『読んで面白い』『検索で来てもガッカリさせない』『おまけに見やすい』以上、三カ条を掲げた〜快文書〜創作プロフェッショナル共が、心底読み手を意識した娯楽文芸エンターテイメントを提供。映画評論から小説、漢詩、アートまでなんでもアリ。嘗てのカルチャー雑誌を彷彿とさせるカオスなひと時を、是非、御笑覧下さいませ。
No.142
2009/11/26 (Thu) 05:55:25
いつのころからか、キャベツから人間が生れるようになった。遥か以前、人類は男性が労働し女性が子供を産み育てるという役割を分担していたが、そういう性の区別は不合理として疎んじられ、結果極端に少子化し、試行錯誤のうえ出産がキャベツに任せられるようになったのである。
キャベツから生れた人間に父母の概念はなく、子供はすべて家族ではなく政府によって育てられた。だから彼らの呼び名に姓はなく「ラルフ124C41」とか「ハル9100」などという名前になった。いちおうまだ男女の別はあったが、人間の脳天の中心には種が八つないし九つ入っており、死ぬとそれが摘出されキャベツ畑に植えられ、それが新たな生命を生むのである。政府は優生学にもとづいて、すべての人間を職能・専門に分けて交配・誕生させていた。
その日、数学専門家の和明197M83は、次世代コンピュータを見学するため計算機科学中央研究所に向けて車を走らせていた。走りなれた道だったが、工事中の迂回路に入ったとき無個性な白いビル群に目を欺かれ、美術館の駐車場に入ってしまった。
数学専門家はふつう美術館になど足を運ばない。和明も興味はなかったが、魅力的なヒップをした若い女の後ろ姿につい心を奪われ、あとについて館内に入っていった。
その女は栗色の長髪で、和明にはよく分からない抽象的なリトグラフの前に立ち止まり、茶色い瞳を作品に向けていた。
「いい作品だね、シチズン」と、平凡な文句で和明は女に話しかけた。
「どこがどう良いというの、シチズン?」女は冷たい眼を向けて言った。胸には「478A37」というバッジをつけていた。美学科学生だ。
「楕円の中心、つまり重心から極端にずれたところを下から三角形が支えているだろう。この不安定な感じが、目をひきつけて離さないんだ。優生学政策への不安を表してるんじゃないかな」
「何も知らないのね。これ、ストルガトトンディの立体作品『七転八倒』へのオマージュなのよ」
「そう、七転八倒。ぴったりの題だね。七転と八倒が微妙な均衡を保っているよね」
女はくすくすと笑った。「あなた、面白い人ね。数学科学生? 私は美学科ガラス工芸専攻の瑞穂478A37」
「僕は数学科代数幾何専攻の和明197M83。どこかで座って何か飲まない?」
「いいわよ」
瑞穂478A37は発展的な女だった。和明と瑞穂はその夜のうちに肉体関係を結んだ。それはこの時代において重罪とされていた。専門が違うもの同士の場合はなおさらだった。よほど特別な直感が二人を引き付けあったのだろうか。その夜をさかいに、二人の運命は大きく狂っていく。
軍人の銅介816Mi11は、部下に命じて、一週間前に地下で発見されたある巨大カボチャを、極秘裏に引き上げさせているところだった。銅介の額は汗ばんでいた。クレーンで引き上げられていく巨大カボチャの中から、かすかに鼓動の音が聞こえる。これはただのカボチャではない。太古、最終兵器として開発された火を吐く巨大な兵士、すなわち巨人兵の卵だったのである。
ドクドク、ドクドク、ドクドク。
巨人兵の心音を聞きながら、銅介816Mi11は薄気味悪い笑みをもらした。
「うだつのあがらねえ万年少佐に終るか、地球をぶんどって王者になるか。一か八かの大バクチってところだ」
和明197M83と瑞穂478A37がベッドをともにし銅介816Mi11が巨大カボチャを引き上げていたころ、直径約8000kmの巨大隕石が太陽系に向かって急接近してきていた。体積にして地球の約半分。国立天文台の鱈彦774Co92が巨大望遠鏡で最初に発見した。計算によって、このまま行けばあと一年でこの隕石は地球に衝突することがわかった。そうなれば地球はこっぱみじんだ。この隕石は「ゴロス」と名づけられ、ただちに国境を越えた「ゴロス対策委員会」が組織された。
「この委員会の使命は」委員長の五郎230G34が言った。「もちろんゴロスとの衝突を避ける最も有効な方法を見つけ、それを実行することにある。まず、ゴロスを破壊することが現代の地球の科学力で可能かどうか、冷静に見極めなければならない」
ゴロスの化学組成のデータをもとに、ゴロスを破壊するに足る量・威力の核ミサイルが作れるかどうかが検討された。地球の資源、また残された一年という時間を考えると、それは非常に難しいことがわかった。科学者たちは結局ゴロスに対し手も足も出ないというデータを手に委員会に集まるしかなかった。
「われわれが地球を捨てて逃げるしかないという事になるのか」
「それこそ不可能だ。100億の人口をどうやって地球から脱出させるんだ」
キャベツ人間にとっては禁断の受胎をしてしまった瑞穂478A37、いまにも生れようとする巨人兵、そして迫り来る大隕石ゴロス。鬼が出るか蛇が出るか、地球滅亡まであと367日。
(c) 2009 ntr ,all rights reserved.
キャベツから生れた人間に父母の概念はなく、子供はすべて家族ではなく政府によって育てられた。だから彼らの呼び名に姓はなく「ラルフ124C41」とか「ハル9100」などという名前になった。いちおうまだ男女の別はあったが、人間の脳天の中心には種が八つないし九つ入っており、死ぬとそれが摘出されキャベツ畑に植えられ、それが新たな生命を生むのである。政府は優生学にもとづいて、すべての人間を職能・専門に分けて交配・誕生させていた。
その日、数学専門家の和明197M83は、次世代コンピュータを見学するため計算機科学中央研究所に向けて車を走らせていた。走りなれた道だったが、工事中の迂回路に入ったとき無個性な白いビル群に目を欺かれ、美術館の駐車場に入ってしまった。
数学専門家はふつう美術館になど足を運ばない。和明も興味はなかったが、魅力的なヒップをした若い女の後ろ姿につい心を奪われ、あとについて館内に入っていった。
その女は栗色の長髪で、和明にはよく分からない抽象的なリトグラフの前に立ち止まり、茶色い瞳を作品に向けていた。
「いい作品だね、シチズン」と、平凡な文句で和明は女に話しかけた。
「どこがどう良いというの、シチズン?」女は冷たい眼を向けて言った。胸には「478A37」というバッジをつけていた。美学科学生だ。
「楕円の中心、つまり重心から極端にずれたところを下から三角形が支えているだろう。この不安定な感じが、目をひきつけて離さないんだ。優生学政策への不安を表してるんじゃないかな」
「何も知らないのね。これ、ストルガトトンディの立体作品『七転八倒』へのオマージュなのよ」
「そう、七転八倒。ぴったりの題だね。七転と八倒が微妙な均衡を保っているよね」
女はくすくすと笑った。「あなた、面白い人ね。数学科学生? 私は美学科ガラス工芸専攻の瑞穂478A37」
「僕は数学科代数幾何専攻の和明197M83。どこかで座って何か飲まない?」
「いいわよ」
瑞穂478A37は発展的な女だった。和明と瑞穂はその夜のうちに肉体関係を結んだ。それはこの時代において重罪とされていた。専門が違うもの同士の場合はなおさらだった。よほど特別な直感が二人を引き付けあったのだろうか。その夜をさかいに、二人の運命は大きく狂っていく。
軍人の銅介816Mi11は、部下に命じて、一週間前に地下で発見されたある巨大カボチャを、極秘裏に引き上げさせているところだった。銅介の額は汗ばんでいた。クレーンで引き上げられていく巨大カボチャの中から、かすかに鼓動の音が聞こえる。これはただのカボチャではない。太古、最終兵器として開発された火を吐く巨大な兵士、すなわち巨人兵の卵だったのである。
ドクドク、ドクドク、ドクドク。
巨人兵の心音を聞きながら、銅介816Mi11は薄気味悪い笑みをもらした。
「うだつのあがらねえ万年少佐に終るか、地球をぶんどって王者になるか。一か八かの大バクチってところだ」
和明197M83と瑞穂478A37がベッドをともにし銅介816Mi11が巨大カボチャを引き上げていたころ、直径約8000kmの巨大隕石が太陽系に向かって急接近してきていた。体積にして地球の約半分。国立天文台の鱈彦774Co92が巨大望遠鏡で最初に発見した。計算によって、このまま行けばあと一年でこの隕石は地球に衝突することがわかった。そうなれば地球はこっぱみじんだ。この隕石は「ゴロス」と名づけられ、ただちに国境を越えた「ゴロス対策委員会」が組織された。
「この委員会の使命は」委員長の五郎230G34が言った。「もちろんゴロスとの衝突を避ける最も有効な方法を見つけ、それを実行することにある。まず、ゴロスを破壊することが現代の地球の科学力で可能かどうか、冷静に見極めなければならない」
ゴロスの化学組成のデータをもとに、ゴロスを破壊するに足る量・威力の核ミサイルが作れるかどうかが検討された。地球の資源、また残された一年という時間を考えると、それは非常に難しいことがわかった。科学者たちは結局ゴロスに対し手も足も出ないというデータを手に委員会に集まるしかなかった。
「われわれが地球を捨てて逃げるしかないという事になるのか」
「それこそ不可能だ。100億の人口をどうやって地球から脱出させるんだ」
キャベツ人間にとっては禁断の受胎をしてしまった瑞穂478A37、いまにも生れようとする巨人兵、そして迫り来る大隕石ゴロス。鬼が出るか蛇が出るか、地球滅亡まであと367日。
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No.141
2009/11/26 (Thu) 05:48:27
むかし大学で何か心理学関係の本を選んで「発達教育」という視点で書評レポートを書くように言われ、しばらく四苦八苦した。「こういう視点で」と縛られると難しくなるものだ。
書評対象:『コンプレックス』河合隼雄著、岩波新書
この書物ではユングの心理学にそって、コンプレックスの理論がさまざまな実際の症例をまじえて紹介されている。以下その概要を述べる。人間の心は意識と無意識の部分からなり、意識の中心は「自我」と呼ばれ、われわれの意識活動の中心をなしている。ユングによれば、無意識の部分には「コンプレックス」と呼ばれる成分がいくつか存在する。それは「未だ自我によって経験されていない感情」に彩られ、自我とは両立しがたい、葛藤を引き起こす心の成分である(心理学的には「コンプレックス」は必ずしも「劣等感」を意味する語ではない)。
著者の紹介する実例から。料理の得意な女性を見ると「なぜかは分からないが」強い不愉快を感じる女性が、実は少女時代に家庭的な義理の妹に対する憧憬と劣等感を経験しており、それへの反動として男性的に生きようと努めてきたことが見出された。この女性は兄弟に対する愛憎いりまじった「カイン・コンプレックス」ともいうべき無意識内の感情を経験し、このコンプレックスと向き合う必要があった。一般に、自我がコンプレックスの存在を認めて向き合うことから「コンプレックスの解消」が可能になる。コンプレックスが「解消」され、自我を脅かすことがなくなることをまた「コンプレックスが自我に統合された」ともいう。本来自我と両立しがたいコンプレックスを認め、それを自我に統合することは、望ましい心の成長にとって欠くべからざる経験である。
自分にとって近しい数学教育との関連からこのコンプレックスの理論を考えてみたい。といって全面的にこの理論に賛同するわけではない。人間の心を自我とコンプレックスの関係によってとらえる見方は、多くの症例によって支持されるのであろうけれど、著者によると、いわゆる精神病患者の心はこの理論による説明の範囲を超えている場合が多い。しかし「精神異常」と呼ばれるものはきちんと定義するのは困難なものといわれ(なだいなだ著『くるい・きちがい考』ちくま文庫、など)、コンプレックスの理論によって説明できない心の持ち主は精神異常である、と規定するのだとしたらこの理論はいちじるしく価値を減じるものと思われる。
しかし、数学の学習者の心の発達を考えるのにこの理論は便利なところがあるので、これを援用して話を進めたい。ユングによると、人間の無意識はコンプレックスなど個人的な感情によって彩られている部分の底に、「元型」と呼ばれる人類(や民族)に共通の心の傾向が存在する。父親に対する「エディプス・コンプレックス」や、異性についてのイメージ「アニマ、アニムス」などがそれである。この書物に記載はないし、ユングの心理学で考えられているものかどうか詳らかにしないが、私には人類は一般に「論理」というものを認める心の傾向を持つように思える。数学の定理に接したとき、その精確な証明を目にして納得しない子供はいないからである。そこで、「論理」は人間の心にとって「元型」に近い性質を持っているものととらえたいのである(無意識は一般に「いまだ言語化されていない」ものとされるから、「元型」に含めてよいのか迷うところはあるが)。
多くの大人が、学校時代に数学が苦手であったことをコンプレックスとして心に抱えているのは、よく見受けられることである(大人になってからは、このコンプレックスと正面から向き合う機会は少ないかと思いきや、企業の重役格の人が「仕事においても数学的・論理的思考は必須」と痛感する場合も多いという)。いま数学を習っている学校の生徒にしても、苦手意識をすでにコンプレックスとして抱えている場合も多い。
「論理」というものが元型に近いぐらいに人間の心の奥深くに存在し、自らの行動・思考を論理的に方向付けようと欲するコンプレックスが、多くの人の心に存在するのが認められる。その「論理」と端的なかかわりを示す数学という教科に親しむことによって、そうしたコンプレックスの解消の一助とすべきだというのが私の考えである。
何もテストで高い点数をとるということにこだわらなくても、その生徒の理解力に応じて「自分はここまで到達できた」(「楽しかった」というのでもよい)という思い、実感を持たせてやるのが数学の教授するものの役割だと思われる。もちろん、どのような教科であっても論理的思考は要求されるから、他の教科を教授するものにも課せられるはずの役割であるかも知れない。
(書評レポートここまで)
(本当は数学がイヤなら無理して勉強しなくてもいいじゃない、という考えが自分にはあって、「数学が生きる上で大切」などとはほとんど思っていないのだが、話の流れでつい上のような書き方になってしまった。)
以下ポアンカレの出した例(の見かけを誰かが少し変えたものかも知れない)。
「二点 A, B が、これ以上接近すると人間の眼には同一の点に見える、ぎりぎりの距離にあるとする。A, B の中間に点 C を描くとすれば、人間の眼には A=C, C=B に見えるはずだが、A≠B と判別することは出来る。しかしA =C, C=B であるのに A≠B であるというのは、人間が生まれ持った理性に照らせば信じがたいことである。そこで人間は A=C, C=B と見えるのは自分の眼の錯覚であって、本当は A≠C または C≠B なのであろうと結論することになる」
自分の眼で見たことよりも理性のほうを信用するという、端的な例であって、これは全ての人類の心の底に「論理」が存在する証左といえるのではないか……しかしこの「論理」は「元型」の一種と見なしてよいのか、あるいは例えば、人間が言語を習得することで初めて芽生えてくるものなのか、その辺が微妙な気もする。もしかしたら誰かがすでに赤ん坊を使って、そんな実験をしているかも知れない。
コンプレックスというのはしばしば「物語性」「人間性」を帯びているがゆえに矛盾を内包している、というのが僕には面白い。「カイン・コンプレックス」は、神がどういうわけか兄カインよりも弟アベルの供え物を喜び、怒ったカインは弟を殺してしまいエデンの東へ追放される……という聖書中の物語から来ているが、こうした物語の登場人物の名をコンプレックスに冠することで、兄弟や神に対する愛憎入り混じった、複雑で矛盾した感情を言いあらわしている。また人間はコンプレックスを物語化・人格化することで、そこに含まれる矛盾を容易に受け入れることができる。
人間の心の奥底にある「論理」は「世界が美しいものであってほしい、美しいものにしたい」という感情に結びつき、コンプレックスがしばしば含み持っている「物語」のほうは、「世界、人間界の醜い現実をも受け入れる」という智慧に結びついているようにも感じられる。
ところで僕は「口の悪い人間を憎む」という性向が少なからずあるが、この『コンプレックス』という本に従えば、自分の中に「誰かを残酷にののしりたい」と欲するコンプレックスが存在する、そういうことになりそうである。当たっているような気もするし、外れているような気もする。
(c) 2009 ntr ,all rights reserved.
書評対象:『コンプレックス』河合隼雄著、岩波新書
この書物ではユングの心理学にそって、コンプレックスの理論がさまざまな実際の症例をまじえて紹介されている。以下その概要を述べる。人間の心は意識と無意識の部分からなり、意識の中心は「自我」と呼ばれ、われわれの意識活動の中心をなしている。ユングによれば、無意識の部分には「コンプレックス」と呼ばれる成分がいくつか存在する。それは「未だ自我によって経験されていない感情」に彩られ、自我とは両立しがたい、葛藤を引き起こす心の成分である(心理学的には「コンプレックス」は必ずしも「劣等感」を意味する語ではない)。
著者の紹介する実例から。料理の得意な女性を見ると「なぜかは分からないが」強い不愉快を感じる女性が、実は少女時代に家庭的な義理の妹に対する憧憬と劣等感を経験しており、それへの反動として男性的に生きようと努めてきたことが見出された。この女性は兄弟に対する愛憎いりまじった「カイン・コンプレックス」ともいうべき無意識内の感情を経験し、このコンプレックスと向き合う必要があった。一般に、自我がコンプレックスの存在を認めて向き合うことから「コンプレックスの解消」が可能になる。コンプレックスが「解消」され、自我を脅かすことがなくなることをまた「コンプレックスが自我に統合された」ともいう。本来自我と両立しがたいコンプレックスを認め、それを自我に統合することは、望ましい心の成長にとって欠くべからざる経験である。
自分にとって近しい数学教育との関連からこのコンプレックスの理論を考えてみたい。といって全面的にこの理論に賛同するわけではない。人間の心を自我とコンプレックスの関係によってとらえる見方は、多くの症例によって支持されるのであろうけれど、著者によると、いわゆる精神病患者の心はこの理論による説明の範囲を超えている場合が多い。しかし「精神異常」と呼ばれるものはきちんと定義するのは困難なものといわれ(なだいなだ著『くるい・きちがい考』ちくま文庫、など)、コンプレックスの理論によって説明できない心の持ち主は精神異常である、と規定するのだとしたらこの理論はいちじるしく価値を減じるものと思われる。
しかし、数学の学習者の心の発達を考えるのにこの理論は便利なところがあるので、これを援用して話を進めたい。ユングによると、人間の無意識はコンプレックスなど個人的な感情によって彩られている部分の底に、「元型」と呼ばれる人類(や民族)に共通の心の傾向が存在する。父親に対する「エディプス・コンプレックス」や、異性についてのイメージ「アニマ、アニムス」などがそれである。この書物に記載はないし、ユングの心理学で考えられているものかどうか詳らかにしないが、私には人類は一般に「論理」というものを認める心の傾向を持つように思える。数学の定理に接したとき、その精確な証明を目にして納得しない子供はいないからである。そこで、「論理」は人間の心にとって「元型」に近い性質を持っているものととらえたいのである(無意識は一般に「いまだ言語化されていない」ものとされるから、「元型」に含めてよいのか迷うところはあるが)。
多くの大人が、学校時代に数学が苦手であったことをコンプレックスとして心に抱えているのは、よく見受けられることである(大人になってからは、このコンプレックスと正面から向き合う機会は少ないかと思いきや、企業の重役格の人が「仕事においても数学的・論理的思考は必須」と痛感する場合も多いという)。いま数学を習っている学校の生徒にしても、苦手意識をすでにコンプレックスとして抱えている場合も多い。
「論理」というものが元型に近いぐらいに人間の心の奥深くに存在し、自らの行動・思考を論理的に方向付けようと欲するコンプレックスが、多くの人の心に存在するのが認められる。その「論理」と端的なかかわりを示す数学という教科に親しむことによって、そうしたコンプレックスの解消の一助とすべきだというのが私の考えである。
何もテストで高い点数をとるということにこだわらなくても、その生徒の理解力に応じて「自分はここまで到達できた」(「楽しかった」というのでもよい)という思い、実感を持たせてやるのが数学の教授するものの役割だと思われる。もちろん、どのような教科であっても論理的思考は要求されるから、他の教科を教授するものにも課せられるはずの役割であるかも知れない。
(書評レポートここまで)
(本当は数学がイヤなら無理して勉強しなくてもいいじゃない、という考えが自分にはあって、「数学が生きる上で大切」などとはほとんど思っていないのだが、話の流れでつい上のような書き方になってしまった。)
以下ポアンカレの出した例(の見かけを誰かが少し変えたものかも知れない)。
「二点 A, B が、これ以上接近すると人間の眼には同一の点に見える、ぎりぎりの距離にあるとする。A, B の中間に点 C を描くとすれば、人間の眼には A=C, C=B に見えるはずだが、A≠B と判別することは出来る。しかしA =C, C=B であるのに A≠B であるというのは、人間が生まれ持った理性に照らせば信じがたいことである。そこで人間は A=C, C=B と見えるのは自分の眼の錯覚であって、本当は A≠C または C≠B なのであろうと結論することになる」
自分の眼で見たことよりも理性のほうを信用するという、端的な例であって、これは全ての人類の心の底に「論理」が存在する証左といえるのではないか……しかしこの「論理」は「元型」の一種と見なしてよいのか、あるいは例えば、人間が言語を習得することで初めて芽生えてくるものなのか、その辺が微妙な気もする。もしかしたら誰かがすでに赤ん坊を使って、そんな実験をしているかも知れない。
コンプレックスというのはしばしば「物語性」「人間性」を帯びているがゆえに矛盾を内包している、というのが僕には面白い。「カイン・コンプレックス」は、神がどういうわけか兄カインよりも弟アベルの供え物を喜び、怒ったカインは弟を殺してしまいエデンの東へ追放される……という聖書中の物語から来ているが、こうした物語の登場人物の名をコンプレックスに冠することで、兄弟や神に対する愛憎入り混じった、複雑で矛盾した感情を言いあらわしている。また人間はコンプレックスを物語化・人格化することで、そこに含まれる矛盾を容易に受け入れることができる。
人間の心の奥底にある「論理」は「世界が美しいものであってほしい、美しいものにしたい」という感情に結びつき、コンプレックスがしばしば含み持っている「物語」のほうは、「世界、人間界の醜い現実をも受け入れる」という智慧に結びついているようにも感じられる。
ところで僕は「口の悪い人間を憎む」という性向が少なからずあるが、この『コンプレックス』という本に従えば、自分の中に「誰かを残酷にののしりたい」と欲するコンプレックスが存在する、そういうことになりそうである。当たっているような気もするし、外れているような気もする。
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No.140
2009/11/24 (Tue) 22:49:23
・EMIから「リリー・クラウスの芸術」というシリーズが出ていて、その中からモーツァルトの室内楽のアルバムを何点か入手して聴いてみたけれど、なかでも「ピアノと管楽器のための五重奏曲 K.452」が収められているCDが素晴らしかった。クラウスのいわゆる「粒のそろった」ピアノの音ももちろん良いけれど、ピエルロ、ランスロ、オンニュといったフランスの管楽器奏者のかなでる音は、とてもくつろいだ雰囲気があって、本当にこの曲をいつくしむように演奏している。モーツァルトがこの曲を「自分の最高傑作」と言ったのもあながち間違いではないのかも、と思わせる録音だった。
・教え子がシンガポールに修学旅行に行ったらしく、マーライオンをかたどったクッキーをお土産にもらった。自分が高校生のときの修学旅行は国内だったな。いやそれよりシンガポールと言えば、「霊感が強い」とされるある女性から、いたるところに地縛霊が棲んでいる土地柄と聞いたことがある。このことを塾の若い室長に言おうとしたが、なかなか伝わらなかった。
「自爆した人の霊がたくさんいるんですか?」
「いや、その自爆ではなく、地面に縛り付けられた、という意味です」
「地面に縛り付けられて死んだ人の霊ですか」
「いやいや、文字通りとってはいけません。その地方に恨みなどがあって棲みついている、ということで……」
まあそれだけの話だけど。
・なんとなく気分が冴えないから、鋭利な刀についての詩を書き写してみる。
得快刀授男璋 正志齋 會澤 安
開匣秋霜刄上浮
玉鱗搖動走靑虯
韴靈赫赫神威在
須助餘光斬虜酋
箱を開いて鞘をはらへば秋の霜浮く氷の刃、
玉鱗ゆれ動いて靑い虯(みずち)が走るかと疑はれる。
かの韴(ふつ)のみたまの神劍が、神武天皇の創業を御たすけして虜(えびす)討伐に威力を示された事は史上明かなことであるが、
今この利刃をを得た上は、餘光を助けて神州を涴(けが)さんとする虜の頭目を、一刀兩斷して見たいものである。
(土屋竹雨著『日本百人一詩』より、大意は土屋竹雨による)
妖しく光る刀剣には独特の魅力があるのだろう。この詩はとても気に入ったけれど、自分にはえびすのごとく斬って捨てたいと心底思う相手は最近いない。
會澤正志齋(1782~1863)は水戸藩の人。
蕃劍 杜甫
到此自僻遠
又非珠玉装
如何有奇怪
毎夜吐光芒
虎氣必騰上
龍身寧久藏
風塵苦未息
持汝奉明王
これを致すは僻遠よりす
また珠玉の装にあらず
如何ぞ奇怪ありて
毎夜光芒を吐く
虎気必ず騰上せん
竜身なんぞ久しく蔵せんや
風塵未だやまざるに苦しむ
汝を持して明王に奉ぜん
杜甫の有名な詩。書き写してみて思ったけど、難しい字はほとんど使っていないのだな。しかしさすがに迫力がある。
刀の美しさに引き込まれる気持ちが、義憤と結びついたときに詩が生まれるのだな。
単に刀の美しさ、切れ味に酔いしれると、その人は時に乱心し、夜な夜な町に出かけ「試し斬り」をするなどという話が時代劇によく出てくる。落語のマクラだったか、人間相手の試し斬りに病み付きになったお殿様が、河原でむしろをかぶって寝ている男を見つけ、格好の標的とばかりに思い切り斬り付ける。「痛え! てめえだな、毎晩ひっぱたいていくのは!」
(c) 2009 ntr ,all rights reserved.
・教え子がシンガポールに修学旅行に行ったらしく、マーライオンをかたどったクッキーをお土産にもらった。自分が高校生のときの修学旅行は国内だったな。いやそれよりシンガポールと言えば、「霊感が強い」とされるある女性から、いたるところに地縛霊が棲んでいる土地柄と聞いたことがある。このことを塾の若い室長に言おうとしたが、なかなか伝わらなかった。
「自爆した人の霊がたくさんいるんですか?」
「いや、その自爆ではなく、地面に縛り付けられた、という意味です」
「地面に縛り付けられて死んだ人の霊ですか」
「いやいや、文字通りとってはいけません。その地方に恨みなどがあって棲みついている、ということで……」
まあそれだけの話だけど。
・なんとなく気分が冴えないから、鋭利な刀についての詩を書き写してみる。
得快刀授男璋 正志齋 會澤 安
開匣秋霜刄上浮
玉鱗搖動走靑虯
韴靈赫赫神威在
須助餘光斬虜酋
箱を開いて鞘をはらへば秋の霜浮く氷の刃、
玉鱗ゆれ動いて靑い虯(みずち)が走るかと疑はれる。
かの韴(ふつ)のみたまの神劍が、神武天皇の創業を御たすけして虜(えびす)討伐に威力を示された事は史上明かなことであるが、
今この利刃をを得た上は、餘光を助けて神州を涴(けが)さんとする虜の頭目を、一刀兩斷して見たいものである。
(土屋竹雨著『日本百人一詩』より、大意は土屋竹雨による)
妖しく光る刀剣には独特の魅力があるのだろう。この詩はとても気に入ったけれど、自分にはえびすのごとく斬って捨てたいと心底思う相手は最近いない。
會澤正志齋(1782~1863)は水戸藩の人。
蕃劍 杜甫
到此自僻遠
又非珠玉装
如何有奇怪
毎夜吐光芒
虎氣必騰上
龍身寧久藏
風塵苦未息
持汝奉明王
これを致すは僻遠よりす
また珠玉の装にあらず
如何ぞ奇怪ありて
毎夜光芒を吐く
虎気必ず騰上せん
竜身なんぞ久しく蔵せんや
風塵未だやまざるに苦しむ
汝を持して明王に奉ぜん
杜甫の有名な詩。書き写してみて思ったけど、難しい字はほとんど使っていないのだな。しかしさすがに迫力がある。
刀の美しさに引き込まれる気持ちが、義憤と結びついたときに詩が生まれるのだな。
単に刀の美しさ、切れ味に酔いしれると、その人は時に乱心し、夜な夜な町に出かけ「試し斬り」をするなどという話が時代劇によく出てくる。落語のマクラだったか、人間相手の試し斬りに病み付きになったお殿様が、河原でむしろをかぶって寝ている男を見つけ、格好の標的とばかりに思い切り斬り付ける。「痛え! てめえだな、毎晩ひっぱたいていくのは!」
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目次
上段の『☆ 索引』、及び、下段の『☯ 作家別索引』からどうぞ。本や雑誌をパラパラめくる感覚で、読みたい記事へと素早くアクセスする事が出来ます。
執筆陣
HN:
快文書作成ユニット(仮)
自己紹介:
各々が皆、此の侭座して野に埋もるるには余りに口惜しい、正に不世出の文芸家を自称しております次第。以下、【快文書館】(仮)が誇る精鋭を御紹介します。
❁ ntr 〜 またの名を中村震。小説、エッセイ、漢詩などを書きます。mixiでも活動。ふだん高校で数学を教えているため、数学や科学について書くこともあります。試験的にハヤカワ・ポケット・ブックSFのレビューを始めてみました。
❖ 呂仁為 Ⅱ 〜 昭和の想い出話や親しみやすい時代物、歴史小説などについて書きます。
✿ 流火-rjuka- ~ 主に漢詩の創作、訳詩などを行っています。架空言語による詩も今後作りたいと思っています。
☃ ちゅうごくさるなし
主に小説を書きます。気が向けば弟のカヲスな物語や、独り言呟きなことを書くかもしれません。
♘ ED-209 〜 ブログ引っ越しました。
☠ 杏仁ブルマ
セカイノハテから覗くモノ
我ら一同、只管に【快文書】を綴るのみ。お気に入りの本の頁をめくる感覚で、ゆるりとお楽しみ頂ければ僥倖に御座居ます。
※ 基本的に当ページはリンクフリーです。然し乍ら見易さ追求の為、相互には承っておりません。悪しからず御了承下さい。※
❁ ntr 〜 またの名を中村震。小説、エッセイ、漢詩などを書きます。mixiでも活動。ふだん高校で数学を教えているため、数学や科学について書くこともあります。試験的にハヤカワ・ポケット・ブックSFのレビューを始めてみました。
❖ 呂仁為 Ⅱ 〜 昭和の想い出話や親しみやすい時代物、歴史小説などについて書きます。
✿ 流火-rjuka- ~ 主に漢詩の創作、訳詩などを行っています。架空言語による詩も今後作りたいと思っています。
☃ ちゅうごくさるなし
主に小説を書きます。気が向けば弟のカヲスな物語や、独り言呟きなことを書くかもしれません。
♘ ED-209 〜 ブログ引っ越しました。
☠ 杏仁ブルマ
セカイノハテから覗くモノ
我ら一同、只管に【快文書】を綴るのみ。お気に入りの本の頁をめくる感覚で、ゆるりとお楽しみ頂ければ僥倖に御座居ます。
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