るとどうも天使のような姿の生物らしい。人間のような頭をしていて、羽毛のないつるつるした翼を持ち、口の下から長細い触手のような器官が二つのびている。その世界に並んでいる建物も、どうやらその翼を持った生物が建設したように思われる。その建物は人間の住居とよく似ているが、ただドアが一つもなく、円い天窓が開いているだけだった。翼を持った生物はその天窓から建物に出入りしているのだった。生物はそれ以外にも、巨大な甲虫のようなものやトンボに似たものも多く見られたが、それらは下等動物らしい。
建物の並んでいる手前に段丘があり、その中腹には幾つもの高い柱が並んでいる。はじめはボンヤリしていて見えなかったが、よく観察するとどの柱の頂にも、二人がいま手にしている卵形の水晶球とそっくり同じものが載っているではないか。そして例の有翼人たちは、ときどき柱の頂上のところへ飛んでいき、そこの水晶球を覗き込んでいる。
一度、その有翼人の一人が飛んできて、顔を近づけてまじまじとこちらを覗き込んできたものだから、観察していた二人は大いに驚いた。
そのことから察するに、いま二人が手にしている水晶球は、あのずらりと並んだ柱のうちの一本の上に載っているものなのだろう……そう解釈された。
さらに仔細に水晶球の中の風景、とくに空を観察すると、北斗七星やすばるなど地球から見えるのと全く同じ星が見られた。
そのことから水晶球の世界は太陽系のどこかだと思われ、さらに太陽が小さく見えること、小さな月が二つあることから、そこは火星であろうと推測された。
そして何故かは分からないが、翼を持った火星人たちは各々の柱の上の水晶球を覗き込んで、地球の様子を観察しているらしい……。
どうも奇想天外な話で、骨董屋の店主が心を奪われるのも無理はないような気がする。
僕は携帯電話を夢中になって覗き込んでいる人を見ると、なんとなくこの小説を思い出すのである。
ネットというのも、PCの画面の向こうに広大な未知の世界が広がっているようで、抗しがたい魅力があるのだな。
PCの向こうには、上記の小説のごとく、地球外生命もいるのかもしれない。
宇宙人とは言わないまでも、たとえば「リアルで付き合いのある人以外とは交流しない」というmixi参加者は、顔の見えない相手を非常に得体の知れないものとイメージしているのかもしれない。
僕などは顔を知らない相手ともどんどん絡んでいるから、そういう考えの人の感覚はいまいちよく分からないのだけど。
とはいえ自分も人に信頼してもらおうと結構エネルギーを費やして言葉をつづっているつもりだから、すくなくとも「人間」としては認めてもらいたい、とは思っているのだが。
(c) 2009 ntr ,all rights reserved.
自分の授業に緊迫感がないのかな、とも思うが、彼女らは勉強そのものは熱心にやっている。
僕の話を興味深げに聞き、一所懸命に問題を解くのだが、ちょっと疲れたり手持ち無沙汰になるとメールを打ったりして、携帯の小窓に没入するのである。あれは普段から空気を吸うのと同じぐらい、日常に溶け込んだ行為になっているのだと思う。
何事も中毒というのは気持ちのいいものではないな、と思うが、あまり人のことは言えない。自分も自宅にいてちょっとでも暇があれば、mixiにログインして足あとをチェックしたりしているし。
「卵形の水晶球」というH・G・ウェルズの短編がある。
ある古ぼけた骨董屋のかたすみに、その卵形の水晶球は陳列されていた。店を訪れた者がそれを買いたいと言うと、年老いた店主は法外な高値を付けて決して売るまいとする。それでも客がその値で買おうと言うと、店主はなんだかんだ言い訳して追い返してしまう。店主の女房は怒り、なぜ売らないのか、今度あの客が来たら何が何でも買ってもらうと主張したが、どうしても手放したくない店主は、秘かに懇意にしている大学の講師のところに水晶球をあずけることにした。
彼がその水晶球を大切にしていたのは、その球にある角度から光線を当てると、中に不思議なものが見えるからだった。
水晶球の中に見えるのはどうも異国の風景のようで、野原が広がっており鳥のようなものが飛んでいて、建物も見える。大きな運河が見え、その岸には奇妙な苔や樹木が生えている。あまりに不思議な風景が見えるため、それを観察するのに病み付きになった店主は、日常の仕事が手につかなくなり、暇さえあればそれを覗き込んでいたのだった。
水晶球をあずけられた若い大学の講師は大いに興味を持ち、店主とともに球の中の光景をさらに細かく観察し、精密に研究することにした。
まず風景の中でたくさん飛び回っていた鳥のようなものだが、よく観るとどうも天使のような姿の生物らしい。人間のような頭をしていて、羽毛のないつるつるした翼を持ち、口の下から長細い触手のような器官が二つのびている。その世界に並んでいる建物も、どうやらその翼を持った生物が建設したように思われる。その建物は人間の住居とよく似ているが、ただドアが一つもなく、円い天窓が開いているだけだった。翼を持った生物はその天窓から建物に出入りしているのだった。生物はそれ以外にも、巨大な甲虫のようなものやトンボに似たものも多く見られたが、それらは下等動物らしい。
建物の並んでいる手前に段丘があり、その中腹には幾つもの高い柱が並んでいる。はじめはボンヤリしていて見えなかったが、よく観察するとどの柱の頂にも、二人がいま手にしている卵形の水晶球とそっくり同じものが載っているではないか。そして例の有翼人たちは、ときどき柱の頂上のところへ飛んでいき、そこの水晶球を覗き込んでいる。
一度、その有翼人の一人が飛んできて、顔を近づけてまじまじとこちらを覗き込んできたものだから、観察していた二人は大いに驚いた。
そのことから察するに、いま二人が手にしている水晶球は、あのずらりと並んだ柱のうちの一本の上に載っているものなのだろう……そう解釈された。
さらに仔細に水晶球の中の風景、とくに空を観察すると、北斗七星やすばるなど地球から見えるのと全く同じ星が見られた。
そのことから水晶球の世界は太陽系のどこかだと思われ、さらに太陽が小さく見えること、小さな月が二つあることから、そこは火星であろうと推測された。
そして何故かは分からないが、翼を持った火星人たちは各々の柱の上の水晶球を覗き込んで、地球の様子を観察しているらしい……。
どうも奇想天外な話で、骨董屋の店主が心を奪われるのも無理はないような気がする。
僕は携帯電話を夢中になって覗き込んでいる人を見ると、なんとなくこの小説を思い出すのである。
ネットというのも、PCの画面の向こうに広大な未知の世界が広がっているようで、抗しがたい魅力があるのだな。
PCの向こうには、上記の小説のごとく、地球外生命もいるのかもしれない。
宇宙人とは言わないまでも、たとえば「リアルで付き合いのある人以外とは交流しない」というmixi参加者は、顔の見えない相手を非常に得体の知れないものとイメージしているのかもしれない。
僕などは顔を知らない相手ともどんどん絡んでいるから、そういう考えの人の感覚はいまいちよく分からないのだけど。
とはいえ自分も人に信頼してもらおうと結構エネルギーを費やして言葉をつづっているつもりだから、すくなくとも「人間」としては認めてもらいたい、とは思っているのだが。
(c) 2009 ntr ,all rights reserved.
No.161
2009/12/13 (Sun) 21:07:39
ゴールデンウィーク中に池田晶子の『知ることより考えること』『人間自身 考えることに終わりなく』を読んだ。帯に書かれているように、「哲学エッセイ」とでも呼ぶとぴったりくる本だろうか。いわゆる「哲学書」というのはあまり読んだ事がない自分だけれど、池田さんの本はなんとなく面白く感じ、以前からたまに読んでいた。
『人間自身……』の帯には池田さんが急逝されたと書かれてあって、ちょっと気になった。以前から、生とは何か、死とは何かと徹底して考え抜く文章を書かれていただけに、四十代の若さで亡くなったのは、そういう事を考えすぎたためでは……などと思った。本の著者略歴には、彼女の死因は書かれていなかった。
今回読んだ二冊、強く同意した部分もあれば、納得できない部分もあった。しかし、どこを取っても面白かった。
やはり生死について考えている部分が結構あって、平均寿命の話など、ちょっと「目からうろこ」という感じがした。つまり、今の日本の平均寿命は男女とも八十歳ぐらいになっていて、多くの人は漠然と「自分もそれぐらいまで生きるのだろう」と考えているらしく思える。しかし八十歳というのはあくまで「平均」であって、そこまで生きると保証されている者はどこにもいない。どんなに若い人でも「今日死ぬ」可能性は常にあるのに、無反省に「八十まで生きるはず」と考えてしまいがちである。そういう誤解があるために、若くして死ぬのを理不尽に感じて、「生まれてきた者は必ず死ぬ」という当たり前の事実が受け入れられなくなる……。
池田さんは現代人が「生まれてきた者は必ず死ぬ」という当たり前の事実を忘れて、さまざまな迷妄に陥っていると指摘する。交通事故で若くして死んだり誰かに殺されて死ぬと理不尽だと怒り、身内がガンで死ぬとガンを憎らしく思うが、しかし死に方は何であれ死ぬことは初めから決まっているのだから、実は死因などさして重要なことではないのではないか。人間の死因は「自殺」「他殺」「事故死」「病死」の四つしかなく、すべての人はこのどれかで死ぬのである。当たり前のことである。
「自分が存在することの不思議」も繰り返し語られている。自分はなぜ存在するのか。生物学的には両親の卵子と精子が結合したのが「生まれた原因」だが、そこで生まれた人間が「自分である」ということは何としても説明が付かない。科学は宇宙のあれこれの事象について原因を説明するが、「この自分の存在」の理由を説明してはくれない。いや宇宙というのは、「自分」という観測の起点があってはじめて存在するとしか思えないから、「自分」が存在しなかった頃の宇宙を考え、ビッグバンによって宇宙は生まれたと説明するのは実は「物語」に過ぎないのではないか。
……このようなこと、池田さんの他の本でも読んだ記憶があるし、永井均さんの本でも見たが、「哲学者」と呼ばれる人がしばしば重視する問題なのだろうか。
(僕はこの種の話は、面白くはあるけれど個人的には少し息苦しく感じてしまう。「科学」は確かに「この自分の存在」を説明してはくれないが、それに目をつぶれば非常に豊富な内容を持っているように思えるから、「自分の存在」という答えのなさそうな問題への興味はじきに失せてしまうのを感じる。)
「自分があるから世界がある」ということとともに、「言葉があるから世界が存在する」のようなことも、池田さんの本ではよく語られているような気がする(はっきりそう書いてあるのを見たわけではないから誤読の可能性もあるけれど、自分にはそういうふうに読めた)。「世界とは言葉である」的な言明、哲学者と呼ばれる人たちの言葉の中でよく見かける気がする。って自分はその手の書物をきちんと読んだわけではないのだけど、人間は言葉によってはじめて世界というものを認識しうるのであり、逆に言語化されていないものは我々の世界には存在していないのと同じである、したがって「世界=言葉」であると、そんな話をよく見るような気がする(こういう話に詳しい方、誤解があったら教えてください)。
「言語とは」のようなことが気になりだすと、池田さんの本を読んでいても、そこで語られる言葉そのものの性質も気になりだした。とくに、今回読んだ本の中で自分が納得できなかった部分を読んでいるとき。
二冊のどちらにも、最近のネットやブログでの情報交換、言葉のやり取りは愚劣なものである、といった言葉が何度か出てくる。それなりの説得力は感じたけど、読んでいて「全部が全部そうじゃないだろ」と言いたくなった。著者自身はインターネットは利用しない人だとのことで、またその言葉に接していると「この人はネットについてあまり知らないらしい」と強く感じた。
自分が必ずしも詳しく知っていない事柄についてあれこれと批評を述べると、聞き手は「言葉が正しくない」という不愉快を感じる一方で、話者の「一面的で硬直した言葉」にたじろぐ、そういうこと普段の生活でも多くないか。この本のネットに関する言葉を読んでいてそんなことを思った。
自分は「お説教」というものが嫌いだけど、その嫌な場面ではしばしば、説教する側がされる側の無知をいいことに、自分の経験を基にした「世の中とは」「仕事とは」「人生とは」などの持論を滔滔とまくし立てている。その「……とは」がしばしば大きなテーマで、一人の人間が誤りの無い意見を述べつくすのは難しいように見えるのに、話者は語れば語るほど自分の意見に自信が出てきてますます多く語ろうとする、聞き手のほうはその暴走を止められない無力を感じる。
どんな人間だって、その経験してきた世界は世界全体に比べればごく小さなものに過ぎないのだから、「世の中とは」なんて自信を持って語れる者はいないはずだと思う。しかしいったん説教を始めた人間は、はじめはボンヤリしていて必ずしも自信のなかった自らの「世界観」が、言語化すればするほど正しいものに思えてきて、いつの間にか暴走してくる、そんな場面によく遭遇する。
自分もこの間、就職希望の年下の院生に質問され、「会社とは」と語っているうちについ暴走してしまい、個人的な経験に過ぎなかったことをいつの間にか一般論にすりかえて語ってしまっているのに気付き、自己嫌悪におちいった。
お説教や、多くの「哲学的言明」が、こういう言葉の暴走という危険性を常にはらんでいるのではないか。「正しく言葉を使う」とはどういうことだろう……などといろんな考えが浮かんでは消えていった。
そんなある晩、寝床でウトウトしながら「言葉」についてのある妄想が膨れ上がってきた。夢うつつの中で「量子力学的言語観」という話のタイトルまでついてしまった。以下それをお話しますが、はっきり言って寝言です。
「世界とは言葉である」というのもある面で真実らしく思える言明だけど、世の中のあやふやな事柄を「言葉」にした途端、そこに嘘っぽさが生まれてくることもよくある。「人間の本性は善である」とか「生活の安定は非常に大切である」とか。ボンヤリと正しいと思っていても、はっきり言葉にしてみると「必ずしもそうでないかもしれない」という考えもわいてくる。
僕はむしろ「世界はさまざまな可能な言葉の母体である」ととらえたい。
世界のさまざまな事象を観測したとき、人間の頭にはある言葉が浮かんでくるが、それは唯一の可能性のある言葉ではない。
たとえば「人間とは」という問いを考えたとき、いろんな答えが浮かんでくる可能性がある。その答えを出そうとする人間の心の中には(その人間にとっての「世界」の中には)、「人間とは本性が善であるものである」という答えが25%、「本性が悪であるものである」という答えが20%、「人間とは考えることの出来る動物である」が18%、「道具を使う動物である」が15%、……というように、いろんな答えがある確率をもって、彼の世界の中に同時に存在している。当たり前といえば当たり前の話のようでもある。
「明日の朝、太陽がどうなるか」という問いにはどのような可能性があるか。「東から昇る」が100%の回答だろうか。そうではない。明日の朝までに太陽または地球が爆発する可能性も排除してはならないから、「東から昇る」は非常に高い確率で正しい言葉だが、100%ではない。
「生まれてきた人間は全て死ぬ」はどうだろうか。有史以来、確実な記録によると200歳を越えて生きていた人間はいない。だから「生まれてきた人間は全て死ぬ」は常に正しそうに見えるが、100%ではないはずだ。これまで何百億もの人間が生きて死んでいったろうけれど、だからといってこれからの人間も全て死ぬという理由にはならない。100%に非常に近い確率で死ぬだろうが、しかし100%ではないはずだ。
このように、世界のさまざまの事柄を観測すると、ある「言葉(というか命題)」が出てくるけれど、観測する以前はさまざまな「言葉」がそれぞれある確率での正しさを持ちながら、同時に存在している。観測して「答えを出す」と、その中からどれかの「言葉」が選ばれて表出され、その途端にそれが正しいように見えてしまうが、もともとは「100%正しい言葉」ではなかったのである。
「お説教」は、そもそもある程度の確率でしか正しくない言葉を、次々に選んで過度に表出することで、さも100%正しいかのように話者が誤解してしまうところに不快感の原因があるのではないか。
量子力学で、電子の存在位置は「100%ここにある」ということは言えなくて、この位置にあるのが何%ぐらい、あの位置にあるのが何%ぐらい、のように確率でしか語れないという話があるけれど、この「電子の位置」を「言葉(の正しさ)」で置き換えたような話だから「量子力学的」のようなネーミングにした。
「世界とは言葉である」のような言葉を耳にすると、自分は「言葉というからには数値化できるはずだ」のように思う。それも究極的には0と1だけで世界が表せるはずであると。
だから「太陽と雲が空に浮かんで、緑豊かな木々が風に吹かれて爽やかな音を立てている」のような風景を目の当たりにしていても、それが言葉であるというからには、背後に
011001000110101001010010110010001100010100100111110100010001001010
010101010111110001111110010100001000000100000010010100000111111100
100011001111110011111001011111110000010010100101100010100101010000
1010010010010010……
のような0と1の羅列があって、これがその風景そのものであるといっても差し支えないことになる。映画「マトリックス」みたいで気持ち悪いけど。
0または1の値をとりうる単位はコンピュータの世界では「ビット」と言われるが、しかし僕は「量子力学的言語観」に沿って、世界はこのような「ビット」ではなくて、量子コンピュータで使われるような「量子ビット」から成っていると説明したほうがしっくりくるような気がする。量子ビットというのは、
a<0>+b<1>
という形をしていて、これは「確率aで0が出力され、確率bで1が出力されるもの」という意味である(話を簡単にするため、実際の量子コンピュータで使われるものとは違えている)。だから先ほどの風景も、本来は
(a<0>+b<1>)(c<0>+d<1>)(e<0>+f<1>)(g<0>+h<1>)(i<0>+j<1>)(k<0>+l<1>)
(m<0>+n<1>)(p<0>+q<1>)(r<0>+s<1>)……
のように量子ビットがずらずらと並んだものととらえる。これを観測し言語化すると、例えばはじめの量子ビットから0が選ばれ、次の量子ビットから1が選ばれ……、結局0と1の羅列になる。しかし、言語化する以前はいろんな言葉が導き出される可能性を同時に含んだ「量子ビットの世界」が存在していたととらえるのである。量子ビットの世界を想定すれば、風景を言語化した先ほどの
011001000110101001010010110010001100010100100111110100010001001010
010101010111110001111110010100001000000100000010010100000111111100
100011001111110011111001011111110000010010100101100010100101010000
1010010010010010……
も、実はある確率でそのように観測され言語化されたに過ぎないものだと思える。他の仕方で言語化される可能性もあったのだと常に思うことが出来る。
この話を敷衍すると、頭の硬い人の世界というのは、その世界を構成する量子ビットa<0>+b<1>において、たとえば0が出力される確率が極端に高くなっていて、1もありうるのにそれはほとんど出力されなくなっている、そんな世界のように感じられる。いろんな考えが引き出されうる一つの光景を目にしても、いつもワンパターンにしか言語化できないという、いわば硬直した世界観である。
と、ずるずると長く語ってしまったこの「量子力学的言語観」も、まさにそれ自身によって「ある確率でしか正しいとは言えない考え方」である。いや、そのように考えるという事は、すでに量子力学的言語観を認めているという事か?
と、何の役にも立ちそうにないことを、なかば夢の中で考えていたという、長い長い寝言の記録でした。
(c) 2009 ntr ,all rights reserved.
『人間自身……』の帯には池田さんが急逝されたと書かれてあって、ちょっと気になった。以前から、生とは何か、死とは何かと徹底して考え抜く文章を書かれていただけに、四十代の若さで亡くなったのは、そういう事を考えすぎたためでは……などと思った。本の著者略歴には、彼女の死因は書かれていなかった。
今回読んだ二冊、強く同意した部分もあれば、納得できない部分もあった。しかし、どこを取っても面白かった。
やはり生死について考えている部分が結構あって、平均寿命の話など、ちょっと「目からうろこ」という感じがした。つまり、今の日本の平均寿命は男女とも八十歳ぐらいになっていて、多くの人は漠然と「自分もそれぐらいまで生きるのだろう」と考えているらしく思える。しかし八十歳というのはあくまで「平均」であって、そこまで生きると保証されている者はどこにもいない。どんなに若い人でも「今日死ぬ」可能性は常にあるのに、無反省に「八十まで生きるはず」と考えてしまいがちである。そういう誤解があるために、若くして死ぬのを理不尽に感じて、「生まれてきた者は必ず死ぬ」という当たり前の事実が受け入れられなくなる……。
池田さんは現代人が「生まれてきた者は必ず死ぬ」という当たり前の事実を忘れて、さまざまな迷妄に陥っていると指摘する。交通事故で若くして死んだり誰かに殺されて死ぬと理不尽だと怒り、身内がガンで死ぬとガンを憎らしく思うが、しかし死に方は何であれ死ぬことは初めから決まっているのだから、実は死因などさして重要なことではないのではないか。人間の死因は「自殺」「他殺」「事故死」「病死」の四つしかなく、すべての人はこのどれかで死ぬのである。当たり前のことである。
「自分が存在することの不思議」も繰り返し語られている。自分はなぜ存在するのか。生物学的には両親の卵子と精子が結合したのが「生まれた原因」だが、そこで生まれた人間が「自分である」ということは何としても説明が付かない。科学は宇宙のあれこれの事象について原因を説明するが、「この自分の存在」の理由を説明してはくれない。いや宇宙というのは、「自分」という観測の起点があってはじめて存在するとしか思えないから、「自分」が存在しなかった頃の宇宙を考え、ビッグバンによって宇宙は生まれたと説明するのは実は「物語」に過ぎないのではないか。
……このようなこと、池田さんの他の本でも読んだ記憶があるし、永井均さんの本でも見たが、「哲学者」と呼ばれる人がしばしば重視する問題なのだろうか。
(僕はこの種の話は、面白くはあるけれど個人的には少し息苦しく感じてしまう。「科学」は確かに「この自分の存在」を説明してはくれないが、それに目をつぶれば非常に豊富な内容を持っているように思えるから、「自分の存在」という答えのなさそうな問題への興味はじきに失せてしまうのを感じる。)
「自分があるから世界がある」ということとともに、「言葉があるから世界が存在する」のようなことも、池田さんの本ではよく語られているような気がする(はっきりそう書いてあるのを見たわけではないから誤読の可能性もあるけれど、自分にはそういうふうに読めた)。「世界とは言葉である」的な言明、哲学者と呼ばれる人たちの言葉の中でよく見かける気がする。って自分はその手の書物をきちんと読んだわけではないのだけど、人間は言葉によってはじめて世界というものを認識しうるのであり、逆に言語化されていないものは我々の世界には存在していないのと同じである、したがって「世界=言葉」であると、そんな話をよく見るような気がする(こういう話に詳しい方、誤解があったら教えてください)。
「言語とは」のようなことが気になりだすと、池田さんの本を読んでいても、そこで語られる言葉そのものの性質も気になりだした。とくに、今回読んだ本の中で自分が納得できなかった部分を読んでいるとき。
二冊のどちらにも、最近のネットやブログでの情報交換、言葉のやり取りは愚劣なものである、といった言葉が何度か出てくる。それなりの説得力は感じたけど、読んでいて「全部が全部そうじゃないだろ」と言いたくなった。著者自身はインターネットは利用しない人だとのことで、またその言葉に接していると「この人はネットについてあまり知らないらしい」と強く感じた。
自分が必ずしも詳しく知っていない事柄についてあれこれと批評を述べると、聞き手は「言葉が正しくない」という不愉快を感じる一方で、話者の「一面的で硬直した言葉」にたじろぐ、そういうこと普段の生活でも多くないか。この本のネットに関する言葉を読んでいてそんなことを思った。
自分は「お説教」というものが嫌いだけど、その嫌な場面ではしばしば、説教する側がされる側の無知をいいことに、自分の経験を基にした「世の中とは」「仕事とは」「人生とは」などの持論を滔滔とまくし立てている。その「……とは」がしばしば大きなテーマで、一人の人間が誤りの無い意見を述べつくすのは難しいように見えるのに、話者は語れば語るほど自分の意見に自信が出てきてますます多く語ろうとする、聞き手のほうはその暴走を止められない無力を感じる。
どんな人間だって、その経験してきた世界は世界全体に比べればごく小さなものに過ぎないのだから、「世の中とは」なんて自信を持って語れる者はいないはずだと思う。しかしいったん説教を始めた人間は、はじめはボンヤリしていて必ずしも自信のなかった自らの「世界観」が、言語化すればするほど正しいものに思えてきて、いつの間にか暴走してくる、そんな場面によく遭遇する。
自分もこの間、就職希望の年下の院生に質問され、「会社とは」と語っているうちについ暴走してしまい、個人的な経験に過ぎなかったことをいつの間にか一般論にすりかえて語ってしまっているのに気付き、自己嫌悪におちいった。
お説教や、多くの「哲学的言明」が、こういう言葉の暴走という危険性を常にはらんでいるのではないか。「正しく言葉を使う」とはどういうことだろう……などといろんな考えが浮かんでは消えていった。
そんなある晩、寝床でウトウトしながら「言葉」についてのある妄想が膨れ上がってきた。夢うつつの中で「量子力学的言語観」という話のタイトルまでついてしまった。以下それをお話しますが、はっきり言って寝言です。
「世界とは言葉である」というのもある面で真実らしく思える言明だけど、世の中のあやふやな事柄を「言葉」にした途端、そこに嘘っぽさが生まれてくることもよくある。「人間の本性は善である」とか「生活の安定は非常に大切である」とか。ボンヤリと正しいと思っていても、はっきり言葉にしてみると「必ずしもそうでないかもしれない」という考えもわいてくる。
僕はむしろ「世界はさまざまな可能な言葉の母体である」ととらえたい。
世界のさまざまな事象を観測したとき、人間の頭にはある言葉が浮かんでくるが、それは唯一の可能性のある言葉ではない。
たとえば「人間とは」という問いを考えたとき、いろんな答えが浮かんでくる可能性がある。その答えを出そうとする人間の心の中には(その人間にとっての「世界」の中には)、「人間とは本性が善であるものである」という答えが25%、「本性が悪であるものである」という答えが20%、「人間とは考えることの出来る動物である」が18%、「道具を使う動物である」が15%、……というように、いろんな答えがある確率をもって、彼の世界の中に同時に存在している。当たり前といえば当たり前の話のようでもある。
「明日の朝、太陽がどうなるか」という問いにはどのような可能性があるか。「東から昇る」が100%の回答だろうか。そうではない。明日の朝までに太陽または地球が爆発する可能性も排除してはならないから、「東から昇る」は非常に高い確率で正しい言葉だが、100%ではない。
「生まれてきた人間は全て死ぬ」はどうだろうか。有史以来、確実な記録によると200歳を越えて生きていた人間はいない。だから「生まれてきた人間は全て死ぬ」は常に正しそうに見えるが、100%ではないはずだ。これまで何百億もの人間が生きて死んでいったろうけれど、だからといってこれからの人間も全て死ぬという理由にはならない。100%に非常に近い確率で死ぬだろうが、しかし100%ではないはずだ。
このように、世界のさまざまの事柄を観測すると、ある「言葉(というか命題)」が出てくるけれど、観測する以前はさまざまな「言葉」がそれぞれある確率での正しさを持ちながら、同時に存在している。観測して「答えを出す」と、その中からどれかの「言葉」が選ばれて表出され、その途端にそれが正しいように見えてしまうが、もともとは「100%正しい言葉」ではなかったのである。
「お説教」は、そもそもある程度の確率でしか正しくない言葉を、次々に選んで過度に表出することで、さも100%正しいかのように話者が誤解してしまうところに不快感の原因があるのではないか。
量子力学で、電子の存在位置は「100%ここにある」ということは言えなくて、この位置にあるのが何%ぐらい、あの位置にあるのが何%ぐらい、のように確率でしか語れないという話があるけれど、この「電子の位置」を「言葉(の正しさ)」で置き換えたような話だから「量子力学的」のようなネーミングにした。
「世界とは言葉である」のような言葉を耳にすると、自分は「言葉というからには数値化できるはずだ」のように思う。それも究極的には0と1だけで世界が表せるはずであると。
だから「太陽と雲が空に浮かんで、緑豊かな木々が風に吹かれて爽やかな音を立てている」のような風景を目の当たりにしていても、それが言葉であるというからには、背後に
011001000110101001010010110010001100010100100111110100010001001010
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1010010010010010……
のような0と1の羅列があって、これがその風景そのものであるといっても差し支えないことになる。映画「マトリックス」みたいで気持ち悪いけど。
0または1の値をとりうる単位はコンピュータの世界では「ビット」と言われるが、しかし僕は「量子力学的言語観」に沿って、世界はこのような「ビット」ではなくて、量子コンピュータで使われるような「量子ビット」から成っていると説明したほうがしっくりくるような気がする。量子ビットというのは、
a<0>+b<1>
という形をしていて、これは「確率aで0が出力され、確率bで1が出力されるもの」という意味である(話を簡単にするため、実際の量子コンピュータで使われるものとは違えている)。だから先ほどの風景も、本来は
(a<0>+b<1>)(c<0>+d<1>)(e<0>+f<1>)(g<0>+h<1>)(i<0>+j<1>)(k<0>+l<1>)
(m<0>+n<1>)(p<0>+q<1>)(r<0>+s<1>)……
のように量子ビットがずらずらと並んだものととらえる。これを観測し言語化すると、例えばはじめの量子ビットから0が選ばれ、次の量子ビットから1が選ばれ……、結局0と1の羅列になる。しかし、言語化する以前はいろんな言葉が導き出される可能性を同時に含んだ「量子ビットの世界」が存在していたととらえるのである。量子ビットの世界を想定すれば、風景を言語化した先ほどの
011001000110101001010010110010001100010100100111110100010001001010
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も、実はある確率でそのように観測され言語化されたに過ぎないものだと思える。他の仕方で言語化される可能性もあったのだと常に思うことが出来る。
この話を敷衍すると、頭の硬い人の世界というのは、その世界を構成する量子ビットa<0>+b<1>において、たとえば0が出力される確率が極端に高くなっていて、1もありうるのにそれはほとんど出力されなくなっている、そんな世界のように感じられる。いろんな考えが引き出されうる一つの光景を目にしても、いつもワンパターンにしか言語化できないという、いわば硬直した世界観である。
と、ずるずると長く語ってしまったこの「量子力学的言語観」も、まさにそれ自身によって「ある確率でしか正しいとは言えない考え方」である。いや、そのように考えるという事は、すでに量子力学的言語観を認めているという事か?
と、何の役にも立ちそうにないことを、なかば夢の中で考えていたという、長い長い寝言の記録でした。
(c) 2009 ntr ,all rights reserved.
目次
上段の『☆ 索引』、及び、下段の『☯ 作家別索引』からどうぞ。本や雑誌をパラパラめくる感覚で、読みたい記事へと素早くアクセスする事が出来ます。
執筆陣
HN:
快文書作成ユニット(仮)
自己紹介:
各々が皆、此の侭座して野に埋もるるには余りに口惜しい、正に不世出の文芸家を自称しております次第。以下、【快文書館】(仮)が誇る精鋭を御紹介します。
❁ ntr 〜 またの名を中村震。小説、エッセイ、漢詩などを書きます。mixiでも活動。ふだん高校で数学を教えているため、数学や科学について書くこともあります。試験的にハヤカワ・ポケット・ブックSFのレビューを始めてみました。
❖ 呂仁為 Ⅱ 〜 昭和の想い出話や親しみやすい時代物、歴史小説などについて書きます。
✿ 流火-rjuka- ~ 主に漢詩の創作、訳詩などを行っています。架空言語による詩も今後作りたいと思っています。
☃ ちゅうごくさるなし
主に小説を書きます。気が向けば弟のカヲスな物語や、独り言呟きなことを書くかもしれません。
♘ ED-209 〜 ブログ引っ越しました。
☠ 杏仁ブルマ
セカイノハテから覗くモノ
我ら一同、只管に【快文書】を綴るのみ。お気に入りの本の頁をめくる感覚で、ゆるりとお楽しみ頂ければ僥倖に御座居ます。
※ 基本的に当ページはリンクフリーです。然し乍ら見易さ追求の為、相互には承っておりません。悪しからず御了承下さい。※
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☃ ちゅうごくさるなし
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セカイノハテから覗くモノ
我ら一同、只管に【快文書】を綴るのみ。お気に入りの本の頁をめくる感覚で、ゆるりとお楽しみ頂ければ僥倖に御座居ます。
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