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 『読んで面白い』『検索で来てもガッカリさせない』『おまけに見やすい』以上、三カ条を掲げた〜快文書〜創作プロフェッショナル共が、心底読み手を意識した娯楽文芸エンターテイメントを提供。映画評論から小説、漢詩、アートまでなんでもアリ。嘗てのカルチャー雑誌を彷彿とさせるカオスなひと時を、是非、御笑覧下さいませ。
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No.141
2009/11/26 (Thu) 05:48:27

むかし大学で何か心理学関係の本を選んで「発達教育」という視点で書評レポートを書くように言われ、しばらく四苦八苦した。「こういう視点で」と縛られると難しくなるものだ。


書評対象:『コンプレックス』河合隼雄著、岩波新書

この書物ではユングの心理学にそって、コンプレックスの理論がさまざまな実際の症例をまじえて紹介されている。以下その概要を述べる。人間の心は意識と無意識の部分からなり、意識の中心は「自我」と呼ばれ、われわれの意識活動の中心をなしている。ユングによれば、無意識の部分には「コンプレックス」と呼ばれる成分がいくつか存在する。それは「未だ自我によって経験されていない感情」に彩られ、自我とは両立しがたい、葛藤を引き起こす心の成分である(心理学的には「コンプレックス」は必ずしも「劣等感」を意味する語ではない)。

著者の紹介する実例から。料理の得意な女性を見ると「なぜかは分からないが」強い不愉快を感じる女性が、実は少女時代に家庭的な義理の妹に対する憧憬と劣等感を経験しており、それへの反動として男性的に生きようと努めてきたことが見出された。この女性は兄弟に対する愛憎いりまじった「カイン・コンプレックス」ともいうべき無意識内の感情を経験し、このコンプレックスと向き合う必要があった。一般に、自我がコンプレックスの存在を認めて向き合うことから「コンプレックスの解消」が可能になる。コンプレックスが「解消」され、自我を脅かすことがなくなることをまた「コンプレックスが自我に統合された」ともいう。本来自我と両立しがたいコンプレックスを認め、それを自我に統合することは、望ましい心の成長にとって欠くべからざる経験である。

自分にとって近しい数学教育との関連からこのコンプレックスの理論を考えてみたい。といって全面的にこの理論に賛同するわけではない。人間の心を自我とコンプレックスの関係によってとらえる見方は、多くの症例によって支持されるのであろうけれど、著者によると、いわゆる精神病患者の心はこの理論による説明の範囲を超えている場合が多い。しかし「精神異常」と呼ばれるものはきちんと定義するのは困難なものといわれ(なだいなだ著『くるい・きちがい考』ちくま文庫、など)、コンプレックスの理論によって説明できない心の持ち主は精神異常である、と規定するのだとしたらこの理論はいちじるしく価値を減じるものと思われる。

しかし、数学の学習者の心の発達を考えるのにこの理論は便利なところがあるので、これを援用して話を進めたい。ユングによると、人間の無意識はコンプレックスなど個人的な感情によって彩られている部分の底に、「元型」と呼ばれる人類(や民族)に共通の心の傾向が存在する。父親に対する「エディプス・コンプレックス」や、異性についてのイメージ「アニマ、アニムス」などがそれである。この書物に記載はないし、ユングの心理学で考えられているものかどうか詳らかにしないが、私には人類は一般に「論理」というものを認める心の傾向を持つように思える。数学の定理に接したとき、その精確な証明を目にして納得しない子供はいないからである。そこで、「論理」は人間の心にとって「元型」に近い性質を持っているものととらえたいのである(無意識は一般に「いまだ言語化されていない」ものとされるから、「元型」に含めてよいのか迷うところはあるが)。

多くの大人が、学校時代に数学が苦手であったことをコンプレックスとして心に抱えているのは、よく見受けられることである(大人になってからは、このコンプレックスと正面から向き合う機会は少ないかと思いきや、企業の重役格の人が「仕事においても数学的・論理的思考は必須」と痛感する場合も多いという)。いま数学を習っている学校の生徒にしても、苦手意識をすでにコンプレックスとして抱えている場合も多い。

「論理」というものが元型に近いぐらいに人間の心の奥深くに存在し、自らの行動・思考を論理的に方向付けようと欲するコンプレックスが、多くの人の心に存在するのが認められる。その「論理」と端的なかかわりを示す数学という教科に親しむことによって、そうしたコンプレックスの解消の一助とすべきだというのが私の考えである。
何もテストで高い点数をとるということにこだわらなくても、その生徒の理解力に応じて「自分はここまで到達できた」(「楽しかった」というのでもよい)という思い、実感を持たせてやるのが数学の教授するものの役割だと思われる。もちろん、どのような教科であっても論理的思考は要求されるから、他の教科を教授するものにも課せられるはずの役割であるかも知れない。

(書評レポートここまで)


(本当は数学がイヤなら無理して勉強しなくてもいいじゃない、という考えが自分にはあって、「数学が生きる上で大切」などとはほとんど思っていないのだが、話の流れでつい上のような書き方になってしまった。)


以下ポアンカレの出した例(の見かけを誰かが少し変えたものかも知れない)。

「二点 A, B が、これ以上接近すると人間の眼には同一の点に見える、ぎりぎりの距離にあるとする。A, B の中間に点 C を描くとすれば、人間の眼には A=C, C=B に見えるはずだが、A≠B と判別することは出来る。しかしA =C, C=B であるのに A≠B であるというのは、人間が生まれ持った理性に照らせば信じがたいことである。そこで人間は A=C, C=B と見えるのは自分の眼の錯覚であって、本当は A≠C または C≠B なのであろうと結論することになる」

自分の眼で見たことよりも理性のほうを信用するという、端的な例であって、これは全ての人類の心の底に「論理」が存在する証左といえるのではないか……しかしこの「論理」は「元型」の一種と見なしてよいのか、あるいは例えば、人間が言語を習得することで初めて芽生えてくるものなのか、その辺が微妙な気もする。もしかしたら誰かがすでに赤ん坊を使って、そんな実験をしているかも知れない。

コンプレックスというのはしばしば「物語性」「人間性」を帯びているがゆえに矛盾を内包している、というのが僕には面白い。「カイン・コンプレックス」は、神がどういうわけか兄カインよりも弟アベルの供え物を喜び、怒ったカインは弟を殺してしまいエデンの東へ追放される……という聖書中の物語から来ているが、こうした物語の登場人物の名をコンプレックスに冠することで、兄弟や神に対する愛憎入り混じった、複雑で矛盾した感情を言いあらわしている。また人間はコンプレックスを物語化・人格化することで、そこに含まれる矛盾を容易に受け入れることができる。

人間の心の奥底にある「論理」は「世界が美しいものであってほしい、美しいものにしたい」という感情に結びつき、コンプレックスがしばしば含み持っている「物語」のほうは、「世界、人間界の醜い現実をも受け入れる」という智慧に結びついているようにも感じられる。

ところで僕は「口の悪い人間を憎む」という性向が少なからずあるが、この『コンプレックス』という本に従えば、自分の中に「誰かを残酷にののしりたい」と欲するコンプレックスが存在する、そういうことになりそうである。当たっているような気もするし、外れているような気もする。

(c) 2009 ntr ,all rights reserved.
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 各々が皆、此の侭座して野に埋もるるには余りに口惜しい、正に不世出の文芸家を自称しております次第。以下、【快文書館】(仮)が誇る精鋭を御紹介します。


 ❁ ntr 〜 またの名を中村震。小説、エッセイ、漢詩などを書きます。mixiでも活動。ふだん高校で数学を教えているため、数学や科学について書くこともあります。試験的にハヤカワ・ポケット・ブックSFのレビューを始めてみました。

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