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 『読んで面白い』『検索で来てもガッカリさせない』『おまけに見やすい』以上、三カ条を掲げた〜快文書〜創作プロフェッショナル共が、心底読み手を意識した娯楽文芸エンターテイメントを提供。映画評論から小説、漢詩、アートまでなんでもアリ。嘗てのカルチャー雑誌を彷彿とさせるカオスなひと時を、是非、御笑覧下さいませ。
No.
2017/09/20 (Wed) 14:32:15

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No.654
2013/08/02 (Fri) 13:23:04

小学生のころ剣道を習いに道場に通っていて、ある年の夏、奈良県の柳生の里に合宿に行った。二泊ぐらいの短い合宿だったが、朝から夕方までは稽古をし、夕食のあとは皆で持ち寄ったお菓子を食べたりして楽しく過ごした。そして夜もとっぷり更けたころに、肝試しが予定されていた。その辺りには土葬の墓があって、そこから人魂がときおり出ると聞かされ、怖いもの見たさで胸が躍った。すると雨がしとしと降ってきた。一般に雨が降ると人魂はより出やすくなるとされる。怖いが強がって「面白くなってきた!」と叫んだりしていたが、雨はどんどん強くなり、結局肝試しは中止になってしまった。だから人魂とは会えずじまいになったが、人魂の正体というのは実際のところよく分かっていないらしい。
 
 昔は人や馬の骨に含まれるリンが雨水と反応して発光したものが人魂であるとされていたが、動物の骨から発するリンは光らないのだという。コケの中には光るものがあるから、人魂というのはそれを身に着けた小動物だろうとか、沼から発生した引火性のガスがその正体だろう、などといろいろな説があるらしい。TVでお馴染みの物理学者・大槻義彦は、空気中に発生したプラズマがその正体であると唱えた。プラズマとは、気体であるけれどもそれを構成する分子が部分的に、あるいは完全に電離したものである。電離しているというのは、分子が電子と陽イオンに分かれた状態にあるということだ。つまり大槻説に従えば、人魂は一種の電気が見えたものということになろうか。決してプラズマテレビから人魂が飛び出てくるわけではない。
 
 江戸時代以前の肝試しは、今日よりずっとスリルに富んだものだったに違いない。重罪人に対して打ち首獄門の刑というのがあったからである。だから夜、一人ずつ獄門台に行って罪人の首から頭の毛を抜いてくるとか、いろいろなルールがあったろう。
 水戸光圀というとお爺さんの姿でしかイメージにない人が多いだろうが、彼は子供のころ勇気ある人間になるよう特に厳しくしつけられたという。ある晩父親が光圀に、その勇気を試すため、これから獄門台に行って罪人の首を持って来るよう命じた。彼が五歳ぐらいのころである。すると光圀はまったく動じることなくその使命を果たしたのだった。もっとも五歳の少年にとっては人間の頭は重いから、ずるずる引きずって帰ってきたそうだが。帰ってきた光圀は、生きている人間のほうが何をしでかすか分からないからよっぽど怖い、と言い放ったという。
 だからあるいは水戸黄門は、好々爺然とした穏やかな老人というよりは、むしろ矍鑠(かくしゃく)とした気の強いお爺さんだったかも知れない。

 そういえばTVの「水戸黄門」で、水戸黄門役が初代の東野英治郎から西村晃に変わったとき、デモンストレーションで西村は黄門様の格好で得意のローラースケートを披露し、元気なおっさんが出てきたなと思わせたが、もちろんドラマではおっとりと黄門様を演じた。
 悪代官の手下たちを助さん格さんが懲らしめ、その戦況を静かに見守る黄門様は、ころあいを見計らって「もういいでしょう」と言い、すると格さんが「この紋所が目に入らぬか」と印籠を見せつけるという、これはお馴染みのパターンである。僕の記憶違いかも知れないが、だいたい八十年代半ばまでそういう戦闘シーンだったのが、西村が黄門役を降板する九十年代はじめに近づくにつれだんだん黄門様がアクティブになり、竹の杖を振り回して戦闘に積極的に参加するようになって、敵が大刀を持っているのをものともせず相手を殴り倒すまでになった。いくらなんでも黄門様にそこまでの体力はないだろうと思うのだが、ちょうどそのころから戦闘に飛猿(とびざる)だの由美かおるのお銀だのという忍者たちが加わるようになり、敵味方が複雑に入り乱れて戦うようになると、画面の端で黄門様が老人にはあり得ない武闘を見せていてもさほど気にならないという現象が起きていたのである。

 ドラマ「水戸黄門」は2011年に最終回を迎えたが、それまではアニメのサザエさんなどと同じく決して終わらないであろうという見方が多かったろう。僕もそう思っていたが、中高生のころよく聴いていた深夜ラジオ番組では、水戸黄門についてある予想がまことしやかに唱えられていた。つまり、うっかり八兵衛役または風車の弥七役の俳優が死ねば、水戸黄門は終わるというのである。水戸黄門も助さんも格さんも、それを演じる俳優にはいくらでも代わりはいる。しかしうっかり八兵衛役の高橋元太郎と、風車の弥七役の中谷一郎にだけは代わりがいない、他の俳優には演じられないというのである。しかしこの予想は見事にはずれた。2004年に中谷一郎が死んだあと、内藤剛志が風車の弥七役を引き継いだのである。まああのスマートな石坂浩二が水戸黄門を演じるほどにこのドラマは変質を遂げていたのだから、弥七のキャラがその程度に変わったからといって大勢に影響はなかったのだろう。

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No.653
2013/08/02 (Fri) 13:20:52

讀史雜感十首 其五  呉偉業

聞築新宮就 君王擁麗華
尚言虚内主 廣欲選良家
使者螭頭舫 才人豹尾車
可憐靑塚月 已照白門花

噂に聞いた、新しい御殿ができ上がった、と。
天子は麗華のような美女を側に侍らせながら。
それでも夫人たちが少いといって。
方方からかたぎの娘たちを選んで、後宮に入れようとする。
使者は螭頭(ちとう)の舟に乗り。
女官は、豹尾の車に載せられる。
ああ、王昭君の墓を照らす月が。
はやくも南京の花―宮女たちに、その光を投げかける、昭君の悲運が、やがて彼女たちを訪れようとするのだ。
(福本雅一訳)

 読史雑感という題だが、実際には作者呉偉業が同時代の明代のことを語っているのである。詩の中で語られているように、色欲にとりつかれた天子は、江南の各地に宦官を派遣し、美しい娘とみれば強制的に拉致して回った。自分がこの天子のように、そんなことが可能な立場に立ったとしたら、いったいどうなってしまうのだろうか。それはどうも想像の及ばない境遇のような気もする。たとえば、NHK朝の連続ドラマ「あまちゃん」を見ていて主演の能年玲奈が気に入ったら、即連れてきて妾にできてしまうのであり、「じぇじぇじぇ」などと言わせながら裸にして押し倒すのも思いのままで、それに飽きたらYoutubeの動画に影響されて、東京メトロを借り切ってその中で宮崎あおいと新垣結衣に浴衣を着せ鬼ごっこし、捕まえたら誰にとがめられることもなくその女体をむさぼることが出来るのである。そこまで自由に色欲を満足させられたら、頭が麻痺してしまって、女以外のことはまるで目に入らなくなってしまうかも知れない。いや、きっとそうに違いない。

 そもそもこの詩で揶揄されている福王という天子は、通常の立場の皇帝ではない。北は清国の外圧に負け、国内は飢饉をきっかけに起こった騒擾が大乱に発展し、内乱軍を指揮した李自成が首都北京を占領して大順皇帝を名乗り、明代最後の正統の皇帝たる荘烈帝はすでに自殺しているのである。そのご李自成は清軍に破れ中国は清の時代になったが、そういうなか明朝皇帝の血筋の者が南京に逃れ、実体のない明の新帝として即位したのが福王なのだ。しかし明代末期の政治の腐敗がそのまま南京に持ち込まれ、いつ清につぶされてもおかしくない外患の中にありながら、官僚たちは党派争いに明け暮れたという。そして新帝福王は、上述のように色欲に狂っているのである。
 
 わが国では江戸時代の将軍徳川家斉が、淫欲にとりつかれ奢侈に溺れたことで知られているが、それでもまだ安泰だった徳川政権の時代のことであり、それを思うと中国の皇帝は道の踏みはずし方もスケールが違う。
 
 欲望が無制限にかなう立場に生まれなかったことは喜ぶべきことということか。しかし中国には色欲とは違うが、おのれの巨大な欲求をとことんまで追求してしかもとがめだてされることもなかった清の乾隆帝のような例もあり、欲がかなうということの意味を改めて考えさせられる。

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No.652
2013/07/30 (Tue) 14:33:57

ジャズのCDはたいてい録音時間が四十分ほどで、三十分すこしのものも珍しくないから、クラシックのCDに馴染んでいると物足りないような気もし、値段はそう変わらないのだからジャズのアルバムを買うのは不経済のように感じることもある。
 だから、元来は三十数分のジャズのアルバム二枚分を一つのCDに収めた「徳用盤」が出ることもある。しかしそうした「徳用盤」を聴くと正直「長すぎるのではないか」と思うことがあるのに気が付いた。
 デューク・ピアソンというピアニストの「Profile」および「Tender Feelings」という二つのピアノ・トリオ作品はいずれも名盤と言われているが、両者を合わせた徳用盤を聴いていると、さすがにピアノ・トリオで七十分以上というのは集中力ももたないし第一飽きてくる。あるいはジャズのアルバムというのはその録音時間も考慮されて一個の作品として出来上がっていて、安易に二つつなげたからといって感動が倍になるというわけのものでもないのかも知れない。

 マイルス・デイヴィスは最も有名なジャズ・トランペッターだろう。最も有名なジャズ・ミュージシャンとさえ言えるかも知れない。それは彼の残した厖大なアルバムが、多くのジャズ・ファンを魅了し続けているからである。
 しかし僕は彼の作品を聴いても、ほとんどの場合ちっとも好きになれないのである。コルトレーンらと共演した「Cookin’」、「Workin’」、「Relaxin’」、「Steamin’」の四部作はいいと思う。あそこには、くつろぎがあり、ユーモアがある。しかし他のマイルスの代表作、たとえば「Kind of Blue」、「クールの誕生」、「Round About Midnight」、「Milestones」、「Four & More」、「Bitches Brew」などを聴いても、確かに鬼気迫る迫力を感じるし凄いとは思うが、では好きかと聞かれると全然好きになれない。マイルス・デイヴィスという人のかもし出す雰囲気が真面目すぎるのだ。音楽に対し真剣でありすぎるのである。彼には笑っている写真があまり残っていないというのも、さもありなんと思わせる話だ。僕には、音楽というものはもっと気楽なものであってほしい。
 ただ初めにあげた四部作の他では、「Miles Davis and the Modern Jazz Giants」は僕にもとても面白く聴ける。マイルスがここで共演することになった先輩格のピアニスト、セロニアス・モンクに対して「自分が演奏しているときはピアノを弾かないでくれ」という注文を出したことで両者の関係が悪化したが、しかしそのせいで両者の出す音の絡み合いはすさまじい緊張に満ちたものになり、ときにはモンクがマイルスの注文を無視している場面もあって、大変スリルのある録音となっている。

 最も偉大なアルト・サックス奏者は、と聞かれたら「チャーリー・パーカー」と答えるのが常識的なのかも知れない。彼のスピード感あふれる即興はジャズの歴史を変えたと言われる。しかし僕はこのチャーリー・パーカーもどうしても好きになれない。彼の鳴らす音は、僕が聴きたいアルト・サックスの音とまったく違っている。単純な話、パーカーを聴いていると「もっと音を長く伸ばしてくれ」とよく思う。僕は素早いアドリブよりも、サックスの音の色艶をより楽しみたい。
 そういう意味で、最も好きなアルト奏者はと聞かれたら、僕はアート・ペッパーと答えるだろう。彼の艶があって軽快にうねる音はまったく独特のもので、知らずに聞いていてもこれはペッパーだと必ず判る。どの楽器においても、聞き間違えようのない個性を持っているというのは凄いことである。彼の心地よい音のうねりを存分に堪能できるのは例えば「Art Pepper Quartet」、「The Art of Pepper」などだろうが、トランペットとの掛け合いが滅法面白い「Return of Art Pepper」も良い(トランペットはジャック・シェルドン)。
 しかし、とつとつと呟くような音で、なんともいえぬ寂寥感のただよう彼の「Modern Art」というアルバム、あれはいったい何だろうか。静かな、静かな音楽。個人的にはこれがペッパーの最高傑作だ。彼はその後も長く生きて作品を発表し続けたが、本当は「Modern Art」を最後に死ぬべき運命だったのではないか。これはそういう「白鳥の歌」のような雰囲気があるアルバムだ。

 では最も好きなジャズ・ミュージシャンは、と聞かれたとしたら、それはにわかには答え難いが、ジミー・ジュフリーは間違いなく候補に入るだろう。テナーサックス、バリトンサックス、クラリネットの奏者で、ギターのジム・ホールなどとよく共演している。代表作は「Jimmy Giuffre 3」、「ウェスタン組曲」、「M.J.Q with Jimmy Giuffre」といったところか。彼のリーダー・アルバムはとても地味でひっそりとした音楽に満ちている。しかしだからこそ、何度聴いても飽きがこないとも言える。ジュフリーは「非商業主義」とよく言われる。大衆受けしなくとも、自分の音楽を追求し続けているということか。
 彼のアルバムの楽器編成はいっぷう変わったものが多い。「ジミー・ジュフリー・スリー」ではサックス、ギター、ベース。「ウェスタン組曲」や「Swamp People」ではサックス、ギター、トロンボーン。ドラムが鳴っていないことで一聴「なにかが足りない」という感じを受ける。しかしその「足りなさ」が、他の楽器のための静寂を拡大し、そのぶんサックスなりギターなりの音に集中して耳を傾けることになる。楽器の鳴っていない「間(ま)」がジュフリーの魅力とも言えるかも知れない。
 ドラム奏者シェリー・マンも、同じように少ない楽器編成による音楽をしばしば試みているが、マンとジュフリーの共演になる「“The Three” & “The Two”」も傑作である。ここではドラムのシェリー・マン、トランペットのショーティ・ロジャース、そしてジュフリーの三者による共演を聴くことが出来る。ジュフリーは例によってテナー、バリトン、クラリネットを曲によって持ち替えている。通常のジャズならここにベースが入るところが、それが抜けているために広がりのある静寂が生まれている。
 彼は白人ジャズ奏者に独特のクールさ、その権化のような人物である。だから僕がこう熱心に語っても「そう熱くなるなよ」とジュフリー自身から軽く諭されそうな気もする。


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執筆陣
HN:
快文書作成ユニット(仮)
自己紹介:
 各々が皆、此の侭座して野に埋もるるには余りに口惜しい、正に不世出の文芸家を自称しております次第。以下、【快文書館】(仮)が誇る精鋭を御紹介します。


 ❁ ntr 〜 またの名を中村震。小説、エッセイ、漢詩などを書きます。mixiでも活動。ふだん高校で数学を教えているため、数学や科学について書くこともあります。試験的にハヤカワ・ポケット・ブックSFのレビューを始めてみました。

 ❖ 呂仁為 Ⅱ 〜 昭和の想い出話や親しみやすい時代物、歴史小説などについて書きます。

 ✿ 流火-rjuka- ~ 主に漢詩の創作、訳詩などを行っています。架空言語による詩も今後作りたいと思っています。

 ☃ ちゅうごくさるなし
主に小説を書きます。気が向けば弟のカヲスな物語や、独り言呟きなことを書くかもしれません。

 ♘ ED-209 〜 PNの由来は映画『ロボコップ』に登場するオムニ社の敵役ロボットからです。今まで書き溜めてあった自身の体験談やコラムを発表するには良い機会と思い寄稿させて頂きました。是非、御読みになってみてください。そして何より皆さんに楽しんで貰えれば嬉しいです。

 ☠ 杏仁ブルマ
セカイノハテから覗くモノ 



 我ら一同、只管に【快文書】を綴るのみ。お気に入りの本の頁をめくる感覚で、ゆるりとお楽しみ頂ければ僥倖に御座居ます。









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