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 『読んで面白い』『検索で来てもガッカリさせない』『おまけに見やすい』以上、三カ条を掲げた〜快文書〜創作プロフェッショナル共が、心底読み手を意識した娯楽文芸エンターテイメントを提供。映画評論から小説、漢詩、アートまでなんでもアリ。嘗てのカルチャー雑誌を彷彿とさせるカオスなひと時を、是非、御笑覧下さいませ。
No.
2024/04/19 (Fri) 14:16:58

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No.505
2011/11/17 (Thu) 11:37:57

 確か数年前に読んだ塩野七生氏の本によれば、フランチェスカ、フランシスコ、フランソワなどという名前はフランスから来たとかフランスのと言う意味だったと思う。

 AUTOSPORTは今は月に何回出ているのか知らない。
 たまにF1のリザルトが知りたくてネットでyahooを観たら検索中に出てくるけど、書店の車雑誌コーナーには、週刊誌よりやや薄い厚みの雑誌が積まれているだけだ。

 中3のときに、たまたまセリカ・リフトバックのツーリングカーが富士か何処かのコースでデビューして見開きのポスター付きで特集になってた。思わず、買ってしまったが、その時はF1のことなんて興味もなかったし知らなかった。海の向こうのフォーミュラ・カーなんて葉巻型のマッハ・go!go!go!の中でしか知らなかった。そして高2の時に、電気ギターは諦めて、50ccバイクの購入に向けて数寄屋橋の不二家のレストランでバイトをする自分がいた。

 K君と仲良くなったのはそのバイトでよく一緒になり、AUTOSPORTの特集号なんかをよく休憩中や、帰りの日比谷線の車内で見せながら教えてくれたから。自分がホールで彼が厨房(洗い場)だった。
 70年代の銀座は今と同様に、大人の街、銀ブラなどという言葉があったくらいに形成していたし、今みたいにウインドでこれ見よがしに自らの個性ばかりを主張する海外ブランドばかりが軒を連ねるのとは違い、路地や通りに情緒の漂う店がメンズ、
レディスの服飾雑貨、和洋中の飲食も含め結構あった。
 有楽町マリオンが出来てからはかなりのスピードでこの街も変わっていくのだが・・。

 ちょうど、富士スピードウェイで初のF1グランプリが開催されるのに合わせて、報知新聞などの主催元に近い各紙や平凡パンチ、先に述べたオートスポーツ…他名前を聞かなかったような雑誌までもF1特集のムック雑誌を出していた。
 ソニービルの地下では、マーチやグッドイヤーなどのレース関連のTシャツやトレーナーが並べられていたし、トミカもマクラーレンやロータス、フェラーリなんかを出している。(後年、鈴鹿でのホンダの活躍に会わせ再度、F1セットなんていう名前でベネトン、フェラーリ、ロータスなどが造られたが塗装やマークが違うだけで金型はどれも一緒で味気なかった。70年代のはマクラーレンもロータス78もきちんと金型から作り、JPSやマールボロのロゴもちゃんと入っていた)

 いわば、空前のF1ブーム誘致合戦が各業種で始まる中、この映画は公開された。それが原題「ONE BY ONE」 邦題「F1グランプリ栄光の男たち」である。


 以下はウィキペディアからの抜粋である。


*******************************

1973年、ティレルはF1に戻った。優勝こそないものの、セベールはスチュワートの背後の位置で表彰台を獲得するレースを常に見せるようになる。6回2位になり、そのうち3回スチュワートに次ぐ順位であった。スチュワートはセベールがとても従順なチームメートであることをよく知っていた。チームメートの影に隠れていたが、それはセベールの意に沿うものではなかった。

スチュワートは安全対策の推進及び愛弟子セベールの成長によりシーズン最後のアメリカグランプリで引退を決めていた。そして、チームナンバーワンドライバーをセベールに譲る予定であった。

スチュワートはこの決定を妻ヘレンにさえ言っておらず、シーズン前にティレルとフォードの責任者であるWalter Hayesにだけ打ち明けていた。何も知らなかったセベールはスチュワートがまだ現役を続けると思っていた。(後にスチュワートはアメリカGP前にこの決定をセベールに言わなかったことを後悔していると語っている。)ケン・ティレルは(これを受けて1974年からチームのNo. 2ドライバーとして)ジョディー・シェクターと契約したので]1974年シーズンのセベールはティレルのチームリーダーになるはずであった。しかし、上記の事情を全く知らなかったセベールにとってシェクターの加入はライバルが増えるのに等しいものであった。

そのシェクターは前回のカナダグランプリでセベールを巻き込んでリタイアし一悶着となった。シェクターはレーサーライセンスの剥奪も検討されていたほど運転が荒いドライバーであり、セベールは彼のドライビングを「そこに戦争があるかのように荒い」と評し遺恨を残していた。また、その接触でセベールは足首を負傷しアメリカGP欠場も考えられたが、「自分はプロ」という思いで出場を強行した。また、ずっと使っていた006は壊れ、アメリカGPでは彼のために(ケン・ティレルにとっては翌年のリーダーのために)作られた新しい006/3を使うことになった。


ティレル006

ティレル006はヨッヘン・リントが事故死した際乗っていた車種であるロータス72に似ているため、005から006/3に至るまでのシャシー内部にあるフロントブレーキもロータス72同様問題を抱えていたが、これはロータスとティレルのマシンには「インボード・ブレーキ」という構造を採用していたからである。

他のコンストラクターが新しい規則に合わせるための車を作っている間、ティレルは1973年の4月にその規則に合わせた車を作った。インボード・ブレーキは一番熱くなる部分(ブレーキローターとブレーキパッド)が車体の中(通常はホイール内部)にあるが、ティレルのスポーツカーノーズと呼ばれるフロントのウイングの構造では、内部にあるブレーキの一番発熱する部分のクーリングに必要なだけの十分な空気が入らなかった。

実際、スチュワートが乗っていた005は南アメリカGPのプラクティスでブレーキラインの故障で大事故を起こしている。

事故死

1973年10月6日

ワトキンスグレンサーキットで行なわれた最終戦アメリカGP予選の土曜日、スチュワートは3回目のワールドチャンピオンをとうに決めていた。その日、セベールは予選が11時から始まるにもかかわらず、8時にモーニングコールで起き10時半すぎに到着した。ティレルは「少なくとも遅刻をするようなドライバーは成長しない」としかった。セベールはシャシーの準備を手伝った後、ポールポジションをピーターソンと争っていた。予選終了間際に4位のタイムを記録したが彼はさらにタイム短縮を試みていた。ティレルはセベールに「もう出なくてもいい」と伝えたが、セベールが残り時間を聞いてきたので「4分」と答えた。

セベールは「ひとっ走りしてポールをいただいてくる」と言いまた車に戻り最後の1周に向かった。片手でハンドルもう片手でバイザーを下しながらスチュワート夫人に投げキッスをした。これがピットの人間が彼を見た最後になった(結果として上記の言葉が最後の言葉となった)。

事故

その直後、直角の第1コーナーとバックストレートの間にある高速S字「エセス」に入る際、シェクターが背後から迫っていた。アタックに出たセベールは、そこにある縁石の揺れのためセベールの車は左よりにドリフトしすぎた。セベールの車はコントロールを失いトラックの右側へ急に向きを変えた。

エセスはアップヒルでガードレールがサーキットのすぐそばにあったため、オーバースピード(時速240km)で外側ガードレールに接触。この時点でフロントのスポーツカー・ノーズが弾け飛んだ。スピンしマシンは鋭角に向きを変えると反対側のガードレールフロント部分から突っ込み大クラッシュ。ガードレールの支柱に激突したため車体は横転。さらにこの「支柱」が破壊された事により二枚あるガードレールの上段がめくれ上がる形となり、宙を舞ったマシンはその真上に落下、セベールはマシンごと股から顎の下まで、真っ二つに引き裂かれ即死した。29歳没。「死も契約に含まれている」と生前言っていた通りになってしまった。

事故現場にドライバーとして最初にたどり着いたのはシェクターであった。彼は係員が制止するのを振り切って現場を見た途端、あまりの惨状にその場に立ちつくしボロボロ涙をこぼし、事故車のコックピットをのぞいた際セベールのヘルメットから下がなかったように見えたという。当時のチームメイトのスチュワートは『残骸の中を見たが、彼の姿を判別するのはヘルメットぐらいしかなかった。まるで屠殺場(とさつじょう)のようで…』と発言し、後にこう語った「彼は(車の中に)残された。明らかに死んだからだ」その他のピットに戻ってきたドライバーたちは、一様に顔面蒼白になってマシンを降りた。スチュワートは事故現場をすぐに後にしてピットに戻った。そこに長くいるのは無駄だとしても何もしなかったことは彼の人生において悔いの残ることになった。ピットに運ばれたマシンの内部には、セベールの体の一部が残っていたという。

シェクターをチームメイトに迎え、自身がエースドライバーとなることを予定された、まさに順風満帆の中での悲劇だった。スチュワートは最終戦でのこの愛弟子の姿に心を痛め、自身100戦目を迎えるはずであった日曜日の決勝を棄権し引退した。その後何回も復帰の話があったが、本人の「セベールに対する思いのため」テストドライバーとして運転したのみにとどまった。シェクターはこの事故以来、安全を第一と考える姿勢に変わったという。1973年10月11日にSt Germainに埋められた。(パーヴォ・ヌルミも同じ日に埋められた。)現在は母の故郷であるメーヌ=エ=ロワール県ソミュール村近くのfr:Vaudelnay村にあるVaudelnay墓地に両親とともに埋葬されている。墓石は立派な黒い大理石でできていて、肖像のブラックレリーフが後ろについている。

事故死に関するエピソード ]

・長年の恋人Nanouが訪ねた透視能力者は「セベールは30歳まで生きられない」「ハンドルはあるけど体がない」と1966年6月29日に短命で終えることと死の様子を予想していた。スチュワートの妻ヘレンにセベールは自分が死んだら彼女を尋ねるようにと伝えてあった。数年後、セベールの家族と話し合った後、Nanouがセベールの子供の頃の写真をその透視能力者に見せたところ、「彼は死んでいる」と言ったと言う。事故は彼が30歳になる前の最後のGPで起きた。

・ピアニストとしてセベールが得意な曲はピアノソナタ第8番 (ベートーヴェン)であった。カナダGPからアメリカGPまでの間、スチュワート夫妻とセベールはバミューダでバカンスを楽しみ、ホテルのロビーにあるピアノで毎晩その曲を弾いていた。1973年、スチュワートのクリスマスプレゼントとして、息子が両親へレコードを買った。まだ小さい子供であったので内容はわからずカバーだけで選んだ。クリスマスの日、封を開けてみるとそのレコードはまさにその曲であったという]。

・1973年のユダヤ教のヨム・キプルは10月6日であった。(第4次中東戦争開戦日)

・事故の日は寒いけれど天気は良く紅葉がきれいであった。その日の朝、ティレルに「今日はとってもいい日だから、こんな日に死にたくない」という言葉を残している。また、メカニックのJo Ramirezに「気づいたかい?運転する車はティレル006、(カー)番号6、エンジン66、そして10月6日。今日は自分の日だ!」という言葉を残している。その他、François、France、Ford、FebruaryについているFはアルファベットの6番目でもあり、73年は最高位である2位を6回記録している。また、ティレルから6輪のP34がデビューしたのが76年でもある。



出典:『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』 「フランソワ・セベール」2011年10月26日 (水) 11:44 UTC URL:http://wikipedia.gwbg.ws/dhc
*******************************


 「F1グランプリ 栄光の男たち」は1973年シーズンのドキュメントだ。C・ロイテマンの駆るブラバムの車載カメラ(オン・ボードなんてこの頃は言わなかった)のモナコの映像は度肝を抜かれたし、画面を2分割、3分割してスタートの映像やタコ・メーターでレブカウントを見せるスパイ針・・・モナコやシルバーストーンでのエクゾーストとクラッシュ・・・。
 そしてラストには「協力を感謝する」と言って画面に現れたドライバーたちの画像とテロップが入る。それらは皆死亡か引退がやたら多く何と厳しい世界なのかという想いと、4輪を剥き出しにして走るフォーミュラ1の魅力にとり憑かれた。

 だが・・・。
 このラストの直前、画面が白黒に変わりセベールのクラッシュが分解写真でコマ送りになる。「彼はガードレール越しに手を振っていた。観客の僕らに・・」壮絶なラストはいわば華やかな世界を見せる一方でF1残酷物語を見せるドキュメントとはこれなのか?と思った。

 そして、ぴあを読み漁ってはロードショー(ドサ周り上映館)の映画館を探し学校をさぼって観に行った。
 池袋や飯田橋、自由が丘、青戸・・・いろんな2本立て、3本立てを観た。
Kとは、互いの進路やバイトのシフトの都合で会う機会は少なくなったが、1度だけ、互いのバイク自分のマメタンと彼のMR50で土手や野原を走り回って彼の済んでるアパートに遊びに行った。
 窮屈そうに置かれた彼の机の横に写真家・間瀬明氏撮影画像によるF1ドライバーのヘルメット姿のアップと裏面がマシンの写真のカレンダー・・・当時で¥2,000はしたはずだが・・・がかけてあった。

 「いいなあ、コレ!かっこいいや・・」とねだると終わった月のページを破って俺にくれた。実家の押入れの隅でも探せば出てくるかもしれない。
 見せかけだけでやり始めた受験勉強の片隅でアンドレッティやレガツオーニなどの雄姿が励ましになったが結局、附属大学への進学は諦めた。

 バイトもとうに辞めてK君とも会う機会はなくなった。


 この項、続く......



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快文書作成ユニット(仮)
自己紹介:
 各々が皆、此の侭座して野に埋もるるには余りに口惜しい、正に不世出の文芸家を自称しております次第。以下、【快文書館】(仮)が誇る精鋭を御紹介します。


 ❁ ntr 〜 またの名を中村震。小説、エッセイ、漢詩などを書きます。mixiでも活動。ふだん高校で数学を教えているため、数学や科学について書くこともあります。試験的にハヤカワ・ポケット・ブックSFのレビューを始めてみました。

 ❖ 呂仁為 Ⅱ 〜 昭和の想い出話や親しみやすい時代物、歴史小説などについて書きます。

 ✿ 流火-rjuka- ~ 主に漢詩の創作、訳詩などを行っています。架空言語による詩も今後作りたいと思っています。

 ☃ ちゅうごくさるなし
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