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 『読んで面白い』『検索で来てもガッカリさせない』『おまけに見やすい』以上、三カ条を掲げた〜快文書〜創作プロフェッショナル共が、心底読み手を意識した娯楽文芸エンターテイメントを提供。映画評論から小説、漢詩、アートまでなんでもアリ。嘗てのカルチャー雑誌を彷彿とさせるカオスなひと時を、是非、御笑覧下さいませ。
No.
2024/04/29 (Mon) 20:04:02

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No.571
2012/06/25 (Mon) 00:46:11

 ゴア家の十一歳になる長男マシューは、あるときから自分の頭に宿った不思議な生物とひっそり会話するようになった。チョッキーと呼ばれるその生物はマシューの頭の中から彼に呼びかけ、しばしば難しい議論を吹っかけた。地球の一日が二十四時間になっているのは馬鹿げている、なぜ三十二時間にしないのか? 一週間はなぜ八日ではいけないのか? 両親のデイヴィッドとメアリはそれに気づいたが、はじめは子供なら誰でもする類の空想にふけっているに過ぎないと思った。しかし太陽はいったいどこにあるのかとか、牛はなぜ牧場の鍵を自分で開けて出て行く程度には知能が発達しないのかとか、およそマシュー少年の頭脳からは出てきそうにもない質問を発するため、親たちは徐々に不安になる。チョッキーの存在が家族の中でおおやけになり、それは単性の生物らしいこと、高度に発達した科学をもつ星からの来訪者らしいことが窺えるようになった。それでも親たち、特に母親のメアリはチョッキーを実在の生物であることを認めたがらず、マシューの妹のポリーはチョッキーに嫉妬し、家族内にさまざまな軋轢が生じる。マシューは家の外ではチョッキーのことを隠していたが、突拍子もない質問をしたり教えもしない二進法で数を数えようとするマシューは教師たちの関心を引き、ゴア家を訪問する教師も出てきた。

 この問題に決着をつけようと思った父のデイヴィッドは、ランディスという精神科医にマシューを診てもらう。ランディスはチョッキーが単なる子供の空想や借り物のアイディアなどではないことをすぐに見抜き、未開社会でしばしば報告される「憑依現象」に何よりも似ていると言わざるを得ない、と両親に話した。
 ゴア家はある週末を湖畔で過ごした。マシューとポリーがボートで遊んでいたとき、それが転覆し、湖から流れている川の急流にポリーは飲み込まれた。大人が目撃する中、マシューはオリンピック選手なみの泳ぎでポリーに追いついて助けた。それを見た大人たちはマシューを表彰し、水泳選手になるべきだと口々に言った。しかしマシューはその前日まで全く泳げず、そのときはチョッキーの助けを借りて泳いだのだった。彼が泳げないことは多くの知人が知っており、そのことがまた注目を集める。またあるときマシューがチョッキーの助けを借りて描いた絵が美術の教師の目にとまり、展覧会に出品されたその絵が賞を受けるなど、マシューはますます有名な存在になった。記者たちにしつこく質問され、チョッキーのことが世に広まるのは時間の問題だった。またランディスから話を聞いた高名な精神科医がマシューに注目し、彼に特殊な薬剤を投与してチョッキーについて洗いざらい話させ記録されるということも起こった。
 ここに至りチョッキーはマシューのもとを離れる決断をした。チョッキーはマシューの口を借りて、デイヴィッドに自分の正体を語った。彼は何光年も離れた星の住人で、まず移住に適した星を探す探検の使命を帯びていた。また一方では、知能を持つ生命を見つけたときはその精神に宿り、彼らの高度な科学や思考方法を授けるという博愛的な使命も持っていた。しかし彼はマシューに多くのことを語りすぎ、マシューと彼自身に危険が及ぶという失敗を犯してしまった、と。

 チョッキーの不思議な発言や能力も興味深いが、子供にはごく普通の幸福を手に入れて欲しいという母メアリの思いや、それとはやや違った冷静な目でマシューを見守る夫デイヴィッドの葛藤など、家族の心情の真に迫った描写も読者を飽きさせない。
「トリフィドの日」で著名なイギリスの作家ジョン・ウィンダムの遺作。

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No.570
2012/06/24 (Sun) 22:32:05

 朝の連続ドラマ「梅ちゃん先生」に登場する若い医師が、梅ちゃんに向かって
「ドーナツの穴をいかにして食べるのか考えているところです」そういうと梅ちゃんは
「そんなもの食べられるわけないじゃないですか」
「では逆に、ドーナツの穴だけを残してドーナツを食べることが出来ると思いますか?」
と真剣に問いかける場面があった。なるほど面白い問題だ。けだしドーナツと穴とは、存在するのに互いを必要としあう関係なのだろう。ちょうど右と左、表と裏、アタック25と児玉清のような関係で、一方がなければ他方は存在しえないのである。

 このあいだ置き薬のセールスマンが自宅に来た。入社したての若い男で、あと二軒に薬を置いてこなければ会社に帰れないのだという。まだ学生のように見える新米が、お金はいらないから取りあえず置いてくれと言ってきたら、年配のかたなど情にほだされることもあるだろう。しかしいまどき置き薬などなかなか売れなさそうだ。むしろ中身は秘密だといって絶対に開かない玉手箱を持ってきたほうが商売になるのではないか。最初はさりげなくタダで置いていき、ときどき訪れては十円とか二十円で開けるヒントをちょっとずつ教えて相手をじらすのである。何十年かかっても開けることが出来ず、業を煮やし爆破でもして開けるてみると、相田みつをの言葉を書いた紙切れが一枚、というのでも案外と深い感動が得られるやも知れぬ。

 数学者の秋山仁がアメリカの大学で教えていたころ、試験である図形を描けという問題を出し、「図形(figure)」の略号であるFig.という言葉を使ったら、ある学生が大きなイチジクの絵を描いてきた。秋山氏が辞書を引いてみると、確かにfigという言葉にはイチジクの意味がある。だから間違いとはいえないと思いマルにした。驚いたのは学生のほうだろう。イチジクを描いたら偶然にも数学的に正しい答えになっていた、と。
 数学の記号に「!」はあるが「?」は無い。あれば試験のとき出来の悪い生徒をすこしは助けられるかも知れない。疑問形のつもりの「5?」とか「三角形?」などが、生徒には訳の分からないままマルになったりするのだから。
 昔アニメのタイガーマスクで、スポーツ新聞に世界のレスラーの実力ランキングが載っていて、第三位ジン・キニスキー、第二位カール・ゴッチ、などと続いたあと第一位の欄に「?」と書かれていた。誰でも世界最高の実力者は未定なのだろうと思う。しかしそれはそういう意味ではなく、実際に「?」という名前のレスラーが世界中で暴れまわっており、名だたる強豪を次々と倒していたのだ。額に「?」と縫い取りしたマスクのその男は、ふわふわと空を舞うように戦い、まさに謎の存在だった。


(c) 2012 ntr ,all rights reserved.
No.569
2012/05/28 (Mon) 13:22:59

 幼い頃に、物心ついた頃に覚えているのは、人ひとり行きかうのがやっとの狭い路地と、向かいの床屋の散髪の塵が散らかった細くてジメジメした玄関先だった。
だが、暗い細いトンネルのような路地を抜けると、通りを渡ってすぐに駄菓子屋があった。
 幼稚園に行き始めた当初は一人っ子だったので、案外好きなものを毎日買ってもらったのだけれど、せいぜいが20円か30円どまりだったように思う。その当時、今井科学はスーパージェッター、サンダーバードなどの人形を、台や小さなメカを付けたディスプレイと共に50円で販売していた。
 昔のプラモデルは小指の先くらいの小さなチューブに入ったセメダインを用い、成型もバリ取りも満足にしていないパーツをむしり取り、びちゃびちゃと、ろくに合わせもせず、パーツの接着面を汚らしくなすりつけながら作るのである。出来上がった暁には、指紋まみれのセメダインが蜘蛛の巣よろしく糸のように絡みついていたものだ。

             

 色を塗ろうなんて発想は全くないものだから、それをテレビの上に飾って満悦していると片付けられたり落とされて壊れてしまったりの連続だった。やがて、鉄人やビッグエックスなどのロボットや、超人サイズで電動で歩くギミックが付いたのを買ってもらい、親戚の叔父に造って貰って単2電池を入れてノシノシと肩を揺さぶるように歩く姿を観た途端「動くプラモじゃなければ詰まらない」と思うようになっていった。

            

 だが、物価の安かったあの時代でさえ、確かどれも500円前後はしていた筈だ。
してみれば、モーターで動くプラモデルというのは贅沢品だったのかもしれない。

 やがて埼玉の郊外に引っ越して小学生となった。サンダーバードの一連のプラモデルを1号から5号まで、完成品を並べて見せびらかしてきたのは同級生の豪農の倅である。これには些か参ったが、自身は羨望の眼差しを送るしかなかった。のちに彼が「広い畑の草むしりや刈入れを手伝って得た小遣いで買った」と聞くに及び、なるほどと更に羨ましくなった。
 手伝いをして金を得るという行為は自宅ではなかったし、蚊に刺されまくってやる草むしりとか、重い木の枠にくっついたトタンの雨戸の開け閉め、玄関の掃き掃除くらいが家の手伝いだったけれども、どれもいやいやでやったものなのだ。特に宅の雨戸は立てつけの悪いせいか一度引っかかってしまうと子供の力では全く動かず、母親に叱られるわ、木製の雨戸枠の棘は手に刺すわでいい記憶がまるで見当たらない。

 当時、通っていた小学校の周りには文房具を主体にして、駄菓子やアイス、廉価な玩具やプラモデルを置く店が数軒あった。セイカのおえかき帳とかジャポニカ学習帳だとかに紛れて、ねんど消しゴムやらプラネンドだのを一緒に買っては授業中にいじり回し、最後には取り上げられてしまった経験も少なくない。この時代の子供たちには消しゴムとねんどには何かしらの思い出があるのはないかな。特にねんど消しゴムなんていうのは柔らかくして造形を作ったあげく、牛乳沸かしくらいの鍋で煮ること15分?で消しゴムになってしまうというものだった。この辺りの心境心理は液晶画面ばかり見つめて一喜一憂する今の子供たちには到底理解できないだろう。

 ゼンマイ動力のサンダーバード2号が200円で買えた時代、学校の近所に「キューサン」という店は存在した。
 瓶に入ったセメダインなど誰もが知らなかったあの時代、大人に手伝ってもらわずに完成できるプラモデルの動力はその殆どがゼンマイだった。

 マッチ箱位の大きさの鋼に黒いカセットテープ位の幅のゼンマイが仕込んであり、それをモーターの代わりに取り付ける。軸は3㎜位の角棒で付属の巻きねじみたいな金物で3〜4回巻いて走らせるのだ。時には力いっぱい巻きすぎて切れてしまい使い物にならなくなることもあったが・・・。

 流星号、マッハ号、キャプテン・スカーレット、サンダーバード号・・・。

 マッハ号についてるギズモ号はリモコンで動く簡易査察ロボットみたいなもので、プラモデルに付属していたのはラベンダー色のツバメのミサイルのようなものだった。
 立てたマッチ箱に当てたりして射的を楽しむのだが、やがては家具やたんすの下に入って何処かへ姿を消してしまう。年末の大掃除や畳替えの時に発見されたりもするのだが、その時にはマッハ号本体も原型をとどめていないか残骸を捨てられてると云った具合。
 それもそのはずだ。勢いよく巻かれたゼンマイは固いたんすの角で何度となくクラッシュを余儀なくされたのだから。

             

 ゼンマイ仕掛けで走ってくれたキャラクター・カーたちはほとんど「キューサン」で買った。ひと月2、300円位の小遣いしかないときに、たまに父母の親戚や知人が来て小遣いをもらえたりするとひたすらキューサンに走ったものだ。店の坪数でいうとたぶん20坪くらいはあったように思う。飛行機や戦艦や戦車の完成見本が整然とウインドに鎮座していて、出入り口は右と左にあって、右側は確かあの頃で自動ドアじゃなかったかな。左側はおもちゃと駄菓子、右側はプラモデルを主体にラジコンや鉄道模型まで並べてあってマブチモーターの各種、もちろん水中モーターもあったし夏休みの工作に使うバルサ材もいろんな厚みがあった。他にプロペラだのスイッチだのスクリューだの電池ボックスなどいろんなものがガラスケースの中にあった。竹ひごや角材、各種の接着剤も。

 ゼンマイ動力のプラモはよく走ったが、それは直線でのみ有効だった。宅の2階には10m近い板の間の廊下があって、そこをまっすぐ走らせたり競争させるのが一番の楽しみだったがそれには訳があった。
 クルマのような4輪で前輪操舵の場合、何故かいつも左右を反対に付けてしまってハンドリング出来なくなるのである。説明書をよく読んで分かったつもりで番号順に組み立てていても同様のことを繰り返してしまう。だから、最初から接着剤で直進のみに固定し走らせることを選んだ。

             

 マッハ号の丸ノコが前のフェンダーから飛び出したり、丘陵や動物の上をオートジャッキでジャンプしたり潜行もできたり、あのギミックのいくつかはやがて街往く車にも搭載されるはずだと本気で思っていたが実際はどうだろう? 居住空間や動力性能はともかく、そんな画期的なものなど未だに付いてはいない。ウルトラセブンのウォッチタイプの無線機は今の携帯に随分近づいている気もするので、あながち空想の賜物だけとは言えないだろう。しいて言えば使う燃料が変わってきたというくらいの認識でしかない。
 二言目には「エコ」をお題目に、ハイブリッドだの電気自動車が巾を効かすようになってきたのだから、これもある意味のモータリゼーションの未来なのかもしれないな。
 でも、味気無い感は否めないだろう。

             


 小学校も高学年に成るとプラモデルにもキャラクターものにも飽き、興味の対象は戦車や乗用車へと移り変わっていった。その頃「日本グランプリ」というのが富士スピードウェイで開催され、トヨタ7や日産R381なんかが出て活躍していた。F1など全く知らなかった時代・・・大きなウイングをつけて700馬力以上のパワーでバンクを回るレーシングカーは、テレビ中継を垣間見る限りでは幼心にそれほど速いとは目に映らなかった。

             

 ある日、隣のクラスの男子生徒2名が、休み時間中にR381もどきの黄色い車を廊下で走らせていたので見せてもらった。
 それはプラモデルではなく、30㎜位のバルサ材を削り出しマメ・ラッカーで色をつけ、仕上げにニスを塗り磨きあげたのだという。車輪は模型飛行機用のラバーのタイヤ?が挿してあった。

 早速、真似をして自分もバルサを買いこみ、小刀や彫刻刀で削りまくり似た様にはできたが、さあいざ走らせてみるとどこかぎごちなかった。しかしそれでも、車輪が転がり荒削りなバルサのレーシングカーを眺めてると、プラモデルにない味わいと妙な充実感があったものだ。

             

 家庭にクーラーなんてなかった時代、夏休みの宿題や近所の用水に浮かべる船のパーツやプラモデルを買いに行った時のあの「キューサン」の涼しさと云ったらたとえようがない。それは熱い日差しのさ中、打水をした陽炎が立ち上るアスファルトを跨ぎ、やはり自動ドアの開く書店に入っていく時と似ているがまた非なるものだ。
 中学から高校へ進み、やがてタミヤの1/12や1/20のF1を作るのに夢中になったが、そうこうするうち今度はバイクに魅了される様になり、次第にキューサンへ行くことはなくなっていった。

 タイレル003やロータス72などは学校とバイトの合間に作り、大事に実家に飾っておいたものだ。

               


 先日、友人と覗いた新橋のタミヤのファクトリーショップには、昨今70年代後半や80年代の傑作プラモが再版されたようで、それら完成見本が陳列してあった。 

 眺めていたらふとキューサンを思い出した。

 カテゴリーごとに整然と並べられた陳列棚・・・間違ってもガンダムのシリーズに城郭の模型なんぞを入れるような真似はしない。タミヤは城の模型はだしていないけれど・・・。

 今では1年に1度も実家には行かないのだから、かつて腕白やいたずらを楽しんだなつかしき小学校の近辺にあった〜文具と駄菓子屋を足してプラモデルも置く様な数軒あったそんな店〜も覗くことはない。きっと少子化で、昔みたく子供たちで溢れかえっていたあの時代の面影は感じられないのだろうけれど。

 夏休みの楽しい思い出は永遠に続くと信じ込ませてくれた「キューサン」、百円玉を握りしめプラモを買いに行って選ぶことが最高に楽しかったあの頃・・・
 「キューサン」のあった場所に行ってみたい気もするが、変わり果てた景色が目に入る時無情の切なさがこみ上げてくるような気がしてまだ見に行けずにいる。

 もしかしたら、往かぬ方がいいのかもしれない。



 (c)2012 Ronnie Ⅱ , all rights reserved.




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執筆陣
HN:
快文書作成ユニット(仮)
自己紹介:
 各々が皆、此の侭座して野に埋もるるには余りに口惜しい、正に不世出の文芸家を自称しております次第。以下、【快文書館】(仮)が誇る精鋭を御紹介します。


 ❁ ntr 〜 またの名を中村震。小説、エッセイ、漢詩などを書きます。mixiでも活動。ふだん高校で数学を教えているため、数学や科学について書くこともあります。試験的にハヤカワ・ポケット・ブックSFのレビューを始めてみました。

 ❖ 呂仁為 Ⅱ 〜 昭和の想い出話や親しみやすい時代物、歴史小説などについて書きます。

 ✿ 流火-rjuka- ~ 主に漢詩の創作、訳詩などを行っています。架空言語による詩も今後作りたいと思っています。

 ☃ ちゅうごくさるなし
主に小説を書きます。気が向けば弟のカヲスな物語や、独り言呟きなことを書くかもしれません。

 ♘ ED-209ブログ引っ越しました。

 ☠ 杏仁ブルマ
セカイノハテから覗くモノ 



 我ら一同、只管に【快文書】を綴るのみ。お気に入りの本の頁をめくる感覚で、ゆるりとお楽しみ頂ければ僥倖に御座居ます。









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