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 『読んで面白い』『検索で来てもガッカリさせない』『おまけに見やすい』以上、三カ条を掲げた〜快文書〜創作プロフェッショナル共が、心底読み手を意識した娯楽文芸エンターテイメントを提供。映画評論から小説、漢詩、アートまでなんでもアリ。嘗てのカルチャー雑誌を彷彿とさせるカオスなひと時を、是非、御笑覧下さいませ。
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2024/03/28 (Thu) 19:14:01

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No.658
2013/09/09 (Mon) 20:35:49

楓橋夜泊  張継

月落烏啼霜満天
江楓漁火對愁眠
姑蘇城外寒山寺
夜半鐘聲到客船

 月は天に落ちて闇の中に烏(からす)の鳴く声が聞こえる。厳しい霜の気配は天いっぱいに満ち満ちてもう夜明けかと思われた。
 紅葉した岸の楓(かえで)、点々とともる川のいさり火が、旅の愁いの浅い眠りの目にチラチラと映る。
 折も姑蘇の町はずれの寒山寺から、
 夜半を知らせる鐘の音が、わが乗る船にまで聞こえて、ああ、まだ夜中だったか、と知られた。

 張継は唐の時代の人で、中国の詩人の例にもれず官僚であり、詩もよくしたと伝えられるが、彼の詩で有名なのはこの一首のみのようである。秋の川べりの冷たい空気、紅葉といさり火の赤や黄色の色彩、いんいんと鳴り響く鐘の音、またそれらを詩としてつづる美しい文字の排列と、五感を通じて豊富なイメージが伝わってくる傑作である。

 のちに宋代の文人・欧陽修がこの詩について「句は優れているが、夜中というのは鐘を打つ時ではない」と批判したが、しかし唐代には他にも夜中に鐘を打つ詩が多くあるという反論をうけた。どうも唐の時代には夜に鐘を突くことがあったらしいというのが穏当な結論のようだが、その後この議論がむしかえされたのか他の議論が持ち上がったのか、この詩は多くの論議のまとになり、それでますますこの作品の知名度が上がったとか。

 鐘といえば、自分が通っていた仏教系の幼稚園の鐘の音を思い出す。夕方六時になると決まってその鐘が鳴った。近所にユウちゃんという幼なじみがいて、知恵遅れの子だったが、彼はお寺が大好きだった。中学以後は障がい者のための学校に行ったのか自然と会わなくなったが、子供のころは見晴らしのいい僕の家に来ると、遠くに見える幼稚園の鐘楼をよく眺めていたものだった。彼が僕の家に毎日遊びに来ていた時期は、家に上がると必ず自宅にあった千昌夫の「北国の春」のレコードを母にかけてもらい、二人で合唱した。合計すれば三百回は歌ったと思う。よくも同じ歌を飽きずに聴いて歌ったものだと思うが、幼児というのは誰しも猿のように同じことを繰り返して喜ぶものである。千昌夫も当時のユウちゃんと僕のような熱狂的なファンが爆発的に増えれば借金を全額返すのも夢ではないかも知れない。

 僕らが通っていた幼稚園の建物は、たまたま建築家だった父が設計したのだった。だからさいしょ僕は幼稚園で、給食を多くもらえるとか物を壊しても怒られないとか、何らかの特別待遇が受けられることを期待していた。もちろんそんな特別待遇はなかった。学習院に通う皇族のお子様方だってそんな待遇は受けてはいないだろう。
 父が幼稚園を設計したということで、とっちゃんという僕の親友は父を非常に尊敬した。そして子供というのはすぐに話を大きくするもので、とっちゃんはあつしという友達の前で、僕の父は幼稚園だけでなく我々の住む団地の建物、それに加え近所の消防署や十三駅も設計したのだと自慢げに言い放ち、しまいには大阪じゅうの名だたる建築物がすべて父の設計になってしまいそうな勢いだった。本当は父の設計した著名な建物は幼稚園だけであって、僕はそれを知っていたのだが、とっちゃんの熱弁に圧倒されてあつしがそれを信じていく光景が面白かったから黙って聞いていた。

 鐘といってあと僕が思い出すのは、寺田寅彦と幸田露伴のやりとりに表れる「鐘に血ぬる」話である。孟子の梁恵王篇、齊宣王問章に、斉の宣王が「わたしのようなものでも人民の生活を安定させることができるだろうか」と問うたのに対し、孟子は「勿論できます」と答え、その根拠として、いぜん宣王が『新しく作った鐘に血を塗る(釁<ちぬ>る)儀式のため』今から殺されようとしている牛を見て、家来に「可哀そうだから助けてやれ」と言った話を引き、その仁慈の心を人民にも及ぼせば立派な王者たり得るだろうと主張した。そういう話がのっている。

 寺田はこの鐘に釁(ちぬ)る、すなわち血を塗るというのはいったい何のためだろうかと露伴にしきりに尋ねたらしい。露伴は

「卒然として答えるには餘り多岐多端なことであるから、大要を語った後に、数日を費やして自分は自分の方の分内でそれに関することを記しつけた。勿論科学の方の事では無い、又科学のためにでもない。ただ君の問を機縁として、自分は自分の勝手な思付を書いたのである。おそらく君の予想の科学上の或考とは背いたことに自分の考は傾いていたかも知れない。君の研究に入用なのは蓋し鐘を鋳ることの方に属し、自分の研究は文字及び儀式のことの方に属していたからである」

と書いている(岩波・露伴全集第三十巻「寺田君をしのぶ」)。そしてこれについて「釁考」という大部の論考をものしている(露伴全集第十九巻)。これによると「釁(ちぬ)る」という言葉は、孟子での用例のように、犠牲の血をもって祭典を挙行するという意味に使われた場合が多いらしい。

 ところで寺田寅彦の「鐘に釁る」という文章を読むと、寺田が露伴にこの質問をしたのは、油脂の金属への吸着という現象についての関心からだったらしい。その文中で彼は、古代人が鐘に血を塗ったのは、もとは純粋に宗教的な儀式だったかも知れないが、同時にそれで鐘にできたひびを血液が充填(じゅうてん)し鐘の音が良くなることに気づき、血を塗ることの実用性にも目を向けるようになったのではないか、と想像をたくましくしている。
 およそ金属の表面というのはしばしば目に見えない油脂の被膜で覆われており、それが金属面の摩擦を著しく減少させるとのことで、その意味で金属と油脂との関係は重要であるけれど、油脂が鐘のひびに与える音響学的影響も興味ある現象である。たとえば血液中のどの成分がその現象でもっとも有効に働いているのだろうか。また油脂が金属面の摩擦を減少せしめるのはいったい何故なのか、それを油脂の分子構造などから究明するのもこれからの課題である、そして金属と油脂の関係はもっといろいろな方面から研究されて良いはずだ……と寺田はこの文章を結んでいる。
 
 それにしても、露伴の「釁考」が全集で五十五頁を費やしている大部のものであるのに対し、寺田の「鐘に釁る」がたった三頁ほどなのは、前者が後者よりも本格的な論考だということもあるだろうが、文科系と理科系の違いを端的に表しているようで面白い。自分が大学の文学部を出るときの卒論は原稿用紙五十枚以上という決まりがあったが、理学研究科の数学教室にはそんな決まりは無かった。内容さえ良ければいくら短くても構わないのである。

 きっと文科系でも内容が良ければ短くても良いのだろうが、文系では何か説得力のある主張をするためには、ある程度の例証を外延的に書き並べざるをえないという事情があるのではないだろうか。理系の場合、主張の正しさはそこに書かれている式や言葉自身に由来し、外的な例証というものを必要としない(先人の残した結果を使うため文献を引用することはあるが)。数学以外では、主張の正しさは実験が保証してくれるが、それは「例証」ではないから多くの言葉を要しないのである。
 2008年に小林誠、益川敏英の両氏にノーベル物理学賞が与えられたが、その授賞理由となった小林・益川理論の論文はたった六ページのものだった。それは1973年に書かれたものだったが、理論の正しさが1990年代に実験で確認され、2008年の受賞という結果になったのである。

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快文書作成ユニット(仮)
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 各々が皆、此の侭座して野に埋もるるには余りに口惜しい、正に不世出の文芸家を自称しております次第。以下、【快文書館】(仮)が誇る精鋭を御紹介します。


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