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 『読んで面白い』『検索で来てもガッカリさせない』『おまけに見やすい』以上、三カ条を掲げた〜快文書〜創作プロフェッショナル共が、心底読み手を意識した娯楽文芸エンターテイメントを提供。映画評論から小説、漢詩、アートまでなんでもアリ。嘗てのカルチャー雑誌を彷彿とさせるカオスなひと時を、是非、御笑覧下さいませ。
No.
2024/04/25 (Thu) 15:08:19

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No.516
2011/12/02 (Fri) 13:50:03

 先日のNHKの娯楽探訪番組によれば、日本初の地下鉄の出入り口は浅草にあったという。銀座線の浅草〜上野間が最初の地下鉄だ。
 今はまた、スカイツリーのオープンを控え、浅草〜業平、押上一帯に脚光が集まっている。

             

 先の浅草の項でも述べたように台東区は狭いエリアだ。
 数キロ先に浅草と北の玄関口上野を擁する。新宿、渋谷、池袋街の名前は親近感があっても区を隔てている。

 仲見世や新仲見世、ロックスなどを抜けて、かっぱ橋道具街、寺社の立ち並ぶ通りを過ぎ、清洲橋通りから昭和通へ出ればそこは上野バイク街。

             

 いや、正確には上野バイク街があった場所というのだろう。
 
 数年前、アメ横で道を聞かれた。ミラノから来た若いカップルに「コーリン・タウンってどこですか?」と聞かれて、彼らが持っていたガイドブックを覗き込んだ。
 そこはかつて70軒以上のバイク屋、バイク用品屋があったエリアだ。

 初めて、そこに訪れたのは16か17くらいの時だった。
 原付免許の取り立てで、親類から貰ったホンダのCD50に乗っていた。

 最近は50ccのスポーツなどオンもオフもメーカーは作らないから、カブや実用車に独自の価値観を持って乗ってるような若者もいるが、我々の時代のカブやCDなどは集金や配達のためのバイクだ。
 だから、お椀形の白いヘルメットなんて・・・と思ってた。やがて、数寄屋橋の不二家でウェイターのバイトを新聞配達を辞めてするようになり、日曜日にCDではなく買ったばかりのスズキの新型、マメタンでバイトに行くようになった時、昭和通りを走っていてバイク好きの楽園みたいな街の存在を発見したからだ。

 70年代から80年代初頭にかけてはホンダ、ヤマハの熾烈な市場競争へ向かうさなかであり、ヤマハだけでもミニトレの愛称を持つGT50、RD50、MR50、カフェレーサー風にミニトレをアレンジしたGR50なんかが世に出ていたし、ホンダも4スト・ミニマムロードレーサーのCB50、ダックス、モンキー、オフロードのXE50、トライアル仕様のTL、それにノーティー・ダックスなんかもあった。
 
 ラッタッタ〜♪のCMにはソフィア・ローレンなんて大女優が起用されたが、マストロヤンニとの名作「ひまわり」に出てる人が、なんでこんなオモチャみたいなバイクの宣伝に出てるのか?なんて思ったものだ。

 変速機なしでエンジン掛けたら蝉の音のようなエンジンをスロットル回して走るだけ・・・。これが今のスクーターブームの原動に繋がっている。
 スポーツと言う意味合い、バイクとはこうして動くものと言う体感からはかなり大幅にずれてしまったが、車にしたってオートマが殆どを占める現在、これも世の習いだろう。軽く優しく快適に・・・だ。

 銀座の不二家でウェイターのバイトをし始めた時に、スズキのマメタンが出た。チョッパーもどきのスタイルに、パワフルなリードバルヴを引っ提げてRG50と一緒に世に出たこのバイクは、ネーミングすらして豆単から取ったというメーカーの触れ込みの割に、可愛いどころかなかなか頼もしいバイクだった。

 地元の埼玉の近所のバイク屋で購入したが口車に乗せられて、大枚のかかる改造をして見るからにギンギンのチョッパーとして改造してしまった。リアのショックを短いものに換え、フロントフォークを15cmも延長しメーカーオプションの炎ステッカーをライムグリンのタンクに貼り・・・。

 当時は当局も、改造ハンドルだのマフラーだのにはかなり目を光らせて暴走族退治に躍起になっていたから信号待ちではよく警察官に止められた。だが、集団暴走行為に当たるような不格好な段付きシートや、さらにハンドリングを難しくする怪しげな改造はしていなかったし、現実独りで風を受けて走るのが楽しみで集団で走ることなどなかったから注意だけで済んだが、格好の整備不良のように見られて散々止めやすいから止めたというような警察官の云い様には腹が立ったものだ。
 そのマメタンは400fourを乗った友人と日光へツーリングへ出かけたときにライトバンの後部バンパーにぶつけて半オシャカにしてしまった。

 専門学校へ行き始めて、浪費にうるさかった母親への見栄もあり新聞配達を始めるようになる。前回の時から数年が過ぎ、バイクで広いエリアを受け持った。前述の越谷レイクタウン一帯周辺である。当時はまだまだのどかな田園風景が延々と連なっていたものだが・・・。

 やがて、配達仲間の先輩でIさんと出会う。自衛隊上がりで大型自動2輪の免許を持つIさんは自分より5歳ほど上だった。
 新聞屋が寮にしていた木造の小汚いアパートで山のように重ねられたオートバイ、モーター・サイクリストなどをめくりながら、よく、かきの種かするめいかで日本酒を煽ったものだ。
 Iさんは酒も強く腕っ節も強くバイクも相当なものだったが、ある日、寝過して普段以上の新聞を積み急いで配達に向かう途中、無理な追い越しをかけてダンプの下へ入ってしまう。命を取り留めたが背髄を折る重傷だった。退院してきたのを知らされたがもう、新聞配達のバイトも専門学校も辞めていた。

 この頃から上野・バイク街には良く行くようになっていた。
ヘルメットや手袋、革のツナギに興味を持つのはこの辺りからだったが、中でも忘れがたいのはF1レーサーのニキ・ラウダのレーシングスーツを模したジャンパーだ。
 紙のような繊維でできていて中にはポリエステルの綿が入っていたが、ちっともあったかくはなかった。転ぶと摺れた箇所が目立ったが、それを補ってお釣りがくるほどロマクーレ、アジップ、グッドイヤーなどのスポンサーロゴの目立つブルゾンは格好よかった。当時のレースファッションはワンポイントやマルティニストライプなどさりげなさがよかったが、赤いジャンバーはとにかく目立った。

 中型免許を取ったのは21歳の誕生日間際だった。バイクはマメタンを求めたのとは別のバイク屋さんで約定してあった中古のGSX250だった。

 このバイク屋さんではいろんな事を教えて貰った。
 もともと、配達に使っている新聞屋のカブやメイトなどのメンテをしてもらっていて出入りするうちに仲良くなった。店のあけしめを手伝いながらご飯を御馳走になったり、近所の赤提灯でレバ刺に熱燗で一杯付き合されたりもした。確か屋号はK輪業と言ったはずだ。
 その後就職先が都心の日本橋へと移り、実家を出て都内に住むようになったたためK輪業へ行く機会も減ってしまった。

 82年くらいから80年代後半はレーサーレプリカをメーカーも凌ぎを削り世に出し続けた時代だ。

 純正では有り得なかったフルカウル、ハーフカウルをハイスペックのエンジンや水冷2サイクル、オイルクーラーを前面に配したようなバイクが次々と世に出たし、片山敬済や平忠彦の日本人ライダー、K・ロバーツ、B・シーン、F・スペンサーなどの個性あるライダーも海外に豊富だった。

 光輪はその勢いを駆って、AGVやSidi、SIMPSONなどと契約し、より廉価なレーサーレプリカヘルメット、ツナギ、ブーツなどの販売に乗り出し大成功をおさめ次々と店舗を拡張していった。

 WINNING RUNという映画は、ポールポジション1,2のダイジェストのような映画だったが、F1とバイクの500ccライダーの生き様を真摯に伝えたドキュメントだが、光輪の店先にビデオがあっていつもこの映画をかけていたので、近所に移り住んでいた頃は良く立ち止まって観ていたものだし、次のヘルメットを探しもしたものだ。
 アパレルの営業時代に出たボーナスの大半はバイクとヘルメットやブーツ、革ジャンに費やした。
 内外の一級品を置く「逸品館」などど、今となってはふざけたネーミングの店がバイク街の一等地に出来たのもこのころだ。

             

 既にロバーツ・レプリカを持っていたが、バリー・シーンのレプリカ・・・あのトレードマークの黒字に金ぴかのラインとドナルドダック・・・白字で抜かれたBarry Sheenとゼッケン”7”はたまらなかったが、7の字体が少し歪んでいるようにも見えた。
 オッサンみたいな店員に「あのさ、このナナが少し違うように見えるんだよね、ちゃんとしたナナのバリー・シーンはないの?」と訊いたら、すかさず「あのね、本物はバリーシーンがかぶっているだけでも二十何個もあるんだよ。そのうちのひとつをレプリカにしたんだ、これだって本物の一個なんだよ」結局、そこでしか当時、バリー・シーンの7は手に入らなかったので求めたが。

             
 ※画像は最近になって復刻されたレプリカで当時のモノとは異なります。


 数年が過ぎ、家庭を持ち、子が出来て、都内の暮らしになんだか悲観を感じていた頃に、北陸のある会社から誘われて金沢に移り住んだ。大事に持っていたかったバリーのヘルメットだったが、内部のスポンジが劣化してボロボロと嫌な感じで取れてしまったから止む無く捨てた。


 バイク街の発祥はやはり戦後だというが、これは既に国鉄上野駅という北からの玄関口が確立されて、昭和通りも関東大震災後に既に今の道幅で復興されていたわけだ。因って、 新宿や渋谷などより交通の要所となっていたはずだから、人もモノも金も流れやすかったのだろう。1960年代初頭にはかつてのバイク街の原型は出来ていたようだ。

 コーリン・・・光輪は旭東モータースと並んで先駆者であり成功者だった。
 当初は、バイクそのものを売って軌道に乗り、やがて訪れるバイク用品へ眼をつけていった目の付けどころは見事である。だが、バブル期を過ぎても順調にいくかと思われた経営内容か否かはわからないが、90年代に入ってから失速してしまったようだ。この90年代から2000年にかけての10年は北陸に移り住み上野に来る事もなかったので分からない。


 2001年を過ぎて東京へ舞い戻ったときには、あたりはすっかり変わっていて光輪があった場所は取り壊されたり、シャッターが閉まったままになっていたり、店の数も半分くらいになっていた。
 
 「ウイニング・ラン」のビデオでラウダのインタビューに夢中になって観た面影も、バリー・シーンのヘルメットを求めた時のあの会話も彼方に失われてしまった・・・・。

             


 閉じられた分厚い硝子の店先には、かつての魅惑たっぷりのバイクたちや内外のパーツや用品が並ぶわけではない。労使の紅い「・・・・○×●反対!」などの旗や屏風を、広げ過ぎて滅んだ残骸と復活や保護を求める従業員たちの悲痛な叫びが書きなぐってあるだけだった。

             


 やがて、それも段々目にしなくなり、気づくともはや更地になってマンションの建設計画が仮囲いしてあった。「逸品館」とされた三角のような使いにくいだろうそのビルには、昨年あたりからようやく中華や飲食が入り始めた。
 その残った店舗の一角で、創業者のバイクコレクションなのかしれないけど「バイク街の礎を築いたバイクたち」と言うタイトルで、とてつもなく古いバイクの展示会を催していたが、あまりにも古いバイクたちでとても見たいと思わなかった。朽ちた建物や史跡を観るのは好きだし道具もそうなのだが。

「そんなものを今更、見たところで何になるのだろう?」それしか浮かばなかった。 所有者には気の毒だが今の自分には何の価値もない。
 哀れな鉄屑の塊がいくつか其処にあるだけだ。

 二十歳そこそこで新聞配達の傍ら逆らいながらも、バイクを教えてくれたIさんには今でも何処かで会って、あの当時のように黄桜の一升瓶とスルメで思い切り飲んでみたい気もするが・・・きっと何処かで生きているのだろう。

 好きなバイクもとうに降りてしまった自分には、重くて窮屈な革のつなぎもナナのヘルメットも被る時はもう来ないだろう。


 冒頭に訊かれたイタリア人たちに説明したようにコーリン・タウンなどはもうない。そこはバイク街ではなくバイク街が在った街しかないのだと。



 (c)2011 Ronnie Ⅱ , all rights reserved.




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自己紹介:
 各々が皆、此の侭座して野に埋もるるには余りに口惜しい、正に不世出の文芸家を自称しております次第。以下、【快文書館】(仮)が誇る精鋭を御紹介します。


 ❁ ntr 〜 またの名を中村震。小説、エッセイ、漢詩などを書きます。mixiでも活動。ふだん高校で数学を教えているため、数学や科学について書くこともあります。試験的にハヤカワ・ポケット・ブックSFのレビューを始めてみました。

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