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 『読んで面白い』『検索で来てもガッカリさせない』『おまけに見やすい』以上、三カ条を掲げた〜快文書〜創作プロフェッショナル共が、心底読み手を意識した娯楽文芸エンターテイメントを提供。映画評論から小説、漢詩、アートまでなんでもアリ。嘗てのカルチャー雑誌を彷彿とさせるカオスなひと時を、是非、御笑覧下さいませ。
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2024/04/29 (Mon) 00:10:56

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No.88
2009/10/16 (Fri) 05:06:32

編集プロダクションに勤めていたころ、企業の社内報や電気製品の説明書などの文章を書く機会が結構あった。
小さな会社で、社長の他は編集が僕一人(二人のときもあった)、あとデザイナーと営業が一人ずついるだけだった。
非常に厳しい社長で、仕事ぶりについて自分は毎日叱咤を受けていたが、文章についても常に駄目出しされていた。

「お前の文章の稚拙さには呆れて物が言えんわ」「その辺のアホな女子高生以下だ」「幼稚園の絵本しか読んだことがないのか」と、ありとあらゆる罵倒を受けたが、文章のどこを悪いと言われているのか全然分からなかった。具体的に悪い箇所を教えてもらおうとして「どこが悪いんですか」と聞くと、社長はそれを別なニュアンスにとらえ「どこが悪いのか、やと!? 偉そうな口を聞くなボケ!」という返事。

で、そういう試練を乗り越えて自分は文章が上手くなった……というのであれば「良い話」になるのだろうが実はそうではなく、会社を辞めるその日まで同じ調子で雷を落とされ続け、自分には最後まで叱られる原因が分からなかった。未だに分からない。

「お前、自分の書いたものを読んでみたのか? それでも悪い所が分からないのか? 時間をやるから一度棚にある『ダ・カーポ』を読んでみろ」
社長は『ダ・カーポ』の文章を高く評価しているらしく、会社の棚にはその雑誌がずらりと並べられていた。そこから「良い文章」のエッセンスを読み取れというわけ。
読んでみたが、どこが良いのかピンと来なかった。読みやすくはあるが軽い文章で、熟読玩味したいような重厚さに欠けていると思った。いわんや座右の書にしたいような代物ではさらさら無かった。

よく社長は人の能力を十段階評価していた。「誰それの文章は十人中、二番やな」のようなことをよく言った(十段階評価はデザインや仕事の手早さなど、あらゆる方面に及んでいた)。社長の頭の中には、そのように十の目盛りの付いた確固としたモノサシが出来ているらしかった。僕は「文章の良し悪し」について、そうしたモノサシがどのようにして出来るのか不思議でならなかった。未だに僕の頭の中にはそんなモノサシは存在しない。

しかし、文学賞の審査員や、文芸書を出している出版社の編集者などの頭脳の中には、そういうモノサシが存在しているようにも感じられる。もしくは彼らは、自分がそれを持っていると信じている。
僕は彼らの頭の中に、どうやってそんなモノサシが出来上がってきたのかが知りたい。これだけ雑多な書物があふれている世の中で、何をどういう順序で読んで勉強すればそうなれるのだろう。


自分は大学ではもともと文学部に籍を置いていたが、数学などをやるようになったのは、一つには上記のように「文学や文章の良し悪し」がよく分からなかったということがある。「好き嫌い」はもちろんあったが、いわゆる権威者と「良し悪し」の評価基準を共有することが出来なかった。

数学を少し勉強してみると、数学の文章については「正しいか誤っているか」を判断できるモノサシが段々と頭の中に出来てくるように感じた。それは嬉しいことだった。また数学については「正誤」の他、「美醜」のようなものも分かるような気がしてきた。はじめは独学だったが、後に数学者と呼ばれる人や数学科の学生と話してみて、彼らも自分と同じモノサシを共有しているらしいのが分かり安心した(「正誤」「美醜」を測ることのできる数学の分野や範囲は、その人のモノサシによって違ったりもするようだが)。

数学を面白いと感じるようになってから、中国文学や中国哲学の世界にも関心を持つようになった。
この世界は、ある意味数学の世界と非常によく似ていると思った。

数学では、何をどういう順序で勉強していけば「常識」(あるいは「モノサシ」)を身に付けられるのかが割りにはっきりしている。少なくとも入門の段階では、先人が用意してくれたプログラムに沿って勉強を進めればよいのだ。

中国文学や中国哲学にも、そのようなプログラムの存在を強く感じた。
中国の哲学といえば、好むと好まざるとに関わらず、まずは儒教について知らねばならないだろうから、論語、孟子から始めて四書五経を読んでいくのが順序のように思えた。その後、荀子や老荘などのいわゆる「諸子百家」を見ていくといい。
中国の文学といえば、詩なら唐詩選のような入りやすいところがあって、詩経や楚辞などの古いところ、あと有名なアンソロジーに目を通していけば「常識」らしきものが身につきそうに感じた。歴史でも史記とか三国志などを入り口として、読むべき書物はきっとハッキリしているのだろう。素人ながらそんな風に思った。

で、上記の文献をあちこちと拾い読みする程度しか実はしていないが、おぼろげながら段々とこの世界の「モノサシ」らしきものを感じられるような気がしてきた。中国文学に詳しい人とたまに話してみると、詩の良し悪しなどについて意見が一致することも多く、概ね自分のモノサシは狂っていないようにも思える。まだあまり自信はないが。

僕には何を学ぶにしても、そんな風にハッキリしたプログラムが存在していたほうが望ましい。
ところが、極めて漠然とした「現代の文章」という奴、これを学ぶためのプログラムというのはどうも無さそうなのだ。

かつて日本の教育では、作文の授業において中国の古典の名文を編んだアンソロジーが使われていた。『唐宋八家文』や『文章規範』などで、それらは元来は漢作文のために使われたと聞くけれど、和文を作る際の手本でもあったようだ。つまり当時は「誰もが知っている名文のフォーマット」のようなものがあって、作文はその模倣から始めるのが筋だった。特に文語体の時代には、そのように文章を学ぶためのプログラムが明確に存在し、そのバックボーンは漢籍・古典籍だった。自分もその時代のような仕方なら「文章が学べる」ような気がするし、そうした時代を羨ましくも感じてきた。

そういう訳で僕にとって「名文」といえば、それが東洋の文化圏に属する日本語で書かれる以上、少なくとも四書五経に精通し大蔵経を読破したぐらいの教養が流露しているもの、というイメージがどうしてもある。それは現代に生まれた人にはほとんど書くことが出来ず、明治の文豪などに辛うじて見られるぐらいのものだ。『ダ・カーポ』の文章がそんなものであるはずがない(だから僕には「良さ」が感じられなかった)。


で、「現代の文章」の良し悪しを評価できるという人がいたら、その評価基準となるモノサシをどこで手に入れたのか是非聞きたいのだ。誰か教えてください。

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自己紹介:
 各々が皆、此の侭座して野に埋もるるには余りに口惜しい、正に不世出の文芸家を自称しております次第。以下、【快文書館】(仮)が誇る精鋭を御紹介します。


 ❁ ntr 〜 またの名を中村震。小説、エッセイ、漢詩などを書きます。mixiでも活動。ふだん高校で数学を教えているため、数学や科学について書くこともあります。試験的にハヤカワ・ポケット・ブックSFのレビューを始めてみました。

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